(三十)都市島・12
鬣のような金髪を広げ、白い砂浜に大の字になったパーセウス・イオキベの姿を、真円の月が照らしていた。
彼がその碧眼をうっすらと開くと、いつの間にか上空の厚い雲は、遮光布を広げるように、白い月光に道筋を譲っている。
(わっ! 起きたっ!)
(ノリトくん触っちゃだめだよ! パンツァーがうつるよ!)
(トゥシェさん、先刻までつんつんしてたじゃないですか……)
絶床空間を約7年毎に訪れる、永遠の満月――それは、それ自体が発光体のようにも見えたし、世界に空いた穴のようにも見えた。
「……あ~、あれかァ、あれねェ」
(何のことだと思います?)
(そうとう頭うったかなぁ?)
イオキベの漏らした呟きに、怪訝そうに小首を傾げた後、ノリトとトゥシェは、その碧眼がぼんやりと放つ、視線の先を追った。
「わぁ!」
二人が声を上げる。
宵闇に包まれたアルカイドの上空、雲間から顔を覗かせたのは、月だけでは無かった。
「無限軌道気流だ……」
――無限軌道気流。
望月季節に現れる極めて特殊な気象現象。
絶床空間の上下を定義する果てしない重力線と、突如としてやってくる月の引力によって発生する大規模気流と目されているが、詳細な事は分かっていない。
膨大な大気を抱え込んで永遠の気流を作るそれは、超気圧が回転運動することで自然と浮かび上がり、絶床空間の遥か上空に、途方もない「∞」の字を描いていた。
ノリトとトゥシェの声に、スズやアウダース、小隊の他のメンバーも夜空を見上げた。真円の月に被さるように描かれた巨大な無限気流の姿に、次々と驚きの声を上げる。
白い月光の光を受けて、それはきらきらと輝き、脈動するかのようにも見えた。
「こりゃまた、とんでも無い物が出てきなぁ」
「巻き込まれでもしたらどうなんだろね……」
恐々として空を見上げるレーニスとアンテット。
その傍らについと立つと、スズ・オラシオンが記憶を紐解いた。
「直径約130キロメートル、幅約6キロメートルの超音速の帯が周回400キロメートルに及ぶ無限の輪を描く大気現象……。大気が極度に薄くなる、対界平線高度1万5千キロメートルまで上昇すると言われているから、私たちが接近遭遇する機会は無いわね。最近では7年前、調査部隊のペラン・クチール飛行隊がその調査飛行中、黒藻宙底層から突如として出現した無限軌道気流に不幸にも接近遭遇しているわ。その際、さらに不運なことに、所属する航空騎兵2機が上昇に巻き込まれ、即座に行方不明になったそうよ。彼らの機体の残骸が上空から落ちてきたのは、それから約1ヶ月後、望月季節も終わり、無限軌道気流が散逸した頃との記録が残っているわ……」
「やっぱり、巻き込まれたら終わりってことじゃないですか!?」
淡々と語るスズの声に、ソブリオは悲鳴を呑みこんだ。その銀髪の頭後頭部を、アウダースが軽く小突く。
「だから、対界平線高度1万5千キロメートルだって大尉は仰ってるじゃねぇか。人類居住空域よりずっと上空だ。やばそうな現象じゃあるが、俺たちにとっちゃせいぜい、酒のつまみみたいなもんさ」
「つまみだっ!」
「うわぁびっくりした!」
飛び起きるイオキベに、のけぞるノリトとトゥシェ。右手でしっかり一升瓶を握り、左腕をぐるぐる回しながら、イオキベは声を上げる。
「うーっし、呑み直そうぜぇ~!」
「まだ呑むの!」
「あんだけ蹴り飛ばされたのに、どんだけタフなんだよ、お前」
苦笑しながら、それでもアウダースは、ラソンが運んできた麻袋に手を入れると、中身を取り出し始めた。人数分の木の升、大量の手持ち花火、そして、これまた大量の骨せんべいを詰め込んだ木箱が、彼のごつい手によって、丁寧に卓袱台に並べられていく。
「よっしゃー! 花火! 花火しよ!」
「あ、そういえば、お昼の残りも結構ありますね……」
「まずは乾杯といきますか」
「わぁ! なにこれぇ? おせんべい? 変なの~」
「私も一口もらっちゃおうかな……」
いそいそと花火を手に取るアンテット。
大きな籠や携帯冷蔵箱から、お昼の残りを取り出すレーニス。
ソブリオはイオキベから一升瓶を受け取ると、木の升に注ぎ始めた。
