st.ⅩⅦ The Chaos
私はお城の長い廊下を歩いていた。
暗くて、少し肌寒い。
ここがどこなのかは、よく分からない。お城であることは確かだけれど、後宮なのか、そうでないのか、それとももっともっと別の空間にいるのか分からない。
ただ一つ言えるのは、私は逃げていた。
彼といた場所、彼の着ていたもの、彼と一緒に食べていたものを見るたびに、あの人との思い出が湧き上がってくるから。
――『ソフィア……誰より君を愛している』
そう言ってくれた、優しかった彼はもういない。
甘美なはずの思い出が、何よりも鋭いナイフとなって私の心を切り裂く。心からたくさん血を流して、とても痛くて辛いのに……私はまるでそれを求めるかのように彼の痕跡を探してる。
そんな苦しみから逃げているつもりが、彼と思い出の深い場所ばかりに向かってしまう。
葬儀はとても盛大で、たくさんの人々が喪服に身を包み、沈痛な面持ちを浮かべていた。空に吸い込まれていく、哀しげなトランペットの音色が耳にこびりついて離れない。
こんなことなら、あの日……、自分があのまま大人しく、リザと陛下の前で処刑されていれば、あの人は死なずにすんだんじゃないか。
そう思えてならない。
それを言ったらあの人は、きっととても怒るんだろうけれど。
そしてきっと、私を慰めるように強く抱きしめてくれるだろう。
「――っ、へいか」
冷たい壁に寄りかかって、廊下に崩れ落ちる。いくら泣いても枯れない涙を零す。
「会いたい……、会いたい、です……今すぐ。どこにいるんですか……どこ、に」
まだあの人の部屋には彼の匂いが残っているのに。温もりだって、優しさだって、声だって鮮明に思い出せるのに。
どうして、彼の姿だけは見つからないの?
「女、いつまでそうしている」
ここへいつ戻ってきたのか、いつからこうしているのかも分からなくなった。
今がいつで、自分が何をしようとしてるのかも分からない。
「聞いているのか? 消えたものは生き返らない」
何も聞こえず、何も見えない。
ただあの人の幻想だけを追って探し続けている。
どこ? どこにいるの?
「……どこに行けば……あなたに会えるのですか」
「おい、いい加減にしろ!」
「グレイさんはご存知ですか?」
突然私の視界に飛び込んできたグレイさんに尋ねる。私の両肩を強く掴む彼の双眸は、どうしようもない哀れみに満ちて見えた。
「マイプリンセス……」
「ソフィー」
ツツツと伯爵さんの肩から下りたミセスグリーンが、廊下に座り込む私の膝によじ乗る。
「ソフィー、色々あって疲れたね……。さ、少し休もうねぇ」
優しい彼女の気遣い。
けれど、それが余計に胸を締め付ける。
「いいの、ミセスグリーン。このままで……。むしろ、このまま……いっそ――」
言いかけた言葉に、ミセスグリーンが体を震わせ、全身の毛を逆立てた。
「ソフィー……今すぐ前を見ろなんて言わない、今すぐ立ち直れなんて言わない。でも……そんな、何もかもを諦めたような目をするのだけはやめておくれ……っ」
「そうだよ、マイプリンセス。温かいスープがあるから一緒に飲もう! ね?」
「一人にしてください……お願いですから!」
「ソフィー……っ」
皆を振り切って、薄暗い廊下を走る。絡まりそうになる足を必死に動かしながら。
分かってる。
みんな、どれだけ私を心配しているか。
食事もとらない、夜も寝ない。
ずっとお城の中をさまよい続ける、亡霊のような私をどれほど案じてくれているか。
頭では分かっているのに、心配かけちゃだめだって思っているのに。
愛しい人を失った喪失感が計り知れないほど大きすぎて、もう……自分ではどうしようもなかった。
もう一度だけでいいのに、どうして言葉を交わすことすら叶わないの?
飾り物の甲冑の持っていた短剣が、ふと目にとまった。
*************
屋外に出ると、風がざあっと髪と草を撫でる。
私はあの湖の畔に来ていた。
空気が澄んでいて、満天の星空が美しい。
「あなたと最初に出会った日も、こんな綺麗な月明かりの下でしたね、陛下」
湖は驚くほど静かで、梢のざわめきと小さな水の音がちゃぷちゃぷと聞こえるだけ。
ここで絵を描いていると、突然彼に背中から声をかけられたんだっけ。
――『ほう、上手いものだな』
あなたは、あの時から私に心を奪われていたなんて言っていたけれど、きっと私だってそう。
あの日、あの美しい漆黒の瞳がどれほど私の胸を高ぶらせたか。あなたは知らない。
「人間界にいたころ、私は教会でこう教わりました。自ら命を絶つことは、人を一人殺すということ。とても罪深いことなのだと」
神父様の厳しくも優しい教えは、とても心に響いた。でも――
短剣の鞘を足下へ落とし、銀色の鈍い光を放つ先を自分の首に当てる。
「それほど重い罪だというのなら……私も、あなたのいる地獄へ行くことができるのでしょうか……」
あなたのいないこの世は、地獄以上に苦しい。
何度あなたの白昼夢を見たか。それが現実のあなたじゃないと、何度深い絶望を味わったか。
もう、耐えられない。
陛下……、あなたが一緒にいられないというのなら、私がそちらへ参ります。
「もうすぐ会える……」
美しい月を最後に、目を閉じてひと思いにナイフを突き立てた。
「――!」
けれど、寸前でナイフの先が止まる。
ハッとして顔を上げた。
「おやめください……! ソフィア様」
シュレイザーさんが私の手首を握りしめ、白い眉間に皺を寄せて、怒ったような哀しげな表情で私を見つめていた。
「やめてください! 放してッ!」
力の限り彼の手を振り払おうと暴れても、彼の力は想像以上に強くてびくともしない。
「お願いですシュレイザーさん! 放して! 会いたいんです……あの人に……っ!」
「こんなことをしても、会えるはずがないでしょう!」
「分かっています! でも……でももう私のことは、放っておいてくださいっ!」
「落ち着いてください、ソフィア様! いえ……、陛下っ」
シュレイザーさんの放った言葉に、世界が止まった気がした。
「……陛、下……?」
木々のざわめきが、心なしか一瞬強くなった。
シュレイザーさんは力の抜けた私から素早くナイフを奪うと、深呼吸して私を見つめた。
彼のはりのある紫色の髪が揺れる。
彼の力強い双眼から、目が離せなかった。
「はい。レオナルド坊ちゃんもおらず、あの方も亡くなられた今、王位は妻であるあなたに継承されました。女王陛下」
胸がざわめく。
女王……陛下。
私が……?
それじゃあ……。
それじゃあ……ッ!
考えるより先に、足が動いていた。
あとがき
明日、完結!