(十九)都市島・3
「ほっふう……」
目前の御飯茶碗から立ち昇る、ほうじ茶の芳醇な香りを吸い込んで、ノリトは心から溜息をついた。
一晩中空腹を訴えていた胃と、「重力酔い」を理由に、それに全面的に抵抗していた神経が、茶粥の立てる香りに一致団結し、食欲に集中することに合意する。
深めのスプーンいっぱいに茶粥をすくい、そっと口に運ぶ。粘りが無く、さらさらとした食感。
固めに炊かれた米と温かいほうじ茶が、噛み砕くたびに口中で踊り、胃に流れ込む。
胃の底からじんわりと温もりが全身に広がるのを感じ、少年は再び、深く溜息をついた。
「ノリト、ハシを使えよ、ハシを。『和食』だぜ?」
イオキベが、右隣のノリトに異議を唱えた。
両頬を一杯にしながら、木製の箸で乱暴に、わっしゃわっしゃと茶粥を掻き込んでいる彼に行儀について諭され、少年は憮然とする。
「だって、使った事ないんですもん、ハシ」
「普通、使わないもんねぇ」
二人の会話に割って入りながら、トゥシェが笑った。彼女も一生懸命に箸を使おうとしているのだが、先ほどから南瓜の煮物を何度も取りこぼしている。
――朝のベネトナシュ空域基地食堂、いつもの円卓を、いつもの9人が、いつもの席次で囲んでいた。
彼らの前には茶粥、焼き魚、南瓜の煮物、小松菜等の煮浸し、蛸の膾などが、それぞれの皿に盛られ、膳が用意されていた。勿論、お代わり自由だが、いつもの食べ放題とはちょっと異なる趣だ。
「こんな二つの棒で飯を食うなんて、理解できん」
「古代の文化が残ってるんだから、素敵じゃないですか」
早々に箸を使うことを諦め、フォークで煮浸しをつついているアウダースに向けて、レーニスが苦笑しながら言った。そういう彼も、茶粥はスプーンですくっている。
「ノリト君も重力酔いで苦しんでたみたいだし、皆も疲労が溜まってるみたいだから、今朝の朝食は優しめのものを……ってガイツハルス少佐に上申してみたの。そしたら、『我が心の友に精一杯の配慮を約束しよう』って――それでこうなったんだけど、どうかしら……」
こちらも不器用に箸を使いながら、スズ・オラシオンがおずおずと一同に尋ねた。
「お、美味しいです! 癒されます!」
「美味いのは美味いよね」
「味は申し分ないですな」
「お代わり!」
「自分で取ってきてくださいよ……」
一番に回答したノリトの反応に、スズはほっとした表情を見せる。もちろんそんな彼女に、「いつのまに僕と少佐は心の友になったんですか?」とは言えなかった。
「ああ、そいで音楽まで変わってるんですね。相変わらず凝ってますね、あいつ」
アンテットの言葉に、一同は音響機器から流れる音楽に耳を傾ける。
彼女曰く、いつもの古典音楽に変わって流れているのは、何でも「筝曲」というらしい。簡素だが、心を爪弾くような音色は、目の前に配膳された料理と、とても合っている気がした。
「流石お嬢様、司令の心遣い、良く分かってらっしゃる」
「ちょっと! 本気で止めてよね、そういうの……」
皮肉っぽいラソンの言葉に、褐色の肌の彼女は、本気で嫌がる素振りを見せた。そういえば彼女は、とても上手に箸を使っており、焼き魚の小骨まで、細い木の棒で見事に取り分けている。
「ハシ使うの、上手ですよね、アンテットさん」
「ああ、あたしんとこは、お父が行儀に煩かったからさ……」
「そう、なんですか」
珍しくもごもごと回答するアンテットに、親と暮らした記憶も薄い少年は、曖昧な表情で返した。
「あ、そうか、ノリト君、知らないのか。クライシ家のこと?」
「何か、特別な家柄なんですか?」
銀髪のソブリオに対して、小首を傾げる少年。
「えっ? アンテットのクライシって、あのクライシ家のクライシなの!?」
不意に、銀髪の彼の左隣で、レーニスが叫んだ。
「地球連合の重鎮、五大家のうちの一つの、クライシなの!?」
「あんたねぇ、いつからあたしとペア組んでんだ……気づけよ!」
「ぎゃうっ!」
円卓の下でしたたかに脛を蹴られ、レーニスが呻く。一方のアンテットは、どうしてか顔を真っ赤にしていた。
「パーテル、ヴェーチル、プロクス、ヴァッサー、そしてクライシ、騎兵新聞にも出るレベルの有力な家系だ。特にクライシ家は、兵站戦略の大立者だぞ、ノリト」
「すんませんねぇ、うちの丁稚、世事に疎くてさ」
説明口調のアウダースの右隣で、卑屈な表情を作って見せながら、イオキベが言う。確かに少年はこれまで、航空騎兵に乗ること、工房で働くこと以外の世の中には、全く興味を持ってこなかった。
「そんな特別な家系が、あるんですね……」
「それが嫌なんだよ、あたしは」
