純情可憐、宵闇今宵 三
「どうして……しなせてくれないんですか?」
縁と今宵は少年を助けた。
助けたが、少年から出てきた言葉は、――死にたい。ということだった
少年の言葉に嘘はない。そのことが今宵には、分かってしまう。
人の死が視えてしまう今宵には、少年が本気で、死にたいと言っていることが分かってしまう。
今宵はまた、少年の姿が見えなくなったから。
少年の全身は再び黒い靄に覆われ、あどけなさが残るその姿を、完全に見えなくしていた。
どうして……どうしてこの子はこんなに、……死にたがるの?
今宵には分からない。縁の膝の上にいるのが、黒い靄なのか、少年なのかさえ分からない。分からないが、一つだけ分かることがある。嗚咽混じりの呼吸音だけは、嫌という程聞こえていた。
縁は静かに少年を見つめ、濡れた目元を優しく拭い、話し掛ける。
「君は何を勘違いしてるの? 私は君を助けたわけじゃない。話を聞きたかったから、一旦君を引っ張り上げただけ。……だから君が死にたいなら、話し終わった後で、好きにしていい」
「縁さん!?」
縁の言葉に、今宵は大声で叫ぶ。
少年は大声を上げた今宵に見向きもしない。
頭上で微笑む年上のお姉さんに、気を取られてしまっていたから。
「あの……、おねえさんがいってたことは、その……ほんとですか?」
「ほんとよ。だから私の質問には正直に答えて。もし、嘘をついたりしたら……君を死ねない身体にするから、覚悟しなさい」
縁は笑みを絶やさず、少年に告げる。
「ゆ、縁さん? ど、どうしちゃったんですか? ゆかっ!?」
今宵の身体はビクリと震え、動くことを止めた。
騒ぎ出した今宵を、縁が強烈な睨みを効かせ、黙らせたのだ。しかも、少年の視界を胸で遮り、怖い姿を見せないようにして。
縁、さ……ん? どう……して!?
縁は自分の身体を痛めてまで、少年を救った。今宵はそんな縁を、聖人のように思っていた。なのに今は、人を騙す魔女にしか思えなくて、仕方なかった。
身体はすぐに自由を取り戻したが、気持ちは萎縮し何も言う気になれなかった。
今宵が落胆し視線を落とすと、丁度そこに、スマホ画面が向けられていた。
メモ画面だろうか。画面には、「あわせなさい」と、平仮名だけで文字が打たれていた。
今宵が即座に顔を上げると、縁が上手に片目を閉じて、ウインクをしてきた。
今宵は跳びはねたいぐらい、嬉しかった。
「しねないからだ? ……ですか? そんなことできるわけないです。ぼくが子どもだからって、おねえさんもぼくにうそをつくんですね……」
「ふうん……。どうして嘘だって決めつけるのよ? 私とあっちのお姉ちゃんが普通じゃないことは、君にはもう分かってるでしょ? 私達だけで君を引っ張り上げてここまで運ぶなんて出来ると思う? 無理に決まってるでしょ? なのに君をここまで運べたのは……私達が、魔女だからよ」
「ええぇっ!!」
「あっ! ごめんなさい今宵さん! 魔女だっていうことは一般の方には秘密でしたね!」
縁は大袈裟に口許を隠し、驚いた今宵を誤魔化した。スマホ画面をトントンと叩き、話を合わせろと強調しながら。
「……ほんとに、まじょなんですか?」
少年は無表情のまま聞いてくる。
「そうよ」
「……それならなにか、しょうこをみせてください」
「……いいわよ。何を見せて欲しいの。って、言いたいんだけど。魔女にも色々(いろいろ)ルールがあってね、何でも出来るわけじゃないの。だから今出来ることは……せいぜい君のことを言い当てるぐらいね。それで納得してくれる?」
「…………はい。それで、いいですよ……」
縁は目を閉じ「よーし!」と気合いを入れ、それらしく見えるよう、少年の額に指を当てる。
今宵はハラハラしながら、縁の嘘がバレないよう、見守ることしかできなかった。
「…………君の名前は、いいづかきみひろくん。家族構成は……あれ? お父さんの姿しか見えないわね。お母さんはどこかしら?」
今宵は声を出さないよう、自分の口を塞いだ。縁が何の情報もなく、適当なことを言ってると思ったから。
縁の発言は適当ではない。
今宵と君尋が気を失っている間に、ランドセルの中を物色し、手に入れた情報だからだ。
