空の割れ目
軽い頭痛と共に覚醒した俺は、こめかみを抑えて起き上がる。
自然の風が吹くことはないが、窓を開けてみる。折角の天気に部屋を閉ざしたままというのは良くないことだ。
いつものごとく、空を見上げる。
どうせ、また変わることのないひび割れた空だ。
しかし、これを常に意識しておかないと行けないのも俺の役目。
「──は?」
我ながら、間抜けな声が出てしまったと思う。
だが、今は俺の間抜けな声色にかまけてる場合ではない。
「うっそだろ、おい……」
青い空がまた失われかけている。虚無がまた増えていた。
慌ててアトリエを出て、屋根に登る。
高い場所から見れば、ますます分かってしまう。
この世界の浸食が進んでいる。
「──ッ、くそ!」
屋根から飛び降りて、シデン堂へと向かう。
何か……何かしなきゃ。
少なくとも、あそこに知恵をくれる奴は数人いる。
ライド、アニー、トーマ、アイリ……それから──
「エイル……!」
その名前を口にした途端、足が止まった。
トーマが言っていた言葉を思い出したからだ。
都合のいい時にだけ人を動かせると思うなということを言っていた。
確かにそれは分かるけど、でもだからって……今の世界は俺が来たときより悪化してるのも事実で。
「邪魔」
「うわっ!」
幼い声と共に背中を蹴られた。
声の主は、トーマだ。隣にはアイリもいる。
「何、町の往来で突っ立ってんの。障害物にしかならないから、この朝の忙しい時に邪魔しないでよ」
「トーマ、またそういうこと……。ごめんなさい、青葉さん。あ、えぇっと……おはようございます」
「──はよ」
素っ気ないものになってしまうが、朝の挨拶くらいはしないとな。
今は、女であるアイリよりトーマに腹が立つぞ。何だよ、障害物って。
「ちっさ」
俺を見上げたトーマが呟く。
ちっさ!? いや待て。ちっさって、小さいチビッ子に小さいって言われるのおかしくね?
170センチに届かなくても平均的な身長だと思うよ、俺。
正確には、168センチだが。
お前よりは頭ひとつ以上の高さはあるのに、意味が分からんぞ。
「お前、頭大丈夫か? どう考えても──」
「勘違いしないで欲しいけど、背丈の問題じゃないからね」
「ぐっ……」
違うのか。じゃあ、何が違うというんだ。
「子供相手に拗ねてるのが小さいって言ってるの。行こ、アイリ」
「もう、トーマは口が悪すぎるよ。あの、青葉さんはこれから何処か行くんですか? 私達、アニーさんにお使い頼まれて」
「アイリ」
トーマがアイリの手を引こうとするが、それが空振りに終わる。
珍しいな。見る限り、いつもはアイリはトーマを優先して俺から逃げるように歩くのに。
「青葉さんのお店にも行く予定だったんです。疲労回復薬ってありますか? あ、ちゃんとお金は持ってます!」
金の入った小さな麻袋をアイリは見せる。
「在庫はある。俺が後で持ってくよ。金はいらねぇ。アニーには世話になってるからな。現在進行形で」
エイルの看病なんて、本当に面倒臭いことこの上ねぇだろ。
「俺も今からそっち行くところだったんだ。ライドはいるよな」
「え? あ、はい……」
「悪いが、今日はあいつ借りるぞ」
「ライドさんを?」
「ああ、あとお前らも来い。嫌ならいいけどな」
ぽかんと口を開けたトーマとアイリは顔を見合わせ、俺にもう一度視線を向ける。
「エルフの集落だ。空の虚無が侵攻してる以上、ガチな話をクソジジイにしておきてぇ」
前にエルフの集落に行ったライドが一緒の方が都合がいい。少なくとも心強いのは確かだ。
ガキ共については、おまけ程度。アイリに至っては孫だし、そろそろ答えを貰ってもいい筈だ。
集落と孫のどちらを取るかという質問の答え、それは向こうの回答がないことから明らかになっているかもしれないが。
それでも、状況は変わっている。
いつ、魔力が枯れて死ぬかもしれないのに孫を放っておけるほど薄情じゃないと信じたい。
人間ほどじゃないにしても、エルフだって人の形でこいつらはガキだ。魔力の蓄えがどうなるかなんて分からない。
「空の虚無……? ──アイリ!」
空を見上げて気付いてしまったらしいトーマは瞳を戦慄かせて、今度こそアイリの手を引いた。
「えっ、あ……どうしたの?」
「戻ろう! ライド達に……エイルさんにも話さなきゃ。体の異変がないか、それだけでも」
「えっ、えっ?」
状況が分からないのはアイリだけだ。
こういう時のトーマは聡くて助かる。
俺達は、急いでシデン堂へと走る。
慌てて走り、人垣を掻き分けると逆方向から見慣れた赤髪の三つ編みが見えた。
「青葉! 何で、あんたが……いや、丁度良かった! 今、呼びに行こうと思って!!」
「アニー? 何だよ、そんな焦って」
息を切らしたアニーが俺の胸に飛び込む。
ぞわぞわとした鳥肌と寒気が一気に襲う。
「ぎゃあああ!! はっ!? おまっ、触るなって何度も──」
嫌がらせかよ。俺が女に触られるの嫌いだって分かってるくせにこの仕打ちは何だよ!
