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悪化した恐怖

 空がオレンジ色に染まりかけた夕刻、町の明かりが少しずつ家々から照らし、煌々と光が灯る。

 夕飯の支度をするために家から飯の匂いがする場もあれば、商店街で買い物をする者もいる。

 相変わらず、ヤマネコ亭やシデン堂の客の出入りもある。いつも通りの光景。


 目が覚めて体を安静にしていたエイルは部屋の窓枠に手をかけ、そこから町を眺めていた。

 自分が数日眠っていた理由は分かる。

 空の異変。ただでさえ壊れかけの空に新たな亀裂が入り、虚無に侵食された。

 それ故に魔力の備蓄が不安定になった。


 空が不安定になり始めた頃には、自分の魔力も不安定になる。

 命を失わなかったのは、体が虚無に侵される前にトーマが魔力供給として与え、その力を上書きさせてくれたからだと教えてもらった。

 念のためとつけてもらった検診屋に。


 一度、家に帰るか迷った。

 しかし、帰って今回のことを知られたら暫くは外に出してもらえない気がした。

 厳格な父は、自分を愛してくれている。

 体を大事にしろと、休めと部屋から出してくれないだろう。


 今はアニーの部屋を間借りしている。

 もちろん、使いの者は来た。

 だが、ライドやアニーが上手く話を纏め、祭りの息抜きに泊まりに来てるのだと伝えてくれたそうだ。


 気掛かりがある。

 それは、自分が召喚した橋崎青葉のこと。

 彼は顔を出さない。

 人形師と名乗る七陸睦月たる人間が来て、恐らく近場に採取へ行ったのだろうと伝えてくれた。

 彼の実力なら、近場の魔物が変異していたところで問題ない。何事も構い続けるのは良くないことだと。


 ──しかし……。


「この胸騒ぎは、何でしょうか……」


 言い様のない胸騒ぎがする。

 構いすぎるのは、彼の成長を妨害する行為かもしれない。

 しかし、自分達はパートナーなのだ。力になりたい。怒られるなら、いつものことだ。


「そろそろ、帰ってくる時間かもしれませんよね」


 ふと呟き、身を翻してエイルは部屋を出ようとドアノブに手をかけようとしてそれが急に開く。


「──ッ」


 ゴッ、と木製の扉がエイルの顔面を勢いよく叩いた。


「え? あ、ごめんごめん。見事にクリーンな感じに当たっちゃったね。あっはは、鼻真っ赤だよ~」


 短い青髪で褐色の肌色、長耳の背丈の高い女性が悪びれる様子もなく笑う。

 ダークエルフと呼ばれる種族だが、魔法よりも道具での狩りに適していてその見た目より穏やかな種族でもある。


 エイルの面倒を見ていた検診屋がダークエルフである、この人物。名をフェアという。


「フェアさん。すみません、私こそ飛び出して……」


「はいはい、前方不注意はお互い様だね~。お出かけ?」


「ええ、少し気になることが……」


「りょ~。行ってらっしゃーい」


 軽い物言いのフェアにエイルは、目をパチパチと瞬かせ首を傾げた。


「あ、あの……止めないんですか? 様子を見に来たのでは……」


「何で私が止めるのさ。様子を見に来たのは確かだけど、本人が行くなら止めないよ。私は、医者じゃないから。診たい時に診るだけの検診屋だよ? 病を明らかにすることしか出来ないしね」


