回り道縁という傑物 三
庭に転がる一つの石すら、計算されて配置してある立派な日本庭園。澄み渡る青空が似合うその日本庭園を、回り道縁は颯爽と早歩きで通りすぎていく。
庭園の先にある、豪華な日本家屋を目指して。
「ただいま戻りました」
そう言って縁が玄関の引き戸を開けると、折よく、母親が玄関を通りがかっていた。
縁は母親に向かい、両手を重ね深々とお辞儀をする。
「あら縁さん。お帰りなさい。今日は随分とお早いお帰りね」
実の娘だからこそ、華やかな着物姿が似合う母、回り道泉の口調は厳しい。
そんな厳しい口調の中、縁は平然と頭を上げる。これが日常とでも示すかのように。
「縁さん。その場で結構です。今日の成果を報告なさい」
泉は縁を広い玄関に立たせたまま命令する。
縁はそれすらも平然と受け止め、泉の鋭い視線に目を合わせ、勝ち誇った顔で命令に応じた。
「はい、お母様。お父様が残してくれた課題通り、とはいきませんでしたが。本日面会した二名は、有望でした」
泉は能面のような無表情を変えず、「そうですか」と告げると、長い廊下の奥へ足音を立てずに去っていった。
縁は泉が部屋に入ったのを確認し、靴を脱ぎ下駄箱へ収納してから、慎重に玄関を上がった。
いつ泉に見られてもいいように、一つ一つの所作に注意を払いながら。
そんな状態をキープしつつ、縁は泉とは違う廊下の奥へと進む。突き当たりのドアを開け、整理整頓が行き届いた広い部屋の中へと入る。
縁は自室に着くや否や、服を乱雑に脱ぎ捨て、下着姿で天蓋付きのベッドへと倒れ込んだ。
応接間を除けば、自宅で唯一の洋室。それが縁の部屋だった。
母の住む本宅とは違い、縁が自由にしていい、たった一つの離れにある部屋だ。
例え裸であっても、この部屋の中でだけは泉に文句を言われない。だから縁は無防備に、
「片倉優人と……片倉美人……か」
そう一人言を発し、うつ伏せのまま眠るように今日の出来事を振り返った。
☆
縁はガラス越しに見た片倉美人を、優人の言った通り、美人だと思った。
特に脚が綺麗で、羨ましいと思ってしまった。
長くて細くて無駄がなくて、機能美すら感じる素敵な脚。
縁自身、親に感謝出来るくらい、立派な五体をもらっている。
だから自分より綺麗な人を見ても、素敵な人。格好いい人と思うだけだった。
女性の美貌というものが、時代や周囲の思惑により、いくらでも変化するもの。
そう、認識していたのも大きいのだろう。
――だというのに。
美人を、――羨ましいと思った。
……私もまだまだね。美への欲望なんて切り捨てたはずなのに。
縁は人知れずテーブルの下で、爪が食い込む程、強く拳を握っていた。
コンコンと、美人が呆けている優人に向かってガラスを叩く。
美人は優人がはっとしたのを確認すると、厳つい男達でさえ怯んでしまいそうな睨みを効かせながら、親指一つで『表に出ろ』と指図していた。
「妹のお怒りじゃー」
優人が笑っているのか呆れているのか、判断が難しい表情を浮かべながら一人言を言う。
「ねぇ優人。なんで美人ちゃんは怒ってるの?」
一人言を聞かれたのが恥ずかしいのか、優人の顔が赤くなる。
「よく分かんねぇけど……。俺が誰かと遊びに行くとたまにこうなる」
「誰か? 誰かって屋上にいたあの二人でも?」
「あいつらの時はないな」
返答を聞き、縁はジッと美人を観察する。
相変わらず優人を強く睨んでいたが。よく観察してみると、愛情の裏返しのようにも感じられた。
その証拠に。
縁の視線に気づいた美人の表情は、感情を持たない機械のように冷たかった。
花顔柳腰とさえ言える程美人な分、美人の冷たい表情が、縁の背筋を震わせた。
なるほどね。こんなに温度差があるってことは、美人ちゃんは多分……。
「ねぇ優人。美人ちゃんが怒る時って、女の人がいる時じゃないの?」
「ん? あー。言われてみればそうかもな」
初めこそ狼狽えていた優人だったが、すっかり落ち着きを取り戻していた。
ゴッゴッ。
割れるのではと心配になる音を立て、美人がガラスを叩く。
「お店の迷惑になっちゃうわね。優人は先に出てて、私もお会計を済ませたら行くから」
優人の返事を待たず、縁はレジに向かった。
縁が店主に謝り、支払いを済ませ店を出ると。
大通りであるにも関わらず、早速言葉の暴力が聞こえてきた。
急ぎ聞こえてきたほうへ視線を向けると。
駅前程では無いとはいえ人通りが多い中、美人は優人の胸ぐらを掴み、口喧嘩を初めていた。
「いいご身分ねクソ兄貴! あの時は兄さんの影響だって言ってたけど、本当は彼女が出来たからだったってわけ!?」
……優人の妹とは思えないわね。
縁はそう思いながら、二人の傍に近づいていく。
「違う……。縁は関係無い」
優人は反論こそするが、両手を小さく上に挙げ、負けを認めているような体勢だった。
「違わねーべや!」
そんな優人に美人は、容赦なく東北訛りを強め、兄の首をガクガク揺らす。
縁は頬に人差し指を添え、二人のすぐ傍で助けるべきか悩んでいた。
美人ちゃんの感情はさておき、これは兄妹喧嘩の範囲内、助けるべきなのかしら?