縁はその情報を、それらしく言っているにすぎない。
縁が君尋のことを言い出すと、無表情だった君尋の瞳が、大きく見開かれていく。
紛れもなく君尋は、驚いていた。つまりそれは、縁の発言が当たり、魔女だと信じようとしているということだ。
「……そして君は、学校でいじめられてる」
縁はそれらしく、ゆっくりと目を開ける。
「……どう? 当たってたでしょ? これで私達が魔女だって信じる?」
少年は目を見開いたまま、驚きを隠さずに頷いた。
「よしよし、素直な子はお姉さん大好きよ。それじゃ本題に入りましょ。どうして死のうとしたのか、約束通り教えてくれる?」
「はい。……でも、おねえさんはこころがよめるんじゃないんですか? それなのにどうして、はなさないといけないんですか?」
す、鋭い! 場の空気に呑まれ、気づくこともできなかった今宵と違い、君尋は的確に矛盾点を指摘してきた。
「さっきも言ったでしょ? 何でもできるわけじゃないの。きみひろが心の奥に隠していることは見れないのよ」
余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で君尋の指摘を躱す縁に、君尋は無言で頷き納得した。が、喋ろうとせず。起きようとして起き上がれないような、可笑しな行動を取っていた。
「あの、……おねえさん? はなすのはいいんですけど。おきあがってはなしをしちゃだめなんですか?」
「このままじゃ嫌? お姉さんの膝の上だと気持ち悪い?」
君尋の顔が燃え上がったように赤くなった。
「そっ! そうじゃないです! その……おっぱいが……」
ゴニョゴニョと、君尋の声は小さくなり、最後の方は聞き取れなかった。
今宵は疑問に思う。起き上がりたいなら、起き上がればいいのにと。
「ふふん。残念だけど、君にはこのまま喋ってもらうわよ。お姉さんは君が喋べり終わるまで、魔法を解く気なんてないんだから。だからほら、早く喋っちゃいなさい」
魔法?
不思議に思った今宵が二人を見てみると、君尋の額には、縁の人差し指が置かれたままだった。
えっと……つまり縁さんは、きみひろ君を指だけで押さえつけてるっていうこと?
今宵はさらにまじまじと見つめ、あることに気づいた。
あれ? あたし……きみひろ君が見えてる?
見間違いではなかった。先程まで見えもしなかっと君尋の顔。それが今ははっきりと、見えていた。
一見すると滅茶苦茶にしか見えなかった縁の行動だったが、今宵はそれが正しい行動だったと、信じることが出来た。
縁が君尋と話をし、交流する。それだけで彼を覆う黒い靄は、晴れていくのだから。
☆
君尋はぽつぽつと、自分のことを語り始めた。
学校でいじめられていること。いじめられているのは、自分の能力が低いからだと思い込んでいること。
相談できる大人がいないこと。
震災で、母親を喪ったこと。
死ねば、お母さんに会えると思っていたこと――。
今宵は君尋を抱き締めてあげたかった。
同じく片親である今宵は、君尋の辛さが分かり、自分が恵まれていたことを申し訳なく思ったから。
今宵には、頼りになる父がいた。
今宵には、味方をしてくれた友達がいた。
今宵には光を指し示してくれた、英雄がいた。
君尋には誰もいない。
今宵は泣きたかった。
たんたんと喋る君尋が可哀想で、仕方なかったから。
「よく話してくれたわねきみひろ。正直に話してくれてお姉さんは大満足よ」
縁は優しく、君尋の頭を撫で、
「それにしても……人ってその程度で、死にたくなるものなのね……」
首を捻り、偽りの無い感想を口にした。
ギリッ、と膝の上から歯軋りが聞こえた。
「おねえさんなんかに……おねえさんなんかにぼくのきもちなんて、わかるわけないっ!!」
君尋は縁の手を勢いよく振り払い、立ち上がった。そのまま縁を見下ろし怒りを露に、叫んできた。
「ぼくはいちねんせいのときからずーーっと、べんきょうもたいいくもビリだったんだ!! おねえさんみたいなすごいひとに、ぼくのきもちなんてわかるわけないっ!!」
縁はすっと立ち上がり、君尋を冷たく蔑んだ目で見返し、反論する。
