(二十八)都市島・10
しばらく水遊びをした後に、ノリトは大型日除け傘の影で、腰を落ち着かせていた。
保冷していた檸檬果汁飲料を杯に注ぎ、傾ける。ほのかな甘さと気の利いた酸味が、火照った体にやさしい。
一息ついて視線を右にやると、白い甲板用長椅子に寝そべる、スズとトゥシェの姿が目に入った。いかにも寛いだ様子の彼女たち、その肢体じろじろ見つめる訳にもいかず、少年は急いで目を逸らし、波打ち際に目をやる。
(あんたはあたしの為に城を作るのよ!)
そちらでは、アンテットの命令にしぶしぶ従って、レーニスが彼女と二人で、大量の砂をかき集めていた。
(こっちが見張り塔で、これが本丸、こっちが兵舎、これが城壁ね)
アンテットがレーニスに、無邪気に指示する声がする。
子供みたいだなぁ、と微笑ましく思いつつ、彼女の水着はまったく子供っぽくないので、ノリトは再び、目のやり場に困った。彼女の間近にいるレーニスは、なおさら目のやり場に困っているらしく、とにかく、城を造形することに集中しているようだ。
そんな時間を持て余し、レーニスが読もうとしていた――そしてアンテットに取り上げられた――本物の本でも読ませてもらおうとノリトが腰を上げた矢先、聞こえてきたのは、本物の子供の声だった。
(お父様、砂のお山があるよ!)
(お父様、人がいるよ!)
(おや、ほんとだ。ちゃんとご挨拶、できるかな?)
(はーい!)
初等学校にも入る頃だろうか、7歳ぐらいの子供を二人連れてきたのは、初老の男性だった。子供たちの声に、うたたねをしていたスズやトゥシェも、その背を起こす。
声を掛けたのは、アンテットが先だった。
「オーサーさん! ご無沙汰しています!」
「ああ、これは、アンテットさん、お久しぶりですね」
満面の笑みを浮かべるアンテット。その様子からして、どうやら彼女にとって、会って嬉しい人物のようだった。
「大尉! 大尉!」
褐色の肌の彼女が、腰を上げたスズの元に駆け寄り、やってきた初老の紳士に向けて、手の平を広げた。彼女にしては珍しく、丁寧な動作だ。
「ご紹介します。アルカイドの市長、オトゥール・オーサー氏です」
瞬間、航空騎兵たちは直立不動の構えを取った。
ノリトも、慌てて直立する。
素早く敬礼し、スズ・オラシオンが凛とした声で言った。
「休暇中につきこのような格好で失礼いたします。ベネトナシュ空域基地、第87飛行隊、第1小隊所属、スズ・オラシオンです」
「同じく、トゥシェ・ドゥルキスです」
「同じく、レーニス・ウルゼンです」
「の、ノリト・オロスコフです!」
よく整えられた、白髪交じりの頭を深々と下げながら、初老の男性は返礼をした。
彼自身、休暇中なのだろう。白い半袖襟付上着に小麦色の長袴、足元は甲留草履という、その職務からすると非常に気安い服装だ。
「ああ、あなた方がオラシオン小隊でしたか……休暇中のところ恐れ入ります。常々、ご活躍を耳にしております。私は、アルカイドの市長を務めております、オトゥール・オーサーです。この子達は……さ、ちゃんとご挨拶できるかな?」
オトゥールと名乗った彼が、腰の周りにまとわりついた、子供たちを促す。
男の子は水色縞柄の丈無水着を、女の子は同じ柄の一体型水着を身に着けていた。
「ゼーン・オーサーです」
黒髪の男の子が、碧色の瞳を利発そうに輝かせながら、背を正して言った。それから、隣の女の子を小突く。
――おねえちゃん! おねえちゃんも、ちゃんとあいさつしないと、ダメでしょ!――そんな様子を微笑ましく見つめつつ、双子なのかな、とノリトは思った。髪色や瞳の色は違うが、顔形も背丈も、良く似ている。
「リヴ、です……」
弟に促されながら、金髪に青い眼をした女の子が、おずおずと挨拶をする――いかにも大人しそうに見えて、彼女がしっかりと、弟の足を踏みつけているのを、ノリトは見逃さなかった。
「上手なご挨拶! ね、お姉ちゃんと、お城造ろうか? レーニス、いいよね?」
「もちろん!」
嬉しそうな様子のアンテットに、レーニスは穏やかに微笑み、頷いた。
「おしろ?」
「そうだよ! 悪い竜と戦う、騎士のお城だよ!」
「つくる! つくる!」