トゥシェは木箱から、勝手に骨せんべいを取り出すと、一口齧る。
スズも酒の芳香に誘われて、思わず升を手に取る。
大型日よけ傘は畳まれて隅に置かれ、賑やかになった卓袱台の周囲に、一同は集った。気づけば、いつもの席次だ。
「少佐、どうされたんですか?」
ノリトは、そんな騒ぎをよそに独り、空を見上げるガイツハルスに声を掛け、ぎょっとした。真円の月に掛かる無限軌道気流を見つめ、彼は涙を流していた。
「いやぁ、美しいなぁ、美しいよ! 危険な世界の危険な現象だが、それでも、我が心はその優美さに感動して震えてしまうよ……!!」
ガイツハルスの思わぬ純朴さに驚きつつも、一同は再び、そしてつくづくと、真円の白い月と共に夜空を飾る、無限軌道気流に瞳を合わせた。
「そうだなぁ……。天使でも封じ込まれてるのかも知れねぇなぁ」
イオキベが、のんびりと言った。
煌めき、脈動しながら「∞」の字を描くそれは、天使の翼のようにも見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ピュラーちゃーん! ピュラーちゃーん!」
「だーはっはっは! で、出たー! 出たよ! 生粋のピュラー派!」
ガイツハルス少佐が前髪を振り乱して愁嘆場を演じる一方、何が面白いのか、イオキベがその肩を叩きながら大笑いしている。
「……何かどっかで聞いた事ある会話だなぁ」
木の升を傾けながら、ソブリオはそう呟いた。
『太郎の立ち飲み屋』での情景がそのまま、再び酔っ払い形態に入った二人によって繰り返されているのだが、あの時と違うのは、丸くなって眠りこけるラソンと、差しつ差されつしながら美酒を楽しむスズにアウダースの姿、海の香り、潮騒、そして何より、火花散る花火の音だった。
「ぅおりゃー! 点火ぁーっ!!」
「ちょっ! こっち向けないでくださいよ! アンテットさん!」
「やーい! 燃えろ燃えろー!……って熱ぃっ!」
「うふふ~、アンテットのおしり丸焼きぃ~」
「あ! また点かない! 何で僕のばっかり……」
華々しい光を放つ手持ち花火から迸る火花は、宵闇に染まったアルカイド市の人工海岸を、色とりどりに染めている。ノリトたちが楽しげにそれを振り回す様を、ソブリオは前髪の奥からぼんやりと眺めていた。
「ノリトくん! ほら! ハート! ハート~」
「は、はい! ハートですね!」
「レーニス! ドラゴン描いてよ! ドラゴン!」
「そんな複雑なのは無理だよ……」
波打ち際に近いところではしゃぐ少年たち。
アンテットにレーニス、トゥシェも、童心に返ったような顔をしている。
「なんだよ、ソブリオぅ~。 お前やんねぇの? 花火?」
「……え、いやぁ、ああいうのは見てる方が楽しくて」
酔眼のイオキベから不意に話を振られ、咄嗟にソブリオは嘘を吐いた。
しんみり杯を傾けるほど、大人ではない。かといって、酔いに任せて馬鹿騒ぎをするのも疲れてしまったし、波打ち際の彼らの輪に加わるほどの元気も、今の彼には無かった。
「なんだよぅ、不貞腐れた顔してんぞ? ぱーっとやれ! ぱーっと!」
「嫌がらせですよ、そういうの……」
さらに顔を渋くして銀髪の彼は答えたが、何を思い付いたのか、ぱっと目を輝かせた。
「あ、じゃあ! 打ち上げ花火とかありましたっけ? 俺、あれ好きなんです。こう、気分が明るくなるっていうか……」
「買ってねぇ。あれは海を汚すから駄目だ」
「酒なんて持ち込んでる割に、変なとこ生真面目ですよね……」
即座に否定されて、ソブリオはがっかりする。
じゃあもうこっちに話振んないで下さいよ、灰色の瞳の彼は口の中でもごもご言うと、花火の向こうの昏い海に、視線を固定した。再び酔いが回ってきたこともあって、何だか無性に情けない。涙が出そうだ。
「つまりは! ピュラーちゃん最高! 正しく! 至高の赤身肉!」
片や完全に酔いの回ったガイツハルスは、いきなり立ち上がると、聴衆もいないのに演説を始めた。想い人を肉に例えるのはどうかと思うのだが、彼にとっては心からの賛辞らしい。
「どうしたの、ソブリオ? ずいぶんと気落ちしてるみたいだけど……」
「は、はあ、いえ、あの……」
