st.Ⅴ The Sign
二話同時up②
「ソフィアと何を話していた」
ザルクは腕を組んで廊下の壁にもたれ掛かりながら、目の前を歩くシュレイザーを呼び止めた。
シュレイザーは足を止め、美しい紫紺の瞳でこの国の王である男を無表情に見据えた。
「ただのよもやま話ですよ。陛下ではなく、私の妻にならないかと」
「――っ! き、貴様にはあの」
シュレイザーは、前のめりになるザルクの胸を軽く押す。
「冗談です。ですが、せいぜいあのヴァラヴォルフに横取りされぬようお気をつけください。狼は狩りの際、どこまでもしつこく獲物を追いかけるそうですよ」
「……余計な世話だ」
シュレイザーは、ぎこちなく視線をそらす自分の上司に「だとよろしいのですが」と小さく苦笑いを漏らした。
**********
「ダンさん、あの……何をするんですか、ここで」
突然部屋に来たかと思うと、ダンさんは私の腕を引っ張って湖の畔へ連れてきた。周囲は雑木林に包まれ、あちこちから虫の音や草木のざわめきが聞こえる。
小さなバケツを手にした彼は、
「決まってるだろ。釣りだ」
無邪気に笑う。
つ、釣り……? こんなところで?
確かにここには大きな湖があるけれど、釣りをしようとしている人なんて見たことが無い。それどころか、ぬかるんで湿っぽいこんな場所に、近づこうとする人すらいなかった。
「でも道具が」
しかも仕事中なんじゃ……とも思ったけれど、彼はお構いなしにバケツに水をくむと、湖の縁に座り込んだ。
「今からオレが庶民の知恵を見せてやる」
ダンさんはそばに落ちていた手頃な枝を拾い上げると、器用に糸と針金であっという間に竿を完成させて見せた。
「ほら」と誇らしげに掲げる。
「すごい……」
そういえばお兄ちゃんも、こんな風に作ってくれたことがあった。
結局、その作り方を教えてもらえないままだったけれど。
「結構立派なもんだろ」
「はい、とても」
たまにはいいかと、彼から釣り竿を受け取って、隣に腰掛けようと腰を下ろしかけた。
「おっと、ちょっと待った」
ダンさんは胸ポケットから大きめのハンカチをとりだすと、恭しくそれを広げて地面に置く。
「ソフィアの席だ。こういうの、紳士っぽいだろ?」
わざとらしく胸に手を当てて見せる彼に、思わず吹き出してしまった。
ここにいる貴族な方たちとは違って、随分と親しみやすさを感じる。そう、元はと言えば、私もこんな風に遊んで育ってきたんだから。
「ありがとうございます」
私も恭しく返して座ると、湖に糸を垂らす彼を倣ってポチャリと針を沈める。
「御令嬢には不釣り合いな光景だな」
「令嬢だなんて。私は貴族でもなんでもありません。ここへ来る前は色々と掛け持ちをして働いていました。それでも朝はパン一つ、夜だってスープとサラダが付くくらいの生活で……。こんな綺麗なドレスも、豪華な食事も全く手の届かないものでしたから」
「ああ。そういや、ヴァンパイアは人間界から女をさらって後宮に放り込むんだっけ。いい女みつけやがったな」
凜々しく整った顔に意地悪な笑みを浮かべ、赤くなった私を笑う。
「か……からかわないでください」
あんなに真剣に好きだと言われた手前、正直どう接していいのか分からない。
何をどう話していいのかも。
もしかして、こんな人気の無いところで二人きりになることもダメだったんじゃ……。
身を硬くする私を見かねたように、ダンさんは小さく笑みを漏らした。
「そう警戒するなって。仮にも警官なんだ。嫌がる女を無理矢理どうこうなんて考えちゃいない。まあ、まずはオトモダチからよろしく」
彼は全て察したように笑う。
その余裕が羨ましい。
「にしても、ここって不気味なくらい静かで暇だよな。上流階級っていうのは、寝る食う以外に何してるんだ?」
「本を読んだり、音楽を聴いたり、おしゃべりをしたり。あとは……」
何かに引っ張られるような、僅かな感覚が竿を伝ってくる。
「これってっ……」
巨大な影がゆらりと水中でうごめいたかと思うと、突然水中に引き込まれそうなほどに強い力で引っ張られた。
ダンさんが慌てて私のお腹に手を回して支えてくれなければ、湖に身体ごとはまっていたかもしれない。
「ソフィア、釣り竿から手を放せ!」
分かっているけれど、なぜか逆にしっかりと握ってしまう。
