外典 縁美問答
「ただいまー」
私、片倉美人には癖がけっこーある。
例えば。無駄に敷地が広くて道場まである家に帰ってくると、まず最初に足元に目がいっちゃうとかね。
私自身、いつからこの癖がついたのか覚えてない。
これは、靴で誰が家に居るのかって確認する変な癖なんだけど。
「あれ?」
この癖のお蔭で、玄関にあった知らない女物の靴に気づいた。
母さんの靴じゃない。
っていうか、母さん達は今日、夜になるまで帰ってこないはず。
その靴は私には似合わない、リボンみたいな可愛い結び目付きのパンプスだった。
似合わないことが分かってても、可愛いもの好きの私としては、この靴が似合う女子が羨ましい……。
「って、あれ?」
パンプスの隣のでかい靴って、兄さんの靴だよね?
ってことはこの靴……あの女の靴ってこと!?
そう思った直後に、回り道縁の声がした。
「あっ美人! お帰りなさい!」
靴を見て下を向いていた私でさえ、笑顔なのがすぐに分かる、弾んだ声だった。
「なんで家に居るんですか? 縁せんぱ…………って! なぬすてんのや!!」
名前を呼ばれて私が視線を向けると、回り道縁は私の大事な兄さん、片倉優人にお姫様抱っこをされてやがった!
「美人! 訛ってる! 訛ってる!」
「訛ってるじゃないわよ!? 兄さんはなんでお姫様抱っこなんてしてんのよ!?」
まったく、兄さんはバカで鈍くて、ぜんっぜん女心が分かってない!
訛ってるじゃねぇっーつーの!
私が訛る時は嫉妬してる時だって気づけっつーの!
「そんなに睨むなよ。仕方ないだろ? 縁は両脚が折れてんだから」
「むぅぅ……」
それを言われると何も言えなくなっちゃう。
だって、回り道縁は私のせいで、両脚を折るはめになったんだから……。
ギブスを巻かれた両脚を見て、いたたまれない気分になって視線を逸らした私に、回り道縁は何でもないように話かけてくる。
「ねぇ美人? 前から気になってたんだけど。なんで優人のこと兄貴って呼んだり兄さんって呼んだりしてるの?」
「それは……」
私にとってその話題は、言葉が詰まってしまう内容だった。
そのことを知ってる兄さんは、私の代わりにあっさり答えてしまう。
「もう一人兄弟がいたからだ」
「ちょっと兄さん!?」
「なんだよ。別に隠すことじゃないだろ?」
「それは、そうだけど……」
何でもないように話せちゃうんだ……。やっぱり兄さんは清人兄さんのこと、忘れられたんだ……。
「美人、ごめんね」
回り道縁は突然、兄さんの腕の中で苦笑いを浮かべ、両手を合わせて謝ってきた。
「……何がよ?」
「私ったらダメね。屋上で美人がヒントをくれてたのに、全然気づけなかったわ」
「お前らあそこでそんなことも言い合ってたのか?」
「そうよ。女だけの大事な話だから、優人には教えられないけどね」
屋上というキーワードを言われ、私は感極まって泣いてしまったあの日のことを、ドキドキしながら思い出す。
確かに私は、清人兄さんの名前を口にしていたと思う。だけど他にももっと色んなことを言い合ってたし、回り道縁が「屋上でのことは内緒よ」なんて言ってきたから、油断して忘れてた。
兄さんは私と回り道縁を交互に見比べ、口をへの字にしている。何のことか分からないって時の、兄さんの顔。
約束が守られてるのは分かったけど、回り道縁の発言は不用心すぎ!
私が屋上発言におろおろしている間も、二人のトークは続いていた。
「つまり美人は一番上の清人さんを兄さんって呼んで、優人を兄貴って呼んで区別してたってことなんでしょ?」
「まぁ、そんなとこだ。でな縁。あんまり兄さんのことは口にしないでくれ」
「もちろんよ。亡くなった人のことを他人の私が軽々しく言っていいことじゃないもの。だけど珍しいわね。優人が念を押してくるなんて」
ほんとにそう。兄さんは基本、人を信頼しすぎる。念を押すなんて珍しい。
「念だって押したくなるさ。可愛い妹のためだからな」
えっ!?
「兄さんが死んで一年は経つんだけどさ。美人はまだ兄さんが死んだことを引きずってんだよ。不良になったのだって兄さんが死んで辛かったのが原因なくらいだからな」
「ちょっと兄さんっ!!」
何で余計なこと言っちゃうのよ!
