回り道縁という傑物
――『それ』を為さずにはいられない。
人は人が為さざるを得ないことをする。
終わりの見えない遠い道であろうとも。
その道の先に絶望が待っていようとも。
『それ』の為なら、人はどんな試練も乗り越えていき。
必ず『それ』を実現させる――。
三月。
暦上では、れっきとした春にあたる。
けれども東北の春は遅く、気温は安定していない。
それは東北最大の都市、千台市でも変わりはなかった。
冬なのか春なのかもはっきりしない気温に、街を行き交う人々の服装もはっきりしない。重ね着をした上にマフラーを巻いている人もいれば、シャツとジーンズだけで街中をふらつく人もいる。
そんな人々の中、暦通りの春を感じさせる、爽やかな装いをした一人の美女がいた。
シャツとネイビーニットベストのトップス、スキニーデニムにパンプスという出で立ちの美女だ。
彼女は強い意志を感じさせる大きな瞳に、真っ直ぐな鼻筋と色艶が良い大きめの唇という、綺麗な顔立ちをしている。
その上、スタイルも抜群に良い。
長い脚でスタスタと足早に歩く姿は、同姓から憧れられる程、様になっている。
穏やかな風が吹くと鮮やかに流れだす黒髪は、異性の目を虜にする。
長い髪と肢体に合うスマートな身体、なのに出るところはしっかり出ているという黄金比。
彼女は人目を自然と惹き付けてしまう、大人びた見た目をした美女ではあるが、彼女こと回り道縁は、まだ高校一年生の十六歳だった。
☆
高校一年最後の春休み。
縁はとある目的のために、千台駅前を彷徨いていた。細い手首に巻かれた腕時計の針は、昼の一時を指そうとしている。
駅前に来てから、かれこれ三時間が経過しようとしていた。
縁は三時間をフルに使い、目的を果たそうと歩き通しだったが、目的を果たせてはいなかった。
元々こうなることはわかっていたようで。
縁は途中で目的を変更し、今は一人でウィンドーショッピングに興じている。
けれどそれも、限界のようだ。
「今日も収穫なし、か……」
ポツリと、大きなショーウィンドーに映った自分の姿を見つめながら、縁はため息を吐くように呟いた。
帰ろう。
帰宅することを決めた縁は、数秒だけショーウィンドーに映る、自分以外の人達を見つめた。
沈んだ表情をしていた縁だったが、ガラス越しに街行く人々を眺め、活気を取り戻した。
縁は拳を握り「よしっ」と小さくガッツポーズをし、くるりと踵を返した。
振り返った直後、縁は限界まで目を見開いた。
――目的である人物が、自ら来てくれたから。
妖精と見紛う程の白い美少女が、縁の視界に飛び込んできたのだ。
一目見ただけで、瞼は支配されたかのように動かせなかった。
けれど縁は目を奪われながらも、頭だけはフル回転させ、瞬時に白い美少女の記憶を手繰り寄せた。
忘れたくても忘れられない、印象深すぎる白い美少女。
彼女は人通りの少ない路地裏から、後退りをするように、後ろ向きで歩いてきた。
だからだろう。通行人の多くが、白い少女のことをチラチラと見てはいるものの、近づこうとはしない。
白い少女の見た目も関係しているようだ。ただでさえ目立つ見た目で、後ろ向きに歩いてきたのだから。何かあると思うのは普通だろう。
けれど、縁は違った。
一切迷うことなく、白い少女に向かって、力強い一歩を踏み出していた。
縁は彼女のことを知っているが、彼女は縁のことを知らない。
さりとて縁は、気にしない。
白い美少女が縁を知っているかどうかなど、全く気にしていない。
相手が男性であろうと女性であろうと、泥棒であろうと警察官であろうと、国会議員であろうとテロリストであろうと。縁自身が『この人』と決めたのなら、相手のことなど考えず、無遠慮に話かける。
それが回り道縁の、一番迷惑な長所だった。
過去の経験から、誰だ? と相手を困った顔で硬直させると分かっていても、訊く。
何故そんなことをするのか? そう誰かに問われれば、縁は迷わず、こう答えるだろう。
「夢のためよ」と。
夢。