感心したノリトに対して、赤橙色の瞳の彼女が、渋面を作って言う。
「地球連合はそこに属する人類に対し、すべての平等を約束したはずじゃないか。なのに、『クライシ』っていう名前だけで、優遇されたり、すり寄ってくる連中がいるんだ。おかしくない?」
「――そこまでにしましょう、アンテット」
話が政治的な分野に入ってきたところで、オラシオン大尉は彼女を遮った。一介の戦闘要員がすべき話題では無い。
「少なくともオラシオン小隊では、家系に基づいた判断は行いませんし、許しません」
「……申し訳ありません、大尉」
箸を置き、決然として言うスズに対し、アンテットは素直に謝った。
「だから、ね、アンテット。今日も体力訓練、がんばって、ね?」
「うげぇー……」
にこやかに告げるスズと、再度渋面を作るアンテット。オラシオン小隊の一同は、その様子を見て、和やかに笑った。
「でも、ご両親は大事になさい。私も、7歳ですぐに空軍士官学校に入って、その後はそのまま討竜部隊に配属になったから、親との記憶なんて、ほとんど無いもの」
「まあ、今時は、早々に空軍士官学校なり、職業訓練学校に入って、そのまま現場に就くのが一般的ですからな……自分も同じようなもんです」
「俺も似たようなもんですね」
(なんだ、皆もそんな感じなのか)
スズ、アウダース、ソブリオが口々にするのを聞いて、ノリトは何となく安堵していた。
『一千年も続く竜種との戦いの中で、人類の社会形成はどこまでも機能的な方向に進んだ』
――空軍士官学校時代の、教官の声が、少年の脳裏に甦っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あのぅ、ところで、このお膳は誰の分なんですかぁ?」
「あ、ああ、それはね……」
トゥシェの声に目を向けると、普段は空席になっている彼女の右隣、ラソンの左隣の席にも、お膳が一式、あつらえてある。
食堂の扉が勢い良く開き、聞き覚えのある足音がどかどかと入ってきたのは、その時だった。
「やあやあ! 諸君! 待たせてすまんね! おお! 我が心の友よ! どうだい茶がゆは? ん? 材料から厳選した、佐官級の食事だよ? やあ、どうやら顔色も良いな、重力酔いは大変だったろう? はっはっはっは!」
ノリトの細い肩をばんばんと叩きながら、いかにも機嫌良く少年の後ろを通り過ぎると、赤髪を颯爽と撫でつけつつ、ガイツハルス少佐は空席に腰を下ろした。
「あ、ありがとうございます、美味しいです!」
「そうだろう、そうだろう! まさしく『とっておき』だからな?」
(なんであいつが来るんですか……)
(この朝食、ほんとに『とっておき』みたいなのよ……彼も一緒に食べたいって)
ノリトとガイツハルスが会話する傍らで、アンテットとスズが囁きを交わす。
隣に座られたトゥシェは、柔らかな微笑みを凍らせたまま、黙って食べることに専念し始めた。
レーニスは、何故かしょげ返って、もそもそと茶粥を口に運んでいる。
イオキベ、アウダース、ソブリオは、少佐の存在を無視することに決め込んだようだ。
ただ一人、気を利かせたラソンが、保温機から茶粥をよそうと、ガイツハルスの元に運ぶ。
「やあ、有難う、ラソン! どうだね、訓練の方は?」
「は、順調であります」
「重畳、重畳、欠員も有ったが、ノリト君が来てから、オラシオン小隊はうまく回り始めたんじゃないかね?」
その場が凍りついた。
オラシオン小隊がオンラードを失ったのは僅か数日前だ。それを差し置いて、お気に入りとはいえ、ノリトを持ち上げるのは常識的では無かった。
「――お蔭さまです、司令」
アウダースが怒鳴り声を上げる前に、朗らかな微笑みを、スズはガイツハルスに向けた。
「お、おう、そうか、なら良し」
押しの強い少佐も、どうにも、彼女の事は苦手らしい。
取り敢えず、という感じで不器用に箸を使いつつ、それでも猛然と、彼は食べ始めた。
「む!……膾は煎り酒を使えと言ったのに、主計手め、手を抜いたな! 焼き魚は……ふむ、上出来! 口の中でほろりと崩れる感覚……ほほほ、これは良いぞ? そしてこの茶がゆ! 上質なほうじ茶を惜しみなく使った、この一杯が……ふふふ、『天然の好味成分』をたっぷり感じるぞ? 主計手め、腕を上げたな?」
誰が尋ねている訳でもないのに、一口ごとに感想を言うガイツハルス。
ベネトナシュ空域基地の主計手は、いかに食材に恵まれているとはいえ、相当苦労してるんだろうな。ノリトはそう思った。
(あいつからは『天然の嫌味成分』をたっぷり感じるよな)
(ぶっ!)
