純情可憐、宵闇今宵 二
時は二ヶ月前、春休みに遡る。
回り道縁は春休みを利用し、自分の夢の手助けをしてくれる理想の人物を探し、千台駅前を彷徨いていた。が、理想に敵う人物に出会えず、帰ろうとしていたところだった。
収穫がないことなど縁にとっては当たり前。既に同じ様な日が、何十回と続いていたから。
今日も収穫無し、か……。次はもっと遠くまで行ってみようかしら。
成果のない日々が続いても、縁は決して、諦めはしない。
そうした姿勢が、運を引き寄せたのだろうか。
縁は、今宵に出会えた。
縁が帰ろうと振り向くと、狭い路地から白い少女が、後ろ向きで歩いて出てきたのだ。
白い少女を見た瞬間、縁の脳に電流が迸った。
まさか……! 宵闇今宵さん!?
縁は出会う可能性のある、若くて優秀な人物を、全て記憶している。白い少女はその中でも、一番の人材だった。
間違いない! 彼女は今宵さん! 宵闇今宵さんだわ!! ……けど、今宵さんって私と同い年のはず。なのにこんなに愛らしい人だったなんてね。
白い少女の容姿は、縁と同じ年とは思えない程背が低く、小さかった。
その上、大きめのセーターと猫のイラストが施されたブルームスカートを着せられているようで、なおさら愛らしかった。
宵闇今宵……、貴女は最っ高の逸材だわ!
縁の心はときめいていた。
今宵は全国模試で一位を取る天才の上、アルビノという特異性も併せ持っていた。そればかりか、愛くるしい程。可愛い。
縁が求める人材として、文句のつけどころがあるはずもない。
見逃さない! 今宵さん、貴女だけは絶対見逃さない! 何が何でも仲間にしてみせるわ!
瞳を輝かせ、ヒートアップしテンションを上げ続ける縁。だが、観察眼少しもは衰えていなかった。
……それにしても後ろ向きで歩いてくるだなんて。あの路地の先で何かあったのかしら? けどそんなこと、行けば分かるしどうでもいいわ!
縁は躊躇うことなく、今宵に駆け寄る。
「初めまして。私回り道縁っていうの! よろしくね! 早速で悪いんだけど、貴女何に脅えてるの?」
白い少女は目を丸くし、何度も縁の顔と路地を交互に見比べている。
間違いない、やっぱり脅えてる。……路地に怖い人でもいるのかしら?
縁はそう思い。白い少女の視線の先を窺ってみるも、それらしい人はいない。いるのは下を向いてトボトボと歩く、ランドセルを背負った小学三、四年生に見える一人の少年だけだった。
んー……お手上げね。そもそも私、脅えるとか分かんないし……。今宵さんってば何に脅えているのかしら?
子どもに脅えるわけないし…… ――そうなると何か、視えるのかしら?
縁は震える白い少女の肩を、鷲掴みする。
「貴女、全国模試で一位を取ってる宵闇今宵さんよね?」
「えっ!? えっと……、あっあの、あたし……」
今宵は目を泳がせ、手をあたふた動かすだけ。会話も成立せず、明らかに混乱している。
「安心して今宵さん。私が貴女のことを知ってるのは、私も全国模試で十位圏内をとってるからよ。それで一位の貴女に興味が湧いて、調べたことがあったからなの。そしたら同い年だし、すごい印象深かったから覚えてたのよ。どう今宵さん? これで私が何者かは分かってもらえた?」
縁は敵意が無いことを伝えるよう、朗らかに笑いながらも早口で、今宵を知った経緯を説明した。
今宵は縁に対し、警戒心を抱きつつも、頷いた。
「分かってもらえて良かったわ。じゃあ、そろそろ教えてもらえる? 今宵さん。貴女は何に脅えてるの? 貴女には何か、視えてるの?」
縁の質問に、今宵は小さな身体をビクリと反応させた。
当たりみたいね。今宵さんには私に見えない何かが、視えてるんだ。
縁は知っている。身をもって知っている。
人は同じものを見ていても、同じ見方は出来ないということを。
私に見える世界だけが、絶対じゃない。
縁は今宵が視てい世界のことを話しやすいよう、先手を打つ。
「今宵さんに視えるのは幽霊? それとも宇宙人? 何でもいいわ。貴女の様子から嘘じゃないことは分かってるから。例え貴女が、荒唐無稽なこと言ったとしても私は信じるから。だから今宵さん、貴女が見てる世界のことを、正直に言って」