「君の気持ち? そんなの分かるわけないじゃない。私に限らず世界中の誰もが、君の気持ちなんて分かるわけないんだから」
縁は指を突きつけ、言葉を続ける。
「きみひろだって同じよ。きみひろだって私の気持ちは分からない。なのにきみひろは、私のことをすごい人だって勝手に決めつけて。分かったみたいに言ったわよね? 言っておくけど、全然当たってない! むしろ逆。私は子どもの頃すっごく馬鹿だったわ。間違い無くきみひろより、無茶苦茶馬鹿だったわ!」
急な縁の告白に、君尋は困惑した。
「そ、そうなの? で、でもそれならおねえさんは、ぼくのきもちがわかるんじゃないの!?」
「無理! 分からないわ。確かに私も逃げはした、逃げはしたけど、きみひろのように終わらせようだなんて思わなかったもの」
君尋の口から、歯軋りが鳴る。
「なんだよそれ……、おねえさんとぼくのなにがちがうんだよ。おねえさんもにげたんでしょ!? だったらぼくといっしょじゃないかっ!」
冷たかった縁の声に、熱が籠る。
「違う。全っ然違うわ! 逃げることと死ぬことは何もかもが違う! きみひろ、貴方分かってるの!? 死んだら終わりなの!! それも君の人生だけじゃなく、君を生んでくれたお母さんの意志まで終わっちゃうのよ!?」
君尋一歩だけ、縁から逃げるよう、後退った。
「おねえさんは、なにをいってるの? お母、さん? お母さんのいしってなに? お母さんはもういない。だからそんなの……ぼくにかんけいないっ!」
冷酷な瞳が、君尋を捉える。
「関係ない、ね。子どもらしい残酷な答えね。今の言葉をお母さんが聞いたら、とても悲しむでしょうね」
縁の言葉に、君尋は青ざめる。
「ち、ちがう」
「違わない」
今宵には縁の声が、氷よりも冷たく感じられた。
「きみひろ。貴方の言ってることは滅茶苦茶よ? お母さんに会いたいって言っておきながら、お母さんは関係無いなんて言う。それでどうして、お母さんに会えるなんて思えるのよ?」
「あ、あえるよ! おねえさんはしらない。お、お母さんはすごくやさしいんだ。だからぜったい、ぼくがいったことだってゆるしてくれる。ぼくがしんだって、またいっしょになってくれるよ!」
「へぇ。素敵なお母さんね」
ニタリと、縁は不気味に微笑む。
「でもね。君は絶対、お母さんに会えない」
「えっ?」
君尋は、自分の身体が急に、重くなった気がした。
「う、うそだ!」
「嘘じゃないわ、お姉さんは魔女だもの。死後の世界には詳しいの。それにきみひろだって、考えてみれば分かるわよ。精一杯生きた人と、きみひろみたいに自分勝手に命を終わらせた人を、神様が同じ扱いなんてすると思う?」
縁は言葉を続けながら、君尋に詰め寄っていく。
「かみさまなんて、いないよ!」
「いるわ」
「いないよっ! いないからぼくはこんなめにあってるんじゃないか! いないからお母さんはしんだ……。かみさまなんていない、だからこんなことになってるんだっ!!」
「全く、また君は勝手に決めつけて……。世の中の人も知らないから、きみひろが知らないのも無理ないんだけどね……。いいきみひろ? 神様っていうのはね、きみひろが言うように人助けなんてしないのよ」
「たすけたり、しない……?」
「しない。神様は人を助けない。神様はいつだって、見守るだけ」
「……なんだよ、それっ! そんなの、いないのといっしょじゃないか!!」
「一緒じゃないっ!!」
縁は触れそうになるギリギリまで、君尋に顔を近付けた。
「神様は何もしない。けどちゃんと私達を見てる。見ていてどうしても必要な時だけ、奇跡を起こすの!」
「キセキ?」
「そ。偶然っていう名前の、奇跡をね」
今宵は息を呑む。一度は動けなくなる程怖く思った縁が、聖母のような笑みを浮かべ。君尋を優しく、包み込んだから。
「おっ! おねえさんっ!?」
「考えてもみて。私達が出会ったこと。それが何よりの、神様がきみひろ見ていてくれた証拠。だってそうでしょ? もしきみひろが今日まで我慢してこなかったら? もしあのお姉ちゃんがきみひろを見つけてくれなかったら? もし私があのお姉ちゃんと一緒じゃなかったら? ……どう? どれか一つでも欠けてたら、きみひろは生きてなかった。これってすごいと思わない? 奇跡だと思わない?」