ぷちん、と糸が切れ、バランスを崩して背中から地面に倒れ込み、湿った草の香りが鼻腔をくすぐった。ダンさんが庇ってくれたお陰で、衝撃や痛みは感じなかったけれど。
「何がいるんだこの湖には……ッ!」
ダンさんが驚きに声を上げる。何かとんでもない巨大生物を釣り上げそうになったことに、私自身も目を丸くした。
「すみませんでした。ありがとうございます」
「いや、気にするな」
それでも、ダンさんは真顔で私を見下ろした格好のまま動こうとしない。
「あ、あの……そろそろ身体を起こしたいのですが」
彼は私に覆い被さっていたことに気づくと、あっという間に頬を赤くして飛び退いた。
「わ、悪い。別に下心があったわけじゃ……」
しどろもどろになるダンさんが、なんだか珍しくて可愛い。
彼は泳がせていた視線を、ハッとしたように私の首筋でとめた。
「ソフィア……それ、どうした」
「え?」
「黒い痣みたいなのがある。今ぶつけたのか?」
ダンさんが指さす、首の付け根あたりに触れてみる。
何だろう、心当たりがない。こんなところだけぶつけるわけないだろうし。何より転んだときに痛みなんて感じなかった。
「いえ、妙な寝返りを打ってできたのかもしれません。痛みがあるわけでもないですし、すぐに治ります」
痣なんて、子供のころはよく作ったもの。大したことはない。
ダンさんは「そうか」とあぐらを組んで座り直すと、ふうと息を吐いた。
「ソフィア……帰りたいとは思わないのか、元の家に。こんなところに一人連れてこられて、人間界の皆と引き裂かれて。寂しくないのか」
「最初はヴァンパイアもここも、嫌で嫌で仕方ありませんでした。でも、今は……」
こんなにもここが離れがたい。
「家族は」
「父は早くに亡くしました。母も……兄も。皆に置いて行かれてしまいました。これだけを置いて」
お兄ちゃんのくれたネックレスのチャームを握る。
苦しくなると、いつもこうしてお兄ちゃんたちの存在を近くに感じようとしてきた。
でも今は前と触れたときの感触が少し違う。ネックレスには、陛下のくれたお母様の形見の指輪が通してある。
これだけですごく感じる、今は一人じゃないって。
「それってロケットネックレスだよな」
開くものだとはわかりにくいタイプなのに、目ざとい人だと思った。
「はい」とネックレスをゆっくり開いて中の物を取り出す。開いたのは随分久しぶりだった気がする。
ダンさんはそれに鋭い眼光を向けると、男性らしい節くれ立った指で、私の掌のものをつまみ上げた。
「カフスボタン……? 何でこんなものをネックレスに?」
「帰らない兄を近所の皆で探しに行って見つけたとき、兄はなぜかこれをしっかり握って倒れていたんです。なぜこんなものを持っていたのか分かりませんが、何だか捨てるに捨てられなくて……」
「随分高そうなボタンだな」
ダンさんはそれを天にかざして、月を透かし見る。月光に反応するかのように、ボタンは銀河のように輝いた。
まるで手の中に星空を集めたみたいに綺麗。
「……なあ。聞いてもいいか? お兄さんは何で亡くなったのか」
ダンさんは、すっかり警官の目になってる。
何がそんなに気になるんだろう。
「正確には分かりません。過労だったのか、それとも突発的な病だったのか」
――『吸血鬼に殺されたのさ』
「――!」
お兄ちゃんのお葬式でどこかのお婆さんが言っていた言葉。
何でそんなこと、今思い出すの。
違う。そんなはず無いって分かっているはずなのに、怖くなって膝を抱えた。
なぜだろう。震えが止まらない。
ダンさんが慌てて私の背を撫でる。
「ソフィア、大丈夫か? 悪い、辛いことを色々聞きすぎた」
「いいえ、平気です」
無理に口角を上げて微笑んでみせる。
平気……なんだろうか。
指先がこんなにも冷たいというのに。
**********
「これって、本当に何なんだろう……」
鏡に向かって妙な首筋の黒い痣を見つめていると、窓ガラスを叩く音がして顔を上げる。大きな赤い鳥が“開けてくれ”と言わんばかりに、もう一度くちばしで窓を叩いた。
急いで駆け寄って、窓を開ける。
赤い鳥はくわえていたものを部屋の中へ放り込むと、すぐに飛び去って行った。
「手紙?」
“ソフィアへ”と書かれた黄ばんだ安っぽい封筒を拾い上げ、送り主を確認しようと裏を見る。
「From "L"……?」
L?
L……って、まさか!