今宵の瞳が大きくなり、信じられないもの。それこそ幽霊やUFOでも見たかのように、縁を見つめていた。
「……ほ、ほんと……ですか!?」
あり得ないことだった。今宵が見ている世界のことを信じてくれた人は、今宵の十六年間の人生で、親を含めて二人しかいない。なのに縁は初対面で、今宵が視ている世界の、近いところを言い当ててしまった。
あり得ない。だからこそ今宵は、縁を信じてみたくなった。
し、信じてもいいのかな? で、でも、靄のことを言っちゃたら。あたしはこの人まで、死なせちゃうかもしれない……。
今宵は迷い、教えることを躊躇う。
そんな今宵を、縁は真っ直ぐに見つめ、
「今宵さん。私を信じて」
力強く、その心を後押しした。
☆
今宵は縁に、自分が視ている世界のことを正直に話した。今宵に視えているのは幽霊でも、ましてや宇宙人でもない。
今宵に見えているのは、『靄』だ。
「え、えっと。こ、こんなこと言っちゃうあたしのこと、へ、変な人だなって。お、思ってくれて、全然いいですから。えっと……」
今宵はそーっと、縁の顔を覗き込む。
「縁。回り道縁よ。今宵さんとは同い年だから、縁って呼んで。私も貴女を今宵って呼びたいから」
今宵の表情がパァッと明るくなる。
「は、はい! そ、それで縁さん。あ、あたしに見えてるのは、く、黒い。靄、なんです」
「黒い靄?」
言われ。縁は口許に手をあてがい、誰もいなくなった路地を見る。
天気も良いし、靄が出るわけないんだから。私に見えるわけないわよね。
縁が視線を戻すと、今宵が眉を八の字にしていた。
「あっ! ごめんね今宵、疑ったわけじゃないの。私にも見えるかどうか確認しただけだから。気にしないで」
「は、はい……。そ、それでですね。その、も、靄に包まれた人は…………」
「どうなるの?」
今宵は暗い顔で言い淀み、止まってしまった。なので縁は先を促すよう、合いの手を入れた。
「……し、死んじゃいます」
聞いた途端、縁の目付きが鋭いものヘと変わる。
「待って今宵! 貴女の言った通りなら、貴女の視線の先にいた人が死ぬってことよね!? つまりそれって!」
縁はもう一度、今宵の肩を掴む。
「あのランドセルの子が死ぬって言うの!?」
☆
今宵は自分の手を引っ張り、見ず知らずの子どものために奔走している、縁から目が離せなくなっていた。
人目を気にせず走り回り、誰かのために汗をかく。そんな縁が何よりも、輝いて見えてしまうから。
……あなたは本当に、あたしの話を信じてくれたんですね。
縁の行動からは、疑る仕草が何一つ感じられない。今宵の手を引く力は強く、焦っていることも分かってしまう。
「今宵! あの子はどっちに行ったと思う!?」
怒鳴っているように聞こえる声も、必死だからなのだろう。
縁に出会った時。今宵は人が死んでしまうことへの恐怖で、いっぱいだった。
震え、思わず後退りしてしまうくらい、怖かった。なのに、縁に声を掛けられた瞬間、恐怖も。靄が見えた子どものことも、忘れてしまった。
きれいな人……。
今宵は縁を初めて見た時、呼吸をすることさえ忘れて、そう思った。
縁は今宵にとって、理想の女性像そのものだったから。
凛として整った日本人らしい顔。一目で女性と分かる胸。細くしなやかな指。平均的な身長。自分の病的な色とは違う健康そうな白い肌。
そして長く艶やかな、黒髪。
外見でさえ理想の女性像であるにも関わらず、その上縁は、精神まで理想そのものだった。
同じ人間なのに、どうしてこんなに違うんだろ……。
焦り必死になり、綺麗な顔に汗を浮かべて。ランドセルを背負った少年を探している縁。
こんなにすごい人が、あの人の他にもいるなんて。それも、あたしと同い年なんて……。
今宵は縁と自分が、光と影のような気がしてしまい。劣等感を感じずにはいられなかった。
☆
「もうっ! あの子ったらどこに行ったのよ!? 時間的にそれ程遠くになんて行けないはずでしょ!?」
縁の予想と違い、少年は姿を消していた。少年が向かった方角は覚えていた。けれど向かった道の先に、少年の姿は無い。
今宵に意見を訊いても、「分からないです……」と、暗い返事をするだけだった。
何か手がかりがあれば分析出来るのに!