君尋は何も、答えなかった。
「……分かんないか」
身体を離し、縁は君尋の顔を覗き込む。
「私はこう思うの。神様……ううん。きみひろのお母さんが助けてくれたんだって。きみひろのお母さんが、私とあっちのおねえちゃんを、きみひろに巡り会わせてくれたんじゃないかってね」
君尋はそれでも、何も言わなかった。
けれど、――今宵には視えていた。
君尋の身体から、靄が完全に消えていくのが、視えていた。
☆
黒い靄が命を奪わず、消えた。
それは今宵にとって、初めての経験だった。
「ゆ、縁さん! 消えました! 靄が消えましたよ!」
今宵は嬉しくて、興奮しながら縁に伝えた。
「そ。ありがと今宵。とりあえずこれで、第一段階はクリアってところね」
「ふぇっ?」
喜ぶ今宵と違い、縁は厳しい顔付きだ。まるで、ここからが本番だと、言っているかのように。
「あ、あの、おねえさん?」
君尋がちらちらと今宵を見ながら、縁に話し掛けてきた。
「さっきおねえさんがいってましたけど、しろいおねえちゃんがぼくをみつけたって、あれはどういうことなんですか?」
「あっ! あのねっ、それはね」
今宵は手をあたふた動かし、説明しようとするが、出来ていない。
「こっちのお姉ちゃんはね、幽霊が視えるのよ。だからきみひろを見つけることができたの」
「「えっ!」」
今宵は驚き、ニコニコしている縁を見る。
「ほんとっ! じゃあおねえちゃんは、ぼくのお母さんがみえてるのっ!?」
「ふぇっ!? え、えーと。その……」
「今は見えてないわ。そうよね今宵?」
今宵の脳裏に、「あわせなさい」と打たれたスマホ画面が浮かぶ。
「そ、そうなの! い、今は見えないん、だよ!?」
真剣な面持ちで、君尋は訴えてくる。
「どうしてっ!? なんでみえなくなったのっ!?」
「えーと……そ、それはね……」
「きみひろを助けるためよ。きみひろのお母さんは力を使いすぎたの。それで見えなくなったの」
何も言えなかった今宵。それに引き換え縁は、ポンポンと嘘を並べていく。
「そう、なの……?」
縁は頷き「でも安心しなさい、消えたわけじゃないから。きみひろが元気に学校にいくようになれば、また出てきてくれるわ」と教えた。
「……がっこう」
学校という言葉を聞き、君尋の視線が、真下へと落ちた。
やっぱり。きみひろは学校に行きたくないのね……。
「ねぇきみひろ、訊いてもいい?」
「あ……はい。なんですか?」
「春休み明けは新学期でしょ? クラスだって変わるわよね? それならいじめられるかどうかなんて分からないじゃない? なのにどうして、こんなことをしたの? それともう一つ。どうして春休みなのに、ランドセルを背負っているの?」
君尋は視線を下げたまま、
「……きのう、いとうくんにいわれたんです。きょうから、がっこうだよって」
縁はそれだけで、ことの成り行きを理解した。
いじっめこに騙されたってわけね……。
「あー……、ありがときみひろ。だいたいわかったわ。それでランドセルを背負ってたのね。そして学校に行って、そのいとうくんと今回も同じクラスだったって、知ってしまったわけね?」
君尋は唖然としながら、ゆっくり頷き、
「それだけじゃないんです……。ことしはぼくのきらいなせんせいが、たんにんになるんだよって、みゆきせんせいがいってたんです……」
「みゆき先生? それは前回担
任だった先生の名前ね?」
「うん」
「なるほど、ね……」
顎に手を添え、縁は考えごとを始める。
「あ、あの、縁さん!?」
集中しようとしたところで、今宵が拳を震わせ、意見してきた。
「どうしたの今宵?」
「学校って、その……行かないといけないんでしょうか!?」
縁は目を丸くする。
「あたしっ、小学校の途中から今まで、学校に行ってないんです! で、でもあたしは、模試で一位を取れました! だ、だから、きみひろくんも学校に通う必要は……無いと思うんです!」
縁は言っていた。自分も逃げたことがあると。だから縁も、賛成する。
「ダメよ。それが出来たのは、今宵の頭が良かったからに過ぎないもの」