それは彼女自身の望みでもあり、父から受け継いだ願いでもあった。
余人ならまず諦めるであろうその夢を、縁は一切ぶれることなく維持し続け、努力し続けている。
今日。千台駅前に訪れたのも、遠大な夢を叶えるための大事な一つ、人探しにやって来たのだ。
縁が求める人とは、特定の人物ではない。
縁には無いものを埋めてくれる、変わった人を求めていた。
白い美少女なら間違い無い。
彼女は間違いなく、普通ではない。
想定の遥か上をいく――逸材だった。
☆
縁はウィンドーショッピングの傍ら、ふとガラスに反射した自分と、街の人々を見比べ思った。
皆、面白くなさそう。それに、気だるそうだし辛そう。
嫌そうな顔をして俯いている人ばっかりなんだもの。
縁の真摯な瞳には、そう映ってしまっていた。
縁には理解らない。
嫌な思いをしながら毎日を繰り返す人達が、縁には理解できなかった。
その日から縁は、理解しようとさんざん悩んだ。
けれど結局、共感さえできなかった。
縁は思う。
――誰だって、他人の気持ちは分からない。
なら私はどうするの?
心理学者にでもなる? 冗談じゃないわ!
あの人達だって、本当は分かってない。
膨大な過去のデータから当てはめて、分かったようにしているだけ。どんなに正確ではあっても、人の気持ちの全てなんて、分かってはいない。
なら、私はどうする?
答えなんて、いつも単純なもの。分かりたいなら質問すればいい。気持ちを知りたいなら、訊けばいいんだ!
中学生だったころの縁が決めた、今なお続く揺るぎない方針だった。
☆
縁に迷いはない。
自信に満ちた強い足どりは、荊の道でも止められそうもない。縁はどんどん、妖精のような白い美少女に近づいていった。
白い美少女が縁の存在に気づいた時には、肩を組める至近距離に立っていた。
縁は屈託のない笑顔を向け、優しい口調で喋り出す。
「初めまして。私、回り道縁っていうの。よろしくね! ……早速で悪いんだけど。貴女、何に怯えてるの?」
☆
宮義県千代市は、日本の政令指定都市の一つだ。
舞台は政令指定都市である千台から、隣にある富宮市の、新設されたばかりの市立高校に移る。
ここ、市立白桜高等学校は設立二年目を迎えたばかりの、真新しい進学校だ。
生徒数は新入生の二期生を合わせ、二百四十人。一期生である二年生はいるが、三年生は一人もいない。
白桜高校の校訓は二つ。古今融和と個性助長。けれど、入学した生徒達は、校訓など気にもしていない。
ただ一人、回り道縁という生徒だけは除いて。
縁以外の女生徒達の大半は、制服の可愛さが魅力で、入学を決めていた。
多くの女生徒が惹かれるほど、白桜高校の制服は珍しくて可愛らしい。サロペットスカートと呼ばれる服で、胸当てと吊りスカートが特徴の制服だ。
襟の広い白いシャツの上に瑠璃色のサロペットスカートを身につけ、襟に通った赤いリボンを胸元で結んでいる女生徒達の姿は、アイドルのように可憐だ。
女生徒の制服は類を見ないほど可愛らしい一品だが、男子生徒は紺色のブレザーと、どこの高校にでもありそうな平凡な制服だった。
新設されたばかりの白桜高校は、波乱から始まった一年目を乗り越え、まともな二年目を迎えたばかり。
なのに。
波乱の当人こと回り道縁は、新しい門出となる二年生になったことで、本格的に行動を開始するのだった。
四月二十八日
三階立て校舎の階段を上りきると、鉄製の頑丈そうな鍵の掛かったドアがある。そのドアには、でかでかとポスターが貼られていて、ポスターにはこう書いてあった。
「立ち入り禁止」
そのドアは屋上へ出るためのドアだ。
全生徒の目線に入るよう、大きく目立つように貼られた一枚のポスターの前で、一人の女生徒が腕組みをして立っている。
ビール瓶の底のような分厚いレンズの丸眼鏡を掛け、丁寧に編み込まれた一本の長い三つ編みが印象深い。
「委員長」というイメージがぴったりな女生徒。
彼女はポスターを見つめながら、思いを馳せていた。
屋上が立ち入り禁止になったのはイメージのせい。
