女嫌いの憂鬱
朝の日差しと共に重い瞼を開く。
小鳥の囀りがして、この真冬に朝から元気にご苦労様だと内心思い、布団の温もりを手放せず潜り込む。
この体の熱はきっとこの羽毛の殻を破った瞬間、失われる。
冬の冷気は、我々人類に厳しい試練を与える。
俺のような怠惰な十代若者には、それが尚更厳しい。
こういう時、アニメやゲームなら幼馴染の女の子が優しく起こしに来てくれるのだろう。
冬の寒さも吹っ飛ぶほどの愛という名の熱に心の快楽を抱きながら、朝から元気に登校するに違いない。
──何て、おぞましいテンプレートだ。虫唾が走る。
昔からの付き合いがある幼馴染が優しく起こしに来るなんて、聖人君子でもない限り有り得ない。
気心の知れる仲だからこそ、異性間は雑になるものだ。
そこに恋愛感情があろうとなかろうと関係ない。
あるとするなら、恋愛感情を汚した下心というものだ。
現実は残酷だ。
残念ながら、俺には幼馴染がいる。
それも社交的で和服を着せたら右に出るものなどいないほどの美人だ。
此処までは良いとしよう。
一般的に言えば、それだけで美味しいものだ。
繰り返すが、現実は残酷なのだ。
社交的で和服が似合う美人だからと言って、誰が中身まで可愛いというだろうか。
今の現代社会、根拠もなくそういう奴を見ると心底同情する。
そう、少なくとも俺の幼馴染は中身が可愛くない。
というよりも怖い。
それは、今の俺の状態から分かることだ。
「青葉、いつまで寝てるの? 隙だらけだと一思いに永眠させちゃうけど、いいかな」
布団から強制脱皮をさせられて、関節技をかけられた直後の俺の体はボロボロだった。
朝の目覚まし代わりが、俺の幼馴染である加藤愛美の暴力行為である。
朝から無理矢理に床に組み敷かれる感覚は最低最悪で、それをかける愛美の人格を改めて問い質したくなる。
起きた瞬間にあの世行きも遠くない未来かもしれない。
ひとまず、脳を刺激された衝撃で完璧に目が覚めてしまったのは事実だ。
この目覚ましで毎日遅刻せずに済んでいるわけだが、どうしても素直に喜べない。
毎朝必ず痛い思いをするのはもちろんだが、こんなものは朝の波乱の第一幕でしかないのだ。
「ほら、お母さんもお姉さんも青葉のこと待ってるんだから。やることいっぱいだよ」
言われなくても分かっている。もはや日課だからな。
「朝食と弁当の用意、洗濯、掃除…俺は何処のシンデレラだ」
下克上なし版のシンデレラ。灰被り猫が俺、橋崎青葉の立ち位置だ。
魔法で綺麗になることもなければ、王子が迎えに来るわけでもない。
ただ延々と女に蹂躙されるだけの男だ。
「つべこべ言わない。あたしは目玉焼き半熟でよろしく」
「お前の辞書に遠慮という単語は存在しないらしいな」
此処で黙ってれば事なきことを得るだろうに、ラリアットを喰らうことで俺の痛みは蓄積されていく。
自業自得と言われるとそれは理不尽な言葉になる。
愛美が部屋から出た所で漸く落ち着きを取り戻せた。
寝巻き代わりの伸びきったよれよれのジャージを着て、しつこい寝癖で頭がぼさぼさの自分の姿が鏡に映し出されると溜息が出る。
線の細くて中性的な顔がナメられる対象になるのだろうか。
昔はよく綺麗な顔をしているとか言われて良い気になって喜んだものだが、今となってはそれが枷になっている。
かと言って、この顔でガチムチ体型も気持ち悪い。
全ては諦めるしかないのだ。
言いたい奴には言わせとけばいい。
「っと、早くしないと殺されるな」
比喩ではなく、真面目に殺される。
皿が飛んでくるなんてしょっちゅうだ。
脳天にマグカップが直撃した時は脳震盪を起こして死ぬのではないかと疑ったくらいだ。
そんな回想に耽りながら、着替えを済ませる。
階段を下りて朝食の準備をする。何パターンかのレパートリーはあれども、朝食にそんなに時間は割けない。
洗濯物や掃除は朝食後すぐに取り掛かり、登校時間十分前に家を出て走っていくハードスケジュールだ。本当に勘弁して欲しい。
小さい頃に母親の鬼嫁無双により蒸発した父親の気持ちが、成長していくうちに分かってきた。
早いうちに俺も家を出て母親や姉、凶暴な幼馴染から解放されたい。
そこでやっと自由になれる気がする。
***
何とか滑り込みセーフで学校に辿り着き、ホームルームを終えると、そそくさと教室を出る。
俺に気付く奴なんか一握り。気付いたところで、気にも留めないだろう。
いちクラスメイトの地味な挙動に反応なんてそうするものか。
俺の向かう先は、トイレでもなければ所用があって職員室に行く訳じゃない。
────屋上だ。
正直、土日明けの倦怠感からのこのハードスケジュールはきついものがある。
だから大抵、月曜の午前中は授業をサボって屋上に昇るのだ。
鍵かかっているんじゃないかって? その辺も対策済みだ。
「自由になりてぇな」
そんな俺の呟きは空に吸い込まれるように消えていく。
何はともあれ、寒空の冷たい空気に体の熱が奪われていくのが感じるものの、この澄んだ冬の風は嫌いじゃない。
こういう時こそイメージが湧くのだ。
「さて……」
