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さあ。ことばの海へ

作者: 加藤 一央

 1章 アラベスク



いずれぼくはこの世からなくなるから、ということをとてもはっきりつかんでいるんだ。だからぼくはこの世でとても強い光をはなってここにいる。死がないと生の輪郭はぼやけてしまう。



 緑色のドームの中心に天窓があって、そこから砂漠の日差しがまっすぐに床へ、白い柱みたいに落ちている。ベルベル人の歴史。たとえばマスケット銃を振り回しながらラクダで突破した要塞のことや。物語が語られながら、螺旋状に渦巻いて光の柱をたどって上昇していった。壁には民族織りが。羊毛を織って星や動物のモチーフを描いた手触りのよい織り物。ぼくはここでも異邦人だ。訪問者で通過者で、見物人。すべてのことはぼくの目の前でショウケースに入れられ、きらきらと美しい。現地の人たちのなにげないこと、迷い人に道を示す指のかたちや話をしているときの身振り手振り。彼らにとってナチュラルなことがぼくにとってはたくさん写真に撮っておきたいことになる。

 市場にでた。尖ったフードを被った人たち。ああ、武器が売られている。ウォルナットの木肌がかすれて深い色の古いボルト式ライフル。職人がプレス生産品を模倣してつくった自動小銃。ぶれやゆらぎがあいまいな武器を生み出す。これらをたすきがけにして砂漠で人は撃ち放つのだ。歩けなくなったラクダを仕留めたり、部族同士の争いで闇雲に撃ち込んだり。北欧の町で無数の弾が打ちこまれたグランドピアノを見た。畑のわきに朽ちて放棄されていたそれは音楽の生き物で、同時に死体でもあった。前足をがっくりと折り、それは畑のわきで朽ちて放棄されていた。踊るとき砂漠の民は太鼓を好む。単純なリズムを好む。スペイン人のように精緻な拍子でなく、単純な、ほんとうに砂漠にひとしい単調なリズムを好む。そうやって踊る。単純な踊り。繰り返し繰り返し。繰り返しに意味がある。反芻されるおなじことに喜びがある。日が落ちてまた日が昇る、といったようなことに。砂が果てしない衣擦れの音とともに流れゆく。時間はここにとどまって動かない。太陽と青。彼らのまとう頭巾の青はひどく深く色彩を意識する心はそのまま色の向こう側へとすり抜けてしまう。ことばも歌も、人間の営みといったものはすべて、なにもかもが砂漠の連なりの上で熱と消え、星に埋もれる夜には冷気が、存在の温かみを消し去り、それでもなお生きようとしているのだ。日記を書いた外国人は砂漠で響き渡る乾いた銃声と勇ましくも楽しげな戦いのさまを手に汗握り書き記したのだろう。ぼくのこの旅もまたそんなショウの一幕一幕の、終わりのない演目なのだと思う。

 ピアノ。点描。ランダムなステップ。隙間をたっぷりと含んだテラス越しの街の人通り。作曲もし演奏もするこの男にぼくは感謝したい。あなたの音楽がこれほどまでにインスピレーションをもたらすのだ、と。あなたの音楽の翼に乗ってわたしは、無限の創作の庭にどれほどの時間、遊び呆けたことか。音楽のしもべという表現は好まない。文学の、映画の、芸術のしもべ。あなたはしもべではなく、水を含ませたガーゼのようなもの。それはずっとこの世界に流れ漂う創造の粒子をガーゼに含み取り、音に変換して搾り出したものだ。わたしたちは表現者の光に照らされ、創造の庭に踏み入り、そこでただひたすらことばと切り離される。創造のなし得る仕事に賛美と感謝を惜しみなく。このテラスで酒なりコーヒーなりを飲んでぼんやりと街のせわしない動きを見下ろしている。道端で赤い人が立っている。白い車が速度をゆるめ停まる。赤い人が開いた車のドアへと吸い込まれていく。小さな動きの、色の移動の結晶が都市だ。とくに夜はそう。色が、黒いカンバスの上で美しい。からめとられた夢の飛沫が街の底で噴きだしている。夢はぼくらを夜の高速道路に乗せ、夜明けまっしぐらに届けてしまう。スピードの彼方でことばを失うこどもたち。

 月夜に。ねえ、こどもが生まれたら。いろんな体温は混じり合いそれぞれの輪郭を失ってひとつの球体にちかい。きみとぼくの温度が二度と発せられないことばでつながれたなら。きみとなら。

