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桜の木の下で

作者: 雪羽 十縁

 桜の木の上からお兄ちゃんが落ちてきた。本人は降りてきたんだと言っていたけど、落ちてきたとか、降ってきたとかの描写しか私の頭には思い浮かばなかった。チャンスだと思って、私はそのあたりで拾った太い木の枝を強く握りしめて、お兄ちゃんの胸に付き刺した。

「おおっと、びっくりしたなぁ」

 しかし、お兄ちゃんは何でもないかのようにへらへらしながら振り返る。それもそのはずだ、木の枝は勢いあまって地面に刺さっている。私は一瞬何が起こったのか理解できなかった。

 お兄ちゃんの前に転がっていた私は、お兄ちゃんに促されて立ち上がる。木の枝はまだ私の手の中にある。

「びっくりしたなぁ。久しぶりの再会だって言うのに、僕の妹はこんなに手が出やすかったっけ?」

「心配しなくていいわよ。こんなことするの、お兄ちゃんにだけだから」

「わあ、わりと言われると嬉しい台詞のはずなのに、このシチュエーションで言われても何も嬉しくないなあ」

 あはは、と笑いながら話すお兄ちゃんには、緊張感のかけらもない。木の枝はお兄ちゃんの胸の真ん中を通ったというのに、いったいどうしてそんなにへらへらしていられるのか。確かに、通っただけではあったが。

 私はどうしたらお兄ちゃんを殺せるのかを考えることだけに集中して、また凶器の先をお兄ちゃんに向ける。

「なあなあ、そんなに気を立てなくてもいいじゃないか。ほら、そんなに感動的な兄妹の再開なんだからさ」

 意識してみると、大して動いてもいないのに息が荒くなっていた。お兄ちゃんにそんな気を遣われるのになんだか腹が立った。

 だから、私はもう一度、木の枝を胸のあたりに構えて、体当たりをするようにお兄ちゃんの腹部に目掛けて突き立てる。しかし、私の腕は空しく空を切って、私はろくに受け身も取れずに再び地面に木の枝を突き刺した。そこでまたお兄ちゃんに心配されて立ち上がる。

 このままではらちが明かない。

「お兄ちゃんは、何なの?」

 やっとまともに会話をする気になったか、とお兄ちゃんが嬉しそうに体を揺らし始めた。

「何なのか、って言われると何を答えていいのか分らないなあ」

「ふざけないで」

 私は木の枝をお兄ちゃんに向ける。

「まあまあ、落ち着いてよ」

 それをひょいとお兄ちゃんに取り上げられる。刺さりはしなかったのに、なぜ自分からはつかめるのか。納得がいかない。

「ん、何か不満かい?」

「……なんで持てるのよ。それよりも、なんで刺さらないのよ。あと、お兄ちゃん、なんで浮いてるのよ」

「なんだ。そんなことかい」

 お兄ちゃんは何でもないことかのように言いかけ、少しだけ気を使うような表情を見せる。

「まあ、死んでるからね」

「……知ってる」

 この場所、詳しく言うとこの桜の木の先にあるがけの下で死んだということも。私の目の前で死んだということも。

「知ってたのかい。なんでわざわざ僕に聞いたのかな?」

「別にいいでしょ。なんで今さら出てきたのか気になっただけよ」

「今さらという訳でもないさ。たまたま今までに顔を合せなかっただけで」

「へえ」

 何かもっと聞いてほしいというように、お兄ちゃんは体を寄らしている。私は特に深く聞きたいとも思わないから、少しだけ沈黙に支配される。

 何年ぶりにここに来ただろうか。お兄ちゃんがいなくなってから一度も来たことがなかった。しかし、実家に近いところではあるが、大学への進学が決まって、一人暮らしをすることも決まって、もしかしたらと思って、今日ここに来ているのだ。

