st.Ⅹ Because I Love You
王の衣服はみるみる内に血の緋色に染まり始め、床に血だまりが広がっていく。
「どういうことだ……心臓を、狙えと言ったはずだヴァラヴォルフ!」
苦痛に顔を歪め、腹部を押さえながら射貫くように鋭くダンをにらみ据えた。
殺せと言ったはずが、ただ怪我を負わせただけ。
約束が違うと憤る王の表情に、幾度の修羅場をくぐり抜けてきたダンすらも戦慄を覚えた。
「あんたを殺すことが、ソフィアを救うことだとはどうしても思えない……。これで十分動きは抑えられるだろう?」
「甘ったれたことをっ……これで今の私が抑えられる訳が……くっ」
白い煙が吹き出すと共に、急速に腹の傷口が塞がっていく。
「傷が……」
考えられないほどの回復力に、ダンは瞠目して立ち尽くした。額からは妙に不快な汗が止めどなく流れ出てくる。
徐々に王の黒い瞳が朱色に染まり始めていた。
それでも王は、必死に歯をくいしばって理性を保とうとしている。
「……早く、早く私の心臓を撃て!」
ダンは乾ききった喉に何とか水分を送ろうと、僅かに唾液を飲んだ。
「シルバーブレットはあれ一発だけだ。そういくつもくすねられるわけないだろう」
「……っ、やはりヴァラヴォルフはヴァラヴォルフだな。役立たずにも程がある……っ、だから我々には勝てんのだ!」
王は腹ばいになって床を這うように進みながら、どうすれば自分を止められるのか必死に本能に支配され始める頭で考えた。
「何かないのか……何かっ!」
このままでは、またソフィアを襲ってしまう。次は容赦なく彼女の血を飲み干してしまうだろう。
血走った目で周囲を見渡し、悲壮な思いで己を止める何かを求めた。
何でもいい。何か――
ギラリと光るものが目に入り、ほとんど何も考えずにそれに手を伸ばした。
「これ、は……」
ソフィアの持っていた銀の短剣だった。
これなら――
迷うこと無く上体を起こし、剣先を心臓に向ける。
「おい……っ!」
ダンの焦ったような叫びなど、もう耳には届かない。
「ソフィア……すまない」
愛するソフィアの笑顔を思い浮かべながら、苦しげに目を閉じる。
思えば、彼女には酷いことをしてきた。
真実を口にしてきた彼女の言葉を聞かず、彼女を貶めようとする女を信じて傷つけた。
弟の言うことも、クモの婦人の言うことも信じず、あれほどにも優しい彼女に冷酷に接した。
もう二度と、彼女を苦しめたくはない。
そのためになら、自分の命を捧げることすら惜しくなど無かった。
ただ一つ名残惜しいのは、ソフィアから一度も”愛している”と言われなかったこと。
彼女が敢えて言ってくれなかったのか、それとも単に気づかずにいるだけなのかは知るよしも無い。
もしかしたら、彼女の心のどこかで自分のしたことが引っかかっているのかもしれない。
だから、無理に言わせることもなかった。
隣に立って、共に生きていきたい言われただけでも十分だと思おうとした。
空虚だった心を満たしてくれただけでも十分だと思おうとした。
赤い顔で、キスを受け入れてくれただけでも十分だと思おうとした。
だがそれでもやはり、彼女の愛らしい唇から自分への愛の言葉が紡がれるのを心のどこかで待ち望んでいた。
「ソフィア……すまなかった……」
勢いよく胸に突き立てようとして、何かに腕を掴んで阻まれた。
王は憎悪すら滲む目でその邪魔者をにらみ据え、そして言葉を失った。
「……ソフィア」
短剣を持つ腕にしがみついていたのは、自分が何としてでも護らなければならない相手。
彼女が服も身も心もボロボロになりながら、懸命に自分を止めようとしていた。
「やめてください……っ、陛下」
「……ソフィア……この手を離すんだ! 私に構うなっ! 行け!」
腕にしがみつくソフィアを振り払おうと、腕を振りながら彼女の手を引きはがす。だがきつくしがみついたソフィアは、絶対に手を離そうとはしなかった。
「嫌です! この手を離したら……あなたは……あなたはっ」
「ソフィアっ!」