たまり場になったり、もしかしたら飛び降りをされるかも知れない。っていう、イメージだけの問題。
だって白桜高校では誰かが飛び降りをしたことは無いし、それどころか、屋上に行こうとする人すらいなっかたんだから。
今日までは、ね。
思いを馳せながら彼女は、不適な笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。
☆
二時間前の休み時間のことだ。
次の授業は科学だった。
そのため彼女のクラスは、三階にある科学室へ移動しなければならなかった。
移動のタイミングは休み時間の間であれば自由なのだが、一人が動き出すと全員がぞろぞろと付いていき、二階から大勢で階段を上がることになった。
最後尾にいた男子生徒が、階段から廊下へたどり着いた頃合いに、列の真ん中にいた彼女の耳は、キィッという重い金属のドアが開く音を聞いた。
音源は上から聞こえた。
周りの生徒は話ながら移動しているからだろう、音を聞いたのは彼女だけのようだ。
急に立ち止まった彼女に、クラスメイト達は怪訝な表情を浮かべながら、追い越していく。
視線が次々と刺さる中、彼女は唐突に身体を反転させ、逆方向へと突き進んだ。
移動教室へ向かうクラスメイトからすれば、彼女は完全に浮いていた。が、彼女は蚊ほども気にしていない。
スルスルとクラスメイト達の脇を通り抜け、ぶつかることなく階段へとたどり着いた彼女だったが。
その顔はくしゃと歪み、とても不満そうだった。
走りたかった。不満に満ちた顔には、間違いなくそう書いてあった。
もう遅い。彼女が思う通り、階段を上がり屋上へと続く踊り場に来た時には、ドアは閉められ人の気配も何も無かった。
立ち入り禁止。
誰にでも分かるように、でかでかと貼られたポスターがあるだけだった。
彼女は額に皺を寄せ、再び不満を露にする。
このままドアを開け、屋上に出ようか悩んだあげく、クラスメイトの列に戻ることにした。
彼女は肩をがっくり落とし、とても残念そうだった。
科学室での授業は、茫然とする彼女に、何も授けられなかった。
屋上には誰が行ったの? そのことで、彼女の頭がいっぱいだからだ。
☆
昼休み。
彼女は授業が終わると同時に、昼食も取らず、ツカツカと早足に職員室へ赴いた。
三回ドアをノックし、音を立てないようゆっくりドアを開き、丁寧にお辞儀をしてから職員室に入った。
彼女は入り口から一番近くの先生に、柔らかな笑顔を向け質問した。
「先生、お食事中すいません。二時間くらい前に、誰か屋上に行きましたか?」
「……んー? 屋上には誰も行ってないぞ」
福田という二十代前半の若い先生は、弁当の卵焼きを頬張りながら、背後をちらりと確認するだけで言い切った。
彼女が質問してから福田が答えるまで、三秒とかかっていない。
理由は単純だ。
屋上へ出るためのドアの鍵は一つしかなく、三階建て校舎の一階にある、職員室にしか保管されていない。
鍵は今も職員室の奥にある窓際で、専用の壁掛けにぶら下がっている。
生徒が鍵を持ち出すには、名簿に名前と使用目的を記入した上に、先生のサインがいる。
名簿にいたっては長らく使用されていないため、壁掛け近くの棚に、埃を積もらせ放置されていた。
彼女の質問を受けた福田先生が、ちらりと確認するだけで即答するわけだった。
「ありがとうございました」
彼女は一本にまとめた三つ編みを、先生にぶつけるような勢いで頭を下げ、職員室を後にした。
廊下に戻った彼女の歩行速度は、さらに速度を増している。
既にフォームが違うだけで、走っていると言ってもいい。
風を切って歩く彼女の口許は、今にもニヤけそうだった。
彼女は職員室に、事実確認のために赴いたにすぎない。
屋上に誰かが出入りしたことなど、彼女は既に知っていたから。
☆
科学の授業が終わった直後、彼女は誰よりも早く教室に戻り。残りの僅かな休み時間を利用して、屋上のドアを調べたのだ。
そこで彼女は、ドアノブの鍵穴が削れていることに気づいた。
