純情可憐、宵闇今宵
――今日あなたが死ぬとして、何が失われるだろう?
どんな夢が?
どんな才能が?
どんな知恵や技術が?
もし、何も残らないとしたら、あなたはそれでいいのだろうか?
五月。第二月曜日。
回り道縁は車椅子に乗り、長く艶やかな黒髪を風になびかせ、登校していた。
ご機嫌に鼻唄を歌いながら。
「フンッ、フフフフフフフン。フンッ、フフフフフフ、フンッ♪」
ご機嫌そうな縁が乗る車椅子を、身長の高いクラスメイトの男子、片倉優人はうずうずしながら押していた。
鼻唄に対し、突っ込みをいれたかったから。
――なんで正月なんだ!?
「……なぁ縁? なんか良いことでもあったのか?」
「ほえ?」
縁は車椅子越しに真後ろへと上体を反らし、優人の顔を覗き込む。
「良いこと? もちろんあったわよ。こうして優人が車椅子を押してくれてることとか、お母さんの作ってくれた朝ごはんが美味しかったこととか……」
「そういうんじゃねぇよ」
優人の突っ込みを無視して、縁は指を折りつつ、今朝から起きている良いことを報告し続ける。
「いい加減止まれ! 特別な良いことがあったのかって聞いてんだよ」
「特別なこと?」
縁は首を傾げ、顎に指を添えながら、青空を眺め記憶をたどった。
「うーん……。そういうことなら何もなかったわね」
「そうかよ……」
二人は無駄話をしている内に、自分達の通う白桜高校へと到着していた。
早く登校した甲斐もあり、校内に生徒はほとんど居なかった。
「あーーー。疲れたーーー」
優人は車椅子の縁を教室に運び終え、自分の机にだらしなく突っ伏した。
「お疲れ様」
机に突っ伏する優人の背中を、縁は感謝するよう優しく撫(なでる。
二人のクラスは二階にあり、車椅子の縁はどうやっても一人では上がれない。優人は健気に、縁と車椅子を二回に分けて、教室へと運んだのだ。
「縁、そろそろ止めとけ。こんなとこ誰かに見られたらどうすんだよ?」
「どうもしないわよ?」
キョトンとしながら答える縁に、優人は深いため息を吐く。
優人は確かに疲れたと言ったが、身体は大きく屈強である。縁が乗る車椅子を押して登校しようと、お姫様抱っこして階段を上がろうと、大した疲労にはならない。
疲労の原因とはズバリ。縁との認識のズレ、だ。
優人は縁と付き合っているという噂を、すごく気にしている。
対して縁は噂など、まったく気にしていない。
人の目を気にしてしまう優人と、人の目を全く気にしない縁とでは、他人に対する振る舞いが違いすぎた。結果。優人は一人だけ、間違った噂が広まらないよう、精神をすり減らすことになっていて。それで疲れてしまっている。
「どうもしないって……。お前は俺と付き合ってるなんて噂されて、嫌じゃないのかよ」
「別に。事実じゃないもの。勝手に相手が勘違いしてるだけなんだから、気にする必要なんて無いでしょ?」
あっけらかんという縁に、優人は説得を諦め、口をつぐむことにした。
……嫌じゃねぇのか。
優人が縁にばれないよう、顔を背けて赤くなった表情を隠していると、教室のドアが開いた。
不思議だった。
横にスライドさせ開けるタイプのドアが、誰もいないのに開いたのだから。
「……縁、お前の仕業か?」
「何のこと?」
縁は優人のすぐ後ろで、車椅子に座っているだけである。何かをしたようには思えなかった。
優人は机から顔を上げ、鼻の下を伸ばしながら、勝手に開いたドアを覗き込む。
何か白いものが、教壇に移動した気がした。
「んあっ!?」