 エイルの背中をバシバシと強く叩き、フェアは笑うと手を振る。

 フェアの本心か定かではないが、此処で行かせてくれることに感謝したエイルは頭を下げた。


 エイルの足音が遠退くと、窓を開けたフェアが葉巻を一本咥えて火を点ける。

 煙を吐くと、平和に見える町中を見下ろした。


「頼むから検診屋の仕事増やしてくれんなよ、人の子達。稼ぎよりこっちが過労死しちゃうし面倒だからね~」


 小さく笑うフェアが眺める窓の真下、アニーの制止を振りほどいて走るエイルの姿が見えた。


***


 黒いローブを青葉に羽織らせ背負ったキサラが町に辿り着き、無表情のままアトリエへと歩く。

 同時、未だに新居の掃除をしていたらしい睦月がアトリエに戻るところへ鉢合わせしてしまう。


「うわ……」


「いやいや、あからさまに嫌そうな顔すんのやめてくれる? 普通に傷つくから」


 少し焦りにも似た表情の睦月にキサラは、ふんと鼻を鳴らして目を逸らす。


「キサラが何で此処に? 町に来るなんて珍しい。お使い? てか、何背負って──」


 言いかけて、キサラが背負っているそれを覗くと睦月は絶句した。


「嘘、だろ……? な、何で……」


 血まみれになりながら目を伏せている青葉は、力なく物のようにキサラに身を預けていた。


「死んでない。自己治癒能力で傷は完治してる。衣服が破れて血まみれなのは、そういうことがあったから」


「え、待って。だって、そんな……この辺の魔物になんか遅れ取る筈が……」


「魔物じゃなくて、化け物にやられたのよ」


「ば、化け物? あ、えと……大丈夫なのか、青葉は」


 顔を蒼白にさせた睦月に構うことなく、キサラは歩を進める。

 睦月は、それを追いかけた。


「自分で意識を飛ばせないようだったから、薬で眠らせた。寝てるだけよ。もしかしたら、悪夢の最中かもしれないけどね」


「あ、悪夢ってどういうことだよ」


 動揺する睦月をよそにキサラは、アトリエの扉を開けて黒いローブを下敷きにしたベッドの上に青葉を横にした。


「体を貫かれて切り裂かれて抉られて、抵抗という抵抗なんか出来なくてゴミクズみたいに捨てられてた」


「助けられなかったの?」


「馬鹿言わないで。あんな化け物、私なんか入る余地ない。息を潜めて、こいつが死なないことを祈るしか出来ない。悪かったわね、約束破りで。作り物だけど、私にも感情があるのよ。恐怖っていう、いらない感情がね。──震えを堪えるので精一杯だった」


 自嘲的に笑うキサラに何も言えず、睦月は見据えるだけだった。

 普段、感情を見せないキサラの体が僅かに震えていたのだ。


「あいつを助けようとした死体も沢山転がってた。笑っちゃうよね、ただ鉱石を取るお使いが血の海を見る羽目になったのよ」


「キサラ……」


「責めればいいじゃない。ホムンクルスのくせに自分の命惜しさに錬金術師を殺しかけたガラクタだって。お前の代用品はいくらでもあるんだから、あいつを守れって」


「そんなこと言わないで、キサラ」


 睦月は震えるキサラを愛しそうに抱き締めた。

 まるで壊れ物を優しく扱うように。


「愛しい僕らのキサラ、君の代用品なんかないんだ。既に存在してる命なんだから」


「そうやって、慰めるところが嫌い」


 キサラは、睦月の体を押して離れる。

 睦月は、苦笑いを浮かべて頬を掻いた。


「はは、厳しいなぁ。青葉を運んでくれてありがとう。遅いし、後は俺が──」


 睦月が言いかけたとき、アトリエの扉が開いていたことに気付いた。

 長い金髪が揺れ、翡翠の瞳が大きく見開かれ、白い両手が口を抑えて驚愕していた。


「──エイルさん」


 睦月がその名を呼ぶ。

 ふらふらとした覚束ない足取りでエイルはベッドに横たわる青葉へ向かい、力を失った手を握った。


「青葉さん……」


「エイルさん、青葉なら──」


「無事なら、いいと……体の傷が癒えたなら問題ないと言いますか」


「え……?」


 俯いたエイルの目から溢れた涙が握られた青葉の手に落ちる。


「キサラさんの判断は間違っていません。二人が無事で良かったとも思います。ですが、私は……私は、こんな酷い仕打ちを受けた青葉さんがどれだけ……どれだけつらい思いをしたか。私は、どんな残酷な運命を彼に擦り付けてしまったか……!」


