st.Ⅷ The Red Moon
「どうしたんだい、ソフィア。浮かない顔をして」
楽しげに昨日のことを話していたミセスグリーンが、ピタリと口を閉じて、心配そうに私をのぞき込む。
「え? う……うぅん、何でもない」
折角、久しぶりの二人だけのガーデンティーパーティーだったのに、彼女に気を遣わせてしまって申し訳ない。
けれど、銀の短剣の事が、頭から離れなかった。
誤魔化すように、紅茶を口に含んだ。
「それにしても、何だかこのところ一段と月が赤いねぇ」
彼女の言葉につられて、空を見上げる。
いつもの青白い月じゃない。
見たこともないくらい、奇妙な色だった。
「そうそう、魔界にはね、こんな話があるんだよ。“赤い月には気をつけろ。誰かがお前を狙ってる”」
その瞬間、ヴァンパイアの赤い瞳と重なって見えて指先が震えた。
「心配しなくとも、ただの迷信だよ」
ミセスグリーンはそう笑ってくれたけれど。
************
「“赤い月には気をつけろ。誰かがお前を狙ってる”」
先日、ミセスグリーンから聞いた言葉を聞きながら空を見上げる。
噴水の縁に座って絵を描こうと思ったけれど、思うように筆が進まない。諦めて、空の赤い月を眺めていた。
「お前もそんな迷信を信じるタチなのか、ソフィア」
「――! ダンさん」
彼は帽子を脱ぐと、私との間に置いて腰掛けた。
「この間は悪かった。焦ってたとはいえ、……言い過ぎだった」
ダンさんは私の方は見ず、まっすぐ前だけを見つめていた。
気まずいんだろうか……。
私と彼との間に置かれた帽子が、どこか壁のように思える。
「怖がらせるつもりじゃ無かったとはいえ、緊急時に我を失っちゃ、警官失格だな」
「いえ、そんな……。でも、やっぱりこれはお返しします」
会ったら返そうと持っていた銀製の短剣を渡す。
ダンさんはそれを大きな手で受け取ると、小さくため息をついた。
どういうため息なのか、私には分からない。どこか複雑そうだった。
剣を腰に挟み、帽子を被って立ち上がる彼を呼び止める。
「一つ、教えてください。どうしてそこまで、陛下の本能の暴走を懸念されているのかを」
ダンさんは「ああ……」と曖昧な声を出すと、言おうかどうか迷ったように逡巡し、「笑われるかもしんねぇけど」と再び腰掛けた。
「リザ・インスティテュート……。覚えてるだろう」
「……はい」
忘れるはずのない名前。
「あの女の身辺を洗ってると、頻繁にあるバーに通ってる事がわかった」
バー?
「警察署から離れた所に、煙臭い古びたインチキ臭いバーだ。“まともな奴ら”は寄りつかなさそうなたぐいの。オレは警察という身分を隠して、単独でそこへ乗り込んだ。分かるだろう? ああいう奴らにとって、警官なんか天敵だ。警官バッヂをつけたままじゃ、まともな情報はまず得られない。リザがどうしてそこへ頻繁に出入りしていたのか……カウンターで安いビールを頼んで飲みながら、情報を集めようとしていると、ある男に会った。というより、気づいたら隣にいた」
声を潜めるダンさんの言葉に、ジッと耳を傾ける。
それだけなのに、掌がじっとりと汗ばみ始めるのを感じた。
「肩の辺りに真っ赤な目のコウモリを乗せて、ドブみたいな匂いをまき散らす、ワシ鼻の小さい男。ズタボロの服を纏って、ニタニタ気持ちの悪い笑みを浮かべてやがった」
“コウモリ”の言葉に、嫌な予感がよぎる。
そういえばリザも、不気味なコウモリを飼っていた。
「奴はオレを見て、突然こう歌い出した。『近いうちに、惚れたあの子が殺される。優しいあの子が殺される』。嫌なことを言うと思ったが、それだけならオレだってそんな男の戯れ言なんか信じるはずもない」
シルバーの瞳が、強い光を湛えて私を捉える。
「……奴が『怖い、怖い、“お菓子のおじさん”に』って言うまでは」
「――!」
思わずゾッとした。
“お菓子のおじさん”……? それを知っているのは、陛下と私と、ダンさん、それにルッツ君だけのはず。
「奴はリザとは関係なかったが、その男は、これから起こることを当てる妙な男だって言うことで有名らしい。嫌な予感がして、ここへ来てからも色々調べたけど、考えすぎだったのか……」
「……」
何だろう、その話には具体的な根拠なんてないはずなのに、やけに不安を煽る。
その刹那、ドサッ、と何かが倒れ込むような大きな音がした。
驚くように立ち上がって振り返ると、噴水の脇に座り込むように誰かが倒れ込んでいる。
「ソ、フィア様……」
「シュレイザーさん?」
ポチャリと噴水にシュレイザーさんの手が浸かった瞬間、みるみる水が赤く染まっていく。
血――!?