アンテットとゼーンが駆け出し、レーニスがその後に続く。どうしようかな、と迷ったノリトの目線が、彼をしげしげと眺めるリヴの目線と合った。ノリトは中腰になると、笑顔を浮かべ、彼女に声を掛けた。
「君も一緒にやろうか? 僕はノリト、ノリト・オロスコフ」
「……あたし、リヴ! いいよ、ノリト! いっしょにあそぼう!」
小さな手に腕を掴まれて、少年はリヴと共に走り出す。既に波打ち際では、ゼーンを加えた三人が、歓声を上げながら砂の城に取り掛かっている。
――子供と会話するのは、ノリト・オロスコフにとって、初めての経験だった。自然に笑顔が出たことに、彼自身、驚いていた。
「おやおや、あの猫被りが……」
「ふふ、うちの猫被りと、気が合ったのかも知れませんね。オーサー市長、よろしければ、ご一緒に檸檬果汁飲料でもいかがですか?」
「ありがたい、ちょうど咽喉が乾いたところでした」
スズの誘いを素直に受けて、オトゥールはよっこらしょ、と敷物の上に座った。
太陽は天頂から30度ほど傾いているが、まだまだ暑い時間だ。そんな暑さを物ともせず、ノリトにリヴを加えた5人が、楽しそうに砂山に取り組んでいる。
「どうぞ~」
「ああ、有難う」
トゥシェの差し出した杯を受け取って、オトゥールは茶色の瞳を細めた。一口飲むと、ほっとしたように吐息を漏らす。
「トゥシェは、いいの? あっちも楽しそうよ?」
「私、子供はちょっと、馴れてなくて……」
栗色の髪の彼女が苦笑しながら舌を出す。
オトゥールは愉快そうに笑った。
「遅くに授かった子供でしてね。私も歳なので、なかなか扱いが難しくて」
「あら、そんなお歳には見えません」
「いやいや、大尉にそう言ってもらえると光栄ですが、これでも……」
言いかけて、不意にオトゥールは、口を噤んだ。
不自然な沈黙に、スズは内心、首を傾げた。
トゥシェは、何気なく波打ち際を眺めていた。
「クライシさんとは長い付き合いでしてね。アンテットさんとは、彼女が小さい時から、良くお会いしてたんですよ」
「ああ、それで、彼女と顔馴染みでいらしたんですね」
「そうです。彼女、昔からお転婆でねぇ……でも、私はずっと、クライシさんが羨ましかった。ようやくあの子たちを授かった時は、家内と二人で、小躍りしたもんですよ」
「そうでしたか……」
不意に話題が変わる一方、アンテットがベネトナシュ基地の配属になった、その理由がもう一つ分かって、スズは複雑な思いがした。
温和そうに見える紳士とはいえ、背後には色々な思惑があるのかも知れない――彼との会話は慎重にこなした方が良い、彼女はそう、直感した。
「そういえば、我々がアルカイドに来る度に送迎して頂き、大変有難く思っております」
「ああ、あれは、実のところ申し訳ない。彼女がそういうのを嫌がることは、よくよく理解しているんですがね。うちの秘書官が、変な気を回すのを止めなくって……」
「いえいえ、ガイツハルス少佐も、大変有難いと申しておりました」
「おお、今回は彼もご一緒で? それでは、なかなか気も休まらないでしょう?」
「いえ、お蔭さまでこうして、海を見ながらのんびり出来ます」
スズの返しを聞いて、オトゥールは愉快そうに笑った。
談笑する二人の会話にトゥシェが割って入ったのは、そんな時だった。
「――安定居住区て、どんなところなんですか?」
僅か一瞬だが、オトゥールの笑顔が凍るのを、スズは見逃さなかった。彼はすぐに穏やかさを取り戻すと、鼻の頭を掻きながら言った。
「ホーム中央にある広大な、風光明媚な居住施設だ、と聞いています。というのも、私はまだエリュシオンで暮らしたことがなくて……。高位技術者としてホームで過ごした後は、高級官吏としてあちこちの浮島を巡りましてね。アルカイドに腰を落ち着けたのが、子供たちの生まれる、ほんの一年前です。ホームに掛け合って、現地出産特別許可をもらいました。これがもう、大変でした」
照れ笑いをするように、オトゥールが語る。
猫の目をして、トゥシェが言った。
「うらやましいですぅ。同僚が二人、ついさっき、恋人宣言をして……。帰還申請は既に出していて、近いうちに安定居住区に入って、結婚、出産を申請したいって」
「おお! それは私も羨ましい! 私が安定居住区に入れるのは、そうですな……子供たちの成長を見守って、隠居でもする時になるでしょうな」
