回り道縁という傑物 二
「ふわぁーーーー」
敷地の広い木造二階建ての家。その家の住人である少女は、伸びと欠伸を同時にしながら、腰まで伸びた金髪を揺らしフラフラと階段を下りていた。
彼女こと片倉美人は、長身でファッションモデルのような体型をしている少女だ。
美人が寝むたそうに階段を下りると、その先にある玄関で、兄の優人を目撃した。
……へー、もう出掛けるんだ。
長袖のシャツと太もものほとんどを露出させたショートパンツという、ラフな寝巻き姿の美人に対し、優人はすぐにでも出掛けられそうな姿だった。
実際、すぐに出掛けるのだろう。玄関にある備え付けの姿見で、靴まで履いて身嗜みをチェックしているのだから。
美人はそんな兄を見つめ、違和感を察知する。
なーんか、いつもと服装が違うなー。
持ってたことにもビックリだけど、兄さんがMAー1ジャケットなんて……。
美人はそう思いつつも、素直に「何、そのカッコー?」とは、訊けないでいた。
訊けない原因は、美人が招いた兄妹喧嘩だ。
十五年一緒に育った兄のことだから、優人が喧嘩したことを気にしていないのは、その態度から美人は既に分かっている。
……分かってはいるが。喧嘩の後というのは、気安く話かけることさえ、なぜか難しくなる。
だから、美人は何も言えず、黙って優人を真顔で見続けるだけだった。
そんな美人の思いが通じたのか、ふと視線を感じ、優人は何か言いたげな妹の存在に気づく。
「……何だよ。まだ怒ってたのか?」
優人は美人の真剣な眼差しを、睨んでいるのだと勘違いした。
「は? 別に怒ってなんてないし」
優人の的はずれな一言は、美人の眠気と躊躇いを一瞬で吹き飛ばし、普段通りの自然な会話を成立させていた。
「じゃあなんで睨んでんだよ?」
「は!? 睨んでなんてないし」
「ふーん、そっか」
勘違いだと知った優人は、気持ち良くニカッと笑う
。
「っ!」
美人そんな兄を直視出来ず、悔しそうに目を逸らした。
ほんと敵わないなぁ。躊躇ってた自分が、バカみたい。
兄妹喧嘩のほとんどは、美人が引き起こしている。なのに、仲直りはいつも、優人からしてきてくれる。
学力もスポーツも優人を上回る美人だったが、それでも優人が兄なのだと、一番に思う理由だった。
美人は落ち着きを取り戻すと、先程とは打って変わって。遠慮なく優人へと近づき、弾んだ声で聞きたかったことを口にした。
「でさ、アニキ! そんな珍しいカッコしてどこ行くの?」
「あー……。ちょっと駅前にな」
僅かな時間だったとはいえ、優人の目が泳いでいたのを、美人は見逃さなかった。
――隠し事してる。
女の勘に従い、美人は尋問を開始する。
「一人? それとも……御剣先輩と?」
「……二人。でも孝じゃない。おんなじクラスの奴」
「へー、なんて人?」
「言ってもお前には分かんないって」
「へー……」
相変わらず、嘘が下手だなー。
けどまぁ、兄さんに女は近寄らないだろうし。
……エロ本でも買いに行くのかな?