「へー! 美人にそこまで慕われるなんて、清人さんって立派な人だったのね」
「ああ。とんでもなく、な……」
そう言った時の兄さんは、なんだか寂しそうだった。
「ねぇ。良かったらでいいんだけど、清人さんに手を合わさせてもらってもいいかしら?」
「「は?」」
「御仏壇はどこ?」
☆
回り道縁は変わってる。
初めて上がった人の家で、亡くなった人に手を合わせたいなんて……。
断る理由も無かったし、家の奥にある仏間に通すことにはした。
「美人、椅子持ってきてくれ」
「あ、うん。ちょって待ってて」
「本当は正座したいだけどね」
「無茶言うな」
「兄さん、これでいい?」
「ん? いいんじゃないか」
折り畳み式の小さい椅子を仏壇の前にセットして、兄さんがそこに回り道縁を座らせた。
「あ」
清人兄さんの遺影を見た回り道縁は、びっくりしていた。
「どうした縁?」
「ううん。何でもないわ」
「そっか」
そっかって……。その反応で何でもないわけないでしょうに。
兄さんがそれでいいならいいけどさぁ。
私と兄さんは並んで立ったまま、回り道縁の祈る姿を見続ける。
たった数分だけど、不思議な時間だった。
回り道縁の亡くなった人に対する、姿勢のせいかも知れない。
祈る姿はすごく、綺麗。
頭を下げて手を合わせる。それだけのことなのに、心を込めてやってるんだって分かる。
はっきり言って私は、回り道縁が嫌いだ。だけどこんなのを見せられたら、考えを変えないといけない気がしてしまう。
……それはそうと、兄さんはほんと鈍感。
回り道縁の隠し方が上手いのもあるけど。全、然、気づいてない。
どうやら回り道縁は、清人兄さんと面識があったみたい。
遺影を見た時の反応はもちろんだけど。頭を下げた時、回り道縁の瞳から一滴だけ、涙が流れてたのを私は見逃さなかった。
ただの知り合いじゃない。
泣けるくらい、清人兄さんのことを知ってる。
けど清人兄さんなら、誰と出会っていても不思議はない。
あの人は昔から、誰でも助けてしまう超人だったから。回り道縁も、そうやって助けられた一人なんだと思う。
「ありがとう、二人とも。じゃあそろそろ、本題の美人の部屋に行きましょうか」
祈り終えた回り道縁は、泣いた様子なんておくびにも出さないで、ふざけたことを言ってきた。
「何言ってんのよ、アンタ……」
☆
「へぇー。美人の部屋って素敵ね。洋楽好きなんだってすぐに分かるわ」
部屋に貼られたロックバンドのポスターとか、革製品の服とかバッグを見て、回り道縁は無難な感想を述べてくる。
分かってた。私、こうなるって分かってた……。
だって断ったら回り道縁は、「見せられないものでも有るの?」とか言いそうだもん。
見せられないものが有る以上、余計な詮索をされる前にこっちから妥協したほうが安全だもの。
……話し合いがしたいだけって言ってたしね。
「美人。縁の座る場所はどうする? ベッドの上でいいか?」
ほんとは嫌だけど……。兄さんに抱かれ続けてるほうがもっと嫌。
「……うん。いいんじゃない。で? 兄さんはどこに座るの?」
「俺は床でいい」
ほっとした。いつもは兄さんがベッドに腰掛けるから、回り道縁の隣に座るかと思った。
回り道縁が公言してるように、恋愛感情は二人の間には無いみたい。
それにしたって兄さんもよくやるわ。ずーっとお姫様抱っこしっぱなしなんて。
「お疲れさま優人」
「さすがに腕が痛ぇな」
「よく揉んで疲れをとっておいてね。帰りの分もあるんだから。なんだったら私が揉んであげる?」
恋愛感情はないとはいえ……。
この女! 私の前で兄さんとイチャイチャしやがって!
「それで縁先輩! 話って何ですか!?」
声を荒げて話を振ると、回り道縁は兄さんとイチャつくのをソッコーで止め、嬉しそうに私に向き直った。
「美人から話題を振ってくれて助かったわ。すごく大事な話だから言いにくくて」
それでイチャつかれてちゃ堪んないっつーの。
回り道縁はベッドの上を、腕だけで器用に移動してきて、私のすぐ傍までやってきた。
「美人。私は貴女が欲しい。私の夢を手伝って」
……え!? 何コレ、告白?
