ダッツはイチゴが一番美味しい
私は確かに昨日、お夕飯にと作ったオムライスにケチャップをたっぷり掛け過ぎて「お前それ、もはやオムライス食ってるのかケチャップ食べてるのか分かんねーな」なんて言われてはいはいそーですねとプリプリしながらケチャップを食べて。その後、無性に甘いモノが食べたくなって雨上がりで冷え込んだ夜へと飛び出し、コンビニに向かって。丁度というか、致し方なくというか少なくなってしまったケチャップとダッツのストロベリーを買って。
「さて、ここはどこなのだろうか……寒い」
私は確かに、お家へと向かっていたはずだった。大きな幹線道路を渡って、寝静まった住宅街を通りぬけ、いつもの様にタバコ屋さんの角を曲がって、そこから真っ直ぐ歩いていたはずだった。
だけど、ここはどうだろう。見慣れた道をのんびり歩いていた私を包んでいるのは、いつしかこの見たことがない景色である。何もない平地に、杭が打たれ囲われている家の跡地のようなものが無数にあった。売り地なのだろうか、手入れがされていないその囲いの中には背の高い雑草が生い茂っている。本当に地平線まで何もなく、月だけがこの世界を薄明かりで照らしだしている。寒々とした空に煌々と浮かんでいる月が、なぜだかまるでひとりぼっちのようで酷く寂しそうに見える。
……等とそう思ったのは何時くらいのことだろう。私がこの場所にきてからも、月はその場所から一歩も動かず、未だ宙の天辺に堂々と居座っている。
この世界は、どう考えても異常だった。私が家を出たのは23時過ぎ、いくら少しコンビニが遠かろうとも少なくとも一時間もかかるまい。それがどうだ、携帯の時刻表示が狂っているのか既に午前3時を少し回った所を示している、ってあ、電池切れた。
この四時間近く、私はこの寒空の下でボーっとしていたことになるいやいやそんな馬鹿な。私は少し疲れているのかもしれない、寒いし。
夜は、どこまでも静かだった。世界は生き物みたいだと、ふと思う。昼は暖かな陽の光で穏やかに人々と共に生活しているなら、今のこの世界はまるで眠りに落ちているかのようだ。冷えた空気と月明かりに照らされてぼんやりした世界は、物事の輪郭が曖昧に融けているようで。私もこのままこの夜に融けて消えてしまうのではないかと、そんな錯覚に陥る。
もしこのまま、世界に私が融けてしまったとして、何か変化が起こるのだろうか。父と母は悲しむだろうか、他に悲しんでくれる人はいるだろうか。あ、彼はどうなるのだろう。きっとまともに自炊も出来ないから、炊いたお米に塩掛けて食べるくらいしか出来ないだろう。ヘタしたら炊きすぎて余ったお米をおかずに炊きたてのご飯を食べるなんていう暴挙に出るかもしれない、だめだ私が消えたら彼が死んでしまうな……由々しき自体だ……消えてる場合じゃない……。
チリン。
「おや?」
「にゃー」
足元にふかふかしたものが擦り寄ってきていた。私よりも夜の闇に融けているその子は、この寒さの中で確かな温もりを持ったもので、なんだか少しだけほっとしてしまった。
「どこからきたの? 今日は寒いね」
温かい、というだけで気を許してしまった私は猫にそう話しかけると、まるでこちらの言葉を理解しているかのように1つ、にゃーと鳴いて身震いをした。
その猫は夜よりも黒く、靭やかで、首に巻き付いた白い首輪と金色の鈴がよく映えている。鈴と同じ色をしたその二つの瞳が、何かを尋ねるようにじっと、私を見つめていた。
「私はどっから来たかって? んー、私はねー、とっても温かいところから来たんだ」
ちりん、と音を鳴らして首を傾げる猫。
「そこにはとってもものぐさな人がいてね、放っておくとお家の事をなーんにもしないんだよ。その癖、私がちょーっとへまするとすぐからかってくるんだー。今日だってね、オムライス作ったんだけど、ケチャップがドバーって出ちゃって、したらケチャップ食ってるのか? なんて言ってくるんだよ、もう本当に意地悪なんだよー。だから腹いせにケチャップ買ってきちゃった、ほら」
右手にぶら下げていたコンビニの袋を掲げるように持ち上げる。袋がガサッと音を立ててその中身を主張する。あれ、思ったよりも軽い気が。
