st.ⅩⅢ The Truth
窓なんて開いていないのに、暖かくて心地よい風が羽の生えた彼の方から吹いてくる。
その男性は儚げで幻想的で、この世の者とは思いがたかった。
金色の光に包まれ、まるで教会の神なる像のような神々しさを感じる。
「あなたを助けに来たのです」
彼は右目を弓なりに曲げ、優しい笑顔を見せる。
「私を……? な、なぜです」
「優しく純粋なあなたは、おぞましい悪魔に騙されている。ですから天から救いに来たのです。悪魔に囚われようとしている君を」
「天から……? あ、あなたは、神……なのですか」
「その使者です」
翼を優しく動かすと、温かな金色の光が部屋を駆け巡る。一瞬部屋が、昼間のような明るさに包まれた。
まさしく、教会で見る天使様の像をそのまま生身の身体にしたよう。
翼は溶け込むように消え、天使様は雲の上を歩くかのように、足音を立てずにこちらへ歩み寄ってきた。
恐怖心は不思議とないけれど、強い戸惑いを覚えてドレスをギュッと握りしめる。
「あ、あの、私は確かに教会で洗礼を受けました。人間界に居た頃は、毎週教会にも通っていて……闇の住人たるあの方と結ばれれば、父なる神への裏切りと分かっています。でも……それでもあの方のことを、私は心から」
「神はあなたを咎めようなどと思ってはおられません。ただ、その身や心が悪魔の王に真に捧げられる前に真実を知り、闇から脱却する必要があるとお考えなのです」
天使様は美しいスカイブルーの瞳をすぼめ、哀れむように私を見下ろした。
「真実? 一体何のことです」
天使様は目を伏せる。
「キミの愛するお兄さんの命を奪ったのは、あの悪魔の王だということです」
今……何て?
「お兄さんは事故でも病気でもなく、あの王の吸血によって命を落としたのです、ソフィア」
全身を雷で打たれたかのような衝撃が駆け巡った。
足先から氷のような冷たさが身体を支配し、指先が震える。
彫像のように美しい顔立ちの天使様を見据えた。
「そんなはずはありません……。兄は! 兄は突然の病で」
――『吸血鬼に殺されたのさ』
お葬式で見た、お婆さんの言葉が脳裏をよぎる。
――『あたしゃ見たんだ』
違う……!
――『噛みつかれたような赤い斑点が二つ』
違うッ!
――『あの子の首筋にしっかりとね!』
「違う! 違いますッ! 陛下は……そんなこと絶対にしません」
天使様が私の肩に柔らかな掌を乗せる。
「落ち着いてください、ソフィア。さあ、見せて差し上げましょう。あの日の出来事を」
天使様がそう言うと、辺りは真っ白な光に包まれた。
*************
ここはどこ……。
身体が動かない。
声も出ない。
熱さも寒さも感じないままに立ち尽くしている。
でも見覚えのある場所。
たくさんの木が立ち並んでいて、空はたくさんの星と月で埋め尽くされていた。
静かで、虫の音があちこちから聞こえるだけ。
そう、たしかここはお兄ちゃんが働いていた場所のそばにあった林の中だわ。
ここの池に映る空を眺めながら、“星を捕まえた”なんてはしゃいでいた。
お兄ちゃんが亡くなってからは行かなくなっていたけれど、間違いない。
私、人間界へ帰って来たの?
――ドサリ
驚いて大きな物音のした方へ視線を向けると、何かが倒れているのが見える。
それが人型をしていて、その人物の顔が見えて心臓が冷えた。
――お兄ちゃん……。お兄ちゃんッ!
駆け寄りたくとも、叫びたくとも身体が言うことをきかない。
――お兄ちゃん! どうして……。
まさか……これはお兄ちゃんが亡くなった日の光景なの……?
ピクリともしないお兄ちゃんの傍に、誰か立っていた。
背が高くて、貴族のような服を着ている。
その人が今……お兄ちゃんを……!?
「もろいな。人間は……」
月明かりの下、お兄ちゃんを襲った者の正体がはっきりと見えた。
口元を拭う赤い瞳の獣。
――陛下……
*************
いつの間にか、周りの光景はいつものお城の自分の部屋に戻っていた。
けれど、私は自分の魂をまるであの場に置いてきたかのように判然としない。
あれは何だったんだろう。
悪い夢を見たような心地がする。
そうあれはきっと、とても、とても悪い夢……。そうなんでしょう?
あの光景の意味を、本当は分かっているのに、分からないふりをするので精一杯だった。
天使様が心配そうに、俯く私をのぞき込む。
「ソフィア、辛くとも気を確かにするのです。あなたはずっと騙されていたのですよ、あの悪魔に」
「そんなはず……そんなはずありません! 短い間でしたが、私はあの方をとても身近なところから見てきました。血のために人間を襲うような……そんな真似をする人じゃありません!」
天使様はとがめるような、鋭い目で私を見据えた。
「何を仰っているのです。所詮ヴァンパイアは悪魔。あなたが……あなたの血が欲しいからその身や心を美しく着飾っているに過ぎない。奴の本性はただの……薄汚れた邪な獣です」
「違う……違います!」
「信じられませんか……まだ」
天使様はどこからともなく取り出した紙を広げた。
そこには、お兄ちゃんが亡くなったときに握っていたカフスボタンに描かれていたものと、同じ模様があった。
「これは王個人の紋章です。ヴァンパイア王国のそれは、王が替わるたびに微妙にことなった紋章を身につける。これの紋章を持つのは――」
「聞きたくありません! それ以上……」
どうして気づかなかったんだろう。
ネックレスを強く握りしめる。
お兄ちゃんが握っていたあのカフスボタンの答えは、いつも身近にあったのに……!
