st.Ⅵ The Black Bruise
同時UP①
「ほら」
月明かりの美しい魔界のお昼。
甘い香りのする花壇の傍で、穏やかな風を髪に感じながら白いベンチで読書していた私に、突然手を差し出してきたグレイさんを見上げる。
彼の驚くほど白い掌には、押し花で作った可愛らしいしおりが乗っていた。
「私に……? ありがとうございます」
思わず顔が笑みで満たされる。
彼に対する無愛想で怖いイメージなんて、とっくの昔に払拭されてしまった。
しおりを早速本に挟んで閉じ、「どうぞ」と彼が座るスペースを空けると、グレイさんは大人しく腰掛ける。
彼が前屈みになった瞬間、胸元からこぼれ落ちるようにキラリと光るものが見えた。
「それ……指輪ですか」
グレイさんは一瞬首を傾げると、私が何のことを言ったのか理解したらしく、「ああ」と言ってネックレスを持ち上げた。
やっぱり彼が以前していた結婚指輪みたい。
以前陛下の暗殺事件の時、ログハウスであんな乱雑に放り投げていたのに、今は大事そうに首からさげているなんて。
「次に結婚するときには、血ではなくその女を愛そうと思う。オレをヴァンパイアでも貴族でもなく、オレ自身として見てくれるような。……お前のような女がいたら」
最後、私の目をじっと見ながら言われた言葉に一瞬ドキリとしたけれど、グレイさんのことだからあまり深い意味はないんだろう。……多分。
「いますよ、きっと」
「……どこに」
「え?」
グレイさんは、純粋さと真剣さの混じったまなざしを向けてくる。ヴィーナスのような金色の瞳が、心なしか期待に満ちあふれていた。
「どこにいる」
「えっと……ど、どこかに?」
大まじめに尋ねてくる彼に、私は笑って誤魔化すしか思いつかなかった。
「それより、あのヴァラヴォルフはまだお前に纏わり付いているのか」
「纏わり付いているわけでは無いと思いますけど、まあ」
たびたび会いに来ては、他愛も無い話をして帰って行く。
時々陛下のことも聞かれるけれど、いくら大丈夫だと言っても、彼が納得することはなかった。
「奴らは得体の知れない危険を敏感に察知できると聞く」
「得体の知れない危険って……まさかまたあの本能の暴走のことですか。あり得ないことなんでしょう?」
ダンさんはその危険を察知しているっていうの? ……皆、大丈夫だって言ってるのに。
グレイさんは金色の瞳で射貫くように私を見た。野犬のように目つきは悪いけれど、怖くは無い。
「吸血が管理されるようになってからは、暴走したヴァンパイアは見たことが無い。“兆候”すら見せた者も、ここ数百年現れていないと聞く」
「“兆候”?」
やけにその言葉が引っかかった。
「ああ。本能が暴走する前のヴァンパイアは、冷静にもかかわらず瞳の色が赤くなったり、やたらと首筋に唇をつけたがるらしい」
思わず首筋の痣を押さえそうになって思いとどまった。
汗ばんできた手で、膝の上の古い本を握りしめる。
「…………で、でも、そういう兆候が見られたら、そこで少しでも血を飲んで本能を防止すればいいんですよね」
「いや、もはや手遅れだ。その時点でそのヴァンパイアはかなりの枯渇状態にあり、多量の血液を必要としている。心から愛する女の血しか受け付けなくなっていて、いくら他の女の血を口にしようと、身体が拒否して吐き出す。そして徐々に本能に侵食され、愛する女の全てを求めて」
「死なせるか、廃人にしてしまう」
背中から投げかけられてきた低い声に、顔だけで振り返る。
「ダンさん」
ヴァンパイアであるグレイさんが傍にいるからか、制帽の下から垣間見えるダンさんの双眸は刃物のように鋭く、剣呑として見えた。
ダンさんはベンチの前へ回り込むと、私の隣に腰掛けた。体躯の良い彼の重みでベンチは軋み、かなり場所も狭くなる。
グレイさんも珍しく不快そうに眉をひそめた。
魅力的な顔立ちの男性に挟まれる私は、端から見れば幸せ者なのかもしれないけれど、犬猿の仲にある種族の板挟みにあっていては、どうにも息苦しい。
「ヴァンパイアに女が生まれないなら、人間じゃなくこの世界の種族の女と結婚すればいいだろう。それなら吸血もし放題だ。なのになんで人間なんだか。あー不思議不思議」
ダンさんは斜め上を見上げながらそんなことを言った。
独り言のつもりなんだろうか。
この距離で。
「血が美味い。他の種族の女とは比べものにならないくらい」
ダンさんはキッと目を細め、心の底から軽蔑したような目でグレイさんを見た。
「質は量以上に尊ばれる。オレたちヴァンパイアは、腹が減れば何でも食うお前たちとは違う」
「偉そうに言うことか。ただの手前勝手が」
どうしてこうなんだろう。ヴァンパイアとヴァラヴォルフって。