鍵ではない何かを差し込み、無理に開けでもしたのだろう。
彼女は身震いした。
このドアの先に、鍵をこじ開けるような生徒がいるんだと。
彼女は嬉しそうに、もう一度身震いした。
今すぐ突入しようかと思ったが、授業の合間の休み時間は短く、時間が足りない。
彼女は昼休みに行動を起こすと決め、高鳴る想いを無理矢理押さえつけ、その場を立ち去った。
彼女の頭脳は一連の流れから、犯人を不良だと決めつけていた。
――不良。それは、彼女が待ち焦がれていた人種だった。
☆
彼女は制服のサロペットスカートが捲れ上がるのを気にも止めず、胸を弾ませ眼鏡もずらしながら、待ちきれないといわんばかりに階段を駆け上がった。
階段を上り切り、深呼吸をしながら制服を正し、「立ち入り禁止」のポスターが貼られたドアの前で腕を組み、目を閉じてシミュレーションを始めたのだった。
脳内空間で最適解を得た彼女は、ゆっくりと目を開ける。
彼女はドアノブをがしっと掴み、その女性らしい身体からは予想も出来ないようなとんでもないパワーで、ドアを勢いよく開け放った。
爆音のような音を立てるドアの横で、彼女は憧れの人にでも会うかのように、嬉しそうに微笑むのだった。
屋上は彼女のイメージ通り、望んだ景色が広がっていた。
麗らかな陽気と爽やかな風に揺蕩う春の名残。
そんな詩のような風景の中に、彼等はいた。
が、彼らはこの風景に全く似合っていなかった。
三階建て校舎の屋上には、風が吹く度舞い上がる大量の桜の花弁と、向かい合ってヤンキー座りをしている三人の不良がいた。
彼女は分厚いレンズに瞳を隠しながら、三人の不良をくまなくチェックしていく。
茶髪にピアス、乱れた制服の着こなし、と校則違反は二つ。
だが、その程度では不良とは呼べない。
すん、と彼女は鼻から息を吸った。
彼女はさらにチェック箇所を広げ、視線を下に向ける。
決定的な法律違反を発見した。
外気という広大な空間にさえ、強烈に染み渡る臭い。
その臭いの出所は、しゃがみながら氷漬けにでもなったかのように動けずにいる、彼等の指に挟まれていた。
チリチリと燃え続け、煙を出している香草。
煙草だ。
☆
ガチャコン! ボンッ!!
蹴破られたかのように勢いよく開けられたドアの音を、彼の脳はこんな擬音で記憶していた。
テレビであったなら、ボリュームを半分は下げたくなる大音量だった。
当然、彼と彼の友人達の視線は、大音量を鳴らし乱入してきた彼女へと集中した。
三編み眼鏡なのに、脚が長くてやたらスタイルが良い彼女に。
彼、片倉優人は目を見開き、目から心臓が飛び出そうなくらい度肝を抜かれた。
屋上に現れたのが先生や生徒会の誰か、はたまた警察ならここまでは驚かなかった。
現れたのが一般生徒で、明らかにこの場に来そうもない、クラスメイトの女子だからだ。しかも彼女はやって来るなり、喜色満面に腕を組み、仁王立ちをしているから驚いているのだ。
優人は彼女の名前は憶えていなかったが、冗談のようなぶ厚いレンズの眼鏡と、一本だけの長い三つ編みという見た目だけは覚えていた。
そんな見た目の彼女だからこそ、優人は彼女が、間違って屋上に来てしまったのだと思った。
だから彼女には、安全にこの場を立ち去って欲しかった。
とはいえ彼女は、友人の喫煙現場を目撃してしまった。なら、口止めが必要だろう。
そう思い、優人は二人の友人の反応を見てみた。
喫煙していた友人の一人、切れ長の目をした御剣孝は、滅茶苦茶不機嫌だ。そんな孝が彼女に対し、平穏に口止めを要求出来るとは思わなかった。
もう一人の友人、横に大きい 角田重雄は喫煙を終え、昼食の卵サンドを絶賛食事中である。
普段の重雄は温厚だが、食事の邪魔をされると簡単に怒ってしまう……。
ならばと。
優人は静かに立ち上がり、黙っててくれるようお願いするため、彼女に向かって一歩を踏み出した。
「あなた達、生きてて楽しい?」
踏み出した一歩が着地するより早く、彼女はさも当然と笑顔のまま、とんでもないことを口にしていた。
彼女の声は澄みきっていて、はっきりと耳に届いてしまった。
