(一)ノリト・オロスコフ
大地も海洋も失われ、青い空の他には遮るもののない、絶床世界。
そんな世界に浮かぶ小さな浮島、その浮島にある小さな工房「イオキベ・ワークス」に、13歳の少年、ノリト・オロスコフの姿はあった。
指先をそっと離すと、動力増幅回路は音を立ててフラクタル動力機に接続された。傍らの接源測定器が、緩やかで安定した波形を描き始める。
ノリトはふっとため息をつき、両手についた油脂を雑巾で拭った。動力増幅回路を固定していたクレーンを巻き上げつつ腰を上げると、7メートルほどの高さから、乱雑に機材の置かれた工房全体が見渡せる。
FFR-135戦術航空騎兵、通称「エアランサー」と呼ばれる、全長約20メートルの戦闘航空機の背中に、少年は立っていた。
討竜部隊向けのエアランサーは、本来なら鮮やかな紅色に染まっているのが常だが、この機体は全体的に黒ずんだようになって、ところどころ血が滲んだように赤黒くなっている。耐光性の低い赤色系蛋白由来塗料が劣化しているためで、歴戦の疲れを物語るようだった。
航空騎兵の両翼には、その名に相応しい「撃槍」が、折り畳んだ状態で取り付けられている。整備中のこの機体には、それ以外の武装は装着されていない。
「動力開きました。行けます」
振り向きながらノリトは声を上げた。
「おう」
ガレージの一角を占有する大がかりな装置の制御席から、鷹揚な応えが返ってくる。
「もうちょい待ってくれ。あと少しでこっちも仕上がるから」
三日月型の寝椅子に深く背を預けたまま、大型の被視界画面と配線に囲まれた男の周囲には、煙草の煙がもうもうとしていた。
その向こう側では、直径5メートルほどのガラス球の中で複数のアームが動き回り、白い糸状のものを吐き出して、球形の回路を造形している。間もなく生み出されようとしているのは、整備中の航空騎兵に組み込まれる予定の、最後の回路だった。
「もう、タバコ止めてくださいよ。精密機器じゃないんですか?」
だいぶ慣らされたとはいえ、立ち込める紫煙は、少年にはキツイものがあった。毎度の事に愚痴りつつ、ノリトは慎重に梯子を下り、制御席の方へ向かう。
「大丈夫、大丈夫、こういうのは大体でいいんだよ」
まったく論理的でない返答に、少年は顔をしかめつつ、相手の顔を眺めた。
年の頃は三十路を越えたあたりだろうか。
ぼさぼさの頭に無精ひげ、だらしない作業服さえなければ、金髪、碧眼、肉付きの良いスマートな体形、およそ美形の部類に入るであろう彼は、咥え煙草から煙を吐き出しつつ、視線を走らせ、両手の端末から精密な入力操作をするという、相当に器用な芸当をしてみせていた。
「イオキベさん!」
「ほぉい、上りっと」
少年の苦言を全く意に介した様子のないイオキベは、額から後頭部にかけて装着していた思象追跡端末を放り出し、寝椅子からしなやかに下り立つ。
「ノリト、そんな顔すんなよぉ。こいつ乾くまで休憩にしようぜ」
ガラス球の中では、今しがた成形が完了したばかりの回路が、ゆるやかに回転しながらその色を黒色へと変化させている。機能高分子繊維が、定められた設定に基づいて、求められた姿に定着しているところだった。
「加圧感知器ですか?」
「ああ、こいつは第四世代だな」
超高速で飛行する航空騎兵は、乗組員に大きな負荷をかける。加圧感知器は、乗組員にかかる負荷を感知して、それを正しく抑制する、重要な役目を担っていた。
「第四世代はすげぇ造りやすいんだが、第三世代に比べて脆いのが難点だな。超々音速飛行でもしようもんなら、ほぼ一発で逝っちまう」
「加圧感知器が動作しない状態で超々音速飛行したら……?」
「中の人は『押しつぶされた肉詰め』になっちまうな」
いとも簡単に言うイオキベの言葉に、ノリトはぞっとした。
「第三世代は造形が難しいんですか」
「第四世代とは比較にならんよ。あっちは人間の臓器みたいだもん」
「そうなんですか……」
「ま、俺の手に掛かれば第三世代だろうと何だろうと関係ないがね。こう、女の子を扱うようにそっと優しく……」
「……じゃあ、第三世代で作れば良かったじゃないですか」
得意そうなイオキベに、ノリトは思わず、反抗的なことを言ってしまう。
「整備中の航空騎兵には合わんよ」
生意気な少年の顔を見つめ、イオキベは微笑んだ。
「……知ってます」
ノリトより頭一つ以上も背の高い彼と並ぶと、それだけで負けたような気分になるのだが、やわらかく微笑まれてしまうと、それ以上は言葉が出てこない。