「聞いたか、ソフィア。お前らは高貴なるヴァンパイア様たちの高級ディナーだってよ」
冗談とも本気とも取れるような言いぐさ。
いえ、彼のことだからきっと冗談めかしたかったんだろうけれど、それを笑える気にはとてもなれなかった。
「……どうした?」
ダンさんが気遣うように顔をのぞき込んでくる。
「いえ、あの」
言いよどむ私に、ダンさんは真剣な色を浮かべた。
「なあソフィア……まさかこの前のアザは」
「あれならすぐに治りました。もう平気です。……それじゃ」
一気にまくし立ててその場を立ち去る。
あれが兆候だなんて、そうきっと、ありえないこと。
杞憂に終わること。
早足で歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
二人と別れ、悶々とした渦巻く何かを抱えながら部屋に戻る廊下を歩く。
後宮はすっかり寂寞として、不気味なくらいシンとしていた。
もうほとんどここにはいない。
ゴーストの侍女さんと、ぼんやりした頭で挨拶をしてすれ違う。
その時ふと遠くの方に、ダンさんとグレイさんがまだ何か話しているのが見えた。
グレイさんは自分の手首をじっと見つめて、二、三何かを口にすると、ダンさんがひどく渋い顔をした。
何をやっているんだろう。
そう思いながら視線を前に戻す。
「っ陛下……」
陛下が花束を長い腕に抱え、私の部屋の扉を背に佇んでいた。
長いまつげを伏せ、眠るかのようにそっと花の香りを確かめている。
トクンと胸が高鳴るのを感じた。
スラリとした長身、高い鼻梁、滑らかな肌、曇りの無い瞳。
煌々と廊下を照らす蝋燭の明かりの中に佇む彼は、どの角度から見ても、本当に隙の無いほど整った顔をしていた。
黙っていると……というと失礼だけど、存在だけで画になる希有な人。
視界が全て独占される。
美しく、心根の優しいヴァンパイアに。
「ソフィア」
私に気づいた陛下が口元を照れたように緩め、黒曜石のような瞳を私に向ける。すでに見えているのに、彼はわざとらしく花束を背に隠した。
それだけで、抱えていたモヤモヤが吹き飛んでしまう。
「申し訳ありません。お待たせして」
まだ完全には慣れない王宮仕様の高いヒールでも、思わず彼の元へ駆け寄ってしまう。
「全くだ。折角いつもより早い時間に会えると思ったのに」
陛下は拗ねたように顔を背け、
「寂しくて灰になるかと思った」
良い香りのする花束を目の前に差し出してくれる。
ああ、すごく綺麗。
「灰だなんてそんな大げさ、な……っ」
花に見とれていた一瞬で、陛下の顔がすぐそばに近づいていた。とっさに逃げようとした腰に手を回され、あと少しで唇が触れあうというところで彼の胸を押す。
「こ、ここではちょっと」
さっきの侍女さんがまだ傍にいるかも知れない。
吐息のかかる距離で、少しでも唇を大きく動かせば当たりそうなくらいに近かった。
「どうしてもダメか?」
目の前で陛下が切なげに眉をひそめ、それにますます私の心臓は早く脈打つ。
その顔には正直弱い。
とっさに拒否してしまったものの、花の香りの向こう側から漂う陛下の香水の香りに包まれるうち、瞼がゆっくり下りていく。
「仕方ない。ソフィアがそう言うなら我慢しよう」
完全に目を閉じる前に彼はあっさりと身を引き、やれやれとため息をついた。
それに、がっかりしてしまった自分に驚く。
彼の温もりと香りが薄らぐと共に、物寂しさに襲われた。
「今夜はまだ仕事が残っているからもう戻る」
「あの……」
陛下は足を止め、優しく「どうした」と尋ねてくる。
「えっと……あの、その」
もらった花束を腕に抱きしめ、何と引き留めようかと考えを巡らせた。
もう少し一緒にいたい。もう少し触れていて欲しい。
そのための言葉を探すのが、無性に恥ずかしく思えた。
きっと顔も赤いだろう。
「ソフィア……そんな顔で呼び止めないでくれ」
少し腰を屈めて指で私の頬を撫でる陛下の顔はどこか辛そうで、今にも理性が崩れそうになるのを堪えているかのようだった。
遠慮がちに軽く触れるだけのキスを落とされ、細くしなやかな指を髪の間に通される。
「廊下は冷える。部屋に入れてくれないか」
小さく唾液を飲んで動く彼の喉仏の動きが、やけに扇情的に見える。
断れるはずもなかった。
「で……でも、お仕事はいいんですか」
「仕事?」
何の話だと言わんばかりに眉をひそめる。
「さっき、まだ残ってるって」
「あ、ああ! も、問題ない。心配しなくていい」
わざとらしい口調に、もしかして私を試すためにああ言っただけなんじゃないかと訝しむ。
そんな私に気づいたらしい陛下の表情が強ばっていたけれど、追求する気にはとてもなれなかった。