「ほっといてやってください、大尉。こいつも酒の味が分かる年頃なんですよ」
「ソブリオ、失恋したんだよ、なぁ? 地味に?」
「ぐっ……」
自分より5つも年下なのに、母親のように気遣うスズの言葉が痛い。
普段は怒ってばかりのアウダースが優しいのも切ない。
けけけ、と訳知り顔で笑うイオキベが憎たらしい。
鼾をかいて寝こけているラソンが恨めしい。
「……ソブリオさーん! 一緒にやりましょうよー!」
波打ち際から、黒髪の少年が声を掛けて来た。
そういえば、彼があんな風に素直に笑う様子は、初めて見る気がする。よしっ――小さく呟くと、ソブリオは残りの酒を呑み干し、立ち上がった。
「よーしっ、ノリト! ソブリオ兄さんの花火さばきを見せてやるぜーっ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
元気よく立ち上がったソブリオの様子を見て、ノリトはほっとした。
もともと、控え目な性質らしい銀髪の彼は、いったん酔いが醒めてからというもの、いつも以上に無口で、酒を口に運んでは海の向こうを眺めて嘆息する……そんなことを繰り返している様子だった。
放校になることが決まってからの自分を、ノリトは思い出していた。
同期生の誰しもが憧れる航空騎兵――そのために空軍士官学校にいるのだから当然だが――それに成る事が叶わないと知った時の衝撃は、予想以上に激しかった。当たり前のように進んでいた道が閉ざされた時の苦悩は、12歳のノリトにとっても大きかった。
『ノリト・オロスコフ、君の虚像把握は
もはや絶望的と言わざるを得ない。
残念だが、我々としては、
君に別な道を用意する他ない。
君は孤児だが、ちょうど、安定居住区域に、
養子を求めている夫婦がいる。
そこで市民生活を学びながら、民間人として
地球連合に貢献する術を探したまえ』
簡素な教官室、あくまで冷静な教官の声――今より1歳年下だったノリトは、分かりました、としか言えなかった。
それからは、食事などの必要最低限を除けば、男子寮の自分の寝台で、ずっとぼんやりしていた。
同室の仲間たちは、もはや誰も、ノリトに話しかけなかったし、注意も払わなかった。かつての自分がそうだったように、彼らにとっては、航空騎兵に成ること以外に、何の興味も持つ必要は無いのだ。
安定居住区域での暮らしは、まったく想像が付かなかった。
養い親がどんな人物なのか。
自分がこの先どうなるのか。
普通に大人と暮らした経験すらないノリトからすると、この先の未来は、闇夜季節の絶床世界の夜を見通すより昏かった。
次にあの扉が開いた時、自分はどこに連れて行かれるんだろう。漠然とした不安、寝台の上から身動きもできず、ノリトは自室の扉を見つめ続けた。
――だが、その扉を開いたのは、まったく予想外の人物だった。
『おう! お前が、ノリト・オロスコフだな?』
『は、はい、そうです』
『そうか、お前が、ノリト・オロスコフか。
俺が、パーセウス・イオキベだ。
お前は、これから、俺の工房に来る。
お前は、優秀な整備士にも、成れる。
勿論、他のものにだって、成れる。
お前が、世界を知って、そう望むならな。
ただまぁ、取り敢えず生活して、
喰ってかなきゃならないから、
お前は、俺の工房に来い。
――お前は、俺と、暮らす。いいな?』
『はい、分かりました。
――あの、そこは、安定居住区域ですか?』
ノリトの腕を掴み、問答無用で寝台から起き上がらせた金髪碧眼の青年は、それを聞くと初めて、快活に笑った。ノリトが初めて聞く種類の、朗らかな笑い声だった。
『そこは、安定居住区域、ではない。
安定しても無いし、ちょっとばかり、
住みにくい。
まあ、根城にするには、良いところだ』
イオキベは、満面の笑みを浮かべると、改めて少年の腕を取った。
扉の向こうには、真っ青な空があった。
その果ての無さを、ノリトは初めて、怖いとは思わなかった。
『――来い、ノリト。
ノリト・オロスコフ。
お前が飛ぶ空を、俺が見せてやる』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「見ろ、ノリト! ソブリオ兄さん奥義!――手持ち花火乱れ咲き!!」
