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紹介頂いた作品(文学)

今日は僕から言うよ



 先に声を掛けるのは、いつも利奈の方だった。


「あの、よかったら使って下さい」


 初めて出会った、冷たく沈んだ冬の日もそうだった。


 大学を卒業し、直に三年になろうという頃の話だ。仕事は順調だったが、二年付き合った恋人と僕は別れることになった。誰にも関係を告げていない恋人だった。


 予感はあったし、事情は分かってもいた。何でもないことだと言い聞かせるも、真っ暗で音の無い一人暮らしのマンションに帰る度、その静寂が僕をたまらない気持にした。バタンと扉が閉まる音がして、僕は一人でしかない自分を発見する。


 ――こんなことを、いつまで繰り返すのか。


 表面的な人付き合いばかりをしていて、心情を吐露出来るような友人はいなかった。そもそも誰かに心を許した経験がなかった。自分を晒すことに、臆病だったのだ。両親にも、恋人に対してもそうだ。それが殆ど生き方にもなっていた。


 金曜の夜は特にからっぽになる。自宅で暗澹たる気分になるのが嫌で、気付くと仕事帰りの足は、大学生の頃によく暇を潰したミニシアターへと向けられていた。


 マニアックな映画をやっていることで有名な、地下にあるその映画館。そこではその日、一部では有名らしいフランス人監督の作品を流していた。しかし午前中に暖房が故障したらしく、窓口で申し訳なさそうに女の子がその旨を伝えた。


 前のカップルが踵を返した理由が分かった僕は、広々と映画を見るのも良いかと考え、料金を支払い中に進んだ。冷たい霧にしんと包まれているように、館内は底知れず静かだった。吐けば息は白さとなって砕け、寒さに背が凍える。


 ただ同じ考えを持っている人がいたようで、四十に満たない五列席の中程に、女性が一人いた。ゆるいパーマをかけたセミロングの髪の女性。それが利奈だった。


 席を選んでいる間に目が合う。隙のない大人びた容貌の中、好奇心を凝縮させたような大きな瞳が特徴的な人だった。だがその瞳を僕は、田舎にあった古井戸のようにも思った。真っ暗な瞳孔の奥の水面で、寂しさに似た感情が揺らめいている。


 ――自分を、見ているようだ。


 何故そう感じたのか、当時は理由が分からなかった。人間だけが持つ直感が彼女を通じて僕にそう作用する。一方、後から聞けば利奈は別の感想を持ったという。


 ――この人、なんだか寂しそうだな、と。


 だからだろうか。大きなくしゃみをした僕に、彼女がそっと視線を寄せたのは。再び目が合うと、零れるように微笑んだのは。少し迷ったような素振りを見せた後、鞄からカイロを取り出し、僕に差し出してくれたのは。


「あの、よかったら使って下さい。ついさっき買いこんで、沢山あるので」


 或いは日本ではあまり知られていないその監督のファンと、僕を勘違いしたのかもしれない。三つもカイロを僕に渡してくれた後、実際に利奈は尋ねてきた。


「好きなんですか? この監督の作品」


 いや、何となく、とか。実は名前しか知らなくて、などと答えたら、豊かさを感じさせる表情で、彼女は面白そうに笑った。彼女とはそれからの付き合いになる。


「日本だと結構マニアックな監督の作品なんで、楽しめるといいですけど」


 言葉通りに映画はマニアックさを感じさせる、難解な作品だった。


 第一世界大戦から青年が家に戻ると、家だけを残し一家は離散していた。戦場で精神障害を患った青年は、同じ状態の退役軍人たちと犯罪をして生計を立てる。しかし仲間内で抗争に到り全財産を失う。お金も健康も、全てを失った彼が最後に家に戻ると、家族の記憶が蜃気楼のように立ち昇り、彼は首をくくって生涯を終えた。


「映画、どうでした?」


 底冷えのする館内。上映が終わり帰り支度をしていると、利奈が感想を聞いてきた。予感はあったのに、いざ尋ねられるとしどろもどろになってしまう。


「その……難しくて、完全には分かりませんでしたけど」

「けど?」


「映画を見て、出来るだけいい人になりたいと、そう思いました」


 僕がそう答えたのは、自分がいい人ではないという自覚があったからだと思う。自分は優しくはあるが、それは自分の為の優しさでしかないのだ。芯から人を想っての優しさではない。自分が傷つきたくないが為の、壁としての優しさだった。