 日がなラクダに揺られていたせいでひどく身体が痛む。眠っては起き、そのうちうまく寝つけなくなり、テントを出た。隊の先導役のテントのわきを抜けて手近な砂丘を月明かりの下のぼってみた。ごわごわとした砂漠用の分厚いジャケット。ネットで買い求めてここまで持ってきたものだ。星空、と上を見上げると首がきしむ。とにかく全身に疲れが充満しているのだ。歩くのはラクダであり、自分はその背で揺られているだけなのにと情けなくなるが、隊の現地人たちもぼくほどではないにせよ疲れの色を見せていたのだから。痛む首に注意を払いつつ星を数える。目に見える世界にばかばかしいほど星はまぶしい。フラッシュライトとでも言おうか。それは世界のなかであくまでも強大で、じゃがいもが腐らぬようにとかぶせられた麻布のように、我々の地上は星のベールで宇宙の混沌から守られているのだろうか。大河のように流れていて、ひとつの発音が無限の反響をともなって連なっていく最果て。散り散りになった言語が降りそそいでいるんだ。

 指のかたちがきれいだと思った。横から見た鼻のかたちも。顎のラインも。額も。かたちにとらわれてはいけないと思ったけれど、でもそれはいかんともしがたいくらいで僕はそれに人生のだいぶを費やした。それを讃えるオード。連歌。いましがた消えた恋が別の国でまた火を点ける。まるで砂漠に連なる砂丘のよう。砂漠の空を回転する太陽。一日は定まったサイクルで繰り返され、また命の連続性のために費やされていく。そこに意味はなく、ただ繰り返されるという単純なリズムがあるだけだ。神はいない。ただ、そのように在り、そのように続いていくだけだ。この世界は拡がりを持った時計の文字盤のようであり、球体をした楽譜のようだ。ぼくたちはそのなかでただ眠ったり、遊んだり、生きたり死んだりする。ぼくた自身が音符のひとつひとつであり、刻まれる時間の一ピースであったりする。

 世界のはじまりの場所のことを綴った織物が壁にかかっている。その場所について描かれたこの世で唯一のイメージ。人間がいるずっと前、なにもかもがその回転の前夜で、こどもだったころ。ぼくたちがずっと単純でゆるやかな結び目の着物を着、生まれゆく世界の膨張を見ていたころのこと。



 2章 タペストリー



これはぼくとことばのこと。だから誰にも邪魔できない。つくりだすというより流れだしてくる。



 壁をじっとながめていた。壁にかけられた織物の描く物語をながめていた。国と国の歴史。男女の歴史。文化が文化の上に積み重なっていく歴史。それぞれが積層をなしてはいたけれど、個々には一瞬一瞬のまたたきでもあった。たとえば積み重なった頁の一枚一枚がそれぞれに読み手のある瞬間の記憶となるように。生々しくエロティックで、グロテスクですらあるそれらのひとつひとつの描写がその結線の先で凝視しているぼくの神経をふるわせ、感性の重い扉を力強く押し開いていく。浜に打ち寄せる波にはサーフビートといって一定のリズム、間隔があるのだけれど、そのリズムを読み、自分という存在のすべてを波に沿わせていくと、ある瞬間に、板と自分は波によってそのリズムの一拍子となる。出来事のひとかけらひとかけらが合流し大きな時間の流れに吹かれぼくという浜辺に打ち寄せる。膨大な一瞬の積層を織り込んで壁掛けはとても長くなっていく。部屋を一周し、四方の壁をぐるり回転してもなお、まだ織りきれない時間の流れがあるのだろう。ぼくが時間をかけて感じていたのはそういった一瞬の新鮮さと拡がりだった。多彩なイメージが崩れ落ちながらぼくに降りそそぐ。感性が洗われ、本来の艶を取り戻すと、ぼくの時間もまた大きな外周を描いて回りだすのだ。その中心でぼくは、ただひたすらに馬鹿みたいに、書記みたいに、ことばをあわててならべては、そのありさまを正確に写し取ろうとキーボードを叩いている。部屋で。ひざにパソコンを置き、ベッドに横たわって。