賛成する。そう思っていた今宵の幻想は、軽々(かるがる)と打ちのめされた。
「未だに日本は学歴社会なのよ? 今勉強に躓いたら、これから先の勉強はもっとダメになる。私達はきみひろが大人になるまでの世話なんて見れない、だから学校に行かないっていう方法じゃなく、いじめを防ぐ方法を考えなきゃいけないんでしょ?」
今宵はスカートの裾をぎゅっと握り、縁を睨んだ。
そんな今宵に、縁は目線を合わせ、小さな胸に指を突き付ける。
「……今宵、勘違いしないで。私は確かに、貴女の意見を否定したわ。だけどそれは、貴女の意見が間違ってるから否定したんじゃない。私が! きみひろに学校に行って欲しいから否定したの。分かるでしょ? 私の意見が絶対だったら、私はとっくに王様にでもなってるわ。だけど現実は違う。私の意見が間違っていて、今宵の意見が正しいのかも知れない。だから言い合うんでしょ? 私と今宵の思いは一緒でしょ? きみひろを助けることでしょ? だったら一回否定されたぐらいで、弱気になんてならないで頂戴!」
怒られた。
けれど今宵の気持ちは、萎縮しなかった。それどころか、励まされた気がして、やる気が湧いてきた。
叱咤激励。
言葉自体は今宵も知っていたが、実際に怒られやる気が出たのは、初めてだった。
「で、でも。私の意見なんて……、ゆ、縁さんの意見のほうが。た、正しいと思います。そ、それにあたし……。ゆ、縁さんに……嫌われたくないです」
今宵は目を瞑りながら、素直な気持ちを伝えた。
「……鬼才なのに馬鹿ね今宵は。私は『限界状況』を理解してる。だから反論されたからって、貴女を嫌いになんてならないから安心しなさい」
「げ、限界状況って、カール・ヤスパースの限界状況のことですか?」
「知ってるなんてさすがね。その限界状況のことで合ってるわ。ヤスパースの言う通り、人の限界なんてたかが知れてる。だけどそれは個人の話。ヤスパースは超越者にこだわってたけど、私は違う。誰かと、特に自分と考えが違う誰かと交われば、限界状況なんて簡単に突破出来るって。確信してる!」
「えっと……ゆ、縁さん? そ、それってつまり」
「私には今宵が必要だってことよ」
今宵の心に風が吹く
心に溜まった塵を全て吹き飛ばす、強い風だ。
塵が無くなり、今宵は初めて知ることになる。
自分の心に、大きな青空が広がっていたことを――。
「さ。意見を出し尽くすわよ今宵。きみひろも、何を言ってるか分からないと思うけど、どうしたいかを決めるのはきみひろなんだから。分からなくてもちゃんと聞いてること、分かった?」
「う、うん!」
☆
これが裁判だったら、私はボロ負けね。
三十分の議論の末、縁は自身の敗北を悟った。
縁はきみひろが学校に行くことを支持していた。それは学校には重要な要素が、二つあったからだ。
けれどそれは、君尋には無意味なものだった。
学校の重要な二つの要素。
一つは勿論学問を学ぶこと。もう一つは、社会性を身に付けることだ。
どちらも今の君尋には、無理だった。
いじめられている現状では、社会性が身に付くどころか逆効果になる。縁もそのことは始めから心配していた。だから学校に行くことを薦め、成長をするために、学問を学んで欲しかったのだ。
けれどそれも、インターネットが普及した現代に於いては、学校以外で十分に可能になっていた。
しかし、問題は残る。
インターネットは学校と違い、監督してくれる人がいない。
故に、本人の意思こそが、何より重要になる。
きみひろに出来るとは思えないわ……。と、縁は悩んでいた。
悩む縁が敗北を悟った決め手は、君尋の特技、絵だった。
「ねぇきみひろ? 何かやりたいこと、それか何か得意なことってないの?」
「……ありますよ。うまくないって、このまえ先生にいわれましたけど……」
この前? それにこの反応……。もしかして自殺をしたくなった原因って、絵なのかしら……。
縁は君尋をまじまじと観察し、黙り込む。縁に代わり、今宵が話を続けた。
「絵って、やっぱり漫画とかかな?」
「ううん。キャンバスにかいたりするほうだよ」
「ええー!? スゴいねきみひろ君!」