 しかし利奈は僕の返答に、淡い光になったように微笑んだ。


「そんな感想、初めて聞きました」と。


 それから何となく離れ難い空気になり、よかったら話しませんかと、近くのレストランに行くことになった。ならカイロのお礼に奢りますと言っても、それをきっぱりと断るのも、思えば彼女らしい魅力だった。目が合うと自然に微笑まれた。


 店で同じ年だということが分かると、話が弾んだ。市内の印刷会社で働いていて、あのミニシアターのポスターも彼女の会社で刷ったものらしい。幾つか映画で好きな作品を挙げると、趣味が合うことが分かった。小説などについてもそうだ。


 お互い失恋したばかりだということが分かると、不思議な仲間意識が生まれた。別れ際に連絡先を交換し、それから頻繁に会い始めた。生活に彼女が入り込む。


 週末は一緒に映画を観に行き、食事をし、お酒を呑んだ。赤くなった顔で、ふざけたように照れたように手を握られることもあった。キュッと、力を入れて。


「死ぬほどの切なさで手を握ることが恋だって表現、知ってますか? こうやって手を握るのって、やっぱりいいですよね」


 表情がくるくると動く彼女。その大きな目で心情の機微をよく読んだ。世界は彼女の為にあるかのように、朗らかに楽しそうに笑う。でも、それだけではない。


「ん? どうかしましたか?」


 僕にも複雑なものがあるように、彼女にもそれがある。明るさの中、ふと見せる寂しげな影に自分の影を重ねていると、いつしか彼女のことしか見えなくなった。来るであろうと予感していた別れた恋人からの連絡に、僕は返事をしなかった。


「あの、凄く自分が自然でいられる気がするんです。だから、その、よかったら」


 付き合い始めたのは会うようになり、三か月が経った頃だ。告白の言葉を口にしたのも、思えば彼女からだ。はいと答えると「よかった」と微笑んだ。敬語は止めて下さいと提案すると「慣れてなくて。でもそれ、お互いさまかも」と笑った。


「やっほ、待った? あ、今日は何を読んでるの?」


 デートの時でもやっぱり、彼女が先に声を掛けた。


 待ち合わせの時、僕はいつも本を読んで待っている。だから時間を持て余すということも、手持無沙汰になるということもない。何よりも待つことは苦手じゃなかった。待っている間から、僕はその先に延びる二人の時間に所有されている。


 それはとても、豊かなことだ。


 それこそ人間の生活には様々な感情がある。喜ぶこと、悲しむこと、怒ること。だがそれは、人間の生活のほんの一部を占めているに過ぎない。大部分の生活を人は待って過ごしている。喜ぶ為に、喜ばれる為に。悲しむ為に、悲しまれる為に。


 喜ぶ為に待つのは、その中でも最上だ。


 だからそこがどんな場所でも、僕は待っているだけでよかった。幼い頃から変わらない、僕にとって本とは読むものではなく、訪れる小さな安心できる場所だ。好きな作家の本を読んでいれば、いつでも彼女が僕を見つけ、声をかけてくれた。


「ん? どうしたの?」

「いや、ふと思ったんだけど」


 随分のんびりしていると言われれば否定できないが、どんな時でも利奈が先に声を掛けてくれているのに気付いたのは、付き合い始めてから少し経ってのことだ。本から顔を上げて思い到り、そういえばと切り出すと、利奈は楽しそうに笑った。


「それ、とっくの昔に私は気付いてたよ。というか殆ど自覚的にやってた」


 驚いて理由を尋ねると、利奈は目を細めた。


「私って、結構こう見えて流されやすいから。出来るだけ、世界には自分から働きかけていきたいと思ったの。自分で選んで傷つくなら、それは自分のせいだって分かるでしょ。選ばれて、傷つけられるのは……もう、止めようかなって」


 その一言を覗き込むと、あの底冷えのするミニシアターにいた彼女を見つけた。古井戸のような目をした彼女が現実の彼女と重なり、儚く笑っている。


「まぁでも悠一は少しボンヤリしたところがあるし、私がちゃんと見つけて声をかけてあげるから、安心してよ」


 かと思えば、少年のようにニッと白い歯を(こぼ)して微笑んだりもするのだ。僕を見つけるのは彼女の役割だ、とも利奈は言う。何気なくなされた軽口に、僕の情は温かく波打つ。優しさを絡ませていそうなその髪に、触れたくなった。


「でもその代わり、私がピンチの時にはちゃ~んと見抜いて声をかけてよね。そういうの、大切だから。いい? それが悠一の役割ね」


 しかし声を掛けてられてばかりは悔しいな、ともその時になって思った。だから次回のデートは少し遅れて行き、自分から声を掛けようと考えた。でもその考えは見抜かれていた。待ち合わせ場所でキョロキョロしていると背後から声を掛けられる。