……優人も助けてって感じじゃないし。……うん! もう少し見守りましょう!
縁がそんな結論を出していたとも知らず、頭に血が上ってしまった美人は縁の存在を忘れ、口喧嘩を続けた。
「彼女なんだべ!? でねっけあんな仲良ぐしねべや!」
「だから違うって」
「ほでなぬ!? 言ってみろ!」
「……昨日仲良くなった、クラスメイト?」
「ほんなんでデートする馬鹿どこさいんのや! 嘘つぐならもっとますな嘘つげ!」
美人と優人の口喧嘩には、方言が多用されている。
自分が羨ましいと思った美女が、祖父母並みに強い東北訛りを使う。
その光景は、縁の固く閉ざした唇と全身を小刻みに震わせ、
「ぶふっ!」
吹き出せた。
「あぁっ!」
縁の口から漏れた声を聞き、美人は目標を変えた。
「……あんた。何笑ってんのよ」
殺人経験さえ有りそうな強烈な眼差しだった。
縁は背筋に冷たい感覚を覚えたが、
「ごめん美人ちゃん! 悪気はなかったのよ!」
そう言って半笑いになった顔を隠すよう、両手を合わせ馴れ馴れしく謝る。
ブツンと、美人の額から、ブラウン管のテレビの主電源を消したような音がした。
「……そうよね。オカシイと思ったんだぁ。兄貴がデートなんて出来るわけがないだからさぁ。あんたね! あんたが悪いのね!」
「うわっ! 凄っ!」
美人からの強烈な殺気を感じた縁は、呑気に袖を捲って、鳥肌を確認した。
「上等よあんた!」
美人はストレスで唇を痙攣させ、優人から手を離し、縁の細い首を目掛けその手を伸ばす。
「止めろ美人!」
男らしい低音の声。
声とともに、美人の手が目の前でぴたりと止まった。
規則正しい指紋の渦が、くっきり見える距離で。
縁は身動ぎ一つせず、その指の隙間から、恋する乙女のようになった美人を凝視する。
優人は縁に掴みかかろうとする美人を止めるため、脇の下から右腕を通し、抱き締めるようにその身体を引き止めていた。
しっかと、掴みやすく育っていた、妹の乳房を握りながら。
「どこ触ってんのよクソ兄貴!!」
嬉しさと恥ずかしさが混ざり合ったような赤面顔の美人は、優人に対し、弧を描く一本背負いを仕掛けた。
優人の身体が固いアスファルトの地面に叩き付けられ、反動でジーンズのポケットから、スマホや財布が飛び出した。
人が投げられるという非日常を目にし、今までは傍観するだけだった通行人達も、さすがにざわざわと騒ぎ出した。
騒ぎに気づいた美人は、ようやく冷静になった。
「ご、ごめんなさい兄さん」
「イテテ。……まぁ、大丈夫だから気にすんな」
優人は腰を擦りながら立ち上がり、通行人達に無事を伝えるよう、苦笑いを浮かべ何度も会釈をした。
優人の行動を見て安心したのだろう。通行人達はそれぞれの目的地へと散っていった。
「はいコレ。本当に受け身が上手なのね」
通行人が去ったことで、縁が両手を使い、拾っていたスマホと財布を優人に差し出した。
「……普通は大丈夫? って心配するもんじゃないのか」
優人はため息吐きつつ、スマホと財布を受け取った。
「ちゃんと受け身を取ってるととろを見てたもの。無事が分かってるなら訊く必要ないでしょ?」
「へぇへぇ。聞いた俺が馬鹿だったよ」
「何よその態度! ……だけど。庇ってくれたお礼は言わないとね。ありがと優人」
縁の爽やかな笑顔の前に、優人は恥ずかしそうに、口をつむぐことしか出来なかった。
「それじゃあ今日は解散にしましょ。美人ちゃんも私とは話せる状況じゃなさそうだしね」
言われ、優人は振り向き、後ろにいる美人の様子を窺う。
「……だな」
美人は拳を震わせ、縁を猛烈に睨んでいた。
「はぁ……。美人は俺が宥めておくから、縁は先に帰っててくれ。こんなことになっちまったけどよ。今日は楽しかったぜ」
「私もよ。二人に会えて良かったわ。じゃ。美人ちゃんのことよろしくね」
縁は肩越しに軽く手を振り前を向くと、一度も振り返らずに二人の前から姿を消した。
☆