ボロボロと涙を流しながら、それでもソフィアは必死に腕に抱きつく。
「行け、ソフィア! 早く!」
これ以上彼女と一緒にいては、理性を保つことができない。
なぜそれが分からないのだと、王は苛立ちさえ覚えた。
「なぜ…………どうして戻ってなど来るんだ!」
恨みすらこもった言葉が口を滑って落ちる。
ソフィアの瞳から、はらりと大粒の涙が零れた。
「決まっているじゃないですか。……あなたを、愛しているからです」
「――ソフィア……っ」
瞳を完全に真っ赤に染めた王は、ソフィアを床へ押し倒した。
苦しそうに涙するソフィアの上で、王は理性と本能の狭間で狂いそうになりながら、短剣を握り治す。
「私もだソフィア……、愛している」
短剣を彼自身に向ける。
「っ陛下――ッ!」
王は短剣を自分の胸に突き立てた――
「ぐっ!」
だが、突如口の中に何かが押し込まれ、弾みで短剣が手から滑り落ちた。
何かにかぶり付いているが決してソフィアの白く柔らかな首筋ではない。とても硬い上に男臭い。
驚いている隙に、そのかぶり付いている物体と首を縄でグルグルに固定される。
王が視線を横へ移すと、息を切らしたシュレイザーが自分の腕を噛ませながら、もう片方の手に縄を握っていた。
「それだけソフィア様の血を吸った後なら、私の血でも飲めるでしょう? いや、吐いてでも飲みこめ」
「シュレイザーさん……っ」
「きはま! 今わはひにめいれいひた」
「――何か?」
額から血を流し、王を容赦なく睨み据えるその鬼のような形相に誰も逆らうことなどできない。
王も大人しく口をつぐんだ。
周囲は戦にでも行くのかと思うほどに重装備の衛兵らが何十と集結し、ぐるりと周囲を取り囲んでいた。
「全責任は私が持つ。やれ」
シュレイザーの百戦錬磨の将官のような命令っぷりに、衛兵らは怯えながらも王の身体を縄や鎖で固定させていく。
とんでもなく屈辱的なサマだが、事態が事態だけにプライドなど持ちだしている場合では無いことは王も不服そうな顔をしながらも、よく理解していた。
「ほら陛下、お好きなだけ私の血をどうぞ? でないと、いつまでも暴走が止まりませんよ。男の血は嫌だの、この縄を解けだの、苦情は一切受け付けません」
シュレイザーが、自分の腕と王を結ぶ縄をわざとらしくギリギリ引っ張りながらそう急かす。
王は抗議的な視線でシュレイザーを見るも、この世のものとは思えぬほど恐ろしい視線で返されるだけだった。
諦めたように肩を落としながらも、吸血しているところを見られたくないのか、王は戸惑うようにソフィアを見つめた。
「ソフィア、立てるか」
ダンは自分の上着をソフィアに掛けながら身体を起こしてやり、気遣うように尋ねた。
「いえあの……実は」
ホッとして腰が抜けたらしいソフィアは、モジモジと顔を赤らめて俯く。それにかなり血を吸われた後ということもあって、身体の自由が利かないのも当然だった。
ダンは「そうだよな」と柔らかく微笑むと、ソフィアを横抱きにして、軽々と持ち上げた。
一瞬王の目が鋭くなったが、今はそれどころではない上に身体は縄で縛られて動けない。
ソフィアはしきりに心配そうな視線を送り続けながら、ダンにホールの外へと運ばれていった。
「ありがとうございます、ダンさん。あの人を、殺さないでいてくれて……本当に、ありがとうございます」
救護室に運ばれながら、ソフィアはふいにそう礼を述べた。
血を吸われたせいなのか、それとも恐怖のせいなのか。
ソフィアはひどく青ざめた表情ながらも、王の無事に心から安堵するような美しい涙を零した。
「何でお前みたいなのが、あんな男に引っかかるんだ。もっといいのがいただろう」
呆れ口調のダンに、ソフィアは花が咲くような笑顔を見せた。
「本当は、優しい方ですから。誰よりも」
こんな状況になっても彼女にそう言ってもらえるほど信頼されているのなら、全くもって自分に勝ち目はないだろう。
ダンはなぜか、他にもこんな風に彼女の元を去った男がいたような気がした。
あとがき
やれやれ(^^;)