己の答えに納得した美人は、尋問をあっさりやめた。
タイミングを見計らったかのように、優人の腕時計からピピッと電子音が鳴った。
「九時だな……。じゃあ行ってくる」
ガチャリと玄関のドアを開け、美人へ一度だけ手を振ってから、優人は外出していった。
「いてらー」
美人はヒラヒラと手を振り、玄関のドアが自然と閉まるまで、優人を見送った。
美人は陽気に鼻唄を歌い、軽やかに台所へ向かう。
「おはよー! 母さん」
「あら、おはよ!」
仲直りが出来てテンションが上がっていた美人以上に、母はテンションが高かった。
「どうしたの?」
「うふっ。優人に彼女が出来たみたいで嬉しくて」
「…………は?」
母の一言に、美人の顔が凍りつく。
「今日は初デートなんだって!」
「はぁっ!?」
☆
優人は昨日、半ば強引にデートの約束を取り付けられてしまった。
約束を守る理由は全く無い。
なのに優人は、律儀に千台駅内にある待ち合わせ場所、ステンドグラス前に来ているのだった。
何をやってんだろうな、俺……。
優人はステンドグラスから入り込む暖かな陽光を浴びながら、重いため息を吐いた。
GWも手伝い、駅構内はわらわらと砂糖に群がる蟻のように、人でごった返しだ。
優人は身長が高く、人混みから顔を出せる分、他の人達よりはまだ楽だった。
そんな人混みの中。まともなデートをしたことが無かった優人は、念のため待ち合わせ時間の十一時より三十分早く、ステンドグラス前に来ていた。
三十分。優人でも普段なら、嫌になるような時間だったが、服装の乱れや髪型を気にしている内にあっという間に過ぎていた。
現在。腕時計は十一時を表示している。辺りを見回すも、彼女の姿は確認できなかった。
しかし千台には、五分遅れてくるのが普通。というマイナールールがある。
あいつもそのタイプか。
そう思った優人が、再度腕時計を確認し、顔を上げた時だった。
「優人ー!」
人混みの中から、自分の名前を呼び捨てにする、魅力的な声が聞こえてきた。
優人が声のしたほうを見ると、白いセーターを着た腕だけがニョキッと伸びて、駅の外を指差していた。
腕の本体は人混みに飲まれ、視認することは出来なかったが、変わった行動をする時点で彼女に間違い無い。
ああ……あいつだ。
優人はあの腕が何を伝えたいのかを感じ取り、真逆の行動を取ることにした。
あの腕は恐らく、人が多いから外に出ようと伝えている。
自分は人混みにもみくちゃにされておきながら、優人を気遣った行動なのだろう。
だから優人も、強引にデートの約束を取り付けた女。回り道縁のために、逆の行動を取ることにした。
優人は人波を掻き分け、縁のものと思われる手を握る。そのまま手を引っ張り、自分の大きな身体を壁にして、その手の主を外へと連れていった。
「ぷはっ!」
優人に手助けしてもらい、駅から外に出られた縁は、開口一番に可愛らしい声を上げた。
「ありがと優人。身長が高いって利点ね」
ニコニコと、女子らしい姿で微笑む縁が、優人には輝いて見えてしまった。
長袖の白いセーターに藍色のスカートと黒いストッキング姿は、どこにでもありそうな服なのに、なぜか高級感がある。
ブーツと聞くと兵士の靴をイメージする優人だが、縁の履いているブーツは丸みがあって可愛らしい。
何より優人が心を奪われたのは、頭にちょこんと乗ったベレー帽だった。
優人は思わず、昨日屋上で出会った人物と、目の前にいる縁は別人なのでは? と疑った。
綺麗な黒髪に綺麗な顔。見た目は全然変わってないな……。
雰囲気か?。
優人的に言えば、昨日の縁はキツそうな美人だったが、今日の縁は可愛いと感じる。
服のせい?