誤魔化しようが無い程、はっきりと。
彼女凝視したまま優人は、次に何が起きるか簡単に予想できた。
不機嫌な孝に対し、彼女の問題発言。平穏無事に済むとは、到底思えなかった。
「てめぇ! いまなんつった!!」
予想通りだった。怒りで顔面を左右非対称にした孝は、彼女を睨みながら立ち上がった。
優人は眉間に皺を寄せながら
、今すぐ彼女に襲いかかってしまいそうな孝の腕を掴む。
直後に、孝は彼女にむかって前進をはじめた。
優人は腕を引っ張り、孝を止める。
「落ち着けって」
「落ち着けだぁ! あの女にあんな意味わかんねぇこと言われて、黙ってろつーのかよ!」
胸ぐらを掴んでくる孝。優人は苦笑いを浮かべながら諭そうとする。
「彼女はきっと、怖くて可笑しなことを口走っちまたんだ」そう説得するつもりだった。
「意味がわからないですって!」
台無しだった。
厚いレンズの眼鏡越しからでは、彼女の表情は分からなかった。
それでも感情のこもった声から、怒っているということだけは簡単に理解できた。
孝と彼女。二人を近づけさせてはいけない。
そう直感した優人は、孝を離さないよう掴んでいる腕に力を込めた。
けれど、必要なかった。
「あーもう! 邪魔!!」
そう言って彼女は、眼鏡をブンっと投げ捨て、三編みを一気にほどいた。
優人と孝と重雄、三人とも、時間を奪われたかのように動けなくなった。
目の前で起きたことが、嘘みたいだったから。
劇的にビフォーでアフターな展開だった。芋虫がサナギをすっとばし、美しい蝶になったから。
眼鏡を外し、三編みをほどいた彼女は、とびっきりの美人だった。
三編みをしていた長い黒髪は、なぜかウェーブ状にならず、真っ直ぐのまま風に靡いている。
怒っているからだろう。顔には皺が出来ているが、それでも
綺麗だった。
孝が怒りを忘れ、見惚れてしまう程に。
孝と重雄は、彼女の美貌に視覚と思考をジャックされ、いまだに動けないでいた。
優人だけは二人より早く思考を再開し、あることを思い出した。
一年の頃に聞いた、とんでもない生徒の噂話を。
☆
入学式当日の話だ。
その生徒は世界でも通用しそうなトップクラスの美女で、とても目立っていたそうだ。特に黒髪がとても美しく、光って見えたと言う男子もいたくらいだ。
だが彼女は、一日で姿を消した。
一人の中年ベテラン教師と共に。
所詮は噂話だと、ほとんどの生徒は信じなかった。
世界のトップクラスの美女がいたなら、一日とはいえ絶対に学校中の話題になっているだろうし、そんな美女が中年のおっさんと駆け落ちをするわけが無い。
そう生徒達は解釈して、噂話にすぎないと忘れかけていた。
けれど優人は違った。
――優人は真実を知っていた。
あの噂は、一人の女生徒が先生を退職させた話なのだと。
そして、辞めさせた女生徒は、今も在学中だということも。
現場にいた友人が、優人に真実を教えてくれてからだ。
黒髪の美少女こと、――問題児、回り道縁のことを。
昨年学校中を騒がせた彼女は、白桜高校一期生の一年一組という、縁起が良さそうなクラスにいた。
初めての学校で初めてのホームルーム。
生徒ばかりではなく先生も緊張しながら、一組以外のクラスは、自己紹介が和気藹々(わきあいあい)と進行していた。
一年一組だけは違った。
クラスの担任は他校から配属された、ベテランの中年教師だった。
隣の組から笑い声が聞こえるなか、一組は厳かに自己紹介が進んでいた。
クラスで温度差はあれど、不平不満もなく進行していた。
一人の女生徒が、自己紹介を始めるまでは。
「菊池王冠です。王冠と書いてティアラって読みます。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げ、王冠は恥ずかしそうに顔を上げた。
「……王冠でティアラ……はっ」
そんな王冠を見つめ、教壇に立っていた担任のベテラン教師、大口が笑い出し「ふざけてるのか?」と言ってきた。
急にどうしたのだろう?
