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物件交渉

 気がつけば朝になっていたらしい。

 懐かしい音がする。俺の手元からしかしなかったその音は少し距離がある。

 フライパンで何か焼く音……この匂いは多分、ベーコンエッグだ。

 パンとバターの匂いもする。

 トントンとまな板を包丁が叩く音もする。

 俺が、毎朝用意していた料理に似ている。

 嗚呼、俺が朝飯を作らないなんていつ振りかな。


「ん……」


 瞼を開くと視界が明らかになる。

 視界の先には、キッチンに立つ一人の男。

 ぼんやりとした様子で、俺は寝癖頭を掻いて欠伸をした。


「ああ、起きた? おはよう。丁度、朝ごはん出来たよ」


「…………」


「青葉? あ、先に顔洗うか?」


「…………」


「おーい、青葉」


 俺の目の前で手を振り、胡散臭い笑顔を浮かべる睦月。

 いや、参ったね。こりゃ参ったわ。

 こいつなりの気遣いなんだろうな。

 でも、俺としては喜ばしくないんだわ。


「アトリエのもん触るなって言ったよな」


「えっ、あー……」


 人の家のものを勝手に使ってはいけない。

 これ、鉄則な。素直には喜べない。


「こちとら生活かかってんだぞ! 人の家の食材を勝手に──」


 いや、ちょっと待てよ。

 今、俺のアトリエには食材が殆どないはずだ。

 慌てて冷蔵庫を開けると、食材が備蓄されていた。


「な、何で……」


「あ、うん。勝手に物を減らすと怒られそうだし、泊めてもらってる身だからね。買ってきたよ。調理器具は借りちゃったけど」


 こいつ、馬鹿か。


「お前な! 何のために俺が泊めてやってるか分かる!? お前の家が見つかるまでの間、金がもったいないから泊めてんだよ! 手伝いさえしてもらえば、俺は──」


「まあまあ、早くしないと朝飯冷めちゃうから食べよう」


「話を聞け!」


「聞いてる聞いてる。ほら、朝から怒ると可愛い顔が台無しだよ」


 余計なお世話だ。

 何だよ、こいつ。所持金いくらあるのか分からないけど、本来の目的忘れてないか?