「やっ、誰をお探しかな?」


 勝ち誇ったように利奈は笑っていた。何処から現れたのか全く分からなかった。


「ふふ~ん。全部お見通しだからね。いいから悠一は、黙って私に見つけられてればいいのよ」


 それからも何度かそういうことがあった。どんなに見つけやすい場所を選んでも、彼女は僕よりも先に僕を見つけ、声を掛けてくるのだ。時に通行人の背後に潜んで近付いたり、約束の時間よりも随分前について、隠れていたりする。


「あははは、またキョロキョロしてる」

「参ったな、本当」


 彼女との時間の中で、僕は全く新しい自分を見つけた。自分自身、同じ年の女性と付き合うことになるとは思わなかった。昔から何かの影を追うように、年上の女性にばかり惹かれていた。前の恋人もそうだ。十三歳上の、孤独だったあの人。


『こういう関係は、もう止めた方がいいと思うの。私から声を掛けたのに、二年も時間を奪ってごめんなさい。結局私はあなたの恋人にも、母親にもなれなかった』


 人の数だけ環境があり、それに纏わる人生や物語があることは分かっている。そうした中でも、利奈は朗らかに笑うのだ。自然で自由で幸福な人のように。そしてつられて僕もまた、自然で自由で幸福な人のように笑っているのだ。


 利奈と一緒に見に行ったドイツ映画の中に「ね? 幸せ?」と、何かある毎に主人公に尋ねる、スウェーデン人のヒロインがいた。映画を観終わった後、利奈はからかうように、或いは試すように同じことを尋ねてきた。


「ひょっとすると、そうなのかもしれない」

「なによ。ひょっとするとって、もう、失礼しちゃうな」


 彼女の影に自分の影を重ねていた僕が、彼女の明日に自分の明日を重ね始めるのに、それ程時間は掛らなかった。そうやって僕は、彼女の魂に吸い込まれた。


 一生涯、一緒にいられる人が見つかったのかもしれないと思った。仕事はお互い忙しかったが、それでも大切な時間を慈しむ努力を怠らず、一年が過ぎた。


「ねぇ、何か不思議よねぇ、私たちって」

「何が?」


「ん~~? なんだか、付き合って二年に満たない感じがしないっていうか。随分と昔から付き合ってるみたいっていうか」


 気づけば二人の時間には、安心と呼べるものが流れていた。


 僕の影と利奈の影。利奈は僕と付き合い始めるまで、一回り近く年上の男性とばかり付き合っていたそうだ。不倫の時もあったと聞く。彼女には父親がいなかった。そして僕にはとある事情で両親がおらず、小さい頃から祖父母と暮らしていた。


『ね、悠一。どうして私たちはそうだったんだろうね? お互い、幸せを掴むのがすごく下手で。あなたと出会わなければ、多分、同じことしてた』


『それは、多分、僕も同じだよ』


 そういう影から自由になる年頃なんだと、お互いに思っていたのかもしれない。何かを欠損している自分として自分を扱うのではなく、それは生きている人間なら形は違えど、誰でも当たり前に持っているものとして、環境に言い訳をしない。


 そうやって、僕たちは溶け合っていけるかもしれない。温かい日差しを浴びる堤防のような、穏やかさの中に溶け合っていけるかもしれない。付き合い始めた頃の激しい感情がなくなったとしても僕たちはやっていけるだろう。何気ない喜びを共有し、生活の中に淡い絆を透き通らせることが。結婚して、二人で生きることが。


 ただ、その提案だけは僕から先にしようと思った。彼女に声を掛けられてばかりで、彼女に見つけられてばかりの僕だけど。それだけは、疎かにしてはいけない。


 その年の大晦日には名古屋から実家に戻った。自室から外を眺め、色んなことを考える。小さい頃から、よくそうやって窓から外を見ていた。友達と外で遊ぶよりも、部屋にいる方が好きだった。そこは安心だった、誰も自分を傷つけない。


 でも本当は、そこから連れ出してくれる人を待っていたのかもしれない。そう考える。それが例えば研修生の大学生だったり、臨時講師の先生だったりした。彼女たちは当時の自分からは十分に大人に見えた。時に残酷でも、優しかった。