王冠もクラスメイトも、大口の発言がどういうことなのか分からなかった。
「おまえだよ。王冠」
名指しされ、当人である王冠はあたふたするばかりだった。
「ふざけているのかと聞いてるんだ!」
答えない王冠に対し、苛立ちを募らせた大口は、大声で怒鳴る。
世間でもキラキラネームなどと呼ばれる名前だが、生徒名簿に記入されている以上、ふざけているわけがない。
けれど大口は、さらに王冠を攻める。
「おまえは日本人だろう? もっとちゃんとした名前に改名してもらえ!」
理不尽なことを大口は言い続ける。
王冠からしてみれば、十五年間の思い出が詰まった大切な名前だ。
それを初対面の、先生という教育者が、土足で踏みにじっていく。
王冠は唇を固く結び我慢していたが、やがて我慢も限界を迎え、全身を震わせながら涙を溢した。
ピッ、ガコンッ!!
誰もが大口と、涙を流す王冠のやり取りを傍観している中、椅子を倒しすくっと立ち上がった女生徒がいた。
「白桜高校一年一組! 回り道縁です! よろしくお願いします!」
急な自己紹介だった。
大口も王冠も、クラスメイトの全員も。呆気にとられてしまう程に。
縁は全員の注目を浴びながら、胸を強調するように腕を組むと、大口を睨んだ。
「大口先生に意見させていただきます! 貴方は最低です!! 王冠と書いてティアラ、世界でも通用しうる可能性を秘めた素晴らしい名前です! それを侮辱するなんて……それでも教育者ですか!? 恥を知ってください!!」
縁は原稿用紙でも読んでいるかのように、ツラツラと感情を込めて言い放つ。
大口は茹で蛸のように、真っ赤になっていた。
「お前! 先生に向かってなん」「先生!? 今の貴方のどこが先生でしたか!?」
真っ赤になった大口の言葉を、縁は日本刀で切りつけるように遮った。
「失礼ですが! 私には権力を振りかざし弱者をいたぶる自己中心的な大人がいるようにしか見えませんでした!!」
勢いを増していく縁に対し、
「生徒の分際で図に乗るなよ! 内申書がどうなるか分かってるのか!」
大口は堂々と、心無い発言をした。
進学校である白桜高校で、その一言は効力がある。
はずだった。
「先生。貴重なご助言をありがとうございました」
縁は大口の虚を衝くようにニンマリと微笑むと、自分の机に置いていたスマホを手に持った。
そのスマホは赤く、縁の闘志を表しているようだった。
「大口さん。先程の会話は全て、録音させてもらってました」
「なっ!!」
大口は眼球が落ちるのではと危ぶまれるほど瞼を開き、縁の手の中にあるスマホ画面を凝視した。
スマホ画面には、小さくもはっきりと、録音中という文字が表示されていた。
大口は鯉のように、口を何度も開閉させて、
「だから、どうしたんだ」
と、強がった。
対する縁は、能面のように無表情な顔でスマホを操作して、
「大口先生。よくお聞き下さい」と、言った。
縁が大口に向けスマホを翳すと。
「生徒の分際で図に乗るなよ! 内申書がどう」ブツッと、途中で音声は切られた。が、それは紛れもなく、大口の声だった。
「これでもシラを切り通すおつもりですか?」
縁の声は、凍えるほど冷たかった。
「お前……教師を脅すのか?」