「お、逃げ下さい……早く」
彼の衣服は所々赤色に染まり、話すのもやっとの状態に見えた。
「シュレイザーさん、一体」
「早く!」
ぐいっと身体が後ろに引っ張られたかと思うと、ダンさんが手を引いて走り出していた。
「行くぞ、ソフィア」
「行くってどこへ? ダンさん……っ!」
「言ってる場合じゃない! とにかく走れ!」
走っている途中で、頭から血を流して倒れている衛兵さんたちが、点々と見えた。
どうして……何が起こっているの!?
陛下は……?
カサリと音がした方を見ると、建物の影からふらりと人が現れて無理矢理足を止めた。
「ソフィ、ア」
「陛下!」
ふいに笑みが零れる。
「ご無事だったんですね!」
「ソフィア……っ」
けれど、陛下は苦しそうに胸を押さえ、崩れるように膝をついた。
「陛下! どうされたんです! 陛下ッ」
「近寄るな!」
ダンさんが痛いほどに強く、私の腕を引く。
「放してください、陛下!」
『ソフィア――』
陛下の声が、今まで聞いたことの無いほどに歪んだかと思うと、ゆっくり顔を上げた彼と視線がかち合う。
真っ赤な瞳が私を捉え、にっこりと笑う口元からは白い牙が鈍い光を放っていた。
「――っ!」
身体が、まるで石になったかのように動かなくなった。
「来い!」
絡まりそうになる足を必死に動かし、ダンさんに半ば引きずられるように走った。
「陛下……は、一体」
「あれはもう、お前の知っている王じゃない。ただの血に飢えた怪物だ」
「……っ!」
誰もいないお城の一室へ入り、鍵を閉めて息を潜める。
想像以上の恐怖だった。
やけに城内がシンと静まりかえっていた。
鳥も、虫も、風さえも息をひそめているかのように。
「シュレイザーさんが……あの時、意固地にならなければ……。シュレイザーさんも、お城の人たちを巻き込まずにすんだのにっ」
なんてバカなことを!
頭を抱える。
ダンさんはゆっくりと首を振った。
「いや、おそらく違う。お前の存在を近くに感じ、お前だけを標的に向かっているからこそ、この城の輩は怪我程度で済んでいるんだろう。もし、ソフィアがあのときここを離れていたら……血に狂った王が、城中の奴らを殺しまくっていたかもしれない」
「なら……私があの人の元へ行かなきゃ……いずれここの人たちが?」
唇を震わせる、私の両肩をダンさんが強く掴む。
「だからってお前を見殺しにはできない。裏に馬小屋がある。それで、一人で遠くへ逃げろ! 乗り方は分かるか」
「は、はい。以前授業で習いました……。で、でも、逃げるなんて。私にできることなら、何でもします!」
「何とか王の動きを止めて、その後ソフィアの血を抜いて飲ませれば、ある程度の興奮は抑えられるだろう。あとは……王の良心がどれだけ残っているか次第だな。今のお前にできるのは、できるだけオレの邪魔をしないこと。誰かを守りながら、王の動きを封じることはまずできない。頼むから、ここから離れていてくれ!」
そんな心許ない方法しかないなんて。
私には、逃げるしかできないなんて……。
「とにかく一旦、王の動きを止める事が先決だ。それまで遠くへ逃げていろ! それしか方法はないんだ、ソフィア!」
ドンッ!