縁が目を覚ますと、太陽が刻を教えくれるように、部屋の中が赤く染まっていた。
今日の出来事を寝そべり振り返っているうちに、下着姿のまま眠っていたようだ。
縁はベッドからすくっと立ち上がり、用意してあった紅梅色の着物に袖を通す。
着替えを終えるとベッドに腰掛け、スマホを手に取り電話をかけ始めた。
〈は、はい! 今宵です!〉
電話の相手は、あどけなさが残る可愛らしい声の持ち主だった。
「あ! 今宵! 相談したいことがあるんだけど、今って相談してもいい?」
〈う、うん。いいよ縁さん〉
「ちょっと今宵! 呼び捨てにしてって言ってるでしょ!?」
〈で、でも。あたしなんかが縁さんのことを呼び捨てなんて……〉
「何言ってるのよ! 私より今宵のほうが凄いんだから、呼び捨てにするのは当然でしょ?」
〈で、でも〉
今宵の言葉を皮切りに、縁の声質が変わった。全てを包み込むような、暖かくて柔らかい声質に。
「今宵。でもは禁句」
〈あっ! ご、ごめんなさい……〉
「『でも』は夢の殺し屋。『でも』は言い訳を探し出すための最初の言葉。『でも』が恐怖を連れて来る。そしてその恐怖が。今宵の大切な才能を駄目にしてる。今宵は凄いのよ。貴女の代わりだけは、世界の何処を探しても絶対に存在しない。もっと自信を持って今宵」
〈う、うん。ごめんね。あたし頑張る。自信をつけるために、ゆ、縁を、呼び捨てにする〉
「うん!」
〈そ、それで縁! 相談って何?〉
「実はね。例の件、予定より早く事が進んじゃってて、二人も有望な人材を見つけちゃったのよ!」
〈そ、そうなんだ! そ、それで、どんな人達なの?〉
「その二人は兄妹でね。片倉優人と美人って言うのよ。ゆう」〈優人と美人!?〉
今宵が突然、縁の言葉を遮った。
「どうしたの今宵? 二人と知り合いなの?」
〈う、うん! あ……、でも、お互いに面識はないんだ。あたしも人づてに聞いてただけだから……。だけど、もしあたしの聞いてる通りなら、二人は絶対必要だよ!〉
「今宵にそこまで言わせるなんてね。詳しく聞かせて頂戴」
☆
眠るには最適な静かな夜だった。
優人が一日の疲れを癒すため、自室の布団に入り眠る準備をしていると、LION独特の着信音が聞こえてきた。
「誰だ? こんな時間に」
布団からもぞもぞと手を伸ばし、スマホを手に取り画面を確認する。
「は!?」
画面に表示されていた名前はは、登録した覚えのない人物。
――回り道縁だった。
「も、もしもし?」
〈出てくれる辺り優人らしいから確認する必要もないんだけど。貴方は片倉優人君でお間違いありませんか?〉
「縁! お前! いつの間に!」
〈いつの間にって……優人が携帯を落とした隙によ〉
「平然と言うな!」
〈ごめんなさい。手伝ってくれるって言ってたから、連絡先くらい交換しててもいいかと思って登録しておいたんだけど。迷惑だった?〉
優人は上体を起こし、後頭部をボリボリ掻きながら、
「……迷惑ってことはない。手伝うって言ったのは嘘じゃないからな」
〈ならどうして優人は怒ってるの?〉
「怒るだろ。お前は女なんだから。俺がお前のIDを悪用するような奴だったらどうすんだよ」
縁から返事は無く。遠くからクツクツと笑い声が聞こえてきた。
「おい縁?」
〈……ごめんなさい。優人が予想以上に善人だったから、可笑しくって〉
「馬鹿にしてんのか?」
〈違うわよ。優人は素敵だってことよ〉
優人はしかめっ面になりながら頬を赤らめるという、難易度の高い表情のまま沈黙する。
〈それじゃあ夜も遅いし、本題に入らせてもらうわね〉
「あ、ああ……」
〈美人ちゃんと仲直りがしたいの〉
優人は頭を抱え込んだ。
「それは……無理だと思う。あの後ちゃんと俺とお前の関係とかデートになったいきさつとか説明してみたんだけどよ。そしたら美人のやつ、お前には何か裏があるって言い出してさ。最終的にはあの人とは二度と関わるなって言ってたからなぁ」
〈そのくらい想定してたから大丈夫よ〉