私、口説かれてる。
回り道縁は兄さんに恋愛感情がないとか言ってたけど、そっちの人ってこと!?
迫ってくる回り道縁。
嫉妬抜きで見る回り道縁は、ヤバイくらい綺麗。
「言葉が足りなさ過ぎだろうがっ!!」
変な雰囲気の私達を見ていた兄さんが、卓袱台をひっくり返しそうな勢いで、叫んでくれた。
びっくりした。だけどお蔭で、なんでか動揺した気分が落ち着いて、回り道縁のセリフを振り返れる。
大事なのは「私の夢を手伝って」のほうで、私が欲しいってほうじゃない。
――夢。
屋上で言ってたことの、続きってわけね。
私は回り道縁から少し離れ、呼吸を整えてから指摘する。
「兄さんの言う通り説明不足ね。夢を手伝ってって言うんなら、まずはその夢ってのが何なのか教えなさいよ。恥ずかしいんだが何だか知らないけど、教えもしないで手伝えってのは筋違いでしょ?」
回り道縁も私の顔をジロジロと見回してから、姿勢を整え喋り出す。
私と違いこの女は、姿勢を変えるだけで印象が変化する。
砕けた感じの女子高生らしい回り道縁から、飛び降りることを決意した時のような、大人びた印象の回り道縁に――。
「……そうね。美人が怒るのも無理ないわ。何一つ言い返せないもの。貴女って見た目より、ずっと知性的ね」
「逆に縁先輩は、思ってた以上に馬鹿なんですね。こんなカッコしてると大体の人は私のことを馬鹿だと思うみたいなんで、縁先輩もそう思うのは分かるんですけど、はっきり本人に伝えちゃうのはどうなんすか? 私に協力を求める以上、下手に出るもんじゃないんですか?」
「美人にははっきり言ったほうがいいと思ったからそうしただけよ」
回り道縁は、心底楽しそうに、笑っていた。
――ほんと、嫌な女。
「当たりです。私、ご機嫌取りとか大嫌いです。だからって正直に言えば許すってことも無いですけどね」
「あら残念」
「じゃ、話を戻します。それで縁先輩? あなたの夢って何ですか」
「首相になることよ」
………………え?
「……縁先輩? も一回言ってもらってもいいっすか?」
回り道縁は顔色も変えないで、恥ずかしげもなく要望に答える。
「首相になることって言ったの。総理大臣になることでもいいわよ」
えっ、と……。本気、なんだよね。ふざけてないんだよね? どうしよう、目が泳いじゃう。
ってか兄さん、こんな子ども染みた夢の手伝いなんてしてるの?
「美人。言いたいことがあるならはっきり言って」
「あ、そうっすね……。えーと、本気なんですよね?」
「嘘をついてどうするのよ」
だよね。さすがにここでふざけたりはしないわよね。奥に座ってる兄さんも、全然驚いてないし。
私はコホンと、一回だけわざとらしい咳払いをして、
「……縁先輩が本気で首相になりたいってーのはわかりました。首相になる方法なんて限られてるんで、そっちを訊くのは後回しでいいです。今訊かせて欲しいのは、何で首相になりたいか、です」
調子を狂わされた私と違い、回り道縁は淡々と答え続ける。
「そんなの決まってるじゃない。日本がオカシイと思うからよ」
「おかしい?」
私はようやく、回り道縁という女の心に、触れられた気がした。
「美人はオカシイと思わない? 私はいつも思ってるわ。政治はもちろんだけど、政治だけのことじゃない。社会もオカシイし、国民だってオカシイ」
「ちょっと待って! おかしいおかしいって連呼してるけど、何を基準におかしいなんて言ってんのよ? 少なくても私は、周りの人がおかしいなんて思ったこともないわよ」
三階建て校舎の屋上から落ちた時だって、ケロッとしてた回り道縁が、感情的に語る。
「オカシイわよ。国民が一番オカシイわ! なんで政治に無関心なの!? 政治不信なのは分かる! 汚職、税金の無駄使い、民自党から進民党に変わっても何も変わらなかったこと。これらの悪政を目にして呆れるのは分かるわ! だけどそれで、無関心になるっていうのはどういうことよ! 自分達が生きてく国の問題なのよ!? 先祖達が多大な犠牲を払って手に入れた民主主義国なのよ!? それでなんで無関心でいられるのよ!!」
力と感情の籠った回り道縁の弁舌を聞いて、私は自分が喧嘩を売られてる気分になっていた。
「無関心ってよく言われますけど……、そんなの国が悪いんじゃない! 学校じゃ政治についての勉強はあっても、政治とはどうあるべきか? なんて何一つ教えやしないじゃない!? 興味を持たせようともしないで、やれ若者は政治に無関心だとか、国の行く末が心配だとか、判断基準すら教えもしないで適当なことばっか言ってんじゃないわよ!! 悪くしてんのはアンタら老害どもだっつーの!!」