扉を激しく叩く音が聞こえた。
ドンッドンッドンッ!
徐々に大きくなるにつれ、扉が内側へ向かって曲がっていく。
「陛下……っ」
怖さに歯の根が合わず、膝もがくがくと震え始めた。
「逃げろソフィア」
ダンさんは私に短剣を握らせ、腰の拳銃を抜いた。
まさか……と、目を見張る。
この期に及んで、陛下が傷つくことを恐れているなんて。
「心配するな、強い痺れ薬が塗ってあるだけだ。効くかどうかは賭けだがな」
私の不安を察したダンさんが薄く笑う。
「このままじゃお前は王に血を吸われて廃人になる。苦しみを抱えたまま死ぬこともなく、生き続けるんだ。嫌だろう?」
徐々にちょうつがいが外れ始め、嫌な音を立てて破片を飛ばす。
“嫌だろう”と聞かれれば、好んでそうなりたいだなんて決して思わない。
でも――
「もちろん嫌です。それでも……」
ダンさんの双眸を見つめた。
「それでも、私のためにあなたや他の方が傷つくくらいなら、いつでも覚悟はできています」
鏡のようなダンさんの瞳に映る自分の姿は、思っていたよりもシャンとして見えていて安心した。
「お前のそういうとこが……」
困ったように笑う彼の心の内は分からなかったけれど、次の瞬間、真剣な顔で私を見据えた。
「早く行け。オレは警官になる前もなった後も、大事な奴らや同僚を守れず自分だけが生き延びてきた。……これ以上オレを、無能な男にしないでくれ」
「ダンさん……」
「殉職したら、やっと万年ヒラから卒業だ」
こんな時にも冗談を笑って言える彼は、本当に強い人だと思った。
「分かったな。オレのことはいいから行け!! 何があっても立ち止まるな! 振り返るな! 行け!」
「……っ、は、はい……。どうかご無事で」
裏口から出て、無我夢中で走る。
背後から銃声のような乾いた音が聞こえたけれど、それでも走り続けた。
どうしよう……。
涙が溢れて止まらない。
小屋に着くと、一頭の有翼馬によじ登る。
以前授業でやったことを懸命に思い出しながら、手綱を握った。
「動かない……どうして……っ」
馬は何かに怯えるように身を震わせ、その場で足踏みするばかりで全く動こうとはしてくれなかった。
「行って……飛んで! お願い!」
ふわふわと羽を動かしてくれるも、僅かに地面から飛んではすぐに落ちる。
この子も感じ取っているんだろう。
このお城に取り巻く恐ろしい空気を。
『ソフィア……、どこだ』
彼の私を呼ぶ声が聞こえた。
それじゃ――
「ダンさん……っ」
まさか、彼は……!
どうしよう、どうすれば……っ。
私のせいで……。私が大人しくダンさんとここを離れていれば、少なくとも彼は傷つかずに済んだのに。
「ひゃっ!」
突然手を引いて、馬から下ろされた。
「心配するな。頑丈なヴァラヴォルフは、そう簡単に殺せない」
「グレイさん……」
グレイさんは私を地面にゆっくり立たせると、手を引いて歩き出す。
「今、陛下の狙いはお前だけだ。ヴァラヴォルフにとどめを刺す時間すら惜しいはずだ」
ダンスホールに入ると、グレイさんは鍵をかけてホールの中央へ連れて行った。
柱の傍に座り込み、耳を澄ませる。
聞こえていた靴音が、ホールの前で止まった。
『ソフィア、そこにいるんだな。早く出てこい』
扉の外から、陛下の声が聞こえる。
それと同時に、ちょうつがいの軋む音も。
「グレイさん、私、出ます! 私が出れば……それで陛下は」
ダンさんの二の舞には絶対させたくない。
「それはできない」
グレイさんはポケットから銀の十字架を取り出すと、それで私の周りをぐるりと囲むように何かを床に書き始めた。
「こ、これは……?」
「昔から伝わる古い魔術だ。いや、神術といった方がいいのかもしれない。この魔法陣の中にいれば安全だ。魔の血を引く者から姿を隠せる」
「グレイさん……手!」
十字架を握る彼の手は、まるで火であぶったかのように煙を吹き出させていた。
「こんな物はすぐに治る。何があっても絶対に動くな。声を出すな。でなければこの聖域は効果を無くす」
「ならグレイさんも!」
扉はすでに取れ掛かっている。陛下がここへ来るのも、時間の問題だった。
見つかったら、どうなるか……!