優人の心臓が高速で動き出す。
背後の縁に慌てた様子はなく、自然体そのもの。対して、自分はどうだろうか。いるはずもない空想の産物である幽霊に怯えている。
情けないったらありゃしねぇ。
優人は見間違いであることを確認するため、教壇を見つめながら、縁に訊いてみることにした。
「ゆ、縁……。今、何かがそこを通らなかったか?」
「通るに決まってるじゃない」
「そ、そうだよな……えっ!?」
優人が全力で振り向くと同時に、教壇から、真っ白な何かが走り出した。
「縁~~!」
白い何かは優人を追い越し、縁に勢いよく飛び付いた。
優人は心臓が止まったのでは? と思う程。顔は青く、身体を硬直させながら、彼女達の抱擁を見つめていた。
優人が怖がっていた白いものの正体は、どうしようもない程の、美少女だった。
「今宵!」
「縁~!」
二人は名前を呼びあい、熱い抱擁をする。
優人の目は二人に釘付けで、瞬き一つ出来なくなっていた。
美少女は縁の膝の上に収まる程、小柄だった。
恐怖で凍りついていた優人の心臓が、より速く。尚且つ、激しく脈打つ。
「か、」
美少女は白い。髪と素肌が、雪のように白かった。そして全てが、
「可愛い……」
可愛かった。
とろんとした瞳は嬉し涙を湛え、キラキラ輝いている。縁の名を呼ぶ小さな口は、名前を呼ぶだけで懸命に喋っていると思わせる。ふわふわとしたボブカットの髪は、触れたら綿菓子のように溶けてしまいそうだ。
そして、汚れという概念すら知らなさそうな、白い肌。少女の顔から、手から、生足から見える素肌が。誰にも踏まれていない、新雪のようだった。
ごくりと、優人は唾を飲み込む。
「……縁。そ、その子は?」
優人の声にビクンッと反応を示した白い少女の背中を、縁はポンポンと、母親のように優しく叩き答えた。
「この娘は宵闇今宵。私の一番大事な、親友よ」
「……親友? この子が、か?」
縁は訝しげに、優人の表情を窺う。
「……ねぇ優人? もしかして貴方、今宵のこと子どもだと思ってない?」
「子どもだろ?」
「ち、違います!」「違うわよ!」
縁は優人を睨みながら、今宵は後頭部を向けながら、抗議してきた。
「今宵は今日からクラスメイトになる、同い年の高校生よ!」
「はぁ?」
何から突っ込めばいいのか、優人には分からなかった。
☆
「と、いうわけなのよ」
縁による今宵との出会い話が終了したころ、優人の心臓も正常運転に戻っていた。
説明している間も、今宵は縁に抱きついたままで、優人に後頭部ばかり見せていた。
「悪い。合間合間にオカルトみたいな話が入ったせいで、よく分かんねぇ。……つまり今宵は、今日から白桜に来た転校生っつーことでいいんだよな?」
「うーん。間違って無いし、取り合えずそれでいいわ」
縁は少し、呆れているようだった。
話が途切れ、二人の視線は自然と、今宵へと集まっていた。
「ねぇ今宵。さすがに腕が疲れてきたんだけど?」
「あっ! ごめんなさい!」
腕が疲れたと言われ、今宵はようやく車椅子から降り、床に立った。
やっぱ、小せぇな……。
床に立ったことで、今宵の小ささはより際立っていた。
平均的な身長の縁と、今宵の身長は変わらない。両脚を骨折し、車椅子に座っている縁と、大して変わらないのだ。
俺なら小学生ですって嘘つかれても、信じちまう。
俯いて、ちらちらと優人を見ようとする仕草。もじもじと指を絡める動作。今宵のやること全てが、優人にとって、いちいち可愛かった。
――アカン!!