同年代に思える二人の会話を、縁が遮る。
「ねぇきみひろ。死のうと思った理由って、自分の絵を先生に否定されたことなの?」
君尋の動きが、止まった。
――当たりね。
縁はようやく、心から微笑んだ。
その笑顔こそ、自分の意見が間違っていたと、敗北を認めた瞬間でもあった。
「なら決まりね。きみひろ、君は学校に行かなくてもいいわ。って言っても、決めるのはきみひろときみひろのお父さんだから。そこのところは忘れないでね」
ビシッと、縁は君尋を指差す。
今宵と君尋は顔を見合わせる。
「ゆ、縁さん? ど、どうして急に。い、意見が変わったんですか?」
コクコクと、君尋も頷く。
「簡単よ。きみひろには夢がある。それなら出来ると思っただけ」
「えっ!」驚く君尋の肩に、縁が両手を乗せる。
「きみひろは絵が好き、それも否定されて死にたくなる程に、ね。なら大丈夫よ。きみひろには情熱がある。絶対にやれるわ」
「じょう、ねつ?」
「そ。情熱。何かをやり抜くために、一番必要な感情のことよ」
「で、でも! ぼくは、ぼくはうまくないっていわれたんで、むっ!?」
君尋の唇に、縁の指が添えられる。
「いいの。否定されるのは上手くなるために必要なことだから。――否定されていいの」
そっと縁の手が、唇から離れていく。
「否定されるってことはね、それじゃあダメだよって教えてくれてるのよ。否定されるのは、上手くなってる証拠なの」
「……そう、なんですか? で、でもきっと……ぼくのえはちがいます……」
縁は強く、君尋の肩を握る。
「きみひろはなんで絵を好きになったの?」
「お、お母さんがえをかいてて、それでぼくも、すきになったんです……」
「絵を描いてる時、きみひろは楽しいんでしょ?」
「……わからないです。で、でも。えをかいてると、しらないあいだによるになってたり、します」
「絵を書くなって言われたら嫌でしょ?」
君尋は首を振り「いやです」答える。
「なら大丈夫」
縁は俯きがちな君尋の顔を両手で挟み、自分の目線に合わせ、言葉を紡ぐ。
「きみひろ。貴方のそれは間違いなく夢よ。私と同じくらい立派なね。だからきみひろは大丈夫。学校に行かなくても、ちゃんと勉強出来る! お姉さんが保証するわ!」
「ゆ、ゆめなんかじゃ、ないです……」
「描いてて楽しいのに? 描けなくなったら嫌なのに? 下手って言われたぐらいで、死にたくなる程好きなのに?」
言われ、君尋はぐっと、奥歯を噛み締めた。
「きみひろ、本当のことを言って。自分を守るためでも、自分の夢を誤魔化さないで!」
「で、でも……」
「でもはもうやめなさいっ!!」
縁は怒鳴った。今まで抑えていた感情を、爆発させて。
「きみひろの人生でしょ!? きみひろが自分を信じなくてどうするのよっ!!」
泣きそうな顔で目を逸らそうとする君尋を、縁は無理矢理押さえつけ、決して目を逸らさせない。
「やりたいんでしょ!? 絵を描きたいんでしょ!? プロの絵描きになりたいんでしょ!? だから否定されたぐらいで死のうとしたんでしょ!? それなのになんで嘘をつくのよ!?」
「だって……」
「だって何よっ!?」
「ぼくなんかに、できっこないもん……」
縁は目を閉じ、君尋のおでこに自分のおでこをぶつけ、熱く語り出す。
「お姉さんにも夢がある。ほとんどの人が無理だって言ってくる、大きな大きな夢がね」
「……どんな……ゆめなんですか?」
「この国のトップに立つことよ」
君尋はよく分からない。分からないが、すごいことだということだけは分かった。
「これは私の信念の話よ。私は日本が好き。日本の文化が好き。日本の言葉が好き。日本に生きる人達が好き。だから私は日本のために生きるって、決断したの。でも私は頭も悪かったし馬鹿だった。成りたいって思うだけで何も行動しなかった。そんな私を、一人のお兄さんが変えてくれた。「君は学ぶことができる。だったら必ず上に行ける。見てごらん? 世界を動かしてる人達は、天才なんかじゃないから。ただ、やると決めてやり抜いた人達なだけだから。夢を叶えるということは、特別なことじゃないし、誰かにだけ許されたことでもない。誰でも、君にも出来ることなんだ。だから、頭が悪いからって諦めず、勉強すればいいんだよ」って……」