回り道縁に言っても意味は無いって分かってる、なのに全力で言い返しちゃってた。
「美人の言い分も半分は分かるわ。日本の教育は間違いだらけだったから。けどね。無知は罪なりって言葉、知ってるでしょ?」
「ソクラテスの言葉、だっけ? それが何よ」
「何よじゃないわよ。『無知は罪なり』この言葉こそ今の日本に起きてる諸問題、その大半の原因なのよ。政治っていうのは、知らなかったで済むことじゃない。知らなければいけないのよ。なのに大勢の人達は、そんなことすら分かってない。分かる!? 知らなければいけないことの判断が出来なくなってるのよ!? それがどんなに危険なことかさえ分かってないのよ!? 「知らなくたってなんとかなってるじゃん? ほら、知らぬが仏って言うだろ?」なんて言ってる輩すらいたわ! だいたいね! 知らぬが仏っていう諺を悪用してるのもオカシイのよ! 仏教には貪・瞋・癡の教えがあるんだから、知らないでいいなんて仏教が教えるわけないでしょ!」
「質問いいか?」
私と回り道縁がヒートアップしていく中、兄さんが恐る恐る手を挙げる。
「何!?」「何よ!?」
「貪・瞋・癡って、なんだ?」
☆
「へぇー。貪ることと怒ることと知らないことってことなのか。お前らよく知ってるなぁ」
兄さんの天然のお蔭で、私と回り道縁はすっかり頭が冷えた。
「日本女児たるもの当然でしょ?」
「私は前に小説かなんかで読んだのを覚えてただけ」
兄さんは回り道縁がノートに書いた、説明用の漢字を見ながら顎を擦って感心してる。
「俺からすればお前らの会話は理解するのがやっとだ。縁は首相になりたいなんて言ってっから詳しいのは分かるけど。美人が政治を語れるなんて知らなかった」
顔を上げた兄さんは私を見つめ、誇らしそうに笑顔を向けてくれる。
……誇らしく思ってくれるのは嬉しい。けど兄さん、そんなんでよく回り道縁をサポートする気になったわね……。
そもそもなんで回り道縁は、兄さんと私を必要としてるの?
「えーっと、縁先輩。なんで仲間が欲しいんです? それも、兄さんみたいな素人とか、こんな見た目の私を。集めるにしたってもっと政治家らしい家柄のいい坊っちゃんとか、どこぞの社長候補なんかのほうが良いじゃないんですか?」
回り道縁はキョトンとした可愛い顔で、二、三瞬きすると、
「それじゃあ今の政治家達と何も変わらないじゃない。私は日本を変えたいから首相になるのよ? 今の政治家達と同じことをして何を変えられるのよ?」
そう。迷わず意見を伝えてきた。
「簡単に言いますけど、縁先輩は首相になるのがどんだけ大変か、分かってます?」
「もちろんよ。全職業の中でもトップクラスで難しいわ!」
「なら。私達を起用するのは遠回りだって分かりますよね? 遠回りしてて首相になれるわけないって分かりますよね? 私達に時間を割いてる閑があるなら! もっと上の進学校に通ってるほうがマシだって分かりますよね!?」
誰もが納得してくれそうな理屈だと思う。なのに、
「そんなことは些細なことよ」
回り道縁はそれさえも、些細なことだと受け流した。
「はぁっ!?」
「美人の言い分も重々理解してるわ。だから大学ではそうするつもりよ。けどね、高校はそうじゃない。勉強なんて学校を頼らなくても自分の努力でいくらでも出来るもの。今は勉強なんかより、在野の賢人を探し出すほうがずーっと大切よ。政治家っていうのは何より人が大事なんだから! 私自身の人柄はもちろん! 私を支えてくれる優秀な人材! 私を信じてくれる大勢の人達! 政治家になる以上、人より優先するものなんてない! だから私は協力者を求めてるのよ!」
――ダメね。そんなことで夢なんて叶えられるわけない。
「確実性の高い道を捨ててまでやることじゃないって言ってるんです。そんなんじゃ、失敗するに決まってるじゃないですか」
「失敗することの何が悪いの?」
そう言った時の回り道縁は、無表情なんだけど逃げたくなるような凄みを放っていて、足がすくみそうになった。
「失敗しなかった偉人なんて誰一人としていないわよ。私は自分がどれ程のことをしようとしているかちゃんと分かってる。だから失敗だって何度もするでしょうし、夢を叶えられない可能性があることも分かってる!」
――何よそれ!