「うわっ! ソブリオさん危ないですって!!」
ノリトの制止も聞かず、指の間、両手に計8本の手持ち花火を握ったソブリオが、両腕と両足を無茶苦茶に振り回しながら、激しく回転する。宵闇に無数の火花の残像が跡を引くと、まるで何本も手足があるように見えた。
銀髪の彼のはっちゃけ振りに、少年は思わず吹き出した。
「すごーい! なんか、タコみたーい!」
「ソブリオ! ずりぃ! それはずりぃ! あたしもやるっ!」
「何だあれ、ははは、え? 僕もやんの?」
「当たり前でしょ!」
「うわぁ、これ、かなり酔いが回るぞ……」
「はい! はい! 次、私!」
ふらふらになったソブリオに、同じく8本の手持ち花火を手にしたアンテットが駆け寄る。要領を得た銀髪の彼は、少し取り澄ました表情を作ると、前髪の奥で微笑み、消えかかる自分の花火を、アンテットに向けて差し出した。
「……アンテット・クライシ少尉に、伝授!」
目映い火花が、アンテットの両手から一斉に吹きあがる。
8本の花火を手にした彼女は、歓声を上げながら、砂浜を走り始めた。
8つの光の筋が走る中を、彼女の長い金髪が照り輝きながら波打ち、光の帯を創る。さながらその姿は、真っ白な満月に踊りを捧げる、豊穣の精霊のようだ。
「次! レーニス! レーニス!……伝授!」
駆け戻ってきたアンテットは、8本の花火を手にして、のぼせたように彼女を見つめていたレーニスに、まだ火花を散らす自分の手持ち花火を差し出した。
我に返ったはしばみ色の瞳の彼が自分の花火を差し出すと、再び花火から花火へ、火が燃え移る――火花を上げ始めた8本の花火を手に、今度はレーニスが駆け出した。
「次は私!」
ちゃっかりと花火を手にしたトゥシェが、レーニスの帰りを待ち構える。栗色の髪の彼女がわくわくして待つ様子に、ノリトは思わず笑った。
「はい、トゥシェ!……伝授!」
わぁ!――歓声を上げて走り出すトゥシェ。のんびりした普段の様子からは想像も付かないが、速い。
足を取ろうとする砂浜を物ともせず、ノリトよりも小さな体が飛ぶように駆けていく。舞い散る火花から垣間見える後ろ髪には、天使の輪のような輝きが宿っていた。
「つぎー! ノリトくーん!」
「は、はーい!」
あっと言う間に遠くまで駆け去って、大きく旋回しながら、トゥシェが声を上げる。慌ててノリトも、まだ火の点いていない花火を8本、同じように準備した。
そんな少年を、ソブリオたちが見つめる。
ただ、花火の火を移して走るだけ――それなのに、とても大事に、とても愉快なことのように感じられた。
「いくよー!」
「は、はーい!……うわっ!?」
一層大きく声を上げ、トゥシェは走る速度を上げる。
あっと言う間にノリトの目前に迫った彼女は、少年の前で急制動をかけた。
小さな両足に巻き上げられた砂が、僅かにノリトの足の甲に掛かる。
彼女のくりくりとした悪戯な瞳が、少年の黒い瞳を捉えた。
「はい、ノリトくん……伝授!」
優しく触れられて、ノリトの手持ち花火は燃え上がる。
「よーし、行け! ノリト!」
「はい! 行きます!」
ソブリオの声に弾かれるように、黒髪の少年は走り出した。
背後から、アンテットやトゥシェ、レーニス達の声援が聞こえる。
速度を上げながら、ふと、脇を見た。
ガイツハルスが、両手を振りながら声を上げている。
イオキベが、スズが、アウダースが、こちらを向いて笑っている。
何も感じる事が出来なくなったあの部屋から抜け出して、今、自分は走っている。
宵闇の昏さも、白い月の冷たさも、まとわりつく砂の煩わしさも、何も怖くなかった。
気づけばノリトは、大きく歓声を上げていた。
――そしてこれが、少年が絶床空間で過ごす、最後の夏期間になった。
(つづく)
じょ、
じょ、
じょ、
じょばーーーーーんにっ!!!!(絶叫)
とにもかくにも、ノリトの夏が終わりました!
あ、僕の夏も終わってます!
そりゃあもうとっくに!(じょばんにっ!)
ちょっとした後日談を、後ほど掲載です!
蛇足と思いつつ、もう気の向くままにじょばんにっ!
されば次回まで、ごきげんよう!
フライ・ルー!(じょばんにっ!)