自信に満ちた声で縁は続ける。
〈美人ちゃんにはこれだけ伝えておいて、次の登校日。私は誰よりも早く学校に行って待ってるって。それじゃあ優人、おやすみなさい〉
「それじゃあっておい! 縁!」
返事も聞かず、縁は一方的に通話を終わらせていた。
眉間に皺を寄せ舌打ちをする優人だったが、起き上がり律儀に行動を開始した。
優人は廊下をはさんで向かい合わせになっている美人の部屋へ赴き、ドア越しに用件を伝えた。
「美人? 起きてるか? 今、縁から電話があってさ。今度の登校日に、朝一からずっとお前が来るのを待ってるってさ」
優人がその場で返答を待っていると、バスンッと、ドアに何か柔らかいものを投げつけたような音がした。
リアクションを取ってくれたことで、話が伝わったと解釈した優人は、部屋に戻り眠ることにした。
☆
白桜高校はGWの間にある平日を、登校日として扱う。
今回のGWは一日だけが登校日ということもあり、縁が自分の教室に向かう途中、生徒とは誰一人として出くわさなかった。
縁は一人だけの教室で姿勢を正し、静かにその時を待つ。優人と屋上で出会った時のように、ぶ厚いレンズの伊達眼鏡を掛けながら。
予想より、美人の到着は早かった。
廊下から力強い足音が聞こえると、教室の後ろのドアが勢いよく開かれた。
「へぇー。マジにいるんだ」
美人は腕を組み、先輩の縁に、傲岸不遜な態度で言い放つ。
縁は立ち上がり、正面から美人を見据え、
「美人って呼んでもいいかしら?」
「好きに呼びなよ。私もあんたことは縁って呼ぶから」
「私のほうが先輩だから、出来ればさん付けくらいはして欲しいんだけど。……まぁ、今から喧嘩するんだし、取り合えずはそれでいいわ」
喧嘩という言葉を聞き、美人は思わず驚いてしまった。
「……へぇー。少しだけ見直したよ。先輩」
先輩と呼ばれ、縁は柔らかく微笑んだ。
「教室だと先生に見つかるかも知れないし、屋上に行きましょう」
縁は眼鏡を取り外し机に置くと、美人の真横をスルリと通り抜けていく。
「それにしても。美人ってかなり美人なのにサロペットスカートの制服は似合わないのね」
さらっと、美人が気にしていることを言いながら。
「……上等」
二人は殺伐とした空気を纏い、屋上へと向かっていった。
☆
優人は早く起きるつもりだったが、いつも通りの時間に起床してしまった。
「やっちまった!」
大急ぎで身支度を終え、母親がいるであろう台所に向かう。
「母さん! 美人が学校に行ったかって分かる!?」
「ええ。あたしが起きた頃に出ていったわよ」
「分かった!」
優人はテーブルに置いてあった目玉焼きを大きな口に押し込み、咀嚼しながら玄関に向かい、靴を乱暴に履いて家を出た。
☆
五月だというのに屋上の風は強く、二人の肌に寒さを刻んでゆく。
けれど二人は寒さを意に介さず、至近距離で胸を張り合った。
「随分と準備が良いのね先輩。まさか鍵まで用意してるなんて思わなかった」
美人は高い身長を活かし、文字通り縁を見下しながら言う。
「校長先生とは仲が良くてね。屋上で起こることの全責任を私が受け持つという約束をしたら、快く鍵を貸してくれたのよ」
縁は嬉しそうに微笑みながら、美人を見上げる。
「何、自慢?」
「そうじゃないわ。ここで何が起きても貴女は退学になんてならないから、安心しなさいって意味よ」
「やっぱり権力アピールの自慢じゃない」
視線を交わす二人の間には、見えないながらも激しい火花が散っていた。
「さて、と」
ふいに縁が視線を逸らし、黒く長い髪を風に靡かせ後ろを向いた。そのまま大きく三歩歩き距離を取ると、腕を組んで自信満々に振り返った。
「私、暴力って大嫌いなの。だから可能なら話し合いで解決したいんだけど。どう?」
美人は後頭部を乱暴に掻く。その姿は見た目こそ似ていないが、優人にそっくりだった。
「今更何言ってんの? あんただって喧嘩って言ってたじゃない」