「だけど可能性程度じゃ、やらない理由にはならない! 私は私を信じてる!! 私は私がやろうとしていることが私にしか出来な」
「もういい!!」
私は回り道縁の言葉を全力で遮った。耳を塞いで、聞きたくないっていう意思表示をしながら。
「縁先輩。アンタは自分の夢に人を巻き込んでおいて失敗してもいいなんて思ってる。そんな奴と一緒に何かをやるなんて……。私には無理」
例えアンタが、どれだけ夢に近づいていようとね――。
☆
意外以外の何ごとでもなかった。
私がはっきりと協力を断ったら。回り道縁は「そっか」と残念そうに呟いて、兄さんに運ばれてさっさと部屋を出ていった。
もっと食い下がってくるかと思ってた分、拍子抜けしてしまった。
去り際に、「美人、またね」なんて笑顔で手を振ってたから、諦めてはいないんだろうけど……。
ほんと、変な女――。
私を助けたことを交渉材料に使わなかったし、兄さんを利用したりもしなかった。
政治家になりたいんなら、汚ない手段だって必要なはずなのに……。
って、何考えてんだろ。私にはもう関係無いことなのに。
助けてもらった恩があるから、兄さんまでは奪わないであげる。
兄さんだって、そのうち愛想を尽かすだろうし。
そんなことを考えて私は。窓際から回り道縁の車椅子を押して歩道を歩く、兄さんの背中を見送った。
エピローグ
五月の風は穏やかで、日差しは柔らかい。
どちらも気分を和やかにしてくれる、春からの贈り物。
こんなに素敵な天気の中、車椅子を押してくれる優人の表情だけは、凄く暗い。
さっきの美人との交渉が上手くいかなかったからかしら?
それで私が落ち込んでいるとでも思っているのからかしら?
「優人、暗い顔してどうしたのよ?」
優人は伏し目がちに答えてくれる。
「……その、なんだ。あんまり落ち込むなよ? 美人は昔から好き嫌いがはっきりしてて。ああやってズバズバものを言ってくるんだ。でも悪気はなねぇんだ。あいつは本当に嫌いな奴には、意見すら言わないから……」
やっぱりか。
「安心して。私は落ち込んでないてないわ。黙ってたのは次の策を練ってただけよ。だいたい、私の身勝手なお願いに一回でOKしてくれる人なんて、優人みたいなお人好しだけよ。美人のみたいな優秀な人材ともなると、一回で上手くいくなんて最初から思ってなかったわ」
似たようなものだけど、優人の表情は暗い様相から、不機嫌な様相へと変わる。
「それならそうと早く言えよ! ……無駄に心配しちまったじゃねぇか」
後半の台詞はぼそぼそ言ってて、よく聞き取れなかった。けれどなんとなく、想像出来ちゃうけど。
まったく、大きな見た目と違って可愛いんだか。
「なぁ縁? さっきの話だけどよ。政治を知らないと危険って言ってたけど、何が危険なんだ?」
優人には度々(たびたび)驚かされる。
優人の風貌は一見すると不真面目に思える。けれどその実は違う。
人の意見にはきちんと耳を傾けるし、分からないことは訊いてくる。
――私の理論を証明してくれる、誠実な被害者だ。
「縁? 聞いてるか?」
「ごめん。ぼーっとしてた」
「お前もぼーっとなんてするんだな」
何よそれ? 私をなんだと思ってるのかしら? ……迂闊だったのは事実だから、反論しないであげるけどね。
「それで? 優人が訊きたいのは政治を知らないことについての危険性の話よね?」
「ああ」
「簡単な話よ。作用には必ず反作用があるってこと。政治っていうのは、利益を説いて不利益は明かさないものなのよ。不利益を認めれば、たちまち支持率がなくなってしまうもの。仕方ない部分もあるにはあるけど、それで本当に良いと思ってるのかしらね……」
車椅子が止まってしまった。
「優人?」
どうしたんだろうと思って振り向くと、優人は腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
「悪い縁。その説明だと何も分からん」
☆
もうすぐ夕暮れになるところだけど、せっかく優人が知りたがってたから、公園でミッチリ教えることにした。
「例えばの、話だからね」
「それはもう分かった」
公園のベンチに優人を座らせ、目の前で私が講義をする。
先生っていうのは、こういう気持ちで授業をしてるのかな?