愉快そうに笑うオトゥールに、うらやましいですよねぇ、とトゥシェが繰り返した。
いつもやわらかく微笑む栗色の瞳の彼女、その瞳が今は、猛禽類のそれになっていることに気づいて、スズ・オラシオンは言葉を失った。
和気藹々とした波打ち際に比べ、日除け傘の下の気温は、急に下がったように思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アンテットが拾ってきた小枝を、リヴが慎重に、天守閣に立てた。
「これで、完成!」
「わーっ!!」
子供たちが歓喜の声を上げる。
周りの大人たちも、満足そうにそれを眺めた。
結局、スズにトゥシェ、オトゥール・オーサー氏も含めて、総出の築城になった。
各自がそれぞれの「お城」の虚像を、思い思いに合わせていった為、どんな図鑑にも出ていないような珍妙な造形になってしまっているが、城は、城だ。
ゼーン、リヴは元より、大人たちもみんな汗まみれ、砂まみれで、市長はその上等な長袴まで、すっかり濡らしてしまっている。
さあ、そろそろお暇しないと、風邪を引いてしまうよ――オトゥールが言った。
子供たちが口をそろえて、抗議する。
砂の城の上空、アルカイド市の空を、すっかり薄雲が覆っていた。気が付けば日も暮れかかっており、浜を吹く宵風は、すっかり涼しい。
まだあそびたいもん!――手足をばたばたさせていたリヴが、くしゅんとひとつ、くしゃみをした。慌てたノリトが、乾いた大型手拭でその頭を覆い、その金髪を拭いてやる。ゼーンも同じように、アンテットに黒髪をごしごしされて、大人しくなっていた。
「公務が忙しくて、子供たちもなかなか構ってやれません。皆さん方とお会いできて、本当に良かった。たくさん遊んでくれて、どうも有難う」
「じゃあねー! またあそぼうねー!」
「ありがとうございましたー!」
何度も頭を下げつつ、ゆっくりと遠ざかるオトゥールの背中。
リヴとゼーンは、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、繰り返し繰り返し、手を振る。
暮れなずむ砂浜で長い別れの挨拶を交わしながら、ノリト達はいつまでも、その後姿を見送っていた。
「父親、かぁ」
ノリトが、ぽつりと呟いた。
兄弟姉妹も含め、血縁というものをこれまで感じたことが無い。まして、自分が誰かの父親になることは、想像もつかなかった。
こればかりはどんな虚像把握でも掴めそうにないなぁ、少年はつくづく、そう思った。
「子供かぁ、いいなぁ」
「大変そうだけどねぇ……アンテットも興味ある、の?」
親子の後姿を見つめるアンテットの横顔を、レーニスは眺めた。彼女の赤橙色の瞳が、少し、潤んで見える。
ゼーンとリヴが、一層大きな声を上げ、別れを告げるのが聞こえた。
バイバーイ!……精一杯の声で、アンテットもそれに応える。
それきり、彼女は黙ってしまった。
仕方なく、レーニスは空を見上げた。
――「どうしたの、トゥシェ。すごく、良い人たちに思えたけど」
最後尾、栗色の髪の彼女を振り返って、スズは驚いた。
今にも泣き出しそうな顔で、レーニスとアンテット、ノリトの背中の向こう、オトゥール・オーサーの後姿を、トゥシェ・ドゥルキスは睨みつけている。
その瞳には、スズ・オラシオンも初めて経験する、トゥシェの怒りが込められていた。
「良い人です、多分。だからこそ、悔しくて。――ちょっと調べればすぐに分かるのに、どうしてあの人たちは、その場を取り繕うだけの、あんな出まかせを言うんでしょうね。まるで、あの、砂の城と同じ」
アンテット達には聞こえないように、ひどく静かな声で、彼女は言った。
極めて神経質になっている様子のその腕を、そっと、スズは白い手で取る。
「……どういうこと?」
「オトゥール・オーサーがアルカイド市に着任したの、いつか知ってます?」
スズは、黙って首を振った。
トゥシェの腕を取った手の平から、彼女の震えが伝わってくる。
「三年前です」
満ち潮が始まっていた。
みんなで作り上げた砂の城は、押し寄せる波に抗う術もなく、早くも崩れ始めていた。
(つづく)