「私がしたいのは口喧嘩よ」
「そんなの屁理屈よ!」
「うーん、やっぱり駄目か。じゃあこれだけは教えて。貴女の優人に対する愛情って兄としてのものなの? それとも、男としてのものなの?」
その質問を聞いた瞬間、美人の目付きが暗いものへと変わった。
まるで縁を、倒すべき敵として認定したかのように。
「……なんでそんなことを聞きたいのよ?」
「なんでって……問題を解決したいからに決まってるじゃない」
縁は腰に手を当て、前のめりに主張する。
「あのね。言っておくけど、私は優人を男してなんて求めてないの! 私は優人を気に入った。だけどそれは、私の夢を叶えるための人材として必要だからなのよ。そしてそれは、貴女もよ!」
「何わけ分かんないこと言ってんのよ!」
「いいから黙って聞く!!」
縁の意味不明な気迫に負けてしまい、美人は一歩だけ後ろに退がってしまった。
「分からないなら簡潔に言うわ。つまり、貴女と優人は私にとって必要なの。だから貴女の問題を、ううん。間違いを正させてもらうわ!」
縁は貫くように人差し指を美人へ突き付ける。
「マジで何言ってんのよアンタ。間違い? 間違いって何よ? 何分かったようなこと言ってんのよ? 分かるわけない……。アンタになんて分かるわけない! アタシがどんな思いで兄さんを! 兄さん達と育ってきたかなんて、アンタに分けるわけないでしょ!!」
ヒステリックに叫ぶ美人を、縁は冷静に言い返す。
「分からないわ。美人が教えてくれないんだもの。分かるわけないじゃない。第一、分かりたくもないわ」
縁は酷く冷たい目をして言い切った。
激しい怒りを露にしている美人でさえ、冷たさを感じてしまう程に。
「貴女。優人に彼女が出来ないよう束縛してたでしょ?」
縁の言葉に、美人は唇を噛み締める。
「あの後色々と調べてみたのよ。そうしたら優人への告白を貴女に邪魔されたって人が見つかったわ。これって答えのようなものよね」
美人は何も言わず、ゆっくりと瞳を閉じた。
「何も言わないなら勝手に続けさせてもらうわね。私って人の気持ちが分からないの。だけどその分、分析するのは得意なのよ。だから貴女がどうして優人を好きになったのかは、分からない。だけど貴女が優人を好きになったらどうなるかは、簡単に分かってしまうの。……優人の性格上、妹の貴女は、絶対に恋人として受け容れてもらえない。貴女にだって分かってるんでしょ? だから優人を束縛して、誰にも奪われないようにしてたんでしょ?」
美人は黙り込み、しばらく動こうとしなかった。
「……そうよ。その通りよ」
やがて、ゾンビのようにふらつきながら、
「全部アンタの言う通り。人の気持ちが分からない、クソみたいなアンタのね」
縁に襲いかかった。
縁は暴力を嫌う。
だから暴力に立ち向かうため、自衛に最も優れている武道、合気道を学んでいる。
自分を襲ってくる相手にさえ、傷を負わせないで制圧するために。
縁の腕前はかなりのもので、道場の先生にも太鼓判を押される程だ。
そんな縁を目掛け、美人の長い手が無造作に伸びてくる。
縁は練習通り美人の腕に触れると、力の流れを読んで操り、屋上のコンクリートに転がすつもりだった。
「あれ?」
美人は練習や一般人と、力の流れが違った。
本来なら、美人の力の上に縁の力が上乗せされ、美人はバランスを崩し転んでいるはずだった。
「何あんた。暴力が嫌いなんて言っておいてしっかり合気道習ってんじゃん」
美人は縁がコントロールした力を即座に理解し、打ち消していた。
縁は思い出す。
優人を投げられなかったことを。
その優人を、美人が投げていたことを。
「貴女、天才なのね」
「よく言われる」
美人の腕を掴み、ギリギリ動きを止めることしか出来なかった縁。
縁に腕を掴まれ、止まられこそしたが圧倒的に有利な美人。
そして美人は、優人への想いを知られた以上、縁を無事に帰すつもりは無かった。