イオキベの囁きに、怒りに肩を震わせていたアウダースが思わず吹き出した。どうやらその一言で、黒肌の中尉の溜飲は、取り敢えず下がったようだ。
はらはらしていたノリトも、ひとまず茶粥を口に運ぶ作業に戻った。
一方のガイツハルスは、あっと言う間にお膳を平らげていた。
「んーむ、星3つ!」
幾つまであるのか分からないが、星を3つ上げると、少佐は満足気に箸を置く。
「これもあれだな、クライシ家からのご支援に感謝すべきかな?」
そう言うと少佐は、にこにことアンテットを見つめた。褐色の肌の彼女は、げんなりした表情で視線をそむける。
「アンテット・クライシ少尉、お父上にはくれぐれも、よろしく伝えてくれよ?」
「いやです」
アンテットの率直過ぎる返答に、少年の手は再び止まった。
恐る恐る視線を上げると、笑顔を維持しながらも、こめかみに血管を浮き上がらせた少佐の表情があった。
「いやはや、まったく、お転婆なお嬢様は困り物だぞ? こんな最前線でクライシ家の大事な一人娘を預かる、私の立場も考えてくれたまえ? せめて、普段のご厚意には感謝して生活しなければな? 少尉、君もお父上のご心痛を理解すべきだぞ?」
「いやです」
ガイツハルスのこめかみに浮かんだ血管が、なお一層浮き上がったが、それでも彼は、笑顔を崩さなかった。少佐がこの基地で唯一怒鳴りつけないのが、アンテット・クライシ少尉だった。
(なぁんだ)
ノリトは思った。
ベネトナシュ基地の食糧事情が豊富なのも、アンテットがガイツハルスに対し、個人的に強い姿勢でいられるのも、全てその背後には、この基地に愛娘を預ける、クライシ家という後ろ盾があってのことなのだ。
(結局、アンテットさんも、自分の家系を使ってるんじゃないか)
ノリトは少し冷めた目で、アンテットの固い横顔を眺めてしまった。家系とは無関係でいたいのに、それと関わらざるを得ない、それに甘えざるを得ない、それが、皆と平等で居たい彼女の皮肉であることまでは、少年の考えは至らなかった。
「――少佐、ほうじ茶です、お熱いうちにどうぞ」
「お、おう」
あくまでにこやかなスズ・オラシオン大尉から湯呑み茶碗を手渡されて、ガイツハルス少佐は一瞬、毒気を抜かれた。熱いお茶をずずず、と啜ると、芳しい香りを楽しむように、深く嘆息する。
「オラシオン小隊はこれより意識合わせに入りますので、少佐はそろそろ……」
「う、うむ。あ、だが、その前にだな、諸君に確認したいことがあるのだが?」
「勿論です、何か?」
「うむ」
こほん、と咳払いして、ガイツハルスは一同を見まわした。何事か、と身構える隊員たち。
「――この中に、超短波無線機を使える者はいるかね?」
「……超短波無線機ですか?」
「そうだ」
身構えていた隊員たちは、一斉に緊張を解いた。
「航空騎兵乗りであれば、操縦手、攻撃手に関わらず、素養として超短波無線機の使用方法は最初に学びます。少佐もご存じとは思いますが……」
「そうか、そうだな、勿論だ」
小隊を代表して、スズが回答する。ガイツハルスもまた、最初からそれを予期していたかのように、頷いた。
「……何かありましたか?」
「いや、いい、尉官級には関わりの無いことだ」
「それでは、私どもも意識合わせがありますので……」
「あ、もう一つ、君に確認したいことがあるのだが?」
「勿論です、何か?」
「うむ」
こほん、と咳払いして、ガイツハルス少佐はオラシオン大尉を見た。あくまで微笑みでそれを受け止めるスズ。
「オラシオン小隊の訓練日程によれば、明々後日は終日、休暇だったな?」
「はい、その通りです。通例通り、隣の都市島で羽を休める予定です」
「うむうむ、そうか、そうか」
何やら満足気に頷く少佐の様子に、ノリトは胸騒ぎがした。
「奇遇にも? 明々後日は私も休暇予定でな?」
「は、はぁ」
「私も都市島へ同行しよう。不案内なノリト君にも付添がいるだろう?」
(……っぎゃーーーーーーーーす!!)