『悠一くんは、優しくて優しい訳じゃないんだと思う。人から優しくされたいから、優しくしてるだけ。それって、分かるの。暫く一緒にいるとね』


 あれから僕は、変わっただろうか。利奈に優しく出来ているだろうか。


 正月を終えると、利奈と出会った冬が、またやってくる。出会って二年を一つの区切りにしても、いいかもしれない。一年目の記念日も大切に扱った。


 だから、ねぇ、利奈。


 その日は僕から声を掛けるよ。僕は不慣れで色々と慌ててしまうことも多いだろうけど。君の好きな映画のように上手く出来ないけど。それでも必ず、君に……。


















 ――売読新聞webニュース 「交通事故 車が歩道に突っ込む 2人心肺停止 4人意識不明 名古屋駅近く」――


 1月25日午前11時35分ごろ、名古屋駅(名古屋市中村区名駅)近くにある交差点で、乗用車が歩道に突っ込む事故が発生した。


 名古屋市消防局によると、計24人が負傷し、20代~40代の男女4人が意識不明。車を運転していた50代の男性を含め、2人が心肺停止の状態だという。


 事故の原因は不明であり、愛知県警が詳しい原因を調べている。


<血まみれ、悲鳴……事件現場の様子を詳しく>


 中村警察署や目撃者の話によると、車は名古屋駅から南約300mの笹島交差点の南側から歩道に乗り上げ、時速30~40キロで走行し歩行者を次々とはねた。


 そのまま約30メートルにわたって歩道を走り、街路樹にぶつかって停止した。車はレンタカーで、同乗者はいなかった。

 

 現場付近はオフィスビルのほか、百貨店が立ち並ぶ繁華街で、待ち合わせスポットになっていた。当日は天候が良かったこともあり、多くの人で賑わっていた。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――


















 世界はいつも、素知らぬ顔をして日々を刻み、僕の知らないところで廻る。


 観客の少ないミニシアターの座席に腰掛け、映画を一人で眺めていた。枯れた瞳に映像が映るも、物語が頭に入ってくることはない。連続性が途切れ、どうして自分がここにいるのか分からなくなる。辛いのか、苦しいのか、悩ましいのか、その全てか。その判断すらつかず、印象や考えが乱れ、自己の纏まりを失っていた。


 人が回転し、フィルムが回る。館内にいる限り、ここでは何度でも映画を見ることが出来る。映画が始まる度に主人公は少しの幸福とお金を得て、全てを失う。宿命づけられた運命を初めてのこととし、学習することなく何度も愚直に味わう。


 主人公である青年の生涯を、寡黙に見つめ続けた。ある事実を受け入れるため、例のフランス人監督の別作品を繰り返し見るだけの時間が僕には必要だった。


 ――利奈が車にはねられ、意識不明となった。


 今も利奈は病院で眠っている。あの利奈が、だ。僕を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくれる、ただ一人の人。僕を見つけ、声をかけてくれた、あの利奈。


『出会って二年の記念になる訳でしょ? 何をプレゼントしようか悩んでて。まぁ、でも何となく参段がついたから、当日は笹島の待ち合わせ場所でよろしくね』


 その大きな瞳で、彼女は人の心情の機微をよく読んだ。利奈は僕の心の動きについて察していたんだと思う。出会って二年。僕がその日、プロポーズしようとしていたことを。だから彼女は待っていた。目印にもなる、プレゼントを手に……。


 事故現場には、青いバラの花びらが敷かれていた。


 随分と早く待ち合わせ場所にいた彼女は、青いバラの花束を手にしていたらしい。近くに有名な花屋がある。そこで注文したものだと、病院で利奈の母親が教えてくれた。僕に渡すのだと、喜んでくれるかなと、嬉しそうに話していたと。


 彼女らしい、とてつもなく格好いいプレゼントだ。その目印があれば、目を引く花束があれば、僕は彼女を見つけることが出来ただろう。先に声を掛けただろう。


「あっ、見つけられちゃったね、今日は」


 僕が利奈を見つけて声を掛けると、彼女は照れくさそうに言う。


「はい、プレゼント」


 人から花束を貰った経験なんて、僕にはない。嬉しくて、でもそれを持ちながら町を歩くのが、きっと、恥ずかしくて。


「えへへ、いいでしょ。あっ、でも、悠一が私にプレゼントして、それを代わりに持って歩いてるように見えるかもね」


 それから僕たちは予約した店のランチに向かう。ワインを呑んで、利奈が好きな作家の個展に向かい、二人で映画を見る。予約していたホテルに行く。リードを取らせてくれたデートに相応しく、僕はプロポーズを行う。婚約指輪を差し出す。