「ちなみに。私は柔術の出だから、殴ったり掴んだり投げたり極めたり何でも出来るから。頑張んなさいよ先輩」
宣言通り、美人は多彩に攻め立ててきた。
縁の襟元を掴んで投げ飛ばそうとしたり。顔面に思いっきり殴り掛かったり。腕を捕り、関節を逆に曲げようとしたりと。
多彩な攻撃を仕掛け、縁を屋上のフェンス付近へと追いやった。
技量は明らかに、美人が上だった。
だというのに。
縁は自分を守りきった。
華麗に。などとは口が裂けても言えるものではない。
泥臭く、ギリギリで防いでいた。
転ばされ。関節を極められかけ、小さな悲鳴を上げもした。躱すことも防ぐことも出来ず、思いっきり殴られもした。
それでも縁は立ち上がり、守り続けた。
追いつめているはずの美人が、精神的に追いやられる程に。
「……何なのよあんた! 何がしたいのよ!?」
痛い目に遭えば、口の達者な縁とはいえ泣いて謝り、今日の出来事は口を閉ざし続ける。そう、美人は信じていた。
「私もまだまだね。上には上がいるっていうのは承知していたつもりだったんだけど、こんなに差があるなんて思わなかったわ。しかもそれが、年下だなんてね」
美人は目の前の光景を疑った。
私は全力で痛めつけてる。だからコイツがもうやめてって懇願したり、憎んでくるなら理解る。
なのになんで! ――楽しそうなのよ!
美人の直感は正しい。
縁はにこやかに微笑み、この状況を楽しんでいた。
「えーっと、何がしたいのかだっけ? さっきも言ったでしょ。貴女も優人も私の夢を叶えるために必要だから、そのために貴女の間違いを正すって」
暴力に晒されているとは思えない口調で喋る縁に、美人は苛立ちから歯を食い縛る。
「……そこまで言うんなら聞いてやろうじゃない! 私の間違いって何よ!?」
縁は徐ろに美人へと接近する。
あまりにも落ち着き、あまりにも敵意を感じさせない動きに、美人は反応が出来なかった。
縁の暖かな両手が、美人の顔を優しく包み込んだ。
「美人の間違いはね。――愛されようとしたことよ」
慈愛に満ちた優しい声で、縁は言葉を紡いでいく。
「人にはね、愛する権利しかないの。愛される権利なんて無いのよ。それなのに美人は、優人の愛を求めた。愛されようとしてしまった。自分にだけは、その愛が向けられないことを知っていたから」
美人の表情が、弱々しいものへと変わっていく。
「……だったら、私はどうすれば良かったのよ……」
「美人は嫌がるでしょうけど、失敗するしかないわ。この場合は失恋ね。貴女は天才だから分からないでしょうけど、失敗なんて誰もが必ず通ることよ。恥ずかしがることもないし恐れることもない。失敗は敗北じゃない。最後に目的を果たすための、途中経過でしかないんだから」
言葉を聞いているうちに、美人はペタリと座り込み、縁に抱きつきその胸に顔を埋め、
泣きだした。
「そんなのやだ……。清人兄さんも死んじゃっていなくなったんだよ? それなのに、優人兄さんも失えって言うの?」
小さな子どものように、美人は縁に訴える。
「馬鹿ね。途中経過だって言ったでしょ? 優人が貴女を見放すわけないじゃない。寧ろ私だったら、あんなに優しいお兄ちゃんの妹になれたことを感謝するわ。だって優人なら、妹っていうだけでずっと愛してくれそうだもの」
バンッ! と力強く屋上のドアが開けられ、汗だくになった優人が現れた。
「何だよ、この状況?」
息を切らしながら、優人は異様な光景の二人に質問する。
「兄さん!?」
驚いた美人は、涙を隠しながら慌てて立ち上がり、背中から屋上のフェンスに激突した。
「ちょっと美人。逃げたら駄目……」
縁の瞳孔が限界まで開き、美人に起きた不幸を捉えていた。
激突したフェンスが、美人と一緒に空中へと倒れていく。
縁は咄嗟に美人の腕を掴み、その身体を支えようしたが、出来なかった。
そればかりか、自分も一緒に空中へと引きずられてしまった。
せめて美人だけでも! そう思った縁は、美人を屋上へ投げ飛ばそうとした。
