奪われたファーストキス
町の中央地点から離れた場所に目的地がある。
エイルが何回か言っていたアトリエというやつだ。
道の途中、エイルからこの世界……イェルハルドの状況を聞いた。
空が壊れている理由。殆ど人間がいない理由。
このままだと空が崩壊して全ての生き物が生きていける環境じゃなくなる。
大地も枯渇して俺も帰るどころか死んでしまうという話だ。
迷惑極まりない。
この侵食が続いたら俺も死ぬなんて、死神がお迎えに来たようなもんじゃねぇか。
しかも、既に空が穴ぼこだらけなんですけど。
マジで世界の危機って奴か。冗談だろ。
いや、全てが真実とは限らない。
確かめるまでは……錬金術とかが使えることを確かめるまでは信じない。
「此処です」
足を止めた場所、そこには何も書いてない看板と赤い屋根の小さな家。
木造仕立ての可愛らしい外見だ。
扉を開けると、カランカランと扉の内側についた鈴が涼しげな音を立てる。
「これが、俺の」
俺の本拠地らしい。
内装は地味で本棚と机、化学の実習で見るようなフラスコや試験管。
ああ、あれって遠心分離器だっけ? 生は初めて見た。
置いてあるトンカチも普通よりもでかくて、完璧な鈍器だ。
ひとまず、そんな化学器具と工具のそれらと本が並ぶくらい。
そして、机の上にはスケッチブックとペン立て。
俺の足は真っ先に机に向かい、スケッチブックを手に取った。
「俺のだ」
色の無いデッサンから、絵の具で色をつけたもの。
どれも高い場所から描いた見慣れた風景画だった。
持っていたスケッチブックの側面をぐっと強く握る。
今、此処にいる世界は俺の世界じゃない。
見知らぬ街、見知らぬ非現実な世界だ。
この世界を異世界と認めても、俺は自分が特別だとは思わない。
魔法なんてあるわけない。
それを証明するためには──
「どうしたらいい?」
何をどうすればいいのか分からない。
目に見える証明が欲しい。
「はい。作りたいものの絵をスケッチブックに描いて下さい」
「は?」
「そうですね、最初は簡単なもの……食べ物とかいかがでしょう?」
「えーと?」
何を言っているんだ?
絵を描けって、錬金術と何か関係あるのか。
エイルが何を言っているか不明だが、此処は従うことにしよう。
俺は適当に近くにあったペンを取り、一分もしないうちにオムライスの絵を描いた。
何が悲しくて異世界でオムライス描いているんだ、俺は。
「これは?」
「見て分かるだろ。オムライスにしか……って、何だこれ」
スケッチブックには、俺の絵があった。
先程のオムライスの絵だが、着色されて更にきめ細かい解読不可能な文字が並んでいる。
「やっぱり本物。このレシピからは感じたことのない魔力を感じます」
「レシピ?」
レシピって料理手順とか描いてるあれだよな。
俺描いたのってただの絵だぞ。しかも着色しない線画だけ。
「では青葉さん、この通り作ってみて下さい」
「この通りも何も、絵と変な暗号しか無いだろ」
それともこの変な文字列って、この世界の言葉とか?
おいおい、分かるわけねぇだろこんなの。
「あ、そういえば」
エイルが何かを思い出したようにすると、すぐに顔を真っ赤にして俯いた。
「こ、これも……この世界が生きるため。それに比べたら、こんな羞恥心なんて」
「は?」
「青葉さん、ごめんなさい」
顔を真っ赤にしたまま謝罪し、エイルは俺の顔を引き寄せて唇を重ねた。
「――っ!?」
頭が真っ白になる。
何をされてるんだ、俺は。
キスだよな、これ。何でだ。
何で俺は、エイルとキスをしてるんだ。
背筋にぞくぞくと悪寒が這い上がり、体が震えた。
女はやっぱり嫌いだ。
行動が何もかも読めなくて、知り合ったばかりの男に平気で口付けをする。
お前らの心には羞恥心というものが存在しないのか。
しかも、ファーストキスなんだよ、これ。
いや、一生キスするつもりなんてないけどな。
女は嫌いだし、男だって論外だ。
暫く口を塞がれていて体が火照るのを感じると、エイルを突き飛ばした。
突き飛ばされたエイルは床に腰をつく。
「はっ、はぁ……何だよ、お前! 何でこんなことっ……!」
ああ、やばい。泣きそう。
屈辱と恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
「ごめんなさい、私……」
「お前がどういうつもりで俺を思ってんのか知らないけど、俺はお前を信用していない。俺に触るな!」
怒りに叫んで俺はエイルを睨んだ。
エイルの目尻には大粒の涙が溜まり、顔を真っ赤にして嗚咽を上げると同時にその涙が零れ落ちる。
泣きたいのは俺の方だ。
何もかも分からなくなって、不快な思いばかりさせられて気分は最悪だ。
「違うんです。こうやって魔力を注ぐしかこの世界に適応する体を作れないんです」
「体を作る? 何意味不明なこと言ってんだよ。ファーストキスだったんだぞ!」
「私もそうです! だけど、青葉さんに必要なことだからやりました。気に食わないなら私を殺して構いません。その代わり、あなたの錬金術でイェルハルドを救って下さい!」
エイルが宝石のような碧眼で俺を睨みつけ、声を荒げた。
その声に俺の肩が僅かに揺れ、言葉を失った。
こいつ、今なんて言った?