変に思って中身をゴソゴソと探ってみると、袋の中に入っていたのはケチャップでもダッツのストロベリーでも無く、カセットテープだった。こんなもの買ったなんて全く持って記憶に無い。おかしい、やっぱり普通じゃない。
にゃー。
猫がこっちを見ろ、とばかりに鳴いた。チリンとまた音を立てて踵を返すと、颯爽と夜道を歩き出した。と、思うと立ち止まり振り返ってまた、にゃーと鳴く。
「ついてこいって事?」
私の問いかけを無視して、猫は再び歩き出す。待って、と私は仕方なくその後に付いていくことにした。どうせここがどこかなんて分からないんだ、立ち止まっているよりはこの猫に付いて行って何かを見つけるほうが有意義だろう。それにこの猫は首輪をしていた。きっと飼い猫なのだろう、運が良ければ家主の家にたどり着けるかもしれない。そうすればここがどこか聞いて、一件落着だ。まぁ猫に連れられて夜半にやってくる女なんて、向こうからすれば恐怖以外の何物でもないだろうけれど、今の私にできることはそれくらいしか無いのだ、仕方ない、うん。
少しばかり猫と歩くと、あたりの風景はいつしか住宅街へと移り変わっていた。先ほどまでの何もない開けっぴろげな世界ではなく、人工物と人々の生活感が伺える街並みである。しかしどの家にも明かりはなく、街灯は1つ残らず付いておらず、街は穏やかな寝息を立ててどこまでも静かに眠っていた。そこからまた少し歩くと、街を少し外れた場所に出た。そこは不法投棄なのか、ブラウン管のテレビや錆びた自転車、冷蔵庫にソファと粗大ごみが山のように連なった場所で、やはり人の気配なんてまるでなかった。この猫を放っておいて、先ほどの住宅街に戻り一軒一軒ピンポン押してここはどこか聞いたほうが良かったのでは、と今頃になって私は考えたが、同時になぜさっきそう思えなかったのかと自分の間抜け具合に少し呆れた。
にゃー。
猫が止まる。粗大ごみがうず高く積まれたそこでガサゴソとしだすと何かを咥えて引っ張りだそうとしているようだった。しかし猫には重いのだろうか、一生懸命ぬぬーっと引っ張るも、まるで動く様子がなかった。仕方ないなと、私は猫を手伝ってあげる事にした。
手に触れるものは氷のように冷たく、冷えきった私の手よりももっともっと冷たかった。生きていないというのはこれほどに冷たいものなのか、よく分からない事を考えながら私は一先ず、猫のお目当ての物の上に乗っている冷蔵庫を横倒し、ソファを押しのけ鉄パイプを抜き、ドラム缶を転がした。そしてやっとの思いで掘り出したものはといえば。
「……レコーダー?」
少し古いタイプのテープレコーダーだった。私は袋にカセットテープが入っていた事を咄嗟に思い出したが、この子はそれを見てわざわざ私をこんな場所まで案内してくれたのだろうか。
「君、賢いね」
そう言って撫でてあげようとするとするっと私の手を避けて足元にじゃれついた。私は労おうとしたその手を所在なさを誤魔化そうとポケットに突っ込んだ。あぁ、君に触れなくとも十分に暖かいもんね。
「でも、電源がないから付けらんないや、ごめんね」
そう謝って、もう一度猫を撫でようとした。今度は逃げられる事もなく、気持ちよさそうに私の手に顔を擦り付けてくる。猫のヒゲがさわさわして少しだけくすぐったかった。
猫から手を離すと、私はさっき通り過ぎた住宅街へ戻る事にした。そんなに離れているわけでもない、街に戻ったら恥を忍んでここはどこか尋ねよう、うんそうしよう。
にゃー。
猫が後ろで一鳴き、いってらっしゃいという所なのだろうか、手を振ってバイバイしようと思った私は目を見開いた。そうだった、この世界は普通じゃないのを私はすっかり忘れていたのだ。
猫は、テープレコーダーとじゃれている。光を灯したテープレコーダーは良い様に猫にてしてしされていた。猫の手がボタンに当たったのか、カセットを入れる部分がパカっと開いた。私は袋からテープを取り出す。これを聞けということだとしか思えない。どう考えてもそうだろう、都合が良すぎるがそんな事言い出したらあのテープレコーダーの電源が生きている事自体意味が分からない。
この猫は、水先案内人なのかもしれない。この夜に迷い込んだ私をどこかに導いている。