「」


 利奈、君は、その時は何て応えてくれたのかな。うまく……想像できないよ。そうなる筈だったのに。でも、現実は、そうは、ならなかったから。


 地下鉄を降りて地上に出た時から周りが騒がしかった。異常だった。人々が狂気と好奇心にかられ、騒いでいた。事故、車、突っ込んで、ひどい、笹島交差点。


 まさかと思い、利奈の携帯に電話をかけるも電源が切れていた。水たまりのような静けさの中、周囲がうるさい。救急車の音。無我夢中で人の波を割り、待ち合わせ場所に向かった。一帯は封鎖され、警官に抑えられながらテープの先を見た。


 血と青いバラと散らばる荷物。街路樹に突っ込んだ車に、その破片。

 悲惨が呼吸され、悲鳴が泣いていた。


 半狂乱になりながら警官に利奈のことを尋ねる。でも、向こうだって分かる訳がない。人数が多かった為、幾つかに別れて緊急搬送されたことが分かり、急いでタクシーを止めた。いないでくれと重体の患者が搬送された病院に最初に向かう。


 病院に向かうタクシーの途中、知らない電話番号から電話がかかってきた。利奈の母親からのもので、僕が向かっている病院に利奈が搬送されたと教えられた。


 それから先のことは、上手く思い出せない。病院に行っても会えず、初めて会った利奈の母親と手術中の彼女を待った。昏睡から帰ってこないことを知らされた。


 気付くと僕は、街を歩いていた。


 フィルターを通じて世界を眺めた時のように、あるものは実際以上に鮮やかに輝き、あるものは生気を失った、冬枯れの草のように、灰色に沈みこんでいた。


 誰かとぶつかった気がする。昔の恋人に似ていた。僕は何かを言いたかった。しかし大きすぎて、それが吐き出せない。どうして、いつも突然なんだ。どうして、いつも避けられないんだ。どうして、僕を置いて行くんだ。母親のように、僕を。


 そして今、僕はシアターの座席に腰かけ、正体不明の疲労に押し潰されている。


 何かをしたから疲れたのではない。何も出来なかったことに疲れていた。もっと何かが出来たのではないか。何かをしていればよかったのではないか。そんな疑問ばかりが頭の中で渦を巻き、生きていることに、どうしようもない重圧を感じる。


『でもその代わり、私がピンチの時にはちゃ~んと見抜いて声をかけてよね。そういうの、大切だから。いい? それが悠一の役割ね』


 もどかしさが凝固し、腹の奥で嫌な熱を持ち始める。


 どうして僕は、その場所にいなかったのか。どうして僕は、彼女を待っていなかったのか。僕と彼女が出会ったことが、そもそも、いけなかったんだろうか。


 ここは何度目の世界だろう。映画ではまた主人公が道を踏み外し、大切なものを亡くしていた。世界は広すぎて、見えない。今、世界にはどれだけの悲しい人がいるのだろう。大切な人が死ぬこと、会えなくなること、永遠を知れないこと。


 涙が頬を、伝っていた。あぁ……と、思った。


 不意に、この物憂い人生の姿が理解出来たように思われた。この監督が、どうして喪失の物語を撮り続けているのか、分かったように思われた。


 ――この悲しみは、誰でも、一度は留まらなければならない場所なんだろう。


 人が世界に用意された椅子は、いつか無くなる。生き続ける限り、人は人を見送らなければならない、悲しみにいなければならない。そう考えるならこれは、人生の内で何でもない、よくある有り触れた悲しさだ。晴れた空と同じように広がる。


 人の営みには、こういった悲しさは当たり前に付き纏っているのだろう。


 しかし、僕が直面しているものは、それよりも深くはないのだ。利奈はまだ、生きている。昏睡状態にあるだけで、失った訳ではない。生命は続いている。ならば深い混乱に陥っている場合ではない。それは僕が見つけた全く新しい言葉だった。


 ――ただ、待てばいいのだ、彼女を。信じて、彼女を。


 視線を転じれば、映画の主人公が枯れた森を歩いていた。葉の落ち切った骨のような枝は、鈍色の空を指している。彼は今、昔友達と作った隠れ家に戻ろうとしているのだ。だが隠れ家は既にない。主人公は森を燃やし、森と共に消える。