 お兄ちゃんがそわそわし始めた。不安そうだ。仕方がないから、わたしから口を開くことにした。

「で、続きは?」

「え、あれ、続きって僕がしゃべる番? もっと、ほら、いろいろ聞きたかったりしないの? さっきの僕が言ったこととか」

「いいから早く」

「まあ……、いいけどさあ……」

 わざわざ私から会話を再開させてあげたというのに、なぜだかお兄ちゃんは不満そうだ。

「なんで持てるのかは、分からないな」

「わからないの? 本当に?」

「ん、便利だからいいかな、と」

「なんでそんなに適当に考えられるのよ。死んでるのに」

「あはは、むしろ死んでるからかもしれないけどね」

 もし生きていても絶対に同じだろう。

「というか、もしかしてお兄ちゃんって、自分がどういう状態なのかとか、何ができるのか、っていうこと自分でも分かってないの?」

「あはは、お恥ずかしながら。自分でも知りたいことは知りたいんだけどね。出来ることは出来るんだからいいかな、ってずるずる延ばしてたらそのままになっちゃって」

「……まったく」

 生前からお兄ちゃんは楽天的な考え方だったが、この状況でそんなことを再認識させられても、ため息をつきたくなるだけだ。

 遠まわしに探っていてもどうにもなりそうにないので、直接聞いてみることにする。お兄ちゃんがまともに答えてくれるようには、自分でも思えないけれど。

「ねえお兄ちゃん。聞きたいことがあるんだけど」

「おう、なんだい?」

 お兄ちゃんの笑顔が満開になる。生前と変わらず、やはり頼られることが好きなようだ。

きっと、私の質問にも答えてくれると思う。何かが自分の中で引っかかっている気がするが、何でもないだろう。

「お兄ちゃんは、どうしたら殺せるの?」

 お兄ちゃんの笑顔が少しこわばる。答えが返ってこない。

「なんで黙ってるのよ」

「確認だけど、はじめに飛びついてきたのは、愛しい兄と感動の再会を果たして感極まったとか、混乱してたとかではない?」

「そんなことはない。私はお兄ちゃんを殺したいと思っているの。ずっと、切実に」

 私はまっすぐとお兄ちゃんを見る。お兄ちゃんはすごく悲しい顔をしているように見えた。

 そんな顔を、私に向けないでよ。

「……なんでなのか、すこしも見当がつかないなあ」

 それでも、お兄ちゃんはなんとか笑顔を浮かべる。しかし、悲しそうな笑顔である。

「なんでもいいじゃない」

「ずっと、というと、いつからなのかな」

「うるさい」

「そもそもさ、なんでそんなにぼくを殺したいのだろうね」

「うるさい」

 お兄ちゃんが悲しそうな顔で、小さい子供に諭すように言う。うるさいうるさい、もう分かっている。分かっているから。もういいじゃないか。もう何年になるのかもわからない。もう、いいから。

「ねえ、教えてくれな」

「うるさい! いいから! お願いだから、殺させてよ……」

 結局みんな、私が悪かったのだから。

 はじめは叫ぶほどの大声で、終わりは声がかすれて、何を言っているのかもわからなくなった。

 お兄ちゃんがどんな顔をしているのか見ることが出来ない。

 私が全部悪いのだから。

 もう、受け入れると決めたのだから。

 全部認めるから、

 どんな罰も受け入れるから、

 だからもう、

 私を許してください……。

 何かが体に覆いかぶさるような気がした。暖かいような気がした。

「やっぱり、そういうことね。ごめん。謝るのは僕の方だろう」

「やだ、止めて、そうやって、私をいじめようとするのは、やめて」

「あはは、どれだけ卑屈になってるのさ」

「いいから、もう、そういう、心にもないことはいいから。みんな、私が悪いって思ってるんだから」

「……ああ、本当に、申し訳ないことをしてしまったね」

 風が吹いて、桜の木がざわめいた。

 お兄ちゃんが言う。

「もうほとんど終わりの時期だけどさ。桜の咲いている木の下って、不思議なんだよ。時間が動いているようで、時間が止まっていて」

 何を言っているのか分からない、と言おうとしたところで私の意識は遠のいた。


 気が付くと、景色が変わっていた。場所はさっきまでいたところと同じなのだけれど、例えるのなら、視点の位置が全く変わらないテレビの画面を見ているようだった。

桜が満開だった。『私』はその下にいた。

 桜の花びらががけの方に落ちて行って、『私』はそれを追いかけて、足を踏み外して。

 そこで『お兄ちゃん』が身を乗り出して、手を伸ばして。

「止めて!」

「おうっ、ごめん」

「お兄ちゃん? いるの? まだ間に合うかもしれない! お兄ちゃんを助けて!」

「お、おおう、言わんとしていることは分かるが、それは出来ないよ。この出来事は今ここで起こっているわけではないからね」

「でも、このままじゃお兄ちゃんが死んじゃ、あ……」

 画面は真っ暗になった。

「ごめんね。そこまでショックが強かったかい? むう、さっきは自分から僕を殺そうとしてたから大丈夫かと思ってたんだけど」

「……自分でやるならいいの」

「……そ、そうか。じゃあ、もう一つだけにしようか」

 画面に景色が映った。私の実家だ。

 お兄ちゃんはいなかった。白黒の写真だけはあった。家族は私を腫れものに触るかのように扱っていた。みんな、私が悪いと知っていたのに、私が直接お兄ちゃんを殺したわけじゃないから。それぞれの思っていることをぶつける場所を失ってしまっているのだ。

 いないものとして扱ってくれたら良かったのに。そう、いっそ私が本当にお兄ちゃんを殺していれば、私も周りもこんなに困ることもなく、悩むこともなかったのに。

「改めて見てさ。どう思う?」

「こんな辛いものばかり見せて、何をさせたいのよ……。やっぱり、私を、いじめるの……? みんな、私に罰を受けさせたくてたまらないんでしょう。こんなに腫れものに触るように扱って」