「美人!! 縁!!」
投げようと振り返った瞬間、優人の大きな掌が伸びてきて、二人の腕をしっかと掴んだ。
美人と縁は三階立て校舎の屋上から落ちてしまい、寸前のところを優人に支えられ、二人並んで宙吊り状態になっていた。
ヘッドスライディングのように飛び込み二人の腕を掴み支えている優人だったが、引き上げようにも体勢が悪く、支える以外何も出来なかった。
縁はそんな優人を見上げ、淡々と質問する。
「優人、正直に答えて。引き上げられそう?」
「……悪い。無理だ」
苦悶の表情そのままの答えだった。
「そ。でも、一人ならいけるわよね?」
二人の視線が縁に集中する。
「何言ってんだお前!」
「何も言ってないわ。今から言うんだもの。優人、私の手を放しなさい」
「バカじゃねーのかお前! ほんとにお前は何なんだよ!!」
「もう! うるさいわね! ちゃんと助かったら説明してあげるわよ!」
「そーいうことを言ってんじゃねぇよ!」
「そうだったの?」
命に関わる状況だというのに、縁の態度は日常と変わらない。隣にいる勝ち気な美人でさえ、恐怖で震えが止められないというのに。
その上縁は、いつものように微笑む。
「優人、私を信じなさい。私は死なない。私には叶えないといけない夢があるんだから、死ぬはずないでしょ?」
優人は生唾を飲み込む。
「……本気なんだな?」
「勝算がないならこんなこと言わないわよ」
二人は静かに見つめ合った。
「兄さん!? 縁さん!? 二人とも何考えてんの!?」
「死んだら俺も死んでやる」
「結構よ」
その言葉を最後に、縁の身体は美人の隣から姿を消し、何かにぶつかることもなくアスファルトの地面へと、
落下した。
エピローグ
GWも終わり、白桜高校は何事もなく、通常の学校生活に戻っていた。
変わったことと言えば。
屋上のドアが誰も侵入出来ないよう、頑丈で新しいドアへと交換されたことだ。
加えて、立ち入り禁止の理由も明らかになっていた。
学校側も校舎が完成した後で知ったことだった。屋上のフェンスは脆く、人の重さを支えきれないということが、立ち入り禁止の本当の理由だった。
この件については登校日の朝にフェンスが壊れ、軽い話題にこそなりはしたが、それだけだった。
元々立ち入り禁止にしていたため、誰もいない屋上のフェンスが強風に煽られ壊れたところで、大きな問題にはならなかったのだ。
だから、彼女が注目を浴びている理由は、全く別の理由だった。
一つ。その女生徒の姿が長い黒髪にぴったりの容姿端麗であったこと。
一つ。その女生徒が車椅子で登校して来たこと。
一つ。その女生徒の車椅子を押している人物が、身長が高くて目立ってしまう男子生徒だったことだ。
「なぁ縁? 俺はどこまでお前を運べばいいんだ?」
周りの視線に耐えられない優人は、身体を小さくしながら車椅子に座る縁に訊く。
「何言ってるのよ優人。同じクラスでしょ? 教室までお願いね」
「階段はどうすんだ?」
「当然。お姫様抱っこよ」
そう言って縁は恥ずかしがる優人を眺め、遊んでいた。
☆
「兄さんの人でなし! 見損なったわ!」
三日前。優人に引き上げられた美人は、一番初めに縁を見捨てた兄を責めた。
「あのまま待ってれば誰かが気づいて助けに来てくれたわよ! それなら縁さんも死なないで済んだのよ!」
美人は何度も優人の背中を叩き、瞳を潤ませながら訴えた。
優人はそんな妹を無視し、屋上から落ちそうになるギリギリのところで横向きに座り、三階校舎の屋上から落下した縁を見つめていた。
落下地点からゴロゴロ転がり、綺麗な髪を振り乱し、仰向けに寝転がったままの縁を。
優人は、縁の言葉を信じている。
縁は死なないと言った。だから、必ず起き上がると信じていた。
「……兄さん」
優人の背中に、美人が抱きついた時だった。
縁の腕が親指を立て、突き上げられた。
☆
「……流石に無傷とはいかないわよね」