可愛いもの好きの優人にとって、今宵は強烈すぎた。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ今宵。優人は見た目こそ大きくて威圧感があるけど、実際は面倒見が良くていい男よ?」
「そういうことを平然と言うな!」
「何でよ? 事実でしょ? ははーん。さては照れてるのね?」
意地の悪い顔をして、縁は言う。
「ち、ちげーよ!」
表情に出ないよう努めていた優人だったが、縁に指摘され、全身が燃やされでもしたかのように、真っ赤になった。
そんな二人のやりとりを、今宵は黙って見つめていた。
「さっ、今宵。そろそろ教室を出ましょう。貴女の存在はホームルームまで内緒なんだから、クラスの皆に見つかったら大変よ?」
「あっ。そ、そうだね」
言われ、今宵はちらちらと優人の顔を覗き込み。拳をキュッと握りしめ、意を決したかのように喋りだした。
「……あ、あの! あたしも縁の仲間だから! ゆ、優人君とも、その、な、仲良くしていき……」
意を決して喋りだした今宵だったが、恥ずかしさに負け、最後の方はほとんど聞き取れなかった。
ど、どうしよう。あたし、全然上手く喋れないよ~。
そう、目を瞑り後悔していた今宵の頭に、大きな手が降ってきた。大きな手は、優しく今宵の頭を撫でてくれた。
「こっちこそよろしくな。今宵」
あの人みたいに、優しい笑顔だと、今宵は思った。
今宵はようやく、まともに優人を見ることが出来た。
「……そっくり」
「ん? なんか言ったか?」
「な、なんでもないよ!」
青春の一ページのような二人の光景を、縁はニヤニヤしながら、すぐ近くで眺めているのだった。
☆
二年生になってから、朝のホームルームがこんなにうるさくなったのは初めてのことだ。高校の二年生という大事な時期に、転校生が来ること事態、稀なことなのに。その転校生がこんなに小さくて可愛いのが原因だと、優人は思う。
結論は間違っていない。教室に今宵が入ってきてから、男子も女子も、可愛いと口々に言っていた。だが、今宵の自己紹介の後、名前が黒板に書かれると一瞬。教室は静まり返った。
――宵闇今宵。
「すごい名前……」「見た目はあんなに白いのにね」「夜に夜だぜ。親のセンスを疑っちまうな」
優人にとって予想外の反応だった。
名前一つでずいぶんとまあ……。宵闇今宵。いい響きだと思うんだけどな。
バンッ! と。誰かが机を強く叩く音がした。
そういや。うちには名前で先生と対決した奴がいたなあ……。
優人がその人物に視線を向けると。彼女は極上の笑みを浮かべ、怒っているのが分かった。
「先生。時間が無くなりますよ? 早く進行して下さい」
「ひ! そ、そうですね回り道さん!」若い担任の女教師は、言われた通り、今宵の紹介を再開させた。
「おほん。宵闇さんはすごいんですよー。なにせ宵闇さんは、全国模試で一位を取れちゃう天才さんなんですよー」
担任はおっとりとした口調で、さらりと個人情報を公表していた。
教室は再び騒ぎだしたが、縁の席から発せられる不穏な空気を読み取ったのか、すぐに静かになった。
「え、えーと。それでは皆さん。今までこのクラスだけ行われていなかった席替えなんですが、宵闇さんが編入されたことですし、実施したいと思います」
教室からは賛否の声が上がったが、賛の声が多く。席替えはスムーズに実行された。
窓際の席から順番に番号を振られ、くじ引きに書いてある番号が自分の席になるという、昔ながらの方法で席順は決められた。
「あっ! そうでした。回り道さんは車椅子だから片倉君の隣じゃないとダメですよね。太田さーん! 席、代わってもらっても大丈夫ですかー?」
「はぁ?」と。困惑している優人のことを無視し、担任はそそくさと決まった席順を入れ替えた。
小さなガッツポーズを取り合図をしてくる担任の姿から、明らかに縁を押しつけているのだと、優人にも分かってしまった。
その上、席を代わるよう言われた女生徒も、嬉しそうに席を譲るものだから。優人は黙るしかなかった。
「先生」
車椅子の美少女が、高く真っ直ぐに、手を挙げた。
「な! なんでしょう回り道さん!」
「それなら、今宵も私の前の席にお願いします」
クラス全員の視線が、縁に向けられていた。
「ど、どうしてでしょうか?」
「先生なら今宵から聞いていてお分かりだと思いますが。私と今宵は知己の仲です。ですので、優人君が体調不良等でお休みした場合、優人君の代わりに車椅子の手伝いお願いしたいんです。優人君がいいなら、今宵だっていいですよね?」