「エイルが……エイルが……!」
「え……?」
あの負けん気の強いアニーが目から溢れんばかりの涙を流していた。
「エイルが起きないの! 顔色も悪くて、指先ひとつ動かなくて、どうしたら……昨日まで普通に話せてたのに、何で……ッ」
「は、はは……」
いや、嘘だろうよ。
まさか、エイルがこの世界に殺されたなんて……有り得ない。有り得なさすぎる。
だって、あいつが死んだら俺は──
「エイルは、お前んとこにいるのか」
確認しないと。
前のライドみたいに魔力を汚染されても、治すことが出来る可能性がある。
「うん。二階の……あたしの部屋……わっ!」
鼻水を啜るアニーの顔面にハンカチを投げるとチビッ子共に振り返る。
「そんなみっともねぇ顔でエイルに合わせる顔ねぇだろ、馬鹿! アイリは、アニーを頼む。トーマ、ついてこい!!」
チビ共は頷く。
アイリは、泣きじゃくるアニーを支えると商店街の奴等が集まって宥めている。
本当にこの町の住人は世話焼きだよな。今は助かるけど。
俺とトーマは目的地のシデン堂へと向かうと、乱暴に扉を開ける。
力加減を間違えたか、扉の内側にある鈴が床に落ちた。
「あーっ!! お前ら、何やってんだ! その鈴、高かっ」
「うるせぇ!! ライド、二階に上がるぞ!」
「えっ、あ……おい、青葉!!」
ライドの制止を無視して、俺は二階に上がり手前の部屋に入る。
「そこ違う。こっち」
トーマに腕を引かれて奥の部屋に連れていかれる。
柑橘系のアロマが部屋全体に広がっている。
しつこい匂いじゃなくて僅かに酸味と甘味が香る程度の優しいもの。
部屋は、木造のインテリアが温かみを感じさせてぬいぐるみが少し置いてあるのが少しあざとさを感じる。
奥の窓際にあるベッドにエイルは眠っていた。
「おい、エイル!」
俺がエイルに駆け寄ろうとしたところをトーマが制する。
「僕が先に」
「は? 何でだよ。お前、アニーの言ったこと忘れたのか。それに、今の空の事と関係してたら──」
「だからこそだよ。あんたにまで何かあったらどうすんの」
「お前だって例外じゃねぇだろ! ガキがナマ言って……って、おい!」
俺の話を無視したトーマがエイルの手首に触れ、首や耳にも手を伸ばす。
女の体をべたべた触ってるエロガキにしか見えない。
「こんな時にふざけてんなよ、お前! 無抵抗な人の体、べたべた触ってんじゃねぇよ!」
「何嫉妬してんだよ」
「してねぇわ! モラルってものを考えろや」
俺に構わず、トーマはエイルの体に触れる。
人の話を聞いてくれ。
「駄目だ、魔脈が見つからない。そうなると──」
事もあろうことか、トーマはエイルのブラウスのボタンに手をかける。
流石にまずい。
「待てや、こらぁっ!!」
「あっ、馬鹿!」
トーマとエイルを引き離そうとして、ついエイルの胸に触れる。
そこで一気に胃の中のものが逆流する感覚がした。
「うっ、うぐっ……」
「だから言ってんの。トイレ、出てすぐ右」
口元を抑えて吐き気を堪える俺の状態を察したのか、トーマは扉口を指差す。
部屋を出てすぐにトイレに駆け込むと、胃液を吐き出してしまう。
「うええっ……! 頭、いて……ッ」
頭がハンマーで殴られたように痛む。
何でこんなに頭痛いんだよ。虚無との影響とかじゃないよな、怖いわ。
それとも、女に自分から触ってしまったからとか……いや、流石にそれは今までの経験ではなかった。
そんなことあったら、生きていけねぇし。生まれた時点で死んでるだろ。
「おい、青葉。大丈夫か?」