いやでも、うちの制服は可愛いよな……。
などと、優人は口許に手を添えながら、しばらく考え込んでいた。
そんな優人を見ていた縁は、感想すら言ってこないことに我慢出来ず、
「ちょっと優人! 何か言うことがあるんじゃないの!?」
言い終え、ふわっとスカートを浮き上がらせ、一回転してみせた。
返ってきた言葉は、
「お前……実は双子か?」
☆
優人は可愛いものに目が無い。
同時に、自分の見た目も重々承知している。
ペットショップの子犬や子猫を眺めていようものなら、お前には似合わないだろ。という視線を向けられるような外見であることは、優人自身が誰よりも理解している。
だから、可愛い縁と一緒にいるのは不釣り合いだと、大きな身体が数ミクロン縮こまってしまう。
断れば良かった。
優人はいまさらながら、昨日の自分を恨んだ。
決して、ぶたれた頬が痛いからではない。
「もう一回だけチャンスをあげるわね?」
昨日と同じ雰囲気の、不適な笑みを浮かべながら、縁は再度一回転した。
「お前さ。この辺だって人が多いんだから、何回も回転したら迷惑だろ?」
☆
優人は先に歩く縁の後を追いながら、両頬を交互にさすり、昨日のことを思い出していた。
昨日。四月二十八日に起きた、放課後の教室でのことを。
「だから明日、私とデートをしましょう?」
縁の急な爆弾発言に、優人は「はぁっ!?」と大声を上げたかったが、ぐっと堪え冷静に対応した。
「デート? 俺とお前が?」
「そう言ったでしょ?」
嫌とか嬉しいとか以前に、意味が分からなかった。
屋上では自分の名前さえ覚えていなかったクラスメイトが、いきなりデートに誘ってきたのだから。
何かある。そう思ってしまう。
しかも相手は、問題児と噂される女子。回り道縁である。
見た目がどんなに綺麗であろうと、簡単にOKなどと言える人物ではない。
優人は可愛いものには弱いが、美人には強い。
「何が目的だ」
ストレートに物事を訊く。それが縁との僅かな邂逅で学んだ、なによりの縁対策だった。
縁は口許を緩ませながら、値踏みでもするように優人をジロジロと見つめ、「説明するから、まずは座ったら?」と言ってきた。
優人は教室に一歩だけしか入っておらず、入り口を塞ぐように立ったままだった。
優人は後頭部をボリボリ掻き、諦めたような顔で縁の元へ向かう。
縁は自分の座っている席の隣に座わってもらえるよう、椅子を引いて待った。
縁が座っている窓際の席こそ、優人の席であるにも関わらずだ。
優人は、縁の用意した椅子に腰を降ろし、背もたれを利用して頬杖を付きながら縁と対面する。
いきなりだった。
優人が座った途端に、ズイッと縁の顔が接近する。
「優人君。説明の前に一つお願いしてもいい?」
あまりにもパーソナルスペースを無視した行動に、優人は驚き、勢いよく椅子ごと後退した。
優人の反応に縁は「へぇー」と、小悪魔のような表情をしていた。
「ごめん。もうしないから戻ってきて」
体勢を元に戻した縁が、手招きしながら優人を誘う。
優人は顔を真っ赤にしながら舌打ちを鳴らし、素直に席へと戻った。
座る姿勢は逃げやすいよう、背筋を真っ直ぐにして。
「次は無いからな」
優人なりに、精一杯の抵抗を込めた一言だった。
一息だけ間を置き。
「……で。お願いって何だよ?」
優人の問いに、縁は足を組み、組んだ足の膝に手を置いてから返事をした。
「優人って呼んでいい?」
「……好きに呼んでくれ……」
優人は目を瞑り、俯いて首を左右に振った。
「ありがと優人! 私のことも縁って呼び捨てにしていいからね!」
「……分かったから、早く帰らせてくれ」
「それもそうね」
縁は足を組み直し、説明を始める。
「私は不良の知り合いが居ないから、不良の意見が聞きたいのよ」
なんだそれ?
「だったら俺じゃなく、孝かシゲに聞けよ」
縁は、頬に人差し指を添えながら、「屋上にいた二人のことね。どっちがどっちなの」と訊いた。
「細いほうが孝で、太ってるほうがシゲだ」
「ふーん。分かったわ」
分かった?
