st.ⅩⅤ The Taste Of the Blood
同時up②
私が気づいた時には、陛下が私を庇うように前に立っていて、彼の足下は陛下に突き立てられた剣からしたたる血で濡れていた。
「陛、下……」
陛下の身体から大剣を引き抜いた天使様……いえ、アーサー・オールビーさんの胸にも、陛下の刺した金色の短剣が突き刺さっていた。
けれど、アーサーさんはそれを見て嘲笑するように笑う。
「おやおや言ったでしょう、陛下。これは“悪”を滅ぼす聖なる短剣ですよ? つまり私には……私……私は天の使い……私……」
アーサーさんの歪んだ口から鮮血が零れたかと思うと、生えていた天使の羽が、まるでハリボテだったかのようにボロボロになって散っていく。
「神めえええ! 信用したように見せかけて、俺をずっと見張っていたのかァアアアア!」
「毒を毒で制す。私に恨みを持っていたお前が私を殺そうとする計画を利用しようと、神はお前をずっと掌で転していたんだろう。そして今、お前は用済みとして闇に返された。ああ何と慈悲深い」
「くそっくそくそくそくそ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア゛!」
耳を塞ぎたくなるような断末魔の後、まるで一瞬で灰になったかのように風に舞って消えた。その直前、リザの飼っていたコウモリの姿がタブって見えたような気がしたのは、私の気のせいなんだろうか。
「へ、陛下……」
呼びかけた直後、陛下が膝から崩れ落ちる。
「陛下……陛下ぁ!」
慌てて彼の元へ駆け寄った。
陛下は衰弱しきっていた。
というより、最後の力を振り絞った後――
胸から血を流し、倒れ込むように空を仰いで横たわった。
「陛下!」
もうほとんど動かない唇で、陛下は私に何かを訴えかける。
「ソフィア……プロポーズの言葉を……考えて、いた。君が喜んでくれそうな言葉を……毎日、毎、日」
陛下の零す言葉を、一つ残らず聞き漏らすまいと耳を傾ける。
「さあこれでと思っても……いざ君を目の前にすると、全ての言葉が、消し飛んで……まるで何を言っていいのか分からなくなる」
「いいんです陛下。私が……ワガママでした……っ」
陛下が小さく笑う。
「何を言うソフィア……君がいつワガママなど言った」
彼はもう目が見えなくなっているのだろうか、焦点の定まらない目で私の姿を探すように視線を泳がせる。
「愛している、ソフィア。愛し続ける、永遠に。一緒にいようと言おうと思ったのに……君を一人にしないと約束しようとしたのに……。それすらも、できそうになくて……すまな、い」
「陛下……っ!」
陛下がこんな目に遭ったのは私のせいなのに。
一緒にいる資格なんてないのに。
どうしてまだ、そんなことを言って下さるんですか――
「ソフィア……。自分を責めるのはやめてくれ。君のせいでは、ない」
陛下の服を掴んだまま、歯を食いしばる私の手を陛下が優しく握る。
「初めてあの湖の畔で君に出会ったときから……、私の心は君だけのものになっていた。だから私はここへ来た。君を愛しているから、ソフィア……肉体が滅びようとこれからもずっと……」
何か言わなきゃと思うのに、今までの感謝をしようと思うのに、あなたに出会えてよかったと言いたいのに、心から愛していると伝えたいのに、こんなときに限って声が詰まって出てこない。
かわりに、何度も何度も頷いた。
「わ……たし、ソフィア・クローズは……」
震えて掠れる声を必死に絞り出す。
「あなたを夫として、一生愛し続けることを誓います。あなたも、私を妻として一生愛し続けることを誓ってくれますか……」
陛下の目が、一瞬驚いたように小さく見開かれた。
でもすぐに、私の大好きな、陛下の優しい優しい笑みに変わる。
「ああ……誓、う」
私は自分の指を強く噛んだ。僅かに血が滲む。
これはヴァンパイアの婚姻の儀式。お互いの血の交換。
彼の唇に指を押し当てた。小さく唇が動く。
私も彼の胸から流れる血を指ですくった。少しだけのつもりが、指にベッタリとつく。それを見ないように、急いで口に含んで飲み込んだ。
「それでは、二人を夫婦として認めます……。誓いのキスを――」
胸の震えを押さえながら、陛下と唇を合わせた。
血が甘いと感じたのは、私がヴァンパイアの妻になったからなんだろうか。
「私の……妻、ソフィア。私の……」
「……はい。これからも、ずっと……ずっと一緒に――」
嬉しそうに私を撫でていた陛下の大きな手が、突然、支えを失ったかのように落ちる。
「陛、下……?」
穏やかに目を閉じた彼から、キラキラと、まるで花粉のような光が溢れだした。
それにつられ、陛下の姿が空気に溶けいるように消えていく。
「陛下、陛下……陛下ぁ!」
触れるとそれは余計に勢いを持って溢れ始めた。
「やめて……やめてぇえ!」
この人を奪わないで! また大切な人を私から奪わないで!
その光をかき集めようと必死で手を伸ばした。なのに、それは手に触れた瞬間に跡形もなく消えていく。
痕跡すら残すことなく。
「嫌……いやあああ!」
頭の中はヒドイくらいめちゃくちゃなのに、彼との思い出がまるで走馬燈のようにはっきりとして駆け巡っていく。
「あなたがくれたあの太陽の絵は! あなたの出す光がなければ輝くことができないのです! 私だって! あなたという光がなければ生きてゆくことができないのです! あなたと言う陽を失った月は、この先どうすればいいのです! 陛下ぁあ! 陛下ぁああああ!」
「ソフィア様!」
いつの間にか、辺りを包んでいた聖なる明かりは完全に無くなっていた。
私たちの周りを、大勢の兵士たちが取り囲む。
シュレイザーさんが悲痛な面持ちで私の肩を抱いた。
「シュレイザーさん……陛下が、陛下! 陛下! 陛下あああ!」
光をかき集めようとする腕をつかまれ、その場から引き離された。
「やめてくださいっ、集めないと、あの光を! 集めないと!」
「無駄です!」
無駄なんかじゃない!
集めないと! 消えていく、あの人が。
私のことを誰よりも愛してくれた人が。
消えていく――
私を一人残して。
「いやあああああああああアアア!」
後悔と絶望と言い知れぬ悲しみの中で、あの人の言葉だけが頭の中で渦巻いていた。
もう二度と聞けぬ声を刻みつけるかのように。
儚げな笑顔と共に何度も、何度も。
――『愛している』と。