「そんなことはないだろう。腫れものに触るっていうより、慎重に扱いすぎちゃっただけなのかなと思うけどね。もちろん、傷つけないためにね」

「そんなはずないわよ。みんな思ってるわよ」

「言いきれる?」

「……私がそう思ってるだけ、ではあるけど」

「だろう? ほら、よく見てみなよ。こんなに大事にされてさあ。うらやましい限りだよ」

「でも、でも……」

「なんでそこまで拒否するんだい。それとも、許されたくないのかい?」

「そんなことはない、けど」

「自分が許せない、か」

「そんなことは……」

「ないこともないんじゃない?」

「……うん」

 画面が消えて、元の景色に戻ってきた。お兄ちゃんはまだ私に覆いかぶさっている。

「私のせいでお兄ちゃんが死んだ、とか、まあ気にするなとは言わないけどさ。なんだかんだで、僕は今も元気だからさ。大丈夫だよ。きっと」

 風が吹いて、桜の木がざわめいた。まるで桜にも諭されているようだと、そんなことがあるはずもないのに、そう感じた。

 風に乗って、桜の花びらが数枚だけ散っていった。

「……いいのかな。許しちゃっても」

「むしろ、許してもらわないと僕の気が休まらない」

「……そっ、か」

 なぜだか胸のあたりがきゅうっと少し苦しくなって、目頭が熱くなった。私は安心したのか、となぜだか客観的に、すんなりと受け入れることができた。

「泣いちゃってもいいよ。お兄ちゃんの胸の中で泣きなさいな」

「あはは、無理だよ。私からは触れないんだから。それに、やだ。今の気持ちは涙で流しちゃうのはもったいない」

「そうか、残念」

「甘えてほしかった?」

「それもあるんだけどね、どっちかというと」

 お兄ちゃん桜の木を見上げる。

「もう時間だから」

 言うのとほとんど同時に、それまで咲き誇っていた桜の花が唐突に散り始める。そして、お兄ちゃんの体が消え始めた。

「何してるのよ?」

 また何かふざけているのかと思って、私は目元をぬぐいながら、ふざけ半分でそう聞いた。

「いやね。本当ギリギリにでも会えてよかったなあと思って安心してるのさ」

「ギリギリって何よ」

「僕、今日で消えるから」

 唐突に頭を殴られたような気分だった。消える、ってなんていう意味だったか、なぜか思い出せない。思い出したくない。

 桜が散っている。

「やだ、行かないでよ。ねえ、冗談だったら怒るわよ!」

「本当だから殴るのは勘弁してくれよう」

「ふざけないで! むしろ消えたら殴るわよ!」

「な、なんて横暴な」

「消えるにしても、突然すぎるでしょ!」

「そうはいってもねえ、こればかりはどうにも」

 すでに首から上しか残っていない。そのわりにまたへらへらしていて、のんきに手を振っているように見える。

 桜の花は、散る速さを衰えさせない。ゴツゴツした枝や幹が目立つようになってきた。

「お兄ちゃん! いい加減に……!」

 言い終わる前に、お兄ちゃんは跡形もなく消えてしまった。

 あきらめずに、お兄ちゃんを呼び続けた。内心あきらめていたけど。受け入れたくなかった。

 叫び声のような呼び声は、いつの間にか嗚咽の混じったものになっていた。

 子供のころには一度もしたことはなかったのに、子供のように、一人で、大声で泣き叫んだ。桜の木のまわりには私の他に、誰も、何もいなかった。

桜の花びらが一枚、私の足もとに舞い降りて、それより後には、何も降りてくることはこなかった。











おまけ


「私から見たら、こんな感じだったのよ」

「へえ、僕ってそんな風に消えるんだねえ」

「ということで、殴っていい?」

「たぶん当たらないだろうけど、勘弁を願うよ。本当、申し訳ない。謝る謝る」

「まったく……。さあ、私は話したわ。次はお兄ちゃんの番」

「……あれ、何か怒ってる?」

「そんなことはない。ないからさっさと教えてよ。なんで消えたのか。で、一年経ってからまたいきなり出てきたのよ」

「ああ、そんなことかい」

「お兄ちゃんにとってのその程度がだれにとってもその程度だと思わないでもらえる?」

「ごめんごめん、まあ、簡単に言うとさ」

「簡単に言うと?」

「桜は毎年咲くだろう?」

今年も桜の花が咲きました。

なぜあやつらは、咲くときにはじわりじわりともったいぶって、そして瞬く間に散っていくのでしょうか。

まるで力尽きたかのように。


そんなこんなで、こんなことがあってもいいんじゃないだろうか、と思うわけであります。

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