縁は目を開き、真っ直ぐ、君尋を見つめた。
「お兄さんは最後にこう言ってくれたわ。「夢を叶えることは難しい。簡単だったら皆が夢を叶えてるからね。でも、君が本気なら、必ずできるよ」……それから私は変わったわ。泣かなくなったし、逃げ出さなくなった。失敗しても挑戦するようになった。自分が好きになったし夢のために生きれるようになった。そしてきみひろに、こうして伝えれるようにもね」
縁は君尋を解放する。
「きみひろ。私ときみひろの問題は違う。でも、私に出来たんだからきみひろにも出来るわ。自分を信じてあげて。根拠なんかなくていい。ただ自分を信じてあげて。未来は一秒先だって真っ白なの、だから昨日までのことはいい。これからどうするか。それだけを、未来のことだけを考えて」
縁は後退り、君尋から少しづつ、離れていく。
「お話はこれで終わり。約束通り、お姉さんはきみひろを自由にする。きみひろがまだ死にたいんなら、今度は止めたりしない。学校に行くのも、夢に生きるのも、ここで死ぬのも。決めるのはきみひろだもの」
縁はそう言って、君尋に背を向けた。顔を曇らせキョロキョロすることしかできなかった今宵の手を引っ張り、ドアに向かって歩き出し。
ドアの前で、最後にもう一度だけ、振り向いた。
「生きてればいつか、貴方の望む日は来る! だけど死んだら! 絶対にその日は来ないだからっ!!」
縁は今宵と共に、屋上から出ていった。
☆ ☆ ☆
「っていう話よ」
「「っていう話よ」じゃねえよ」
と、顰めっ面で優人は突っ込む。
縁と今宵の話は長く、昼休みだけでは終わらなかった。そこで縁と今宵と優人の三人は、下校途中にあるワクドナルドに移動して、話を続けた。
移動してまで話を聞いていたのに、もやもやする終わり方された優人は、少し不機嫌だ。
向かいの席で足をパタパタさせながら、ジュースを美味しそうに飲む今宵がいなければ、車椅子の縁を置いて帰っていただろう。
「それで? きみひろはどうしたんだよ? まさか飛び降りたなんて結末じゃねえよな?」
縁は大きなため息を吐いてから、答えた。
「そんな結末だったら、隣で今宵が嬉しそうにジュースを飲んでるわけないでしょ? 全く……。君尋はちゃんと後を追ってきてくれたわよ」
縁は何故か、そっぽを向きながら答えていた。
「あ? どうした縁? 顔が赤いぞ?」
「えっ!? ……ちょっと席を外すわ」
縁は一人で車椅子を漕ぎ、化粧室へ向かった。
「なんだ? どうしたんだあいつ?」
優人が視線を正面に戻すと、今宵が身を乗り出し、内緒話をするように話かけてきた。
「あ、あのね優人君。縁に言わないって約束してくれるなら、さ、さっきの話の続きを教えてあげるよ?」
「お、おう、わかった」
恥ずかしそうに喋る今宵につられ、優人も頬を赤らめてしまう。
「ゆ、縁が話したがらない理由はね。きみひろ君がドアを開けて入ってきてくれた時に。縁が、泣いちゃったからだと思う」
「は?」
優人は口を半開きにし、ぽかーんとする。
「なんで、あいつが泣くんだ?」
「た、たぶんだけど、嬉しくって、泣いてたんじゃないかなって……思う」
「へぇ……」
それしか言わない優人だったが、初対面の今宵にも分かる程、機嫌が直っていた。
「その後も縁はすごかったよ。きみひろ君の家に行って、お父さんを説得して、ほんとにきみひろ君を助けちゃうんだもん」
今宵は自分のことのように、誇らし気に、縁のことを語る。
「あの日の縁はすんごく綺麗で、あたしもああなりたいっなって、思ったんだ……。だから縁に誘われて、すんごくすんごく嬉しくて、転校までしちゃった」
満足そうに笑う今宵が、優人には少しだけ、縁と重なって見えた。
「そっか。けどまぁ、今宵には今宵の良さがあるだろ? 縁は美人で今宵は可愛いみたいにな。だからあんまり、あいつみたいにはならないでくれ」
「そそそ、それって、どういう意味かな!?」
縁みたいなのは一人で十分。そういう意味で言ったのだが、優人は誤魔化し、
「今宵は十分はすげぇし、可愛いってことだよ」
と、今宵を誉め殺しにする、優人だった。