「エイルさん、彼を……」


 頼みます、と最後まで言えなかったキサラは睦月に麻袋を渡してアトリエを飛び出した。


「キサラ! ──ッ、エイルさん! 青葉を頼みます!!」


 キサラを追いかけるため、睦月はテーブルに渡された麻袋を置いて走った。


 エイルは振り返らなかった。

 涙の痕で目の下が腫れぼった青葉の顔色の悪い肌に触れる。

 呼吸をしていて心臓も無事に動いている青葉と、彼が身に纏っている血まみれでボロボロに破れている箇所もある衣服。

 彼が丁寧に扱っていたアイテム収納のバッグでさえ擦り切れてズタズタに裂かれている。


「私は、絶対に許しません。あなたにこんなことをした……おぞましい存在を、絶対に。この命を賭けても……」


 低く呟いたエイルの言葉に反応したように青葉の指先がぴくりと動き、瞼がゆっくりと開く。


「──やめろ」


 小さな声と弱々しい力でエイルの腕を掴む。


「青葉さん! あっ、手が……すみません」


 触れられるのが嫌いな青葉から離れようとしたが、彼はエイルの腕を離そうとしなかった。


「あれには関わるな……! 絶対に、絶対にだ」


「でもっ……!」


「お前は、串刺しにされて生きていられるか。体を切り裂かれて、腹の中を抉られながら四肢を刃で貫かれて、心臓を動かせるかよ……!」


「──ッ」


「俺は、出来たから生きてるんだよ。みっともなくのたうち回ることすら許されない。悲鳴しか上げられない。自然回復と激痛の交差で意識を失うことも出来ない……! それでも生きてる。魔力を失わない限り、死ねない!」


 起き上がる青葉が、すがるように涙声でエイルの肩を強く掴もうとした。

 しかし、まだ戻らない力で掴めずにいてその手が下がってしまう。


「頼むから、自分からあれに関わろうとするな」


「そんなこと、出来るわけが──」


「嫌なんだよ! どんだけ痛めつけられても、バラバラにされそうになっても、虐げられたって、偽善だっていい! ──俺のせいで誰かが死ぬのは、耐えられないっ!」


 嗚咽を上げた青葉の言葉が胸に刺さる。

 あれだけ自分が一番だと口にしながら周りを気にする青葉が、自分が一番だと言わなくなった。


 想像を超えるほどの体験をしたのかもしれない。

 自分のせいで人が死ぬという言葉に重みを感じ、それが彼の新しい枷になっている。

 その枷が刃と化して心の中を傷つけているのかもしれない。


「強く……強くなりたい。こんな、弱い俺は嫌だ。──エイル、俺に教えてくれよ。俺は、どうしたら強くなれる? どうすれば、犠牲を出さずに済む?」


「青葉さん……」


 力になりたい。

 そう思っていても、エイルの中の黒い感情が沸々と沸き上がるのも感じた。

 青葉を傷つけた者にはもちろん憎しみを感じたが、自分が思うより弱い彼にも不満がないわけではない。


「──この世界が少しずつ好きになった。錬金術だって楽しいし、頼られるのは嬉しい。だからこそ、この世界を守りたいって思うのが悪いのかよ。残滓だって取り込んで倒す力はある。だけど、根本的なものが足りないんだ。俺には! 何が……何が足りないんだ!」


 苛立ちですら感じた。 

 彼は強くならなければいけないとも思った。

 幻滅だけは、それだけはしたくない。

 それが、自分の押し付けがましいエゴだとしても──


「あまりに優しくて弱すぎる、可哀想な──」


 ぽつりと呟いたエイルの言葉は青葉には届かなかった。

 それに気付くと、目を細めて青葉を押し倒した。

 弱っている青葉よりも今はエイルの力の方が上で、身動きが取れない。

 状況が理解出来ない青葉は、エイルを見上げた。


「──不快ですか?」


 女性に恐怖を抱く青葉にとって、エイルに押し倒される状況は最悪と言っても不思議ではない。

 それ以上のトラウマを持ったとしても、嫌なものは嫌だと青葉は言うだろうし悲鳴も上げるだろう。


 ──しかし、青葉は首を横に振った。


「召喚補正か知らんけどな……お前は嫌じゃない。俺が強くなるためなら、お前とのキスやその先だって──」


「その程度で済むと思うんですか?」


 エイルの微笑みに青葉の表情が硬直し、沈黙が訪れた。


「え」


 覚悟した言葉だというのに、それを無視した言い様のないエイルの殺気に恐怖した。


「え、え、えっ? え、なになに! 怖い怖い怖い! その程度って、かなりの覚悟──」


「青葉さん、私は怒っているんですよ」


「お、おこ……? いや、離れよう。離せ! 大体、俺……ボロボロだから汚れ──」


「強くしてあげます、私が全身全霊をかけて。だから──」


「ひっ……! あ、あ……エイル……どけって……! あああっ!」


 普段の清楚なそれと違うエイルの微笑みは、妖艶なものに変わる。

 指先で頬から首下まで撫でられて耳元で囁かれると、喉奥から悲鳴が出た。


「弱音、吐かないで下さいね?」


 この後の予想も出来ない恐怖に青葉の頭は真っ白になり、完全に力が抜けきった。

 清楚な召喚主を怒らせた代償が何かすら考えたくない。

 彼女に涙を見せたことを少しだけ後悔した。


 ──橋崎青葉の女性恐怖症が悪化した瞬間だった。

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