鞄から一冊のスケッチブックを取り出す。
今日は快晴。コバルトブルーの空に浮かぶ飛行機雲。
屋上から覗く町の風景は悪くない。
寧ろ、デッサンをするにはうってつけなのかもしれない。
俺が一番心休まる時間。
それは誰にも邪魔されず、静寂の中で絵を描くことだった。
この手で筆を走らせれば形が出来る。
そう、このキャンパスの中は俺が作り出す世界なのだ。
自分の作り出すものは裏切らないし、暴力を振るわないし、拒まない。
何故なら、この世界では俺こそが神。
俺しかいない世界だから。
「…………」
ふと手が止まる。
そうだ、この世界には俺しかいない。
絵を描くことが好きだということは友達や家族ですら知らない。
そんな大層なものでもないし、言う必要もないから。
俺のことなんか誰も興味を示さない。
表面上仲の良い友達も小間使いとして扱う家族も、本当の俺のことなんか知る由もない。
「何ナーバスになってんだよ。今更じゃねぇか」
自嘲気味に笑ってスケッチブックを閉じ、膝を抱えて蹲る。
余計なことを考えるとすぐにこれだ。
人を信用しない俺が捻くれてるのは自分自身で分かる。
考えても仕方ないことなのに脳裏に浮かぶと離れなくなる。
そして考え続けてしまうのだ。
心の引っ掛かりを感じて嫌なもやもやが身体に染み付いてしまって、中々拭うことが出来ない。
「駄目だ、帰ろう」
こんな沈んだ顔でクラスに行っても一部の友人に変な勘繰りをされて話を引き出されそうだ。
そして心配した振りをした隣の席の女子あたりが暇潰しに声をかけるのだろう。
冗談じゃない。
嫌な気持ちになるばかりで全然解消されない。
顔を上げて立ち上がろうとすると、俺の思考が一時停止する。
「──ッ」
目の前には金髪碧眼の少女。人形のような色白い肌。
芸術的な美術品を見たときのように一瞬見惚れたのかもしれない。
しかし、我に返る。
こいつは女だ。俺達、男とは別次元の凶悪な生き物。
男を捕食するだけの存在。
それを認識した途端、俺の顔が青褪めて目眩を起こす。
「あの、大丈夫ですか?」
遠慮がちに少女は俺の顔を覗き込む。
「……くな」
「え?」
小さく呟いた俺の声が聞こえなかったらしい。
少女を睨みつけて俺は立ち上がった。
「俺に近づくな!」
こんな気分が落ちた時によりにもよって女と至近距離になるなんて冗談じゃない。
最悪だ。ああ、最悪だよ。
俺のことは放っておけよ。近付くなよ。
大体、何だよ。この女の格好おかしいぞ。
首には白銀の装飾がつけられたネックレスに肩出しの白いワンピース。それに合わせたブーツと手袋。長い金髪についてる髪留めなんか、この辺で売ってそうにない高いものだということが分かる。
何処のファンタジー出身のお嬢様かコスプレの痛い奴だよ。
いい加減にしろよ。
「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりはなくて、あの……」
少女は遠慮がちに俺を上目遣いで見る。
ああ、作戦か。作戦なんだな。
女が男を誑かす時に使う特技だよな。
そんなもの俺に効くものか。
今までその手で何度騙されたか分からない。
残念だが、俺には耐性がある。
「うわっ」
一瞬、わざとらしい程の強い風が吹く。
流石に冬の風の風圧を一気に受けるのはきついものがある。
先程、地面に置いたスケッチブックのページが開かれる。
俺が今まで描いた絵が本のようにパラパラと開かれる。
「あ……」
見られた。
誰にも見せてない俺の世界が。
よりにもよって見も知らぬ初対面の女に。
笑うなら笑え。こんな面白味のない風景画を描く俺を笑って罵れ。
俺の心は少し折れかけていた。
授業をサボって屋上で絵を描く男なんて漫画の中くらいしか存在しないって笑えばいいじゃないか。
「魔力が」
少女が驚いたように目を丸くして呟く。
魔力? 魔力って、何?
彼女の視線と同じ場所に目を向けると、その目はスケッチブックに辿りつく。
俺の絵が何だってんだよ。
何か禍々しいオーラが出てるとか言うんじゃないだろうな。
冗談じゃない。これ以上放っておけるか。
「あっ!」
俺がスケッチブックを取った途端、それを制止するように少女は俺の手を取る。
背筋に悪寒が走った。
女に触られたショックだと思ったが、どうも違う。
悪寒と共に走ったのは胸の奥から這い上がる熱。
それと同時に俺達の足元から青い光が発せられ、重力をかけられたように体が重くなる。
大変な超常現象だ。
もしや、この女は関わってはいけない奴なのか。
いや、最初から関わるつもりはないが。
「――っ、離せ!」
捕まれたその手を振り払おうとしたが、びくとも動かない。
まるで瞬間接着剤でくっつけられたように俺達の体は徐々に密着していく。
何が起きているんだ。俺は何をされているんだ。
夢か。そうだ、夢に違いない。こんなこと有り得ない。
この場所に光を発す道具なんて存在しないんだ。
だから、このわけのわからない超常現象は夢なんだ。
そう考えているうちに視界が定まらなくなり、力を失った俺は意識を手放し、世界が暗転した。