 突然、全てが儚く物悲しいことであるような気がしてきた。人間は不思議な生き物だ。少しでも長く生きる為に努力をするかと思えば、容易く死にたがりもする。


 死ぬということ、時間が止まるということ。


 利奈の時間もまた、今は止まっている。かりそめの死にいる。そうした中で、僕は生きていた。明日があった。僕は自分の意思で、時間を進めることができる。


「何も難しいことじゃ、ない」


 一緒にいることは出来なくても、一緒に生きることは出来る。それは僕が見つけた、インスタントコーヒーの香りのように薄っぺらい、しかし確かな真実だった。


 それからの日々は、本当に、何も難しいことはなかった。利奈が起きるのを待つだけでいい。起きた彼女を支えられるように、しっかりと仕事をしながら。彼女が起きた時、きちんと彼女を僕が最初に見つけられるように、待つだけでいい。


 待つことは、得意な筈だった。


 ベッドに寝かされて動かない彼女を見た時は、流石に僕の感情も、僕の芯に迫った。だがそっとその頬に触れると、彼女の温かさが分かり、思い出され、僕を震わすだけに留めた。


 彼女の顔を毎日見に行けるよう、引っ越しをした。朝、病院近くのマンションから職場に向かい、残業の無い夕方は病院に立ち寄る。休日は一緒にいられる。本を持ち出し、彼女の傍にいた。利奈の母親と深刻な話をすることもあった。


「僕はまだ、他人ですけど」


 そうじゃなくなりたいと、思っているんです。眠り続ける利奈を介護するには、多大な労力が必要となる。関節や筋肉のケアが欠かせない。それは家に引き取って行うと、専門の設備なしでは一日何時間以上も掛る重労働となる。二人の時間を作りたいという理由もあり、僕は入院費用の一部を負担することを申し出た。


 時間を回転させる日々が始まる。彼女がいない頃、自分がどうやって人生を過ごしていたのか思い出せなくなった。しかし、心配ない。季節だけは確実に過ぎる。


 繰り返しだ。冬が溶けると太陽が空を支配し、人間の組み立てた石の世界を灼き始める。それから何日も変わらぬ空は、何ものもない寂寥の上に広がり続ける。


 人生は毎日の繰り返しで、あっという間に過ぎてしまうと嘆く人がいる。でも、僕にとって繰り返しは、辛いことではなかった。


 ただその中で、昏睡状態の人間に栄養を行き渡らせることが、とても困難だということを知った。痩せていた利奈の頬は、やつれる程になった。青く土色の肌。それでも、生きている。触れればその温かさが分かる。息を、ちゃんとしている。


 眠り続けている利奈を見ていると、いいようのない痛みを覚えることがあった。愛しさのあまり、棘だらけの薔薇を呑みこんでしまったかのような、痛みだ。それだけじゃない。自宅に帰ると、以前以上の苦しい程の無音と闇が、覆い被さってくることがあった。その場所で時々じっとしていることがあった。


 ――彼女と出会わなければ、こんな痛みを味わう必要はなかったのだろうか?


 それはあまり意味のない設問だった。利奈の母親は、「忘れた方がいいこともある」と言った。あまり懐かなかったという、利奈の義理の父親とも会った。


 でも、やはり難しいことではない。繰り返し上映される映画の主人公と同じだ。例え僕は、この先に悲惨な結末が訪れることになったとしても、彼女との出会いを悔いてもなければ、彼女を忘れるという選択肢もなかった。ただ、彼女を待つ。


「好きで、やっていることですから」


 時間という本を読み続け、五年が過ぎ三十を跨いだ。七年が過ぎ祖父母が逝った。天涯孤独の身となる。陽は変わることなく豪奢に空から捨て続け、それを人はせっせと拾う。変らない営み。人の世は相変わらずだ。苦しみはあちこちにある。


 同僚や知り合いが結婚していく中、時に結婚についてからかわれ、笑って誤魔化すこともあった。だけど、全て自分が好きでやっていることだ。自分の、エゴだ。


 ただ年齢が上がるにつれ、仕事上の責任が増えた。病室で過ごす時間が、短くなった。仕事帰りに立ち寄っても、直ぐに面会の時間が終わってしまう。仕事疲れか、休日でも病室の椅子に座ったまま、眠ってしまうこともあった。