「レオ様?」
急いで封を開けて中を取り出す。
少し妙な香りのする便せんには不釣り合いなほど、流麗で上品な文字が並んでいた。
『Dear ソフィア
元気? オレはすごく元気……と言いたいところだけど、君が恋しくて気が沈む日も多いかな。
今、オレは首都からかなり遠い国境付近にいます。煩さくて狭い汽車の三等席は、貴族の生活しか知らないオレにはものすごく窮屈だった。
けど、得られた物も多い。
車内はお世辞だらけの上流社会とは違って、唾と酒とタバコの煙と品の無い本音が飛び交っているヒドイ有様だったけど、それを彼らは、楽しそうに心から笑い飛ばすんだよね。
これはきっと、お金じゃない“豊かさ”なんだって。そういうものもあるんだって、すごく新鮮に映った。
これからどこへ行くのかオレにも分からない。誰に出会うのかも。
けれどオレは確かに、そこにいたときよりも今が自由だと感じてる。
自由な愛を込めて "L" 』
「レオ様……」
「あいつはまだ君を諦めていないのか」
心臓が止まるかと思った。
「――! へ、陛下っ」
「私に隠れて恋文とはやってくれる」
いつの間にか背後に立っていた陛下は、私の手から手紙をひったくると、眉をひそめてそれを見つめる。
嫉妬しているらしいと、うっすら感じた。
「でも良かったです。レオ様がお元気そうで」
「そうだな、元気すぎるほど元気らしい。……早く結婚式の招待状を送りつけてやりたいものだ」
ふて腐れたように、手紙をテーブルの上に乱雑に放り投げると、腕を組んでテーブルに浅く腰掛けた。そんな仕草は、シュレイザーさんの言うとおり、やっぱりちょっと子供っぽい。
「招待状……ですか」
「どうかしたのか?」
吸い込まれそうに深い黒の瞳を、心配そうに私に向ける。
「あ、いえ……。私の家族にも、送ってあげたかったなと思いまして」
できるはずないのに。
「……ソフィア」
陛下は悲痛な面持ちで私を見つめる。こんな沈んだ空気にするつもりじゃなかった。でも、何か言おうにも、ただ困ったように微笑むしかできない。
「あの、別に私は落ち込んでいるとか、そうじゃなくて」
「新婚旅行の行き先が決まったな」
「……え?」
陛下は首を傾げる私に、私だけに向けられる、心臓をざわめきたてるような笑みを見せた。
「人間界へ行こう」
「陛下……」
「鏡に願えば良い。人間界へ行きたいと。ただし一時的にな」
「でも、陛下は……太陽の光を浴びたら」
ヴァンパイアなのに。
「どうにかなる。外出は曇りの日や、陽が暮れてからにするとか。義父上と義母上に挨拶しなければな。無論、義兄上にも。……まあその前にプロポーズが先なんだが」
陛下は難しい顔で、自分の顎に手を当てて考え込んでいた。
彼はいつも、私を一番に考えてくれる。
私の心を貫くような、優しい言葉をくれる。
私へのプロポーズを考えるその綺麗な横顔が、たまらなく愛しく思えた。
「陛下……」
「――!」
陛下の首に腕を回して、自分から唇を重ねる。
柔らかな感触と陛下の体が僅かに強ばったのを感じた瞬間、自分が感情のままにしてしまったことに、心臓が今更ながらに反応して体中熱くなる。
「いえあの……すみま」
言いかけた瞬間、身体が反転して陛下の向こうに天井が見えていた。何が起こっているのか分からないままに、陛下の深い口づけが降り注ぐ。
いつもするような触れあうだけのキスじゃなく、まるで食べられてしまうかのような熱いキス。
「ふ……っ」
普段はどこか子供っぽい彼の大人のキスに、私はテーブルの上に押し倒されたまま、彼の服の襟元を掴んでただ翻弄されるしかなかった。
けれどそれを心得ているかのような陛下の優しいリードに、速度を増す心臓の高鳴りを体中で感じながら、何とか応えようとした。
香りも、耳も触感も。感覚の全てが陛下のものだけになっていく。私の頬を包む陛下の手の熱さえ愛おしかった。
陛下は名残惜しげに音を立てて唇を離すと、親指の腹で少し震える私の濡れた下唇をなぞる。陛下の炎のように熱い視線と、唾を飲み込む喉の動きを感じた。
それにつられるように私が顔を上げようとするより早く、陛下は私の首筋にキスを落とした。
何度かされたことがある首筋へのキスは、触れると言うより、強く肌を吸い上げられるような感覚がある。
ピリッとした痛みが走った。
あれ……けれどそこって、妙な黒い痣があった辺りだった気がする。
「ソフィア……。狂おしいほど愛している」
顔を上げた陛下が優しく微笑んだ瞬間、バサバサとコウモリの大きな羽音が窓のそばを通り過ぎた。
「っ――!?」
今の……何だったの。
一瞬、陛下の瞳が、血濡れたように真っ赤に染まっていた気がした。