意外な一言に、優人が視線を上げると、縁とバッチリ目が合った。
――白い犬歯を見せながら、獲物を追い詰めていくハンターのように笑っている縁と、目が合ったのだ。
縁はそんな表情のまま、
「でもね。私は二人じゃなくて、優人がいいの」
そんな甘いセリフを、脳に直接響くような魅惑的な声で、囁いた。
優人の鼻の下が無意識に、だらしなく伸びていく。伸びきったところで感覚に気づき、優人は慌てて口許を手で隠した。
「どうしたの優人?」
縁は足を組み直しながら訊く。
「お前、何かしたか?」
「何のこと?」
縁は首を傾げ、キョトンとした表情で答える。
「ところで、優人は彼女っているの?」
なんともない、普通の声だった。
「……いねぇーよ」
「そ。なら安心ね」
何が安心なんだ? と、聞き返そうとした優人だったが。縁が足を組み直し、またも意識を、そちらに奪われてしまった。
あ……。
「何色だった?」
「……ピンク」
脳に直接響くようなあの声で言われ、優人は正直に答えていた。
顔面蒼白になっていく優人。
縁の健康的なパンツの色とは、真逆だった。
「ねぇ優人」
優人は頭の中が真っ白になり、別世界に旅立っていた。そんな優人を呼び戻したのは、他ならぬ張本人。ニンマリと笑う悪魔のような縁――。
ではなかった。
縁は少しも顔を歪めず、真剣な顔で呼び掛けていた。
「それで優人。私とデート、してくれる?」
優人は目を強く閉じ、深く、大きなため息を吐いた。
「断ったら……どうなる?」
「どうもこうも、何もないわ。私が損するだけ」
「……え?」
驚いて目を開けると、目の前にはやっぱり縁の顔があった。
驚き、逃げようとしたが、縁の瞳が後退を阻む。
脅そうとか騙そうといった、穢れが一つもない、純真無垢な瞳だった。
――力になってやりたい。
何故か、そう思わせる程に。
優人は再度、ため息を吐く。
「……分かったよ」
パァッと、縁という名の花が咲いた。
それを見た蒼白の顔は、血の気が一気に戻って、今度は真っ赤になった。
縁は立ち上がり「明日の十一時に駅前のステンドグラス前に集合ね!」
そう伝えると、縁はぶ厚いレンズの眼鏡を掛け、優人を置いて一目散に教室を出ていき、
「優人。助けてくれてありがとね」
廊下からそんなことを言い残し、帰っていった。
なんでお礼を言われたのか、優人には分からなかった。
☆
優人はようやく、違いが分かった。
昨日の縁はよく笑っていたが、目だけは笑っていなかった。それがやたらとキツそうなイメージを与えていたのだと。
それに引き換え今日の縁は、屈託の無い笑顔で、自然な笑みを浮かべている。だからこうも可愛らしいのだと。
「ここよ」
立ち止まった縁の目の前には、チェーン店ではない洋食屋があった。
看板に、トマトとにんにくの絵が描いてある洋食屋。
「美味い店なのか?」
「勿論。おすすめよ」
目を閉じ、ニンマリと笑う縁は、子どもみたいだった。
「お邪魔しまーす」
「は?」
店のドアを開けるや否や、縁は可笑しなことを口走っていた。
「いらっしゃい縁ちゃん」
物腰の柔らかそうな壮年の男性店主が、そんな縁を当たり前のように出迎えた。
縁はカウンターに駆け寄り。
「おじさん! 今日も腕によりを掛けて作ってくださいね!」
「はは。縁ちゃんには敵わないなぁ。いつものでいいかい?」
「お願いします!」
「そっちの彼もかい?」
「はい!」
「彼氏かい?」
「違いますよ!」
顔馴染みとすぐに分かる縁と店主の会話を横目に、優人は入り口のドアを閉め、昨日の教室ように立ち尽くすだけだった。
それに気づいた縁が、
「優人。奥の席に座ってて」
縁の指示に従い、優人は一人で奥の席に座り、二人のやり取りを眺めていた。
何十歳と離れているおじさんと、縁は友達のように会話をしている。
自分には出来ないであろう行為を見せられ、優人は少し、羨ましかった。