トイレに入ってきたライドが俺の背中を擦る。
何勝手に入ってんだよ。他人の家だけどさ。
慌ててたから、鍵かけるの忘れてた。抜かったな。
「頭、いてぇ……」
「二日酔いか? 無理すんなよ」
二日酔い? 何の話をしてるんだ。
「俺は法は守るぞ。酒も煙草もまだ無理」
「え、ええっと……法? 昨日、ミルヒが悪戯でジュースに酒入れちゃってさ。微量だけど、青葉べろべろに酔って」
今度、あの馬鹿ネコにマタタビ地獄お見舞いしてやる。
人の飲み物に盛るとか毒殺に近いぞ。あのウェイトレスをクビにしろ。
「薬飲むか? あ、吐き気あるなら無理か」
「いや、大丈夫だ。それどころじゃねぇし」
「エイルさんのことか……」
「ああ、ぴくりとも動かない。それに虚無の侵攻も進んでいる」
「それでトーマが付いてたわけか。アニーは取り乱すし」
どうすればいい。今の状態を考えるには、集落のジジイに会った方が情報を得られる。
でも、エイルを放っておくことも出来ない。
あいつに何かあったら、俺にもペナルティがあるんじゃないか。
そもそも、エイルは何で意識不明になってんだよ。
「少し冷静になれよ。お前らしくもない」
「ライド、何悠長なこと言ってんだ! 此処に住むお前だって、人ごとじゃないんだぞ!!」
「騒いだり慌てたりして改善されるならしてるさ。エイルさんの症状についても、分からないなら原因を突き止めればいい。青葉、お前が今やることは何だよ。対策もなしに此処で喚くことか? それなら帰れ」
「くっ……!」
ライドの言葉に間違いはない。
そうだ。冷静に……冷静になれ。
出来ることしか出来ないんだ。俺みたいな三流は特にな。
溢れ出たものを掬い取ることは出来ない。俺だけじゃ、無理だ。
「ライド、急いでエルフの集落に行くぞ」
「エルフの? おい、エイルさんはいいのか」
「少し衰弱はしてたみたいだけど、魔力は枯れてない筈だ。──そうだろ」
手の施し要は、まだある。
それは、部屋からトーマが出てきたことで理解出来た。
「魔力がかなり消耗してて疲れてるみたいだから分けておいた。少しすれば大丈夫だと思う。何もなければね。ライド、念のためだけどアニーにエイルさんの看病させて。彼女も一緒にいる方が落ち着くと思うし、急変があるとしたら魔力が減少している線が濃厚だから」
「あ、ああ……」
本当に、こういう時に頼りになるから堪らないよな。このガキは。
「俺は、アトリエに戻って道具揃えてくる。終わったらまた来るから、準備しとけ」
「おい、青葉。お前、頭痛は──」
「二日酔いなんて情けない理由で休んでられるか。俺が来たときより世界が悪化したのは、俺にも責任の一端があるんだ。やれることをやらないと落ち着こうにも落ち着けねぇ。エイルが起きたときに、今後の相談もしないといけないからな」
その前に片付けられる問題は片付けておきたいんだ。
「なあ、青葉。お前がエイルさんについてあげてた方がよくないか。心配なんだろ」
「はあ!? 何で俺がエイルを心配するんだよ。ありえねぇだろ」
そりゃ、情がないと言えば嘘になるけど。
心配なのは、エイルじゃない。エイルに何かあることで、俺の身に危険があるかもしれないというか……不安というか、そういうの。
もし、あいつがいなかったら俺の生活だって変わるだろうし。
あいつは、俺がこの世界で生きるためのガイドも兼ねてるわけだし──
いやいや、何の言い訳してんだよ。
別に心配とかしてないから。
女と出来れば関わりたくない中で、頑張ってると思うぞ。
俺の努力って、まだ認められないの?