握った拳を震わせながら、大口は抵抗する。
「いいえ。先生の同類にはなりません。強要罪はごめんです」
「……なら、そいつを寄越せ!」
態度一変させた大口が、縁に向かって走りだした。
「お断りします」
縁は平然と、近づいてくる大口を見つめていた。一切、瞳を逸らすことなく。
次に縁は、制服の襟を引っ張り、スマホを胸の谷間に収納した。
「皆! しっかり見ていて!」
呆気にとられ傍観するだけだったクラスメイト達は、縁の透き通るような声音を聞き、全員が目の色を変えて注目した。
大口は視線に気づき、一瞬だけ躊躇した。
それでも大口は、縁の胸に手を伸ばした。
「ごめんなさい」
縁は一言だけ、けれどはっきりと謝った。
謝り、自身に向かって伸びてきた手を捕らえた。
「なっ!」
大口の見ている世界が、グルンと一回転した。
ドスンッと音が聞こえ、気がつくと大口は、床に寝転がされていた。
教室で十五歳の女生徒に投げ飛ばされ、自分は何をやっているんだ?
大口はここにきて、ようやく頭が冷えてきた。
「大丈夫ですか?」
いつまでも寝転がったまま天井を眺めている大口に、縁が手を差しのべてきた。
「……お前は何がしたいんだ」
大口は差し出された手を払い除け、上体だけを起こして質問した。
縁は振り払われた手を腰に当て、大口の質問に答えた。
「王冠さんに謝って欲しかっただけです」
「そうか」
それだけ言った大口は、生徒達の視線を浴びながら、教室を出ていった。
翌日、白桜高校から一人の教師が、自主退職をした。
同時に、一年一組から、回り道縁という生徒もいなくなっていた。
大口は自主退職という名の解雇。
回り道縁はクラスを移動。
それで、事件は終わった。
☆
優人の額から、嫌な汗が出てくる。
この女は、友人が言っていた人物と一致する。
こいつが、回り道縁だったら、ヤバイ……。
孝が短気を起こしたら、間違いなく退学させられる!
そう、優人は直感した。
孝が退学する。それは優人にとって、防ぎたい事柄だった。
直感した未来を避けるため、優人は大きな身体を活用する。縁と思われる女生徒の前に立ちはだかり、孝と女生徒の面会を遮断した。
「邪魔しないで」
目の前にいる彼女の反応に、優人は目を丸くした。
大抵の女子は、優人が目の前に立った時点で、怖がって避けていくのが普通だったから。
肩幅が有り、身長も高い優人に見下ろされれば、女子に限らず大半の人は怖がってしまう。
なのに、彼女は違う。
怯むことなく真っ直ぐに優人を見上げ、「邪魔しないで」と宣言してきた。
優人は確信する、彼女こそ噂の美女。回り道縁だと。
「……もしかして、お前は回り道縁なのか?」
優人の質問を聞いた縁は、「誰?」と言いたげに目を細め、優人の顔を舐め回すように見ていく。
優人は不馴れなことで緊張したが、それでも。
ん? と、違和感には気づけた。
見間違いでなければ、彼女が一瞬、驚いたように見えた。
「貴方が誰か分からないけど……。私のことを知ってるんなら話が早いわ」
知らないのか……。縁が表情を変えた一瞬を、優人は見間違いということで片付けた。
第一、それどころではなかった。
目の前の彼女が、回り道縁だと分かったのだから!