それにしても……なぁ。
優人の表情が、徐々に曇っていく。
縁は店主に手を振り、優人の待つ席に向かった。
「ごめんね。おじさんいい人だからつい話し込んじゃうのよ」
ペロッと舌を出し、スカートに気をつけながら、行儀よく席に座った。
「どうしたの?」
縁が訊きたくなる程、優人の表情は悪い。
片眉を吊り上げ、いかにも不満そうだった。
「ねぇ優人?」心配そうに聞いてくる縁から、優人は顔を背けた。
優人がこうなった理由は、持ち合わせが少ないからだ。
それなのに縁が、一品いくらするのかも分からないような店で、メニューすら見せず勝手に品を決めた。
それが自然と、態度に出てしまっていたのだ。
かといって文句を言えば、所持金の少なさがバレてしまうし、先程のように「デートなんだから女子の服装は褒めなさい!」と、説教をされそうだった。
何より優人は、古い家の男である。女の食事代は男が出す。そういうものだと教わっていた。
そんな考えの優人は、不満いっぱいの顔で、本日何度目かのため息を吐いた。
――ほんと、何やってんだろ。俺。
「優人!」
縁が、バンッとテーブルを叩き叫んだ。
驚き、優人が振り向くと。目と鼻の先に、怒った縁の顔があった。
少し動けば、キスさえ可能な距離に。
だというのに、縁は一切、動揺していない。
「不満があるなら言って!」
「……はぁ?」
不満を露にする優人に対し、縁は心から叱咤をする。
「『思い』なんてね! 言わない限り絶っ対伝わらないのよ! 以心伝心なんてのものは、親子でだって出来るものじゃないの! 辞書で調べてみなさい! 偶然の一致って書いてあるから! だから言って! 言われなきゃ分からない! 私の何がいけなかったの!? 私の何が不満だったの!? 私はちゃんと受け止めるから、だから言って!」
優人はしばらく、ポカーンと口を開けたまま動けなかった。
縁の勢いは凄く、昨日今日知り合った人間に、向けられる情熱ではなかった。
なのに。
縁は一生懸命、優人のために言葉を紡いでいた。
「ぷっ」
これが噂の問題児かよ?
優人は、昨日の屋上での出来事を振り返る。
縁はあの時も、孝とシゲを守っていたように思う。
職員室でも、縁は何も喋らなかった。
鍵が壊されたことも、煙草の存在さえも――。
優人は噂の問題児と、目の前の縁が、同一人物とは思えなくなっていた。
噂という下らないもの。そんなものに惑わされ、目の前の懸命な少女に怯えた自分が、なんだか無性にバカらしくて笑い出してしまった。
「なんで笑うのよ!」
笑いだした優人に、腕を組み納得いかない素振りを見せていた縁だったが、やがて優人につられ、縁も口許が綻んでいた。
「はー……。分かった。正直に話す」
☆
優人の意見を聞いた縁は、人差し指で目尻を押さえながら、黙り込んだ。
黙り込んでる間に、キンキンに冷えた水の入ったグラスが壮年の店主により持ち運ばれたが、縁は全く反応しなかった。
「優人君、でいいのかな?」
「え!? あ、はい!」
いきなり声を掛けられ、優人は驚きながら店主を見た。
「縁ちゃんはかなり変わり者だけど、根はとても良い子だから、助けて上げてほしい」
店主はにこやかに語る。
優人は「へ?」という、気の抜けた返事しか出来なかった。
それだけ伝えると、店主は店の奥へと戻っていった。
縁を助ける? こいつに助けなんて要るのか?
優人は店主の言ったことを考えながら、一気に水を飲み干す。
「ねぇ優人?」
優人が飲み干したグラスをテーブルに置くと、思考世界に飛び立っていた縁が、戻ってきた。
「なんだよ?」
優人は返事をしながら、縁の雰囲気や対面して座っている状況から、昨日の教室での光景に似ていると思った。
「貴方の意見は肯定してあげたいけど、どう考えてもオカシイわ」
こいつ! ずっとんなことを考えてたのか!?