縁は少し苛立っていた。
……このままじゃダメね。力を抜かないと。
縁は今宵の手を放し、自分の両頬を、パンッと叩く。
「ゆ、縁さん!?」
「気にしないで。冷静になりたかっただけだから」
「い、痛くないんですか?」
「このくらいへっちゃらよ」
そう言って、縁は今宵に笑ってみせる。
「よしっ。すっきりしたわ。……ねぇ今宵? 黒い靄のこと、詳しく教えてもらえる?」
「く、詳しく……ですか? で、でもあたし! じ、自分のことなのに全然。わ、分からないん……です」
申し訳なさそうに、今宵は萎れていく。
「ごめんね今宵。私の聞き方が悪かったわ。貴女に疑ってると思われたくなくて遠回しに聞いたのがいけなかったの。だから気にしないで」
「そ、そんな! 縁さんは悪くないです!」
「ありがと。じゃあ正直に言わせてね。靄が見えた人は死ぬって言ってたけど、それは絶対なの?」
「はい……。あたしが見た限り、必ず誰かが死んでます……」
誰かが? 縁はその言葉に引っ掛かりを覚える。が、時間を気にし触れないでおいた。
「そう、なのね……。じゃあ次の質問。どうやって死ぬかは、分かるの?」
「ど、どうって、どういうことですか?」
「うーん、そうね。事故か他殺か、或いは自殺かとか。それだけでも分かる? 分かるなら私はあの子を、必ず見つけて、助けてもみせるわ」
今宵は唖然とした。
確かに今宵は、靄が視えた全員が死んでいることを告げた。なのに縁ははっきりと、少年を助けてみせると言い切った。
今宵の視ている世界を信じて尚。自信に満ちた輝きを放つ縁が、今宵には信じられなかった。
「……こ、根拠はありませんけど、いい、いいんですか?」
「構わないわ」
「た、多分、自殺です。も、靄が頭部に。こ、濃く見えてましたから」
「よりによって自殺……か」
縁は頭をガシガシ掻きながら、悔しそうに言う。
「ねぇ今宵? 貴女はこの辺りで自殺するとしたら、どう自殺する?」
「へっ!?」
今宵は、今日一番の大きな声を出す程、驚かされた。
「私、死にたいなんて思ったことがないから分からないのよ」
縁は赤いスマホを取り出し、何かを調べながら言う。
「そ……、そうなんですね……。えーと……、あ、あたしでしたら」
今宵は周りのビルを見渡し、
「や、やっぱり、飛び降りるんじゃないでしょうか?」
今宵が答えると、縁はスマホをバッグにしまった。
「なら決まりね。多分、あの建物よ」
縁が指さしたのは、先程通り過ぎた、廃ビルだった。
「他はオートロックのマンションと人のいるお店だもの。飛び降りるなんて出来っこないわ。それにこの建物、ちょうど七階建てね。七階って自殺するにはうってつけの高さらしいわよ」
説明を終えると、縁はすぐに建物の中へと入ってしまった。
「えっ! あっ、ま、待って縁さん! 置いてかないで!」
急ぎ、今宵は縁の後を追った。
☆
日中だというのに、建物の中は暗く、不気味だった。
解体をしようとした痕跡があり。中には工事現場で見かける作業道具が、散乱していた。
縁は外からの光で見えている。正面にあるエレベーターのボタンを押す。
「……反応しないわ。やっぱり電気は通ってないみたいね」
そうして、明かりが点かないこと確認していた。
「ど、どうしますか?」
縁は室内をぐるりと見渡し、
「こっちよ」
真っ暗な階段へと歩き出す。
階段は非常用階段も兼任していて、窓がなく真っ暗だった。
「ほ、ほんとに、ここここここを上るんですか?」
「上るわよ」
縁はスマホを取り出し操作しながら、無表情で答える。
「当たりね」
縁のスマホが照らした階段には、ほこりを踏んで出来た、小さな靴跡があった。
「ほら今宵、急ぎましょ」
「ふぁ、ふぁい……」
今宵は覚悟を決め、差し出された縁の手を握った。
最上階のドアの前に着き、縁は細心の注意を払い、静かにドアを開けた。
二人は上下に顔を並べ、外の様子を覗く。
荒れたビルの屋上に少年はいた。
雨風に曝され、茶色く錆びた柵の前で少年は、黒いランドセルを背負い俯き佇んでいた。
「今宵、あの子で間違いないわよね?」