 そんな時は利奈の夢を見た。ごく自然な調子で、彼女がベッドから体を起こしているのだ。似つかわしくない顔をしていることが多い。今日も、そうだ。


「私は悠一を、また、泣かせちゃうかもしれない」


 寂しさを隠さない表情で、彼女が続ける。


「悠一のご両親みたいに、悠一を、一人にさせちゃうかもしれない」


 利奈の担当医からある言葉を告げられるシーンや、僕の過去。両親がいなくなり、大きな声で泣いたこと。そういう映像が夢に去来する。僕は頭を下げた。


「うん。そうだね。その時は、泣くと思う」


 視界の端。言葉を無くした人間の表情で、利奈が僕を伺う。


「ゆう……いち」

「情けない位に、泣くと思う」


 でも、と、僕は顔を上げて言った。


「でも……僕は大丈夫。決して、なくさないから」


 それは決して、彼女のことを諦めるということではない。

 ある決定的なものを、受け入れるということとも、少し違う。


 浮かび上がった様々な感情を抑え込もうと、利奈が口元を引き絞る。


 君に受け取ったものは、なくさないということ。そうやって生きていくということ。君の形の空白を抱え、それでも、生きていくということ。


「僕の中にいる君が、僕を、強くしてくれるから」


 そこまで述べると温かい光が射し、覚醒の予感が寄せてきた。利奈が口を開くも光に被さり、顔が見えない。名前を呼ばれた気がするが、音も聞こえなくなる。


 ねぇ、利奈。伝わればいいなと、最後に、必死に、思う。僕の中に君がいるように、もし君の中にも僕がいたなら……嬉しいな。勿論だよ。


 水に光がゆっくりと射すような感触の後、瞼を開く。僕は僕の存在の数値を見つけた。日曜日。今日も病室は静かで温かく、耳を澄ませばテレビの音が遠く聞こえた。特有の穏やかさに満ちた午後三時十六分のまどろみに、僕は溶けていた。


 ――また……夢を見たのか。


 視線をベッドに転じれば、窓際には変わらない彼女がいた。優しい息が自然と鼻から漏れる。僕の、好きな人。一生を、共に過ごしたい人。彼女が胸の中にいるから頑張れた。もう嫌だと、辞めてしまいたいと思った仕事も、歯を食い縛れた。


「今日も、いい天気だよ、利奈」


 思えば出会ってから、十年に近い歳月が過ぎた。


 人は暗闇の中で、じっとしていられるものではない。その中でも、灯りを灯そうとする。利奈と同じ状態から回復した人の話を読んだり聞いたりして、僕は希望を灯していた。だけど、そう簡単に物事は運ばない。彼女は今も、眠ったままだ。


 人生の懐疑に捕らわれることは、幾度となくあった。この七年間ですらそうだ。恐らくこれから先も、僕は幾度も懐疑に捕らわれるだろう。


 それでも、何も変わらない七年で変わったことがある。僕は無口で、想いを言葉にするのが得意なタイプではなかった。でもそれでは、いけないのだ。


 利奈の顔に手を伸ばす。伝えないのは打算が潜んでいたからだ。或いは言葉の責任に怯えていたからだ。前髪に触れながら、五十音の初めの二文字を交えた言葉を、口にする。言葉は自身の感触と共に、僕の重みを確かめようと圧し掛かって来る。


 それで、いいのだと思う。


 お互い、その言葉を言ってはいけない恋があった。そして今、その言葉を伝えられない現実がある。愛は単なる言葉で、いいと思う。それが言葉以外に、実態としてあると思い込むことは間違いだ。だからこそ、言葉にする必要があるのだ。言葉に出すことにこそ、きっと、愛情の実態があるのだろう。


 そうやって、僕は少しずつ変化していく。彼女の傍に置かれた花瓶。そこに挿された青いバラ。昔知らなかったその花言葉を、今では知っているように。


「ねぇ、悠一? 青いバラの花言葉を知ってる?」


 果たせなかったデートの日。きっと君は、そう尋ねることをしただろう。君ほどに博識でない僕は、当然ながら答えられない。昔は「不可能」の代名詞であったことなど、青いバラの来歴など……。


「青いバラの花言葉はね」


 すると君は優しく微笑んで、


「一目惚れ、喝采、神の祝福」


 それで……。


 ゆっくりと、静かに、目の前の人の目が、開かれた。ごく自然な調子で。毎朝起きていた人が、今日も起きたように。一度、二度と、重く瞬きをしながら。


 どんな綺麗な花が咲く瞬間を見るよりも、僕はその光景に、心を打たれた。


 海辺に立ち、寄せては返す波が足を洗うように、戦慄と恍惚が、僕の足をひたひたと洗う。体が震えることを、どうすることも出来ずにいた。


「り、りな……」


 しかし、何も不思議じゃない。自らに言い聞かせる。早くも遅くもある時間を過ぎ、目覚める人が目覚めただけの話だ。何も難しいことじゃない。そうだろ?