「グレイさん、早く!」
グレイさんは口の端に笑みを浮かべる。
「冗談を言うな。ヴァンパイアのオレがそんなところに入ったら、ただではすまない」
そんな……ッ。だったら――
バンッ、とけたたましい音を立てて扉を破ると、陛下は両手をポケットに入れたまま、悠然とホールに足を踏み入れ、ゆっくりと周囲を見渡した。
『ソフィアはどこだ』
赤い光を双眸に湛えたまま、ゆっくりとグレイさんに近づいていく。
彼にだけ視線を向け、そのすぐ傍にいる私には全く気がついていないらしい。
これが、聖域の力……。
「ソフィア様……? さあ」
私から離れるように、グレイさんは歩き出す。
そんな彼を、陛下は抉るような目で追いかけていた。
「存じ上げませんが」
『どこへ隠したと聞いている』
「分かりません」
陛下がグレイさんの傷ついた手に目を止めたのが分かった。
目ざとく、聡い人。
陛下はきっと、彼が私をどうしたのか瞬時に理解しただろう。
一瞬浮かべた笑顔を引っ込めたかと思ったその瞬間、陛下はグレイさんの首元を片手で押さえつけ、柱へ強く叩きつけた。
衝撃のあまり、柱にグレイさんの身体がめり込んでいる。
『声が出る内に聞いておいてやる。私のソフィアはどこだ』
ギシギシと何かの撓る音が響いた。
やめて……っ、これ以上誰かを傷つけないで。
「ん、ぐ……っ」
『言えんのか? 役に立たん喉だ』」
苦痛に顔を歪めるグレイさんに、涙が溢れた。
それを恐ろしい顔で眺めている陛下にも。
どちらも、本当はとても優しい人。
これ以上、大人しく見てなんていられなかった。
「……め、だ」
私の心を察するかのように、グレイさんは酷く掠れた声でそう言った。
でも……ごめんなさい。
逃げ腰になる心を奮い立たせ、立ち上がった。
「陛下!」
陛下の視線がこちらへ向く。
手を離したおかげでどさりとグレイさんの体が落ちると、グレイさんは苦しそうに激しく咳き込んだ。
『ソフィア……そこにいたのか』
陛下は私に、満面の笑みを向けた。
でも、いつもの私の胸を熱くする笑顔じゃ無い。
感情のこもっていない、冷たい笑み。
「……に、げろ」
「――っ!」
声を絞り出すグレイさんの言葉に、必死に駆け出し、脇目も振らず走った。
「きゃっ!」
途中、高いヒールのせいで、足元を取られて転んだ。
脱げた靴には目もくれず、裸足で必死に冷たい廊下を走った。
どこへ行って良いのかなんて分からない。
ただひたすらに前を向いて走る。
大広間の扉の中へ入って中から鍵をかけた。
三つあった出入り口を全て閉じると、その場にへたり込むように座った。
どうしよう……これから。
短剣を胸に抱いて、冷たい扉に額をつける。
その時、シンとしていたはずの広間に、カツン、と靴の音が響いた。
まさか――
ぞくりとして見上げるように振り返った。
「……っ」
とても、とても優しい笑みを浮かべながら、陛下はすぐ後ろで私を見下ろしていた。
あとがき
ソフィア、大ピンチ。