縁の問いに、今宵は返事が出来なかった。
「……ダメです。あの子はもう、間に合いません……」
今宵の目に映っていたものは、最早少年ではなく。
黒い靄でしかなかった。
少年は靄に覆い尽くされ、人かどうかも分からなくなっていた。
「そ。だからなに?」
「縁さん?」
縁はそれだけを言い残し、音も立てずに屋上へと出ていった。
縁が屋上へ出ると同時に、少年は柵を掴み身を乗り出す。片足ずつゆっくりと柵を跨ぎ、自然と後ろを振り向く形になってしまう。
音もなく忍び寄っていく縁だったが、運悪くあっさり見つかってしまった。
「だ、だれ!? おねえさんはなんでここにいるの!?」
「通りすがりのただの女子高生だから安心して」
縁は危険が無いことを伝えるよう、両手を広げにこやかな笑顔を浮かべ、近寄っていく。
人が来るなど予想もしていなかった少年は、パニックを引き起こす。
「こ、こないで! きたらとびおりるよ!? ほ、ほんとだよ!?」
「やってみなさい。私に、敵うならね」
縁の身体は急激に沈むと、弾丸のように走り出した。
☆
今宵は驚いてばかりいた。
足音を消すためだったのだろう。ドアを出た時点で、縁はパンプスを脱いでいた。
す、すごい。いつから準備してたんだろ? ど、どこであんな技、身に付けてるんだろう?
今宵は疑問を抱かずに要られない。
縁は身体をほとんど揺らさず、摺り足で音もなく移動していた。それこそまるで、くの一のように。
気づけばもう、縁と少年の距離は十メートルもなかった。
間に合うの? 助けられるの? ……あの子の靄は、濃いままなのに!?
今宵もじっとしていられず、屋上へと姿を曝す。
奇しくも縁が、見つかった瞬間だった。
☆
縁の目算は外れてしまった。
縁の計算では。少年が柵を乗り越え飛び降りる前に、躊躇うと思っていた。
普通なら誰だって、死ぬのを怖がる。そう思ったから。
縁は分かってない。
自殺を試みる者の心が。生きることより死を選ぶ弱い心が。縁には決して理解らない。
故に縁は、死にたい人間の決意と行動力を、見誤った。
弱さからくる強い意思という矛盾。それを縁は知らない。知るはずもない。
死にたいなどと、考えたこともないのだから。
だから縁は失敗した。武術を使い走り出せば、間に合うと思って。
柵を乗り越えた少年は、すぐに飛んだ。
「馬鹿っ!!」
躊躇ってくれれば、十分に間に合った。
躊躇ってくれれば、
少年を投げ飛ばさずに済んだのだ。
ガン! と、少年の背後で大きな音が聞こえた。それを最後に、少年の意識は途絶えてしまう。
少年の身体は落下するより早く、縁に捕まえられていた。
縁は柵に身体をぶつけ、なんとか少年の首を鷲掴みした。
縁はそのまま身体を酷使し、止まることなく武術を使う。
勢いを失えば、無理な姿勢と自分の細腕で、少年を支えられないことを知っているから。だからこそ勢いを利用し、縁は少年を投げ飛ばした。
「痛くても泣くんじゃないわよっ!!」
振り向き。コンマ数秒で安全そうな場所を探す縁の目に、今宵の小さな姿が映った。
「っ今宵! 受け止めて!」
「えええぇぇっ!?」
今宵を目掛け、少年は投げ飛ばされた。
少年の方が小さいとは言え、小さな今宵に受け止められるはずはない。
自身がそのことを誰よりも分かっている。分かっているが、それでも今宵は、覚悟を決める。
少年を覆う黒い靄が、薄れていたから――。
☆
今宵の経験上、黒い靄に覆われた人は、誰も助からなかった。
一度だけ例外は有った。その時は、助けたくれたその人が代わりに、死んでしまった。
だから今宵は、靄に狙われたら必ず誰かが死ぬ。そう思い込んでいた。
……知らなかった。ううん、知らなかったんじゃない。……あたしは知ろうとしなかったんだ。
あの人が身をもって教えてくれたのに。あたしは信じてなかったんだ。
ごめんなさい、ごめんなさい清人さん。清人さんが言ってた通りでした。靄は、絶対じゃありません。
……助けられる。あたし一人じゃ無理だけど、縁さんと一緒ならこの子を、助けられる!