優人がどうやって縁を、無事に追い返せるか考えている間に、縁は目的を果たそうとする。
「私のことも分かったことだし。早く質問に答えてくれない?」
「質問?」
眉根に皺を寄せ聞き返しす優人。
「生きてて楽しいって訊いたでしょ?」
縁は優人より深く眉根に皺を寄せ、聞き返した。
優人は苦笑いするしかなった。
そんな優人にしびれを切らし、縁は圧倒するように言葉を続けた。
「早くして! 時間がないのよ!」
こいつは確かに問題児だ。痛感した優人は、とにかく答えて縁を追い返そうとした。
「俺は楽しい。こいつらと一緒にいるのが好きなんだ、だから」「楽しいのね! 分かったわ! ありがとう!」
縁は優人の言葉を途中で遮り、二人の意見も訊きたいと言わんばかりに、優人の脇をすり抜けようとする。
「やめろ!」
優人は懸念していた二人の接触を阻むため、咄嗟に縁の腕を掴んだ。
「おっ?」「あれっ?」
二人は目線を合わせ、何度も瞬きをする。
優人が縁の手首を、しっかりと握ったまま。
「あなた何者?」
「お前こそ、何をしようとした?」
どちらも問いには答えず、しばらく腕を接触させたまま。二人は真顔で目線を交わし合った。
「あなた、面白いわね」
ふっと微笑んだ縁が一言だけ感想を言うと、縁は優人に腕を掴まれたまま、孝と重雄に顔を向けた。
「時間切れよ。二人とも、すぐに吸い殻を拾って」
意味が分からなかった。
けれど、今の縁の言葉には、柔らかく暖かみがあるように優人は感じた。
とはいえ、イライラしていた孝と、卵サンドを食べながら待ちぼうけくっていた重雄が、縁の指示に従うわけが無いだろ。そう思っていた。
が。縁の腕を掴んだまま、優人は二人に視線を移し、驚愕した。
二人は感情を忘れたかように、縁の指示通り吸い殻を拾っていた。
洗脳されたわけではない。ただ、従ったほうが良いような気がした。と、後に二人は語っていた。
吸い殻を拾った直後。
まるで計算されたかのような絶妙のタイミングで、
「何をしてる!」
と、開きっぱなしの屋上の入り口から声が聞こえた。
優人は慌てて振り返る。
そこにいたのは、新婚ほやほやの福田先生だった。
☆
四人は職員室に連行され尋問を受けた。
鍵はどうしたとか、何をしてたんだとか、次々に攻め立てられる。
昼休みが終了しても、尋問は終わらない。
縁だけは、無関係であることを優人が主張し、福田先生もすんなり認めたため人数は三人になった。
☆
優人も二人に弁護され、一人だけだったが放課後になったという理由もあり、釈放された。
怒られているのは、孝がやったピッキング行為であり、煙草の件はバレていない。
説教だけで済むだろう。そう思いながら優人は、通学用の鞄を取りに、静まり返った教室のドアを開けた。
「遅かったわね」
ダイレクトに脳を刺激してくるような声が聞こえ、優人は入り口を跨いだ状態で足を止めた。
教室で優人を待っていたのはもちろん、――縁だった。
窓際にある優人の席に、縁は足を組んで座りながら、嬉しそうに笑っていた。
机には、優人の鞄と、その上にぶ厚いレンズの眼鏡が置かれている。
「……何してんだよ、お前?」
優人は口許をひくつかせながら問いただした。
「貴方を待ってたのよ。片倉優人君♪」
上機嫌な縁の返答を聞き、優人は自らにアンアンクローをかけるよう、目元を覆った。
「私、優人君に興味が湧いちゃったの」
目元を覆い変なのに絡まれた。と、常識ある人なら遠回しにでも、拒絶されているのが分かる優人のリアクションを無視して、縁は会話を続けようとする。
伝わらないことが分かった優人は、深いため息を吐いた。
覚悟を決め、優人は縁と向き合った。
「そいつはどーも。で? なんで俺を待ってたんだよ?」
縁はずっとニコニコしながら、優人を見つめ。
「貴方とたくさん話がしたいの」と言ってきた。
優人は思わずドキリとした。
縁は問題児であり、発言には裏がある。優人は自分にそう言い聞かせ、何とか平静を装っていた。が、そんな平静の装いは、簡単に砕け散った。
「でも、今日はもう遅いから」
「だから明日。私とデートしましょう?」