殺していいって、どういうことだよ。
自分の身よりもこの世界が大事だっていうのか。
確かにこの世界が死んだら自分だって死ぬのは分かる。
でも普通は自分が可愛いから、最後まで生き残りたいとかそう思うだろ。
何で俺なんかにそんなに期待してんだよ。
「だから、錬金術なんて」
「これを見てください!」
エイルは、さっき俺が描いたオムライスの絵を突き出した。
だから、それと錬金術の何が関係してるんだよ。
渋々エイルから絵を受け取る。
一体、この絵に何があるって言うんだ。
「え……?」
俺は自分の目を疑った。
確か、さっきは絵のほかに変な文字が羅列されていてわけのわからないものだった筈だ。
だけど、今は違う。
その変な文字列が俺の頭の中に入ってきて、いとも簡単に解読出来た。
つまり、その摩訶不思議な字が読めるのだ。
「えっと……」
つまり、エイルの言葉が本物だとすればこうだ。
この世界に対応した体を作る。
それは文字の読み書きとか日常生活に支障の無いような体になったということなのかもしれない。
つまり、ファーストキスと引き換えに便利な生活を送る準備が整ったということか。
これはもう信じるしかないだろ。
だって現に変な暗号が読めるんだから。
だけど、これってエイルにとって何の得になるんだ。
異世界の知らない男にファーストキスを与えてまでこいつはこの世界を救いたいってことなのか。
自分が損してまで?
「この……フィン鶏の卵って何?」
レシピは読めるは読める。
だが、そこに書いてある材料は俺の知らないものばかりでますます現実味をなくしていく。
「青葉さん……!」
エイルの顔に僅かばかり笑みが零れる。
レシピに興味を持った俺が進歩していることを喜んでいるのだろう。
さっきまで泣いて怒ってたくせに表情豊かなんだな。
心なしか俺の胸も穏やかになる。
勿論、女って時点で信用していないのだが。
「この町、ルーイエを抜けた先にエルフ達の集落があります。そこで飼っている鶏がフィン鶏ですよ」
やばい。やばいぞ、この状況は。
何がやばいって、俺は散々この女に酷いことを言って泣かせた。
実はエイルがいないと右も左も分からない。
しかし、此処で頭を下げてお願いするのも嫌だ。
というか、錬金術を求めてるのはエイルの方だよな。
寧ろ、頭を下げるのは、この女なわけだ。
俺は悪くない。悪くない。こいつがどうしてもって言うから――
「さっきは悪かった。手伝いとか……してくれ」
俺って全力全開で馬鹿だろ。
言いたいこととやってることが正反対。
俺悪くないし。悪くないから謝りたくもねぇし。
そもそも錬金術とか使えるわけねぇからどうでもいいんだよ馬鹿。
何故……何故だ。何故、俺はこんなことを?
しかも相手は女。いつ何処で俺をどうにかするか分からない。
世界が滅ぶ前に俺の精神が打ち砕かれる。
「もちろん、お手伝いしますよ」
ふふっと軽く笑うエイルは、きっと狂ってる。
あんだけ酷いこと言われておいてそんな笑顔浮かべるなんて、まるで聖人じゃないか。
駄目だ、どうしても情が移る。
俺の今までの人生でこんな変な奴は見たことがない。
俺のことを根暗だって馬鹿にしたり、小間使いにしたり、暴力を振るっても害の無い奴だって思われ続けて、それが怖かった。
俺なんかいなくたって誰も悲しまないって。
こいつはどうなんだろう。
俺のことを世界を救うための道具として見ているのだろうか。
それとも――
「青葉さん、実は耳寄りな情報がありますよ」
「耳寄り?」
「はい。幸運なことにこのレシピに書いてある材料は全てルーイエで揃えられます」
それはつまり、いちいちエルフの集落とか行かなくてもいいってことだよな。
「雑貨屋とかその辺で揃うってことか?」
「はい。ついでに青葉さんの装備も整えましょう。その服、此処では浮くので」
浮くって…俺が着てるのはただの制服だぞ。
一般的な高校生の格好が何故浮くんだ。
一瞬そんな考えがよぎったが、此処は異世界。
俺の常識は通用しない。
つまり、俺の常識は此処では非常識になる。
「か、帰りたい」
喉奥から振り絞った声で呟き、膝を床につく。
今のままじゃ俺は帰れないんだ。
出来るかどうか分からない錬金術でどうやって世界を救うのか。
というよりも、錬金術が出来なかったら俺はお払い箱だ。
何の意味も無い。
何の意味もなく、虐げられることもなく、異世界から来たイレギュラーな存在としてしか認められない。
今までの生活よりも拷問だ。
何の意味も無いというのが、一番きついんだ。
この世界中から集団無視を受けることになる。
「青葉さん、辛いと思いますが一緒に頑張りましょう」
優しくエイルが笑うとそれだけで癒された気がした。
何故かこいつは怖くない。
あれ、女ってこういう生き物だっけ?
欲望にまみれて男を誑かす存在じゃなかったか。
我ながら酷い解釈だと思うが、俺の人生経験上仕方ないのだ。
女という存在は俺にとってのトラウマで視界に映るだけで疑心暗鬼になってしまう。
でも、こいつはちょっと違う気がする。
何だか分からないけど、エイルは今まで会った女とは違う暖かいものを感じさせた。
だからこそ不安になってしまうのだ。
裏切られるのではないかと。
でもきっと、まだ大丈夫な筈だ。
俺は期待されている。
世界を救う錬金術師かもしれないという期待。
利用に値するかどうかの存在だとは思われても仕方が無い。
じゃなかったら召喚とやらをした意味も無いからな。
だから今は取り敢えず、従ってやる。
何故なら、俺一人じゃ路頭に迷うのがオチだからだ。