「だってそうでしょ? 優人が女に奢られたくないって言うように、男になんて死んでも奢られたくない。そう思う女性だっているのよ?」
「そんな女、いるのか?」
優人は身を乗りだし、目を見開いて質問した。
そんな優人に、縁は表情を苦くして答えた。
「いるに決まってるでしょ? 優人って本当に同い年なの? 今までどんな女性と付き合ってきたのよ」
「誰とも」
あっけらかんと言う優人。それを見た縁は、眉から順番に次々と表情が歪んでいった。
「ちょっと待って……」
縁は優人に掌を翳し、眉間に指を添えながら、ぶつぶつと一人言を言い出した。
「不良って確か……不満が有るタイプとモテるためのタイプの二種類よね……優人は楽しいって言ってたから……モテタイプのはず……なのに付き合った女性がいない? あれ? でも優人って、私の扱い結構上手よね……となると……」
優人が苦笑いを浮かべていることにも気づかず、縁の一人言は続いた。
「うん。やっぱりそうなるわよね……。ねぇ優人? 二、三聞いてもいいかしら?」
店内に他の客が入ってきたところで、縁は一人言をやめ、話を切り出した。
「あ? いまさら何に遠慮してんだよ。不良の話を聞きたいなんて言って、人のことを連れ出しといて」
優人の言葉は悪いように聞こえるが、言い方が優しく、気にするなと言っているように縁は感じた。
「それもそうね」
縁は首を傾け、上目遣いに優人の顔を覗きこみながら、一人言の結論を口にした。
「優人。貴方不良じゃないでしょ?」
優人が顔色一つ変えずに「ああ」と頷いてから、縁は背を丸めながら、ずっと項垂れていた。
壮年の店主がご飯とスープ、白磁の皿に乗ったハンバーグとサラダをテーブルに運んで来ると、縁はようやく顔を上げた。
こうして、二人は無言の昼食を食べ初めた。
☆
優人は箸を使い、数分で米の一粒も残さず、食べ終えてしまった。
縁はナイフとフォークを使い、一口一口味わいながら食べていて、ようやく半分を食べ終えたところだ。
優人はそんな縁を、頬杖をつき、静かに眺める。
変な奴。
不良にこだわる理由も分からねぇし。そもそも何がしたいか分からん。
……よし。
優人は昨日学んだ。縁対策を実行した。
「なぁ縁? 俺からも質問していいか?」
スッと口からフォークを抜き、ハンバーグを飲み込んだ縁が、
「いいわよ」
「お前は何がしたいんだ?」
「不良の意見が訊きたかったのよ」
「そうじゃない。何で不良の意見なんかを聞きたいのかってことだ」
縁は黙ってテーブルに常備してあるナプキンで口を拭き、ゆっくりとその言葉を口にした。
「夢のためよ」
「夢?」
不良からの意見が欲しい夢? って、なんだそれ?
「夢って、なんだ?」
「夢は夢よ。将来は綺麗なお嫁さんになりたいって、子どもが作文に書くようなあの夢のことよ」
ますます分からん。
「具体的にお前は何を目指してるんだ?」
優人の質問に、深い意味は無い。ただ何となく、気になったから質問をしただけだ。
なのに。
縁はとても、悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね優人。教えられない」
優人の脳内で、「助けて上げてほしい」という、店主の言葉が何度も再生された。
そう思わせる程、縁は悲しげで、何かを『諦めてる』顔だった。
優人は自分でも分からない。
分からないが、イライラした棘のある言い方をしていた。
「なんで教えられねぇんだ?」
「優人には関係ないから」
ギリ、と歯ぎしりが聞こえる。
「俺が不良だったら教えたのか?」
「不良は意見を聞きたいだけ。だから優人が不良であっても、関係ない」
優人は舌打ちを鳴らし、腕を組んで椅子の背もたれに体重を預けた。
「ねぇ。何で優人は怒ってるの?」
優人も何故か分からない。
けれどとにかく、気に入らなかった。
縁が悲しそうな顔をするのが、気に入らなかったのだ。
「……教えねぇ」
「……そ、なら。おあいこね」
クスクスと、縁は笑った。
☆
「ごちそうさまでした」
両手を合わせ、テーブルに会釈をする縁。
それを見ていた優人は、育ちの違いというものを痛感させられた。
整頓され綺麗に並べられた食器。それが縁の食べ終えた跡だ。
それに対し、優人の食器は乱雑に置かれ、食い散らかしたという表現がぴったりの食後風景だ。
食器は、食後の珈琲を運んできた店主によって下げられた。
優人は、片付いたテーブルでゆっくり珈琲を飲みながら、屋上での出来事を説明した。
孝と重雄が、既に不良ではないことを。
二人は少しやさぐれていただで、自分と違いスポーツ推薦で入学した、剣道部と相撲部のエースなんだと。けれど、白桜高校が設立されたばかりということもあり、人数の少なさや設備の不十分さから、二人は実力を発揮できなった。それで不満が溜まって、不良行為をしてしまっただけなんだと。
そしてなにより、もうあんなことは起きないと、説明した。
あの時、屋上に現れた福田先生は、縁がいなくなった職員室で約束をしてくれた。
全面的に孝と重雄の問題に取り組むと、熱く約束してくれたのだ。
優人の説明を聞いた縁は、また項垂れた。
が、すぐに復活した。
「今回の回り道は、失敗かぁ」
両手で顔を覆いながら、縁は優人に聞こえないような小声で呟いた。
「何か言ったか?」
「何でもないわ」
姿勢を正した縁は、髪を耳に引っ掛け、珈琲を飲む。
コーヒーを飲むだけなのに、絵になるよな、こいつ。
優人の背後にあるガラスから、陽光が差し込み、縁は天然のスポットライトを浴びているようだった。
そんな好条件が重なったとはいえ、優人は自分の頭の正気を疑った。
何を考えてんだ俺は!