灯りが付いたテープレコーダーの元に戻ると、猫は満足そうにまたにゃーと鳴いた。なにか乗せられているような気もするのだが、どうせここは普通じゃない。よく分からんものでも取り敢えず付き合って、このシナリオを進める方が早く帰れる気がする。なるようになってしまえばいいさ。
カチャリ、とレコーダーにテープをセット。ええいままよ、と再生ボタンを押した。
「……なんかドキドキするね」
「にゃー」
「……もしかして君は、何が吹き込まれてるか知ってるの?」
「にゃー」
「……ふむ、なるほど。じゃあ取り敢えず一緒に聞いてくれたまえよ」
「にゃー」
「よろしい」
ざぁざぁと煩いノイズが次第に小さくなっていき、代わりに何やら声が聞こえる様になってきた。
『今日は、うららかというにふさわしいよ。小春日和というやつだ。少し暖かくなってきたから、君もこたつむりしてないで出ておいで。一緒に行こう?』
『今日は、よく晴れているよ。ほら、雲1つない空だ、五月晴れさ。でも君は、雲がない空なんてつまらん、なんて言うのかな、言いそうだなー』
『今日は、鈍色だよ。曇天だね、曇天。曇天って分かるかい? まぁまぁ、怒るなよ。君がちょっとばかし言葉に弱いからこうしてからかわれるんだよ。んー、雨は静かで寂しいね』
『今日は、……。今日はね、今日は……』
『もう、君に今日を教えてあげる事も出来ないや』
ピーという電子音と共に、カセットがジーっという音を立てて巻き戻される。
「これは……私?」
「にゃー」
そこに吹き込まれていたのは、私の声だった。ただただ、その日の風景を報告する、私。次第に憂いを帯びていくその声に、私は記憶の引っ掛かりを感じた。なんだろう、どうしてだろう。なぜだか私は今、すごく大切な事を思い出せないでいる。どうして訳も分からず、こんなに泣きそうになっているのだろう。どうして、こんなにも寒いのだろう。
私の様子を見てか、猫が擦り寄ってくる。足元でうにゃうにゃと擦り付いてくるその仄かな温もりは、先ほど感じた温かみなんかよりずっと、朧げで儚い。
その今にも消えてしまいそうな温もりをしゃがみこんで抱き上げる。嫌がる素振りもなく、腕の中で丸まった彼はそのザラザラした舌で私の頬を舐める。まるでいつもそうしているかのように、彼は私の頬をまた舐めた。泣かないでって言われてるようで、余計に泣きそうになる。
私は、それはよく泣く人間だった。歩けば転んで擦りむいた膝の痛みに泣くし、ゲームをすれば彼に勝てずに悔しくて泣くし、ドキュメンタリーを見れば仔馬の貴重な産卵シーンに感動して泣くし、それはまぁよく泣く。そうして泣く度に、もう泣くなよーと彼は笑ってほっぺを拭ってくれた。暖かくて、優しくて、柔らかい。それが嬉しくて、笑いながら泣いてないよーと言いながらまた泣いてしまう。私は本当によく泣いていた。
いつからだろう、泣かなくなったのは。いつからか、全く泣かなくなった。悲しくても、嬉しくても泣かなくなった。
「そっかー、私泣いてるかー」
「にゃー」
「もしかして、迎えに来てくれたの?」
「にゃー」
「もしかして、結構待たせた?」
「にゃー」
「そっかー」
そっと、私の手から抜けだして、彼が空を見上げる。薄っすらと、先方が深い深い、飲み込むような黒から、沈むような青に変わっていた。きっともうすぐ、包まれる様な柔らかい緑がやってきて、段々と、世界は目を覚ますのだろう。
「見て、今日はね、きっと快晴だよ。やっと、一緒に見れそうだね?」
「……にゃー」
「ふふっ、つまんなくないよー」
やっと、朝が来る。
『心肺が停止しました』
『除細動器使うぞ』
『はい』
『はい、離れてー』
ドンッと意識が横殴りにされる様な衝撃を受けて目が覚めた。ぐぬぬ、どうやらこたつで寝ていたらしい。テーブルの上にはお皿が2つ、その片方はまっかっかな物で皿の上がべったべたになっている。あと悲しくも空になったケチャップが。
「あー……、寝てるなら起こしてくれればいいのに……」
こたつで寝ていたせいか、口が乾いて仕方がない。あー、甘いもん食べたい。
「なんか買ってくるけど欲しい物あるー?」
……返事はない、もう寝てしまっているのだろうか。薄情なやつである。
「もー、イチゴでいいよねー? んじゃちょっと行ってくるからー」
そう言って、私は雨上がりで冷え込んだ夜へと飛び出した。