「じゃあ始めるわね。現在、憲法九条を改憲するかで揉めてるのは知ってるわよね?」
「ああ。自衛隊についての話だよな?」
「争点はね。実際は条文と現実が解離してしまってることが問題なのよ」
「条文?」
「知らない? 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。 国の交戦権はこれを認めない。よ」
私を見つめる優人の目は、死んだ人みたいな目だった。
「…………分かりやすく言うと?」
「日本は戦争しません。日本は軍隊を持ちません。日本は交戦しませんってことよ」
「……自衛隊は軍隊だよな?」
「軍隊よ」
「……おかしいだろ?」
「だから争点になるのよ。でもね。自衛隊を手放すことだけは絶対にしてはいけないことよ。これだけは忘れないで」
「なんでだよ?」
「実際に軍隊を持たなかった国が、蹂躙された歴史があるからよ。人類は成長してる。いつか軍隊が不要になる時代は来る。だけどまだ、軍隊を手放せるレベルではないわ」
私が感想を述べ終わると、優人は拳を口に当てて、しばらく考え込んでしまった。
「……コスタリカだ! あそこは軍隊を持ってないだろ!」
「その話はよく議論になってるけど、コスタリカは交戦権を放棄してないの。戦争になれば戦う権利は持ってる。そして何より、すぐ近くにはアメリカがいる。憲法が似てるから日本と比較したいのは分かるけど、地理の違いや国の歴史の長さが違うんだから、一緒にしちゃ駄目よ」
「コスタリカって戦えんのか?」
「戦うかはコスタリカの自由だから分からないわ。戦えるってだけ。コスタリカだけじゃないわよ? 永世中立国なんて言われてるスイスにだって、国民には兵役があるし、家には小銃だってあるのよ?」
優人は目を丸くして動かなかった。知らないのが『普通』の日本では、この反応は当たり前。
「私が説明しようとしてたこととは違う結果だけど、これで政治を知らないと危険って言うことが分かったでしょ? 日本の中には自衛隊を排除したいって考えの人もいて、私みたいに必要だって人もいる。忘れないで欲しいのは、自衛隊が必要だって意見は私の意見であって優人の意見じゃないってことと、自衛隊を放棄しようっていう思いは間違ってるわけじゃないってことよ。軍が不要な世の中なら、間違いなく私もそうするもの。けどね。隣には実行支配をしてくる中国がいて、近くには何をするか分からない北朝鮮もいる。軍隊の放棄なんて現実的ではないの。こういったことかが理解出来ないと、何かの拍子で世論が軍隊放棄に傾いた時、日本はどうなると思う?」
「政治を知らないと危険だって言うお前の言いたいたことは分かった……。よく分かった」
優人は俯いて、黙り込んでしまった。
今日の収穫は少ないものと思っていたけど、そうじゃなかった。
何となく、責任か何かで私に協力をしていたであろう優人が、真の意味で協力者になってくれた。
明日からは正真正銘三人になる。世間を動かせるギリギリの人数の三人に。
理想は後四人。そうなれば私の夢は、半分はクリアしたことになる。
「優人、今日はもう帰りましょう。最後にこれだけ言っておくわね。私が首相になりたい理由は、優人に今したようなことをするためなの。日本国民は素晴らしい。今は知らないせいでオカシイことになってるけど、誰かがこうやって教え導けば、本来の素晴らしい日本人に戻るのよ。そのために、私は首相になるの」
優人はいつもの調子で「ああ」と返事をして、来た路を戻っていった。
良い日だった。
私は車椅子を漕ぎながら、今日の成果を振り返る。
美人に種も植えられたし、優人は真の協力者になった。
そしてあの人に、感謝を伝えることも出来た。
片倉清人さん。
亡くなった存在なのに、未だに私を助けてくれているような、すごい人。
私は空に向かい、貴方のお蔭でこんなに立派になりましたよ。なんて報告をしてみた。
返事をしてくれたように、夕陽の方角から優しい風が吹いた気がした。
「明日も頑張るぞー!」