自動で流れだした縁に対する感想に、優人は耳まで真っ赤にした。
「何? スカートの中でも想像してたの?」
縁はそんな優人を楽しそうに見つめ、ニヤニヤしながら言ってきた。
「違ぇよ!」
優人は、この話題から逃げるため、別の話題を投げかけた。
「と、ところで、さっきの話の続きになるんだけどよ。なんで意見を聞きたいのが不良限定なんだ?」
縁はテストで満点を取った子どもみたいに、意気揚々と喋り出した。
「あのね。不良ってすごいのよ。行動力はあるし直感で動けちゃうし、敵味方の線引きが上手でその上あっさり覆しちゃうとか、つまり。生きることの天才なのよ」
「へ、へぇー。……でもよ。それならうちみたいな進学校じゃなくて、もっと偏差値の低い高校のやつらのほうがいいんじゃないのか?」
分かってないわね。という風に肩をすくめる縁。
「あのね優人。進学校の不良だから、私は一人で屋上に行けたのよ。そうでないなら、あそこまで上手く立ち回れなかったわ」
優人の手が、空中でコーヒーカップを支えたまま、ぴたりと止まった。
屋上での一件が、脳内で鮮明にフラッシュバックしたからだ。
蹴破ったかのような大音量を鳴らし、開かれたドア。
時間がないと言ったこと。
福田先生が来るのを分かっていたかのように、孝と重雄に煙草を拾わせたこと。
もしかして、あれは……。
「なぁ縁。屋上でお前がやってたことって、計算尽くなのか?」
「そうよ」
縁は真顔で、当然のように言い切った。
「そうよって……。どこまでが仕組んだことだったんだ?」
「先生が来てくれたところまでよ。その後の問題解決については、私の力じゃない。偶然よ」
言い終えた縁は、自分で問題を解決したかったかのように、鼻からフンッと息を漏らした。
「先生が来てくれたところまでなんて簡単に言うけどよ。先生はお前がいることなんて何も知らないみたいだったけど、それはどういうことなんだ?」
「相談とかお願いしたわけじゃないから。そうなるように仕向けただけよ」
「はぁ?」
「んー。簡単に言うとね。事前に職員室に行って屋上に関心を持たせておいて、屋上のドアを思いっきり鳴らして、ドアが開いていることを教えてあげたのよ。あとは私自身が職員室から屋上までの歩いた距離を、先生が走ったとして計算し直せばいいだけだから。……ね。このくらい簡単でしょ?」
「簡単でしょって……」
「あ、でも……優人は予想外だったわね」
「俺が?」
「覚えてない? 私、優人を――投げ飛ばそうとしたんだけど?」
言われ、優人の脳裏に、縁の腕を掴んだ時の光景が蘇った。
「そうだった! お前なんつーことしようとしてんだよ!」
「投げようとしたことは謝るわ。だけど仕方ないでしょ? あの時の私には、貴方達が何をしてくるか予想がつかなかったんだから、身を守るために先手を打つのは当然でしょ?」
「それは……そうだけどよ……」
「それに……優人は耐えた。屋上でも訊いたけど、貴方何者? 家に帰ってから優人のことを調べてみたけど、何もないのよね。自分で言うのもなんだけど、私の合気って道場でもかなりの腕前だって褒められてるのよ? 柔道部だからって防げるものじゃないわ」
優人は「んー」と、後頭部を掻きながら、
