前篇
「お前は次代の王の父となれ」
来るべき時が来た、と思った。ただ…少し早すぎる気はしていたが。
ひと際薄暗い廊下だった。
渡り廊下なので、すこし風が吹けば細かい霧雨が降り注ぐ。
なるべく風下を避けて通る。
しかし、そのちょっとした一挙手一投足さえ監視されているのがライオネルにはわかった。
――その日、いつものように帰り支度の準備をしていたライオネルは、突然職場にやってきた典礼官に言われたのだった。
『今から、私どもについてきてください』
『…どういう意味ですか?今、帰るところなんですが…』
ライオネルは主計局で財務関係を扱っている。
それが、典礼官のような、宮中行事を取り仕切る部門とは予算以外で関わることはない。
さらにいえば、彼らから呼び出されてついてこい、といわれることもない。
なぜなら、典礼官が相手をするのは王族や貴族の面々だ。
ここでは一文官にすぎないライオネルが呼び出されるのはお門違いも甚だしかった。
『あなたさまにも話が行っているはずでございます。
…あなたには扉を開けていただく必要がある。次代の王のために。』
ライオネルは、ごくり、とわれ知らず喉を鳴らしていた。
父親が言った言葉を思い出したのだ。
そして、断りたくとも、その術を持たないライオネルは否を言うことなく彼らの後をついて行った。
――そして歩かされているのが、王族たちの住まいがある奥の宮と、文官たちが施政を行ったり、玉座が配置されている本宮とをつなぐ渡り廊下だった。
普段、ライオネルがそこを歩くことはめったにない。
奥の宮に行くのはそこの主である王族や、彼らを警護する人間ぐらいだ。
一文官にすぎないライオネルが奥の宮を訪ねることは有り得なかったので、殆ど初めて通る場所だった。
建物と反対側には庭が広がっていて、その向こうは長い壁で仕切られている。
壁の向こうは、確か昔の神殿の跡地があり、普段は人が入ることはない。
本宮しか知らないライオネルには初めての場所ばかりであった。
「ライオネル様、こちらです。」
突然呼びとめられて、意識が他にいっていたライオネルは急に立ち止まった。
「この扉です。おあけください。」
無表情に典礼官は指し示した。
それは、何の変哲もないただの扉だった。
こげ茶色で、ほんのすこし背の低いそれは、言われなければ気付かないほど存在感が薄い。
さらにいえば、本宮と奥の宮の間をつなぐ廊下なのだから、その間に『建物』が存在しないはずなのに、何故かその向こうに部屋があるようについている、不思議な扉だった。
「…開けて、どうなるんですか。開けたところで、なにか私に得られるものでもあるんですか?」
「あなたご自身に反応が生まれる…のかは私どもには判断付きかねますが、確実に影響は、あるといえます。」
曖昧な答えだった。
ただ、言いたいことはなんとなくライオネルにもわかっていた。
まことしやかに言われる『花園』の存在は、勿論ライオネルも幼いころから知っていた。
どういう原理かはさっぱりわからないが、そこにあるはずのない広大な空間がその扉の先には広がっていて、
王としての血が濃ければ濃いほど、部屋に入れる上にその多様な景色が見られると言われている。
その血が濃い、という意味も、王としての適性を持つ血、なのか、近親の間で結婚を繰り返したすえに濃い、なのかは判断つかないままだ。
ただ、この部屋に入れなかったまま王に就いたものは失政を犯し、入れた王は、少なくとも国を混乱に陥れることはない、といわれている。
ただ、それが真実かどうかは定かではない。
噂には、血を持たずしてこの部屋に入るには鍵という手段もあって、
それを持つ人間も世の中には存在しているらしい。
ただし、果たしてそういう人間が王位に就くパターンもあったのか、もとより、今までに誰が鍵などを持ったことがあるのかすらわからないようなまったくもって論拠もないことばかりである。
だというのに、典礼官は根拠を示すことなくここを開けよと言う。
ただ、ライオネルがここで扉を開けないと何かに影響するらしい。
それも、次代の王に関して。
「仕方ないですね…今、開けます。」
そういってライオネルはドアノブに手をかけた。
『エラがいない限り、仕方ないもの。私が行くしかないじゃない。』
花が咲いたように快活に笑う姉は、もう今は手の届かない場所へと行ってしまった。
ライオネルはセシリア公爵家という、この国でもおそらく頂点に立つ家柄の出身である。
王族とも比肩する家格を優し、歴史は国の有史以前よりこの地を支配していた祭司の家系といわれており、今も国守としての役を担っている。
そしてその国守としての役以外にもう一つセシリア家は特殊な事情がある。
それは、血筋の安定性だった。
どの貴族も、政略結婚をすることによって脈々とその家の血を繋いでいる。
しかし、時として断絶の危機を迎えることがままある。
そしてそれは王家ですら当てはまる事情だった。
そういうときに登場するのがセシリア家であった。
セシリアの血は、多くの王族たちと何度も結婚を繰り返したことによって、裏王家と呼ばれるまでの血筋を保っている。
しかし、ここまで高貴な血を保ち続けていると、いつでもセシリア家が王族になり変わることができるということを指し示す。
だが、実際にはそうならないのは国守としての役を担っている要素が大きく働いている。
『私はどっちかっていうと、国守より種馬っていうのかしら?