 居候させてるんじゃなくて、泊めてるだけだからな。


「大体、可愛いって男に言う言葉じゃねぇし」


「でも女の子みたいだよ。可愛いのはもちろん、華奢だし、髪も綺麗だし。寝てる姿とかお人形さんみたいだったよ」


「いい度胸してんな、てめぇ」


 睦月の胸倉を掴む。

 というより、思った以上に面倒くせぇ。

 俺の沸点が低いことを知らない訳じゃないだろ。

 短い付き合いとは言え、色々あったんだから。


「ほ、ほらっ! 朝ごはん、朝ごはん」


 どうどうと暴れ牛を宥めるように睦月が苦笑いを浮かべる。

 確かに飯に罪はない。素材や食料は大切に。腹を空かせては戦は出来ぬ。


「顔洗ってくる」


 まずは顔を洗って身なりを整えよう。

 飯が冷める前にな。


***


「今日は、どうするの?」


 サラダを馬のように頬張る睦月は尋ねる。


「食いながら喋るな。──そうだな。昨日のキューブについて調べたいかな。ああ、でも回復剤のストックもないから作りたいし、依頼を貰いにヤマネコ亭に行くのも……」


「ま、俺は工房ないと人形作れないしね。アテがあるって話は?」


「ああ、それな。何とかしてくれる奴がいるんだけど、面会謝絶」


「病気とか?」


「多分だけど、過労」


 一応は反省してる。

 エイルに会わなくても、物件を探そうと思えば──


「何でこんな簡単なことに気付かなかったんだ、俺は!」


 何であいつだけに頼ろうとしたんだ。

 睦月に早く人形作って貰わないといけないのに、エイルが回復するまで待てるわけねぇだろうが。


「今のなし。物件探しに行くぞ」


「え、いいの?」


「いいのも何も、お前が作業入れないのは俺も困るんだ」


 そうしないと、俺が研究材料にされて殺される。

 魔力が枯れない限り死なないとは言え、体が欠損したら流石に死ぬだろ。

 それで死ななかったら、これ程にない拷問だ。


「青葉は、大家とも仲良しなのか。コミュ力高いな」


「賄賂を渡して値切れば何とかしてもらえる。あと、肩書きも借りるぞ」


 使えるものは何でも使う。特に金がかかるなら尚更だ。


「んん? あの、よく分からないんだけど」


 分かるさ。実際に行ってみればな。

 そして、こいつが余計なことをしなければ。


 交渉は、相手を怒らせちゃいけない。

 これもまた、生きるための知恵だ。


***


「青葉、お前な……卑怯にも程があるだろ」


 新聞紙を折り畳んで葉巻まで吸っていた体の大きい毛むくじゃらなドワーフは、落胆したように肩を落とした。


「あんたが困ってるって言ったんだろ。眠れないから仕事に支障が出て、情けない姿を奥さんに見せたくないって」


 情けない姿を人に見せたくないという気持ちは理解出来る。

 眠れないなんて理由で仕事に支障が出るなんて自分への言い訳に過ぎないと思うけどな。

 気持ちは分かる。眠れないのに苛々して上手くいかないってのは。


 だから、俺は高品質の睡眠薬を交渉材料に持ってきてやってるんだ。

 素材もいいもの使ってるし、売れば三日は楽に生活出来るほどの値段がつく。

 この手の薬品は作るのに時間がかからないから楽だが、品質を意識するとどうしても神経質になる。

 この親父に必要なのは、充分な睡眠だ。

 求めているものを渡して交渉すると当たりやすい。

 そうでもしないと、俺の苦労が報われない。


「このままでいいわけ?」


「良くはねぇけどなぁ……って、それと引き換えに家賃を安くしろって横暴だろ!」


「何言ってんだ、お前。こいつは、人形師だぞ。工房持てりゃ、大道芸の機会が増える。それで、その大道芸人がこの町に在住して活性化が進む。そんで、外から客が増える。噂なんてすぐに広がるからな」


「だ、だから何だよ」


「ファンがつけば、住みたいって思う奴も出るだろ? お前のとこ、空き家ばっかで赤字じゃん。多少安くしてもメリットはある。集客数は増える可能性あるしな。でも、あくまで可能性の話。お前が貸してる物件がいつまでも埋まらないと食っていけないし、評判が少しでも下がったら……あー、この先はガキの俺には分からないなぁ」


 目を細めて口角を上げる。

 大家は顔を青ざめさせて震えた。


「わ、分かった! 分かったって!! じゃあ、この間取り……一番安いとこなんだけど」


「あ、パス。狭すぎ。馬小屋かよ、アホ。普通以上、自分で部屋弄れるとこで」


「土地なら何とかなるんだけどな。賃貸と言えど、贔屓したら他の奴に示しがつかねぇんだよ……青葉、分かるだろ? なっ?」


 確かに分からなくもない。

 同じ品質で同じ商品を、脅されたからと言って安くなんて俺だったら無理。

 かと言って、睦月をいつまでもうちに置いて事が進まないのはよくない。


「うーん……あ、これとかどうよ」


 大家が出した紙には、俺の知識で分かりやすく言うと1DKの十二畳くらいの間取り。トイレや風呂もついている。

 それで、家賃が月に百リール……向こうの世界で換算したら、おおよそ一万円。多分としか言えないが。


「おい、何かあるだろ。此処」


「曰く付き。前の住人が家族心中した。暫く音沙汰ねぇなら取り壊し予定だったところだ。改装も可能だから好きに使え」


「うわ……」


 これを値切ったら、俺が呪われるな。

 この広さで百リールは安いな。しかも、少し町からは外れ気味。多少うるさくしても問題は──


「睦月、どうだ」


 俺と大家の取り引き中には喋るなと言っていたが、まさか本当に黙っているとは思わなかった。一瞬、存在忘れてたわ。


「全然、構わないよ。怖いの平気だし、作業してたら気にならないからさ」


 お前のそういうところは凄いって心底思う。

 俺なら無理だね。

 地縛霊を自分の体に取り込むって言ったやつの台詞ではないと分かっているが、幽霊と同居なんてしたくねぇわ。


「身の安全は保証しねぇぞ」


「任せておいて下さい。迷惑はかけないと思います」


 思いますというあたりに保険をかけたな。

 確かに保証はないけど、後はこいつ次第だし俺は知らんぞ。


「野営で狼や熊の対策してた頃に比べれば、全然」


 俺と大家の口角が引きつる。

 マジでこいつさ、うん……逞しいわ。


***


「いやはや、家が早めに見つかって良かった」


 上機嫌の睦月は、町の往来を楽しげに歩く。

 こっちとしては、やべぇ物件を紹介してしまったから心穏やかではないんだがな。


「俺、これから新居見に行くつもりだけど青葉も来てみる?」


「行くわけねぇだろ! 俺は俺の用事済ませとく。キューブについて調べたいけど、その前に備品確保として作業するわ」


 外に出る機会があったら、急造で物を揃えられないし。

 今日は少し休む意味でも簡単な調合でもやっておくことにする。


「そっか。じゃあ、また後でアトリエに行くよ。流石に今日すぐには住めないからさ。掃除もあるし」


「はいはい。精々、幽霊に殺されないようにな」


「あはは、何言ってるんだよ。幽霊より生身の方が怖いって」


 俺の背中を叩くと、睦月は手を振って走り出した。

 生身の人間や生き物は怖いときは怖いが、幽霊も大概怖いからな。

 睦月みたいな奴を怖いものしらずとでも言うのか。


「帰ろ……」


 何で家探しに行っただけで、こんなに疲れるんだよ。考えすぎなのかな、俺。

 俺だけが神経質で当事者が能天気なのは、理不尽を感じる。


「気楽には、考えられないよなぁ」


 深い溜息ひとつ吐き、肩を落とすと空を仰いだ。

 相変わらず、ひび割れが剥き出しの虚無と本当の青空。コントラストとしては最低だ。

 本当は、これを見るのが怖い。

 世界の命が少しずつ削られるのが怖いというのももちろんある。

 それ以上に──


「たまの息抜きに空でも描きたい」


 とてもじゃないが、描きたい空じゃない。

 地獄絵図を描く趣味はない。


 ひとまずは、アイテムの備蓄が最優先とアトリエへ戻るために歩を進めることにした。

 面倒なことを考えるのはそれからだ。

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