清人さん、貴方の言っていた通り。本気になれば、人は何だって出来るんですね。
☆
縁にとっても賭けでしかなかった。
今宵に少年を支えれるとは、思わなかった。
だから縁は、少年を投げ飛ばした後も休むことなく、走りだした。
少年を助けるため、柵に激突し痛めた、脇腹の鈍い痛みを堪えて。
「嘘でしょ!?」
縁は目を疑いながらも、足を止めた。
今宵が少年をピザ生地でも伸ばすよう、空中で一回転させ、そのままストンと屋上に立たせてしまった。
「私の技……」
今宵と少年、二人のうちどちらかは怪我をする。縁はそう思っていた。けれど結果は違った。
二人とも仲良く気を失い、倒れただけだった。
縁は冷や汗をかいていた。今宵の驚異さが分かったから。今宵のとった行動は、自分の見せた合気道の技だと、分かってしまったから。
血の滲むような努力の末、身に付けた合気道の技。それを今宵は一目で、見ただけで応用までしてしまっていた。
掴む位置や角度、少年の体勢も違う。とはいえあれは、自分が見せた技なのだと。縁自身には分かってしまった。
「見ただけで出来るなんて。天才……いえ、それじゃ足りない。貴女は天才のさらに上、鬼才なのね」
☆
これはやっちゃってるなぁ。またお母さんに怒られる。
鈍い痛みを堪えながら、縁はため息を吐き、そんなことを心配していた。
「ゆ、縁さん!? だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ。痛いけど、痛いだけだから。多分、折れてはいないもの」
今宵は倒れこそしたものの、すぐに目を覚まし、起き上がった。
今宵が起き上がると既に、縁が少年を介抱していた。
正座して出来た。柔らかそうな自らの太ももの上に、少年の頭を乗せていた。
軽く汗をかき辛そうな縁を心配して、初めはあたふたする今宵だったが、やがて落ち着きを取り戻し縁のそばに腰をおろした。
「そ、それにしても、どうしてこの子は。し、死のうなんて思ったんでしょうか?」
「いじめでしょうね」
縁はきっぱりと言い切る。
「ど、どうして分かるんですか!?」
「この子の身なりはしっかりしてるでしょ? 髪も散髪してあるし、臭くもない。親が原因の場合、子どもに興味が無いからお風呂にだって入れないことが多いの。その辺りを考慮すれば、家庭問題じゃないことはすんなり分かるでしょ。となると、学校しかないじゃない?」
「な、なるほど。あっ! ゆ、縁さん!」
今宵が少年の身じろぎを見て声を上げると、少年の瞼が静かに開かれた。
目を覚ました少年は、無表情のまま首を動かし、縁と今宵を見つめ、
「……ぼく、しんでないんですね。……どうして、しなせてくれないんですか……」
今宵は戦慄した。
「そ、そんな……も、靄が……」
少年が消え入りそうな声で喋り出すと同時に、薄くなっていた黒い靄が濃度を増し、
再び少年を、覆い尽くしてしまった。