 ――だから、僕よ、泣くな。


「ようやく、見つけたよ。利奈」


 最愛の人が、目をゆっくりと向ける。訝しんでいた。僕を見つけるのが得意な人が、不思議がっていた。口を開き、乾いて震えた、懐かしい声を出す。


「ゆう……い、ち?」


 七年使われていなかった声帯は、彼女の声を掠れさせる。


 あの日から、利奈の時間は冷凍されたままだ。今の状態が、上手く認識出来ないのだろう。だが少し老けたとはいえ、僕の顔だけは、分かるようだった。


「ごめんね、利奈。君に助けが必要なとき、いてやれなくて」


 嬉しくもきまりの悪い顔をして、僕は言う。

 すると利奈は、僕を物問いたげな瞳で見た。


 何か言おうとするも、上手くいかなかったようだ。くるくるとよく動く表情も、力を失っている。瞬きだけが、彼女の感情を表すように繰り返し行われる。


「でも、目覚めてくれて、本当にありがとう。君を、待っていたよ」


 事故のフラッシュバックもあるから、現状はゆっくり伝えなければならない。だから僕は、利奈が七年間眠っていたことを言えないでいる。利奈も分かっていない筈だ。七年前のあの日と、今日のこの日は彼女の中で連続している。あの記念日と。


 しかし、だからこそ言える言葉があった。僕は鞄から、欠かすことなく持ち歩いていた物を取り出す。所々が擦れてしまった包装を開き、開いて中を見せた。


 場違いなものに利奈が視線を注ぎ、「え?」という顔をした。次いで痩せこけた顔で僕を見つめる。ゆっくりと、目を見開かせた。それは僕を、七年前の僕としてではなく、今の、年を重ねた僕として見つけてしまったかのような目だった。


 唐突に過ぎたかもしれない。焦ってしまったかもしれない。病人を混乱させるなと、彼女が自身の状態を認識してから行うべきだと、そう言われるかもしれない。


 しかし、批難を受けてでも、僕にはどうしても伝えたい言葉があった。生きてきた中で、これ程に言葉を伝えたかった経験など、ない。たった一度のことだ。


 躊躇いがちに、でもしっかりと、あの日、言おうとしていた言葉を告げた。


「利奈。いつも有難う。君に会えて、僕の人生は豊かになったよ。初めて映画を見た後、言った言葉は嘘じゃないんだ。こんな僕だけど、出来るだけいい人間になりたいと思ってる。ううん、君と出会って、僕はいい人間になりたいと思ったんだ」


 想いに胸が塞がり、言葉を継ぐのに時間がかかってしまう。それは彼女の目を見つめ続けていたこととも関係するのだろう。茫然となっていた彼女の瞳には、今、水の膜が張られていた。きらきらと輝いたかと思えば、自らの重みに耐えきれなくなったそれが、雫となって零れる。目を強く瞑り、喘ぐような顔を利奈がする。


 その時間の中で、思う。これから二人で過ごす、時間のことを。彼女が取り戻す時間のことを。重なり合って行く、二人の歴史のことを。


 随分前に医者が告げたように、彼女の足はもう動かないのかもしれない。今まで普通に出来ていたことが、出来なくなる。車いすの生活だ。それを僕も支えていく必要がある。沢山の涙が流れ、理不尽さや不便さを彼女は嘆くことがあるだろう。


 それでも、と僕は思う。君の抱える苦悩の全てを肩代わりは出来ないけど。君の人生と僕の人生を入れ替えることは出来ないけど。それでも僕は生涯、君に寄り添って生きたいと。人生を遂げたい。大切なものは、全て、君と共にあると。


 二条の感慨を頬に沿わせながら、利奈が僕を見る。


「……ゆ、う、いち」

「利奈さん」


 不意討ちのような形で、ごめん。でも、七年も待ってたんだ。ずっと、この日を待っていたんだ。だから利奈、今日は僕から言うよ。



「利奈さん。僕と、結婚してください」



 終わらない物がないように、変わらない物もない。少しずつ失いながら、僕らはそれぞれの幸せを生きる。その幸せを、君と共有できたら、嬉しく思う。


 泣き疲れ、僕の膝で眠った君の痩せた左手。その薬指に頼りなく掛ったリングを眺めながら、そんなことを僕は考えていた。

 

 光の降る音すら聞こえて来そうな、日曜の午後。よく言い聞かされていたにも関わらず、ナースコールをまだ、僕は押せないでいた。




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[一言] お久しぶりです(^^) 最近活字中毒病が再発しまして、マグロさんの作品を読み漁りにサイトに通っております。笑 本当は純文学作品に知的な感想でも書き残したいものなのですが、どうも私の脳味噌では…
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2017/03/01 01:25 退会済み
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