世界救済はともかく、女とのコミュニケーションは──
「あ、固まった」
「ライドが分かりきったこと言うから。こいつが認めるわけないでしょ」
「はは、それもそうか。おーい、青葉。悪い悪い、行くなら早く準備しろよ。急いでるなら尚更な」
そうだ、呆けてる場合じゃなかった。
しっかりしろ、俺の頭。雑念を捨てろ。
集落に入る鍵の風転石も一応は持ってるし、武器と外出用の道具と簡易錬金術セットを持ち歩くだけだ。
「あ、青葉。急いでるとこ悪い。聞きたいことひとつあるんだった」
ライドが俺に鞘付きのマチェットを投げる。
便器に落ちないように受け取ると、俺がほっとしてしまった。
何で至近距離で刃物を投げるんだ、こいつは。
「仕組み教えてくれないか。これは単純な好奇心」
「あ?」
仕組みって、武器の仕組みならお前の方が分かるだろ。俺は異世界の素人だって何度言えば分かる。
「俺にとって、ひとつだけ納得いかないことがある。お前が武器を操るときの性能だ」
「性能?」
「そっ。お前の使ってる剣の素材は?」
素材? 素材って、鉄とか銅とかその辺の意味だよな。
「そりゃ、お前が一番知ってるだろ」
「確認だ」
何だそれ、面倒くせぇ。
「ええっと、青晶石と炎銅石と瞬銀材……それから一般的な鉄材と鋼の合成素材だっけか」
青晶石は、氷みたいに冷たい宝石。
炎銅石は、溶岩の欠片が入った銅。
瞬銀材は、森林のような自然の香りを漂わす銀。
凄いよな。色んな鉱石を混ぜて作った鋼材なのに刀身の輝きは失われないし。
ライドってマジで凄い鍛冶職人だと思うわ。
鍛冶魔法抜きで、発想がおかしい。混ざりものって普通は嫌うんじゃないのか、職人って奴はさ。
「お、覚えてる。感心だ。あー、じゃあ……」
トイレから出たライドは、階段間際の部屋へと向かう。あそこ、ライドの部屋だったのか。
流石にトイレに篭りっぱなしは嫌だし、廊下に出る。
トーマに目配りするも、流石に理解出来ないか首を横に振る。
「これこれ! この箱。そのマチェットで、ぶっ壊してみてくれ」
ライドが持ってきたのは、純金のスーツケースの形をした箱。ていうか、取っ手がないスーツケース。
「てめぇ、今のこの状況で旅行に行く神経あるとか喧嘩売ってんのか」
「は? 旅行って……いやいや! 中身だよ! どんな鈍器使っても傷付かなかったから開けたいんだって! 下手に魔法とか青葉のあの剣使ったら箱の中身ごとやられそうだし」
「これ、何処で?」
「知り合いの行商に貰った。外装も悪くないし、金は素材になるしな」
怪しい取り引きとかしてねぇだろうな、こいつ。
「ま、ぶっ壊せばいいんだよな」
「出来れば中身を無事な状態にしてくれよ」
「保証出来ねぇよ。自分の武器以外、殆ど扱ったことないんだから。ひとまず離れてろ」
鞘を抜いてマチェットを握り直すと、金色のスーツケースに刃を突き立てる。
スーツケースが凹み、ボロボロに崩れると中身が剥き出しになる。
問題は、そこじゃない。
「おっ、まえ! 加減ってもんを知らないのかよ!!」
見事に二階で俺達が立っていた床も底抜けた。どうやら、力加減を間違えたようだ。
少し、イライラしていたせいもあるかもしれない。
「おらよ。開いたし、武器も無事だ」
「床が無事じゃねぇ!!」
「怪我なくてよかったろ。二階程度なら、お前らでも上手く着地出来るし」
「あーもー……修繕費がかかる。何の素材使おうとお前の武器持てば最強説は揺るがないのな」
何を今さら。
武器を使って俺の魔力を活性化させて強度上げてるんだし、身体能力も上がるんだってば。
属性の薬を使わないと属性付与の効果が出ないから、無属性のまま威力だけの力押しになるけどな。
「で、肝心の中身は──」
俺とトーマが覗き込もうとすると、ライドはそれを抱えてすぐに近くにあった布で隠した。
丁度、落ちたのが雑貨カウンター。布があるなんて都合良すぎる。そして、俺達には悪すぎる。
「おい」
何で隠すんだ、こいつは。
「素材が表に出るの良くないんだよ。本当に、嘘じゃない。あと温度管理もあるし、俺は工房に戻ってこいつしまってくる! トーマ、アイリとアニーのこと呼んでくれ。エイルさんの看病にはアニーが必要なんだろ」
「はいはい」
肩を落としたトーマは、店を出ていく。ライドには素直なのに、何で俺には当たりが強いんだよ。
「青葉も早く準備して来い。この素材、上手いこと行ったら後で分けるからさ」
「別にいいよ。後で見せてくれればな」
鋼材オタクだもんな、こいつ。これについては触れないでおこう。
ひとまずは、今の状況を片付けるのが最優先だ。
あまりにもしつこいと、無駄な時間を使ってしまう。
一日は短い。有効に使っていくしかないんだ。
──刻一刻とどうなっていくか分からないこの世界なら尚更な。