(この人、絶対「女たらし」だ)
13歳の少年には、心の中でそう呟くのが精一杯だった。
「ピュラー! そっちはどうだい」
沈黙した少年に満足げなイオキベが、二階の培養室に声をかける。
「こっちもちょうど一息」
ノリトよりも少し背の低い、痩身の人影が、二階から回り階段を下りてきた。
小さなつま先が金属製のステップを踏みしめるつど、肩で切りそろえられた薄紅色の髪が揺れる。イオキベ、ノリトと同じ、本来なら野暮ったく見えるはずの作業服を着ているのだが、その姿形や立ち振る舞いのせいか、楚々とした印象が広がる。
その両手には、大きなお盆が支えられ、その上の大皿には、今しがた焼き上げられたばかりの発酵パンが、芳醇な香りを立てている。淹れたての紅茶の茶碗も3つ、こちらも良い匂いのする湯気を上げていた。
「うおっ! 白パン! どうしたのこれ」
イオキベが喜びの声を上げる。天然の小麦粉を使った白パンや紅茶は、土地の不足する今の時代、貴重なものだった。
「ポセイディア商会のドルフさんがくれた。冷凍小海老もたくさん。小海老は蒸して粘状副菜にしてみた」
「でかした!」
工房の床に直置きされたお盆を三人で車座に囲むと、イオキベは白パンの一つにさっさと手を伸ばし、頬張る。
ノリトも唾を呑んでいた。地域によって養殖池があるとはいえ、一般的に水資源は乏しく、水産物は小海老すら口にすることは難しい。少年は甲殻類が大好物だった。
「むはぁ、この柔らかな歯触り……堅パンじゃあこうはいかないね」
もちもちした食感を楽しみながら、嬉しそうにイオキベが言う。
ノリトもそっと白パンの一つに手を伸ばすと、大きく裂いて、できるだけ控えめな動作で、小海老のディップをたっぷり塗った。
思い切って口に入れると、酢卵調味料の独特な味わいの中に、海老肉特有のぷりぷりとした食感と風味が残っている。白パンの歯応えとあいまって、踊りだしそうなぐらいの美味しさだ。
そんな様子をさも愉快そうに、イオキベが横目で見ていることに、ノリトは気付かない振りをした。
「ポセイディア商会、相変わらず儲かってんなぁ」
もちもちと口を動かしながらイオキベがうらやましそうに言う。
「とても助かる。彼からの差し入れにより、私たちの食糧費は25%も浮いている」
白パンを小さくちぎって口に運びながら、ピュラーが返す。
「ドルフのおっさんか……気をつけろよ、あいつ、ピュラーの大ファンだからな」
もちもちと白パンを咀嚼しながら、にやにやとからかうようにイオキベが口にする。
(自分だっておっさんじゃん)
思わずそう言ってしまいそうな口を、ノリトは紅茶のカップで塞いだ。普段口にしている苺椰子茶とはまったく異なる、豊かな香りが、熱い液体と共に口腔に広がる。
「問題ない。ドルフさんからは好意しか感じず、謀略を図る様子はうかがえない。万が一に敵対する場合でも、個体差では私が圧倒している」
紅茶でほんのり口元を湿らせるピュラー。
「いやそういうことじゃ……まぁ、うん、ピュラーなら大丈夫か」
楽しそうに含み笑いをして、イオキベは紅茶のカップを呷った。猫舌のイオキベの紅茶だけ、少し冷ましてあるという気遣いようだ。
(昼食のタイミングの良さといい、ピュラー、いいお嫁さんになりそうだよなぁ)
二人のやりやとりを聞きながら、ノリトはそんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ノリト・オロスコフが五百旗頭工房に入ってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
パーセウス・イオキベ工房長にピュラー、ノリトも含めたわずか三人の所帯だが、民生品から軍用品に至るまでの注文製造、戦術航空騎兵の補修も含めて、『アナタのための何でも工房イオキベ・ワークス』の謳い文句の通り、幅広い製品に触れ、あるいは触れさせられてきた一年だった。
その間、からかわれたり教えられたりしながら、イオキベとの会話は多くあったが、ピュラーと直接会話することはほとんど無い。
世界の技術を根底から支え、素材として欠かせない機能高分子繊維「スパイバー」。
アミノ酸を特定の微生物によって培養、様々な形式で結合し、防護服はもちろんのこと、建築資材、家電部材、軍事用強化装甲から光通信繊維まで製作可能にするこの奇跡の素材を醸造、管理することが、「醸造者」たるピュラーの役回りだった。