縁はまたも極上の笑みを浮かべ、担任の若い女教師を、睨んでいた。
「ひゃっ、ひゃい!」
返事か悲鳴か分からない声で、担任は了承した。
☆
昼休みになった途端、縁は机を動かし、隣にある優人の机とくっつけ始めた。
「今宵。優人。ご飯、一緒に食べましょ」
「うん!」「……教室でか?」
今宵は嬉しそうに、優人は嫌そうに答えた。
「場所を変えても良いけど、運ぶのは優人よ?」
優人はがっくりと肩を落とし、バックの中から弁当を取り出し突き合わされた机の上に置いた。
「よい、しょっと」
縁は車椅子の下から、弁当を取り出した。
「……重箱、だと?」
「縁の車椅子ってすごいんだね!」
「ありがと今宵。もうすぐ使わなくなっちゃうだけど。やっぱり自分の足の代わりとして使う以上、車椅子だってこだわりたいじゃない。だから、特注で作ってもらったのよ」
縁は微笑み、車椅子を褒めるように撫でながら答えた。
「もうすぐ使わなくなる、だって?」
「ええそうよ。あと、一、二週間くらいかしらね」
「バカ言え。お前の怪我は骨折だろ? 二、三週間ぐらいで治るわけねぇだろ」
縁は優人に、穏やかな微笑みを向け意見する。
「分かってないわね優人。人間は精神の生き物なのよ。治ると信じて具体的に骨が結合していく様子を想像してると、身体は想像に応えようとして能力を高めてくれるのよ」
縁の発言を、優人は鼻で笑う。
「優人君。縁の言ってることは本当だよ」
優人が声の主に視線を向けると、クリームパンのクリームをほっぺに付けた今宵が、堂々と見つめてきていた。
「今宵。クリーム付いてるぞ」などと、とても言える雰囲気ではなかった。
「公式に学会が認めてるわけじゃないけど、実際にイメージの力で脳腫瘍が無くなった。っていう話は日本だけじゃなくアメリカにもあるんだよ。白血球が脳腫瘍を食べてくれるイメージを子どもに信じさせて、手術不可能な位置にあった腫瘍を、無くしちゃったんだって」
「……そう、なのか?」
「うん! あ! で、でも、誰にでもできることじゃないからね! 縁みたいに自分を信じられる人じゃないと、難しいと、思うんだ……」
今宵はだんだんと弱気になっていった。縁の弁護を初めた時は、別人のようにハキハキしていたというのに。
「……今宵ってよぉ」
「う、うん!? な、何かな優人君?」
不満そうな優人の表情を見て、今宵は後悔していた。
縁から話を聞き知っていたとはいえ、初対面の優人に意見したことが、不満にさせたと思ったからだ。
「すげぇんだな」
今宵の瞳を、ぱちくりぱちくりと瞼が行き来する。
「可愛いだけかと思ったら、話は分かりやすいし。俺みたいに怖がられやすいやつにも、ちゃんと意見を言ってくれるんだからよ」
照れた様子もなく。優人はにこやかに伝えていた。
「あらあら優人ったら。ストレートに可愛いだなんて」
口許をわざとらしく隠しながら、縁が事実を指摘した。
「はぅっ!」「あっ!」
二人は仲良く、赤面した。
☆
昼食を食べ終えた縁は、目を細め、教室の窓から見える青空を眺めていた。
「ねぇ今宵。あの子とはあれから会った?」
「ううん。会ってないよ」
「そ。なら、安心ね」
「あの子?」
知らないことを懐かしそうに話し合う二人に、優人は無意識に聞いていた。
「今朝話したでしょ? 今宵と私が出会って、助けることができた小学生の話よ」
「……! 自殺しようとしてたのって!! 子どもだったのかよ!!」
教室には他の生徒もいるというのに、優人は大声を出しながら立ち上がった。
「ゆ、優人君! 落ち着いて!」
「あっ! ああ……そうだな」
優人は自分に向けられている視線の多さに気づき、すまなそうに席に着いた。
「どうしたのよ? 今朝聞いてた時と反応が違うじゃない」
「仕方ねぇだろ。あん時は人に黒い靄が見えるとか、靄は人の死のエネルギーかも知れないとか。そんな眉唾もののオカルト話にしか聞こえなかったんだからよ。第一自殺を未然に防いだとは言ってたけどよ、それが子どもだったとは言って無かっただろ!」
「そうだっけ?」
優人の剣幕を気にもせず、縁は反省するように後頭部を掻くだけだった。
「じゃあ、今度はきちんと話すわね。今宵も、私が記憶違いしてたら言ってね」
「あ、う、うん」
縁は優人に焦点を合わせ、記憶を鮮明に思い出し、語りだした。
「今宵にはね。『死』が視えるのよ」