そっちの素質の方があると思ってるんだけど、こればっかりは仕方ないものね。』
ライオネルの長姉であるシルヴィアが笑いながら少し下品な言葉を使って溜息をこぼした。
国の北にあるレイム地方には大きな神殿があり、そこがセシリア家が代々祭司として赴任する土地だった。
そしてそこはこの国の信仰の総本山で、代々神の花嫁という名の祭司の役割のためセシリアの娘が差しだされる。
先年、先代の花嫁が亡くなったため次代の花嫁が求められていた。
ライオネルの二番目の姉、エレナが花嫁の第一候補だった。
いつも物静かで、知的で温和なエレナは、三人姉弟で一番信仰心が厚く、人と交わることが苦手だと本人がこぼしていたほどだったから、
誰もが神の花嫁としてレイムに送られると思っていたのだった。
しかし、突然のエレナの失踪によって事態は急変してしまった。
今まで、単独でどこかへ行ったことが無いエレナが、忽然と姿を消したのだ。
懸命な捜索が行われたが、結局エレナの居所は失踪から1年以上が過ぎても見つかることは無かった。
そこで誰を神の花嫁に立てるべきか、ということになり、消去法から長姉のシルヴィアが遣わされることになったのだった。
『シルヴィー姉上は、エレナ姉上と正反対の性格なのに、大丈夫なのですか?』
『んー、多分何度も逃げ出したくなると思うわ。
だって、馬鹿らしいじゃない、いるのかどうかもわからない神様の花嫁とかなんとかになっちゃってさ、一生をささげるわけよ?
誰かに嫁いで一生その人の支配から逃れられない方がまだマシよ。
だって、館に閉じ込められるわけでもないし、子どもが持てないわけでもないんだもの。』
レイムの神殿に一度入れば、二度とそこから出ることはかなわない。
神の花嫁となる時点で、花嫁は神と同列に処せられるので、花嫁には還俗が許されない。
また、神の花嫁になるといっても、現実に受胎することもあり得ない。だから、子どもも持てない。
神に嫁ぐことは、まるで牢獄入りするのも同義だった。
『でも私はまだいいわよ。問題はあんたよあんた。
私はこの世からいなくなるみたいなもんだし、エラはどこにいるかわかんないし、
お父様とお母様は御年だから、将来早々にあなたは一人ぼっちでこの家を守ることになるのよ?』
『確かに…そう、なりますね。』
セシリア家は極端に分家が少ない。
近親婚を繰り返してきたためだ。濃い血筋から子どもは多くは生まれない。
三姉弟の父母もまた、父系母系共の従兄妹関係という濃さだ。
もしも、エレナが逃げないままであれば、シルヴィアは長年婚約していた人と結婚して、貴重な分家を増やすことができたはずだったのだ。
だが、シルヴィアが出家することによって、この婚約は破談になる。
そして、巨大なセシリアという看板を、ライオネルが一人背負うことになるのは目に見えていた。
『たぶん、お父様は私が神殿に行ったらあんたの縁談を探しまくることになるはずよ。
だって、あんたには役目があるもの。
この家の後継ぎを作ることと、王家に何かあればこの濃い血で支えること。
まあ、今のところは王家のほうは安定してるから後者の役目はないと思うけどね。
でも、いつ何時セシリアの血が求められるかわからないから、覚悟しておきなさいよ。』
いくつもの気がかりを残しながら、シルヴィアは俗世から旅立って行ってしまった。
そして取り残されたライオネルは、
シルヴィア曰く起こらないはずだった王家の存亡が危急に瀕したため、
やはり担ぎ出されることになってしまったのである。
扉を開けた先は、何故か晴れ模様が広がっていた。
花が咲き乱れて、甘い蜜の香りが鼻孔を掠めていく。
いつの間にかやってきた扉は閉まっていて、ライオネルは、ああ、開けてしまって、しかも入ってしまったんだ、というどうしようもない気分になっていた。
「で、この先どうすればいいのか聞いてないぞ…」
典礼官に、入ってその先はこうしろ、ということを言われぬままに入ってしまった。
すぐに出ることも可能だろうが、たぶん、典礼官はそんなことを求めているわけではない。
奥の奥まで入って、その血の資質を証明しろ、といいたいのだ。
「とりあえず、行ける所まで行けばいいのか。」
独りごちてから、歩きだす。
花畑は色んな種類のものが季節関係なしに咲いていた。
アザミの小さな花のすぐ横にはひまわりが大輪を誇って咲いている。
あまりのちぐはぐさに不自然さしか感じないはずなのに、
なぜだかこれもありなんだ、と納得させられるような妙な心地になってくる。
空を振り仰げば、真っ青でところどころにたなびく白い雲が見えた。
扉を開ける前は暗く重い雲の合間から霧雨が降っていたのに、ここは『世界』そのものが別のようだ。
しばらく歩いてみれば、あれだけ花が咲いていたのに今度は枯れ草一面の場所もある。
場所によればきっと雪原も現れる気がした。
ライオネルはなにかに惹かれるように、ずんずんと足取り良く進んで行った…
というわけで何年前に書いたんだろう、そして未だに未完のものをUPしてみました。
ぼちぼち「いち女中~」とリンクし始めるネタが出てくるので…