私へ愛を囁くその人が、いつも身につけていたものだったのに。
――『ソフィア、この前見せてもらったカフスボタン……預かってもいいか?』
ダンさん……あなたは気づいていたんですね。
あれが陛下のものだって。
それでも黙っていたのは、私から証拠のカフスボタンを取り上げたのは、私に真実を悟らせないため。
本当にそう……こんな真実……知りたくなかった。
頭が割れそうに痛い。
「私は……どうすれば……いいんですか」
膝から崩れ落ちた私の背を、天使様が優しく撫でる。
それでも、胸の潰れるような痛みがおさまることはない。
苦しい……すごく。息ができないほどに。
「愛していたのですね、あの王を心から。なのにこのような結末を迎えることが、苦しいですね。哀しいでしょう」
「あの方の私への愛も……偽りだったのでしょうか。約束も優しさも微笑みも全部……嘘だったのでしょうか」
「あの王は残忍です。いずれキミすらも手にかけるでしょう。可哀想なソフィア、ですがもう心配ありません」
天使様が、そっと私を抱きしめる。
天使様の腕に抱かれると、不思議ともう涙は流れず、凪のように穏やかになった。
「さあおいで、私と一緒に。キミが愛されるべきは、父なる神のみ。大丈夫、あなたには神のご加護があります」
その言葉に反応するかのように、天使様が身につけていた小さな十字架が僅かに揺らめいた気がした。
*************
静かな王の執務室では、書類にペンを走らせる音と、カタカタという王の貧乏揺すりの音が妙なハーモニーを奏でていた。
「何なんですか、子供みたいに。行くなら早く行ってきてください」
「何の話だ」
王はペンを止め、シュレイザーの言葉に眉をひそめる。
「もぞもぞされているのでお手洗いかと。違うんですか?」
「違うッ!」
真顔で違うんですか、などと言い放たれ、王は思わず立ち上がって否定した。
「ソフィアに……今夜正式にプロポーズする」
窓に迎かう王の背後で、シュレイザーは僅かに目を見開いた。
今まで何度となくプロポーズの言葉をソフィアにぶつけては”やりなおし”を迫られていたようだが、今度こそは決めるらしいとシュレイザーは王の真剣さを感じ取る。
彼がそう言うなら、今夜こそ二人は夫婦となる約束を交わすのだろう。
普段はどこか間が抜けていても、決めるときは決めるのがウチの王なのだと、シュレイザーは口に出さなくともそう信じていた。
盛大なる式の準備をせねばと、ひっそり計画を練る。
「そうですか。では今度こそ醜態をさらされないよう」
「お前はどこまで私のプロポーズを馬鹿にしているんだっ」
シュレイザーの皮肉的な応援と知りつつも、王は本気で答えてしまう。
「ですが陛下、今日の業務はきっちりと――」
その時、廊下を走る大きな足音がしたかとおもうと、突然扉が勢いよく開いた。
「大王様! マイプリンセスが……ソフィーがっ!」
幼なじみのロキが、血相を変えて飛び込んでくる。
手にはぐったりとしたクモの婦人と、一枚の手紙があった。
「何事だ。ソフィアがどうした」
いつもなら彼の言葉など聞かずに放り出すところだが、聞こえた名前に王も無視できない。
「これ……これっ!」
息も絶え絶えのロキから手紙を受け取り、王は焦りを覚えながらそれを開く。
『陛下へ
あなたの裏切りを知りました。
兄の血を吸い、死に至らしめたあなたを許すことはできません。
今度は、あなたが命を失う番です。
ソフィア』
シュレイザーは呆然とする王の手から、ひったくるように手紙を奪うと、
「何なんだこれは……。何があったのです、ご婦人」
ロキの両手で苦しげに息をするミセスグリーンが、懸命に首をもたげた。
「“忌むべき国の者”の使いが……来たんだよ」
天界の光を浴びてしまったミセスグリーンが、再びロキの手の中へ倒れ込む。
「莫迦な。奴らが魔界に入り込めるはずなど……」
一体何が起こっているのだと、シュレイザーは白い額に手を当てた。
「ねえ、大王様、この”兄の血を吸い”って……ほ、本当にマイプリンセスのお兄さんの血を吸ったんじゃないよね……? それでお兄さんを死なせ」
「まさか、そのような事実などあるはずが。……陛下?」
ソフィアの置き手紙を読んでから一言も言葉を発しない王を、怪訝な顔で見つめた。
その呆然としたような、光を失った表情からシュレイザーは悟る。
「とにかく、参りましょう陛下」
そう言ったシュレイザーは、顔を上げた王の、どこか覚悟を決めたような眼差しが、これから起ころうとする悲劇の前触れに思えて仕方なかった。
あとがき
次回、大きな悲しみがソフィアを襲う。
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