(三十二)窒素封印機体・1
アルカイドでの短い休暇は、鮮烈な思い出を形作ると共に、少年とオラシオン小隊の面々に思わぬ一日をもたらした。
アンテットと両親、クライシ家の財力、彼女の皮肉。
いつのまにか失恋していたソブリオ。
オトゥール・オーサー、ゼーン、リヴとの出会い。
トゥシェの語る虚実と、その目に宿る憤り、スズの困惑。
誰も知ることのなかったガイツハルスの嘆き。
望月季節の到来、無限軌道気流の出現は、ノリト・オロスコフに何をもたらすのか――「伝授!」――その声と共に灯を受け継ぐ少年に、新たな日々が待ち受ける。
黒灰色の風の壁が超音速で吹き荒ぶ、その間際を、ひとつの機影が危うげに飛んでいた。
周囲は一面の乱雲に覆われ、陽の光は及ぶべくもない。
対界平線高度は1万5千キロメートル――無限軌道気流の間近を、黒灰色の機体は必死に駆けている。
「びびるな! ピッチ下げろ! 煽られたら一瞬で喰われるぞ!」
油断なく虚像把握しながら、イオキベが前部座席に向けて叫ぶ――僅か100メートル横、超音速の巨大な大気の流れは、外気から完全に遮断された機内にまで、その轟音を響かせていた。
「む、無茶苦茶ですよ! 超高空で揚力もろくに使えないのに!」
怖気をふるったノリトは、後部座席に向けて絶望的な声を返す。
「はいはい、重力制御、重力制御!」
「加圧感知器が逝っちゃいますよ!」
「はいはい、大丈夫、大丈夫!」
「根拠を感じないんですけど!」
秒速およそ450メートル――飛行速度は音速を越えている。
全周400キロメートルにおよぶ無限軌道気流の巨大な湾曲部、高さ6キロメートルにも及ぶ巨大な風の壁に引き寄せられ、今にも機体は呑み込まれそうだ。
「うるせぇ! こっちゃ虚像把握で手一杯なんだよ! 無駄口叩くんじゃねぇ!」
「虚像把握ぶらさないでくださいよ! こっちは操縦で手一杯なんですよ!」
「じゃあお前が虚像把握しろよ!」
「出来るんだったらやってますよ!」
「じゃあ大人しく操縦してろ!」
「だからやってるじゃないですか!」
「うむ! それで良し!」
「はいっ!」
思わず素直に返事してしまった少年は、数瞬してから叫んだ。
「――いやいや! そういうことじゃなくて!」
背後の青年は、高らかに笑った。
「潜航座標修正、次の直線で潜るぞ! ピッチ下げろ!」
「もう付き合いきれないよーーーーーーっ!」
どうしてこうなったのか、少年に振り返る余裕はなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「屋内での座学なんぞには付き合わねぇよ」
事も無げにパーセウス・イオキベは言った。頬張ったサラダ菜が、唇の端からはみ出している。
「案の定」という風に、スズ・オラシオン大尉は肩をすくめた。昨日の休暇で充足したのか、いかにも寛いだ様子で紅茶杯に唇を寄せる。
――隣の都市島で羽を休めた翌朝の食事時、オラシオン小隊はいつもの円卓、いつもの席次だ。
「えー、でも、『オラシオン小隊の飛行訓練への全面的な協力』は契約の内なんじゃないですかぁ?」
不満そうに言うのはトゥシェ・ドゥルキス少尉だ。少しぽってりとした桃色の唇を尖らせている。
「イオキベ工房との契約内容には他の業務も含まれてるからな……まあ、航空技術元型の解説なら、俺にも出来るさ」
厚い唇に渋めの熱い緑茶の湯呑を寄せながら、アウダース・ゼール中尉が言葉を返す。朝からがっつり山盛りの牛丼を平らげた舌には、程よい苦みのようだ。
「でも、他の業務なんてなんかありましたっけ?」
「あれだよ、旧型航空騎兵の復元でしょ」
「あー、あれ! あれ、使えんのほんと?」
「使えるから復元するんじゃないの?」
「へー、あんたには使えんだ、あれ」
「いや、僕には使えない、だろうけど……」
「さっき『使える』って言ってたじゃん」