その素材を利用し、設計図の失われた複雑かつ高度な機材や部品を、前時代の遺産である思象追跡型工作機によって作り出すのが、「工匠」であるイオキベだった。
イオキベは工房長でもあるし、ピュラーは資材管理や資金運用に関わる事務方でもある。
機能高分子繊維に関する「醸造者」と「工匠」としての作業的なことから、工房運営に関わることまで二人が会話することは当たり前のことだったが、一介の「作業者」に過ぎないノリトがピュラーと会話する必要はほぼ無い。
もちろん、たった三人の工房で衣食住を共にすれば、時に日常会話をすることもあるが、それは最低限だった。ピュラーは必要なことしか話さないし、ノリトもまた、イオキベに絡まれない限りは、誰かと饒舌に語らうような気持ちも起こらなかった。
(ピュラーはどうしてこの工房に来たんだろ。僕よりもかなり前から居るようだけど……いかにも「世話女房」という感じだし、まさかイオキベさんと……)
考えが変な方向に走り出した少年の黒い瞳が、自分を見つめる深紅の瞳に気付いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……考えすぎは良くない」
無表情にノリトを見つめるピュラーが、いつも通りの口調でそう言う。ノリトは思わず、紅茶を吹きだしていた。
「え? なになに? なに考えてたのノリトくぅん? お兄さんに教えなさいよぉ」
「ちょっ、あぶなっ! こんな時だけ『君付け』で呼ばないでくださいよ! しかもなんでそんな口調なんですか!」
「いーひーひーひーひー」
さも嬉しそうに少年の首に腕を絡めるイオキベ。
あやうくカップを落としそうになるノリト。
調子に乗ったイオキベが変な笑い声を上げた時に、二階の通信機で受信警報が鳴った。
「ご馳走さま、私が見てくる」
細い指先で口元を拭ったピュラーが二階へ向かい、程なくして、急ぎ足で戻って来た。 軽く胸に右手を当て、左手には通信機から出力された電報が握られている。
「どうした」
ノリトに絡んでいたイオキベは、急に真顔になると、胸に手を当てて立ち上がる。
「兵站本部から入電。現在当工房で整備中の機体を当工房独自にて搬送してほしい、と」
「承服……現地搬送なんざ久しぶりだな」
電報を読み上げるピュラーの言葉に、イオキベがぼさぼさの頭を掻く。
「目的地は?」
「当地よりホーム方面、スラファト空域で支援部隊と合流、指示を仰げ、と」
「そんなんでうまく現地遭遇できんのかね。ま、向こうさんに見つけてもらえばいいか」
二人が会話する間に、ノリトは手早く食器をまとめていた。残った白パンも布巾に包む。
「イオキベさんが出ている間、あっちの洗濯機の組み立て、仕上げておきますね」
簡単な組み立てぐらいなら出来るようになっている。ノリトは、イオキベ工房の一員として、最大限に機転を利かせたつもりだった。
「何言ってんだ、おまえも乗るんだよ」
「えっ」とノリト。
「えっ」とイオキベ。
「いやだって僕は……」
「えっ」とイオキベ。
「えっ」とノリト。
「っていうかおまえが操縦すんの。空軍士官学校出身の『操縦手』だろ?」
「えっ」とノリト。
「えっ」とイオキベ。
少年と中年は、しばらく無言で見つめあう。
「無理ですよ! 中途退学ですから!」
「はいはい、大丈夫、大丈夫! さてさて、早いとこ加圧感知器を組み込まないと」
「無理無理! 無理です! 無理ですから!」
「ふむ……」
有り得ない物を見るかのように、イオキベの碧眼がノリトの黒眼を捉える。この眼差しの時のイオキベは危険であることを、少年は約一年の間に理解していた。
「……まったくできない訳じゃないだろ?」
「いや、それは、まあ」
「空軍士官学校出身を前提におまえさんがイオキベ工房に採用されたのも知ってるな?」
「はい、それは、まあ」
「じゃあ、工房の一員として今、おまえさんがすべきことは?」
再び無言になった二人をよそに、ピュラーは食器を片し、二階へ向かっていた。
「……乗ります」
「良し! いやぁ、なんか楽しいことが始まる予感がするなぁ!」
(この人、むしろ「悪人」だ!)
13歳の少年は、心の中で、精一杯そう叫んだ。
沈黙したノリトを尻目に、イオキベは気持ち良さそうに伸びをして、思象追跡工作機へと歩いて行った。
(つづく)
僕の少年時代は黄金の暗黒期でした!
戻りたいけど戻りたくない!
次回「発進」。
さあ貴方も、絶界でフライ・ルー!(てへぺろ)