オラシオン小隊全員の、声にならない絶叫が、ノリトにも聞こえるようだった。何より、彼自身が内心で絶叫していた。
快心の笑みを浮かべるガイツハルス、どこまでも微笑みを崩さないスズ、既に詰まらなそうにしているイオキベ――その3人を除く7人全員が、絶望的な顔色を浮かべている。流石に、個人的案件で無い、小隊に関わる事までは関与できないし、したくないのだろう。アンテットもまた、黙って天井を仰いでいた。
「少佐自らのご配慮、痛み入ります」
「なに、構わんよ」
「……遊興費も自らご配慮いただける、ということでよろしいですか?」
「なにっ!?」
笑顔で確認するスズに、ガイツハルスは目を剥いた。ふと、彼が視線を感じて円卓に目を戻すと、オラシオン小隊一同が、飢えた竜の眼差しで彼を見つめている。
「…………よ、良かろう」
「わー!」
「奢り!? 少佐の奢り!?」
オラシオン小隊が囲む円卓は、一気に賑やかになった。何を思い出しているのか、イオキベの眼差しが、ひどく懐かしげだ。
「ゆ、遊興費といっても、軽食代ぐらいだぞ! あまり調子に乗るなよ!」
「少佐! じゃが芋添え揚げ魚は軽食代に入りますか!?」
「そ、それぐらいは良かろう」
「少佐! わたあめは軽食代に入りますか!?」
「ま、まあ良かろう」
「先生! 酒類は軽食代に入りますか!?」
「入る訳ないだろ! 馬鹿!」
喜色満面の隊員たちに比べて、ノリトは依然、暗い顔をしていた。
(――あの人に付添されるとか、有り得ないし!)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「レーニスさん、どうかしましたか?」
意識合わせが終わっても、食堂の窓辺に佇んでいる青年に、思わずノリトは声を掛けた。アンテットは、ガイツハルスの件でぷりぷり怒りながら、食堂を飛び出していた。普段なら宥め役になっている彼が、独りでいるのは珍しい。絶床世界の向こうに、その薄茶色の瞳はさ迷っている。
「あ、ああ、ノリト君」
「どうか、したんですか?」
少年の黒い瞳を受けて、レーニスは視線を下げた。はしばみ色の前髪が、その視線に影を落とす。
「平均虚像把握範囲4千のダメ操縦手と、五大家出身のお嬢様攻撃手じゃあ、どうにも釣り合わないなぁと思ってさ――」
思わずそう呟いてしまってから、はっとして、レーニスは視線を上げた。
「ご、ごめん! ごめん! ノリト君、今の、忘れて! 忘れて!」
「は、はいっ!」
何かを振り払うように慌てて両手を振ると、レーニスは急ぎ足で食堂を後にした。
思いがけない言葉を聞いて、残された少年は、先ほどまで青年の見ていた窓の外を見遣る。
絶床世界は、今日もどこまでも青かった。
(つづく)
長っ!
「4千字程度でまとめる」はずなのに、長っ!
警部、分かりました! ガイツハルスです! ガイツハルスの台詞が長いんです!
違います! 作者です! 作者が調子に乗り過ぎたんです!
ばかもーん! そいつがル○ンだ!!(意味不明)
されば次回まで、ごきげんよう!
フライ・ルー!(るぱーん!)