「俺んちって古い家系でさ。家に道場まであるんだよ。……で、俺は全然才能が無くて、小さい頃からいつも投げられてばっかりだったんだ。そしたら受けることだけはやけに上手くなってて、気づいたら受け身だけは、お前に投げられないくらい上達したってわけさ」
「ふーん」と。縁はどこか納得していない様子で、小さく頷いた。
☆
「さ。そろそろ出ましょ?」
縁の言う通り、食後の珈琲も空になってから、一時間が経過していた。
優人は財布を取り出し、「いくらだ?」と訪ねる。
「いいわよ。ここは私に払わせて」
そう言って縁は、優人がテーブルの上に取り出した財布を押し戻す。
「は?」
「優人が女に奢られるのが嫌だっていうのは分かったけど、今回デートに誘った目的の中には、お礼がしたいっていうのもあったのよ。だから、今回は私に払わさせて」
「お礼ってなんだよ?」
「職員室で私を庇ってくれたじゃない?」
「んなことで?」
「んなことって……。それだけじゃないわ。気づくのが遅れちゃったけど、屋上での行動だってそうでしょ? あれも私を守ろうとしてやってくれたことなんでしょ?」
喋りながら縁は、どんどん財布を押し返し、優人へ迫ってくる。
行動が見透かされていたことやら、楽しそうに迫ってくる縁の笑顔やらと、優人の心拍数はどんどん上昇していき、耐えきれなくなった。
「分かった! 分かったから寄ってくるな!」
「ふふっ。なら、私の勝ちね」
心底嬉しそうな、笑顔だった。
振り回されっぱなしの優人だったが、縁の笑顔をみて、優人は思った。
――楽しいと。
だから、
「なぁ縁。俺でよければ、不良の件、手伝おうか?」
「え?」
縁は、耳を疑った。
そのまま、信じられないといった表情で、優人を見つめた。
「……なんだよ?」
縁は顔をブンブンと振り回し、照れ臭そうに答える。
「「手伝おうか」なんて、言われたことなかったから、ちょっとびっくりしちゃって」
「そうなのか?」
「そうでしょ? 目的も分かんない人の手助けなんて普通はしないわよ。しかも、――問題児なんて言われてるやつなら、なおさらね」
「なんだそれ? 人を助けるのに理由なんていらないだろ? 助けたいって思ったら、助けるのが当たり前だろ?」
茫然と優人を見つめながら、縁は呟いた。
「……私、優人のこと誤解してたかも……」
「何か言ったか?」
「ううん。なんでもないわ。……それで優人? 手伝うって言うからには、何か理由があってのことなの?」
「まぁ。一応……」
優人は顎に手を添え、一呼吸おいた。
「今は不良じゃないだけど、一年間だけ不良だった妹がいる。それでもいいか?」
「優人の、妹?」
縁は優人の目線より、上のほうに視線を向け、聞き返した。
「……妹さんの見た目って、優人に似てるの?」
「いや全然。俺が言うのもなんだけどさぁ。美人って書いて『みと』って言う名前の通り、かなりの美人だ。つーか、親の容姿を考えれば、俺だけが仲間外れなんだよなぁ」
「ねぇ優人。その美人ちゃんって、身長高い?」
「ん? ああ、そうだな」
「髪、染めてる?」
「ああ。脱色しすぎて金髪みたいになってる」
「髪型はポニテ?」
「だな」
「うん。じゃあ間違いないか」
「何がだ?」
縁は人差し指を曲げ、第二関節で、優人の背後を指し示した。
「後ろの娘、美人ちゃんでしょ?」
優人は残像を残せそうな勢いで振り向く。
背後の窓ガラス越しにいたのは、腕を組み目をギラギラに光らせ、兄を見下していた妹。
片倉美人だった。