 節操のない町。歩いても歩いても猥雑な風景ばかり目に付く。前時代の歓楽街であり、そこここにほころびが散らかっている。売れ残ったマンション。海辺に面した中庭で刈り取った樹木が手押し車に載って静止している。なにもかもがざらざらしていて歩くと疲れるんだ。それでもかつては華やかな町だった。文人も画家も政治家もここに集まった。そんな残骸を追ってこの町に遊ぶのだが、歩けども歩けども生気というものが見当たらず、それがわたしをひどく疲れさせる。わたしの住んでいる町にはないんだ、もっとこう大時代的な、資産家とか、社交界とか、そういった華やかさが。芸術がひどくこじんまりとしていて地下鉄のメールのやりとりと同じくらい狭く近く小さなサークルに向かって発射された表現の数々。そこにあるのはひたすらに下心であって、なんとかして相手の電話番号を聞き出そうとするツールとしてのアート。そんなもののなかでうんざりしているわたしにとって、このうらぶれた温泉町の過去の遺産に見る威厳は頼もしく、それを追い求めてはわたしはわたしの創作に威厳をもたせたいと目論む。ただ、見るものみんなモノクロ。陰影でしか表現されていない芸術に感性をふるわせようとするわたしこそ、うらぶれて枯れつつあるなにかの残滓なのだろう。坂道を下っていくと海へ近づくにつれ建物が密集してくる。ドレスのすその皺のようにぐっとくっつきあって文明がゆがんでいき、その先の海でばつりと切り落とされている。海はいいな、と思う。句読点のように海岸沿いの喧騒や渋滞をいっさい切り落としてしまい、そこから先はただひたすらに拡がっていくだけなのだ。文明の輪郭は海が描く。わたしはいつか海のひとになりたい。

 人生でいくつかの大きな決断をしてきた。舵を切り住まいを変えて自分のイメージを人生の選択に反映してきた。わたしの人生はわたしがデザインするものだ。運命といったものはわたしは意識しない。明確な直感かイメージがあり、それに従ってすみやかに選び取る。それがわたしの人生の進め方だ。手に入れてこなかったものはなにもない。後悔もない。この点においてわたしは完璧であって、この点についてわたしは完全に満足している。生は操縦可能だ。死は操縦不可能だ。そのふたつのことだけがはっきりとしていて、その二つの前提に従ってわたしはわたしの人生を動かしてゆく。夢の方へ。より自分へと、深く潜ってゆく。なによりも鋭い集中力をもってわたしはわたしの本質を知ろうとしている。この世界においてもっとも美しく、完成された瞬間は、わたしとわたしが接する世界のあいだで生じた同調だ。波がわたしを重力から解放するように世界との同調がわたしと世界との引力を解放する。その瞬間に自由は生じ、その瞬間に生はほんとうの輝きを見せてくれる。わたしは世界であり、自由と一体化する。

 一瞬の連続が生きることで、元素の結合体がわたしの体で、結合のゆるやかさによって風や岩や波やわたし、といったバリエーションが生まれる。わたし、というものは小さな粒のふきだまりのようなものだ。あるひと時そこにあり、また流れにさらわれて消える。生と死を、ふきだまりであったか、そうでなかったかに分けて考えるとよい。たまたま粒子の密度が濃かったからわたしというものが生まれた。わたしを含む流れはつねに動いている。わたしがわたしである時間はたいして長くない。だから、わたしはわたしであり続けることに執着してはならない。わたしがわたしであるこの限られた時間に集中しなければいけないのだ。生が与えてくれるものすべてを存分に味わなければいけない。他者をおもえ、というテーゼは間違っている。他者から生の本質を受け取ることはできない。なぜなら生は一瞬一瞬のきらめきのようなものであるから、他者を媒介した生はすでに生ではない。自分に集中せよ。自分というスクリーンいっぱいに生が描きあげる一シーン一シーンを楽しむといい。わたしがわたしであるかぎり、生はその本質を惜しげもなく見せてくれる。それは間違いなくこの世でもっとも楽しいことだ。

 砂浜にデッキチェアを置いた。これで午後、日がずっと傾いていくあいだ、本を読める。微風が気持ちいい。シャツの、繊維のすき間を風がうめていく。妻は庭に水をやっている。それが終わればキッチンに入り、鍋を磨くのかもしれない。本は、わたしの指のあいだにあり、眼鏡の奥で凪の海の低い波が崩れ、白いラインが現れ消える。低く鳥が飛び、その姿が濡れた砂の上にうつっている。きっとこの微風ですらコントロールしているのだ。鳥はひどく軽い。羽根にたっぷりと空気をはらませているからだ。わたしたちが足で地面を蹴るように、翼で空気を打ち、反発する力で空を駆けていく。ときには急勾配の階段を駆け上がりわたしたちの砂浜のずっと高く、雲のほうへと行ってしまう。時間は十分にある。家も、幸福もある。本もある。ないものなどない。日は少しづつ傾いていく。ただそのさまを眺めていると気持ちがいい。鳥がひるがえった。波はとても低い。すべてが日差しに白く、空気も妻も、なにもかもが白い。幸福の重みを指に感じる。本一冊の重み。鍋はひどく重い。鉄とセラミックの混合だから。そこに野菜を入れ、肉を入れ、ずっと煮込むと、彼女はそういったことがどうしようもなく幸福なのだ。デッキチェアの足が濡れた砂にうまっている。裸足のわたしの足。崩れた波の延びた指先でわたしのつま先がさらわれる。空と海はあまり区別がつかない。

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