縁は屋上にいる優人へ無事を伝えると、ぐったりしたまま呟いた。
全身を動かし、両脚が動かないことが分かった。
「両脚とも折れてるわね……」
首を上げ自分の脚を覗いてみると、関節が曲がらない方へと曲がっていた。
「五点着地、上手くいって良かったわ」
縁は地面へ衝突する際、パルクールというスポーツ等で使用される、特殊な着地法を使用した。その着地法で身体に襲ってくる衝撃を、身体の五ヶ所に分散させ一命を取り留めたのだ。
両脚を骨折してしまったが、久しぶりの五点着地でこれなら上出来だと、縁は折れた脚に感謝した。
その後。縁は屋上から走って降りてきた優人と美人に手伝ってもらい、屋上での出来事が大事にならないよう配慮する。
優人と美人は縁の指示に従い行動した。
その間に縁は病院に行くのだが、縁の母、泉の自家用車で向かうという徹底ぶりだった。
☆
縁の徹底した情報封鎖が実を結び、屋上の真実を知る生徒は一人もいない。
その代わり。
生徒達の話題は、縁と優人の関係がどうなっているのかで持ち切りだ。
縁にとっては、どうでもいいことなのだけれど。
縁はもう、学校で容姿を変えるのをやめた。
本来の自分を晒け出し、人目を気にせず堂々としている。
元々、縁が自分を偽っていた理由は隠れるためではない。一人の教師を自主退職に追いやってしまった、自分の力の無さに対する、罰だった。
一年間、縁は同じ過ちを繰り返さないため、学んで磨いて己を高め続けた。
今回の事件をきっかけに、縁は自分を解き放つ。
そのための第一歩として、縁はもう一度、優人をデートに誘った。
☆
「これはデートじゃねぇ!」
長い上り坂の坂道だった。
優人はそんな場所を日差しの強い昼下がりに、縁が乗っている車椅子を押しながら、文句を言いつつ上っていく。
「優人って口は悪いけど。なんだかんだで私のお願いをちゃんと聞いてくれるわよね。ほんと、心配になるくらい善人だわ」
縁は身体を捻り、ニコニコしながら優人を見つめている。
「……そんなんじゃねえよ。お前の怪我は俺のせいみたいなもんだろ。だからだよ」
恥ずかしそうに喋る優人が、縁には可愛らしく思えた。
「優人。貴方の優しさは特別よ。誇っていいわ」
じんわりと、身体の芯まで温もりが伝わるような声で、縁は言葉を続ける。
「そんな貴方だから、私に力を貸して欲しい。私の夢を叶えるための、協力者になって欲しいの」
縁の表情から笑みが消え、真っ直ぐな瞳で優人を見つめる。
「……ちょっと待ってろ」
ただ事ではないと感じた優人は、坂道を上りきり、車椅子から手を放して縁の正面へと回り込む。
「それで? お前の夢って、なんなんだ?」
キラキラとした日差しの中、縁ははっきりと自分の夢を伝えた。
「首相になることよ」
優人は目を閉じ、何度も小さく頷いた。
縁がただの女子高生なら、優人は笑って、冗談か馬鹿だと思うだけだった。
出来ない。無理だと。相手にさえしなかっただろう。
「……断ってもいいのか?」
「もちろんよ。これは私の一方的なお願いだもの。私の怪我のことと、このお願いは別。嫌なら断っていいし、協力してくれたとしてもいつだって見捨てていい」
「破格の条件だな……」
縁は途方もないことを言っている。あなたの時間を無駄にして、勝てそうもないギャンブルを手伝ってくれと言ってるようなものだ。
それを分かっているのだろう。
だから自分の夢を語らず、可笑しな方法で協力者を探す。そうやって見つかった協力者にも、縁は強制したりはしない。
これでは協力者など、馬鹿以外いるわけがない。
優人は深いため息を吐き、自分を馬鹿だと思う。
「分かった。俺でいいんなら、力になる」
優人の返事に、縁は満面の笑みを浮かべる。
「ほんと!? ありがと優人!」
「ちょっ、待て! 縁!」
喜びのあまり、縁は優人に車椅子で突撃し抱きついた。
こいつなら、或わ。
そう思い力になると言った優人だったが、同時に、振り回される日々も予感せざるお得なかった。