「なんでそういう話になるんだよ……」
話に入りつつ掛け合いを始めたのは、アンテット・クライシ少尉、レーニス・ウルゼン少尉だ。終始、金髪の彼女がはしばみ色の髪の彼をいじる形だが、存外仲良く見えるから不思議だ。
「窒素封印機体か……なんであんなものがこの前線に回ってきたんですかね」
不思議そうに口を挟んだのは、ソブリオ・フェルマー少尉――銀髪に灰色の瞳、なかなかの優男だ。
それに答えたのは、その対面に座るラソン・スピーア少尉だった。
「兵站本部の手違いらしいけど……連中も何やってんだかね。まあ、そもそも機体が不足してるって噂もある」
苦笑すると、細い目がいっそう細くなる。前髪をつんつんに整髪し、黄色に染めた短髪が特徴的だ。
その苦笑を、スズが引き継いだ。
「当隊の予備機もままならなかった程ですもの……今後に備え、飛べるようにしておくのは平時の務めというものでしょうね」
「さて」……と前置きして、スズ・オラシオンは空いた紅茶杯を置き、顔を上げた。肩にかかっていた長い黒髪が、さらりと胸元に流れ落ちる。
「一同、今日の予定、若干修正します」
各員、一斉に隊長へ向き直る――ノリト・オロスコフも慌てて、海老炒飯を口に運んでいたスプーンを置いた。
「食べながらでいいのよ」とスズに言われ、黒髪の少年は赤らんで俯いた。オラシオン小隊の彼らに比べ、どうしても食べ遅れてしまう――彼らが軍属だからそうなのか、自分が子供だからそうなのか、ノリトには分からなかった。
「そうらぞのりほ、ひにへずくえ」
「あなたは少しは気にしてください」
いつまでもサラダ菜を頬張るイオキベに対して、スズが嘆息をついた。
「本日の内容は、全日、座学に集中します。……とはいえ、机上の空論を養うつもりはないわ」
ちら、とイオキベを横目に見て、黒髪の大尉は続ける。金髪碧眼の彼は、素知らぬ顔でサラダ菜に取り組んでいる。
「午前中は各機に保存された航路と飛行経験の整理、解説に使います。講師は私と、中尉、お願いしますね」
黒肌の中尉が肯いた。なんだか古強者の貫禄があるなぁ……ノリトは感じ入っていた。
「午後は、それぞれに航空技術元型の組み上げに集中します。主目的はただ一つ、明日の対弩級竜種想定空戦訓練において、各機の平均反応速度を5%以上、上げること」
ひぃ……誰かが喉の奥で悲鳴を上げた。それがどれほど大変な事か、一応は空軍士官学校に身を置いたことのあるノリトにも分かる――まだ新人士官ならまだしも、既に彼らは十分な技量を培い、実戦に身を投じる現役の騎士なのだ。
「あの、隊長、もし5%いかなかったら……?」
おずおずとアンテットが尋ねた。
「晩御飯まで体力訓練」
スズはにっこりと微笑んだ。
ひぃ……誰かが喉の奥で悲鳴を上げた。
それで、朝の意識合わせは終いとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「隊長」
意識合わせ後、三々五々、座学前に自室に戻る他の隊員を横目に、珍しく自分からスズに声をかけてきたのは、染め上げた髪もまばゆいラソンだった。
「どうしたの?」
「イオキベ工房のお二人に、支援をつけなくて大丈夫ですか? 何でしたら自分が」
「イオキベ氏とノリトくんの二人なら、特に支援も不要でしょう。整備班との協調性にも問題なさそうだし」
小首をかしげ、スズが返す。
「それはそうなんですが、民間人を放置するのもどうかとは思いまして……」
「その点はピレルゴス曹長にお願いしてあるから、大丈夫。おかしな事は出来ないでしょう。それよりも……見てみたくない? イオキベ氏の航路と飛行経験」
「それは…………見たいですね」
「でしょ」
にんまりと笑って、スズは言った。
(つづく)
次回は、2015年10月13日(火)18:00、掲載予定です!
されば次回まで、ごきげんよう!
フライ・ルー!




