st.ⅩⅢ The Confession
「くーかー、くーかー」
泣く私を慰めてくれていたエディーさんは、すっかり疲れ果ててベッドで眠ってしまった。あれからどれだけ経ったのかは分からないけれど、随分長い時間だったような気がする。
常夜のここは、やっぱり時間の経過がわかりづらい。
彼に柔らかく布団をかけて立ち上がる。
外の空気でも吸おうと思った。やっぱりじっとなんてしていられない。
「――!」
扉を開けて息をのむ。
レディエンス家のあの人が、お皿を持ったまままるで人形のように突っ立っていた。じろりと金色の瞳で見下ろされる。
「な……何をしてるんですか」
おずおずと尋ねる。正直あまり話したくはなかったけれど、この状況は無視して素通りする方がつらい。
「お前の分だ」
ぶっきらぼうにそう言い放つ。手に持っていたのは、私が作ったスープらしい。
「ずっと、ここで待っていたんですか。これを持って」
彼は何も答えなかった。けれど、きっとそれは無言の肯定なんだろう。
お皿を持ったままずっと扉の前で待ってくれていたのかと思うと、さっきの怒りもゆっくり溶けていくみたい。
こういう不器用なところは、どこかの誰かさんに似ている気がしたから。
「温めなおします」
しばらく考えて彼からお皿を受け取ると、それを持ってキッチンへ足を運ぶ。
鍋に戻して火にかける私の背中を、彼はじっと見ていた。遠慮のない視線が突き刺さる。
「あの、何ですか?」
居心地の悪さに、ほんの少し顔だけで振り返って尋ねる。泣いて目が赤いところは、あまり見られたくないから顔を隠し気味にして。
「人間の女など魔力もなく、何もできない役立たずな種だと思っていた。今はオレのほうが役立たずだ」
自分で温めなおしたかった、ということなんだろうか。
それができないから役立たずなんて、あり得ないのに。
自然と笑みがこぼれた。
妙なところで重大な責任を感じているのが、何だかおかしくて。
「人間に魔力はありませんが、色んな知識はあります。それにあなただって役立たずなんかじゃありませんよ。知らないことがあるだけ」
火の加減を見ようと身をかがめると、不意に影が下りた。
近づいてきていたらしい彼を見上げる。なぜか片手で自分の脇腹を押さえていた。
「どうしたんですか?」
そこは確か……わ、私と妙なことができないように男性機能を抑えるような魔方陣があったところよね。もしかして痛むのかな。
「グレイドーさん?」
「あの陣が消せないか考えていた」
「……消さなくていいです」
何てことを! 冗談? 冗談よね!
羞恥に赤くなる顔を隠すように、不自然に視線を泳がせると、彼が投げ捨てた結婚指輪が目に入った。
それを見ると、とてもさみしい気持ちになる。
窓枠下のそれに近づいて、そっと拾い上げた。
「どうぞ」
彼の方へ指輪を差し出す。
グレイドーさんは表情のない顔をそらした。
「必要ないから外して捨てた。なのになぜそれを返そうとする」
確かにそう。
でも――
「今から思えば、あなたはヴァンパイアが血を求めるものだと言いながらも、どこかそれを否定されたがっているように見えました」
彼の眉が一瞬上がる。
ヴァンパイアはこうなんだ、ああなんだという彼の言葉はどれも、自分にそう言い聞かせているように感じられた。
「ですからこれも、捨てるより持っていた方がいいような気がして」
受け取ろうとしない彼の手を取って、無理に指輪を握らせる。
「余計なお世話ですけどね」
何だか妙に照れくさくなって、鍋の火を確認するふりをしてごまかした。
ちらりと盗み見た彼は、掌のそれをじっと見つめている。彼の結婚生活がどんなものだったのか分からないけれど、血に溺れることをあまり喜んでいるようには見えなかった。
色もなく冷たく見える瞳は、自分の心を探してさまよっているからじゃないかって気がする。あくまで感覚的だけれど。
「お前を怒らせるつもりはなかった」
――『お前はヴァンパイアを理解していない』
――『ヴァンパイアが血を求めて何が悪い』
――『あなたは気高いヴァンパイアなんかじゃない。誇りも自制心も無い、欲にまみれただけの化け物だわ! あの人と一緒にしないで!』
あのやり取りが思い返される。
「いえ、私も失礼なことを言ってすみませんでした」
感情的になって、とてもひどいことを言ってしまった。
いくらなんでも、化け物なんて……。
「あの人のことで少し頭がいっぱいになっていて。でもきっと無事ですよね、レオ様もいるんですから!」
「レディエンス家は……」
よし、そろそろ温まったかな。テーブルに乗っていたお皿を手に取る。
「オレは陛下を暗殺しようとしている一人だ」
え……?
それに耳を疑う。指先が震え、止まった足が冷えていった。
「何を言ってるんですか」
これも、この人の分かりにくい冗談なんでしょう?
金色の瞳がランプの光を反射して揺らめく。それが決して嘘なんかじゃないと言いたげに。
「伯父上は先王がブラッド法を制定してから、ずっと廃案するよう抗議してきた。貴族の署名を集め、嘆願書を提出し続けた。だが――」
そこで彼は言葉を切る。
認められなかったんだろう。だからこそあの法は今も存在している。
「先代が病で崩御され、幼かった今の陛下が即位されたとき伯父上は喜んだらしい。子供ならコントロールできると思ったんだろう。だが今の陛下もそれをかたくなに拒み続けた。小さな心に父の遺志を引き継ぎ、今までどんな取引にも応じずあの法を護ってこられた。『血ばかり求めるお前は誇り高いヴァンパイアではない』と言われ、それが伯父上の逆鱗に触れたらしい。伯父上は先代以上に、今の陛下を殺したいほどに憎んでいる」
「ちょっと待ってください。それじゃあ……」
ボコボコと煮立つスープの音も、今は耳に入らない。
「陛下を暗殺する指揮をとっているのは、オレの伯父上だ。オレもその下についている。お前は人質だ」
バリンと手から滑り落ちたお皿が割れる。破片が足首に当たった。
「だって、あなたとここへ来るように言ったのは……避難するように言ったのはレオ様――」
「陛下の弟たる公爵様も利用されている。元々ブラッド法に反対されていたあの方の心の隙間に入り込んだ」
彼から目を離さず、ゆっくりと後ずさる。
この人は一体、何を言っているの? 冗談なら冗談だと言って……! 早く!
「何を……言っているんですか? レオ様はブラッド法に反対したり、そんな隙を見せるような方じゃありません!」
「お前のせいだ」
「――!」
「お前が陛下を選んだからだ。あの方はひどく失望された。自分の兄を手にかけようと思うほどに。陛下の暗殺を最初に口にしたのは伯父上だが、最終的な判断を下したのは他ならぬ公爵様。あの方を完全にこちらに引き込み、お前の身柄をこちらで押さえれば、計画は間違いなく完遂される。じきに」
窓の外に見える赤い星を睨みつけ、彼はそう言い切った。それがいったい何を意味しているのか私には分からないけれど、切迫した空気に焦りを感じる。
「そんなことはあり得ません! レオ様は陛下のことだってすごく愛しておられました。尊敬をして、いつも気にかけていました。陛下を避ける私に、あの方の話を聞いてあげて欲しいと言ったのは、レオ様ですよ?」
そんな彼が、陛下を暗殺しようだなんて考えるわけない!
「それでもお前が自分の方へ来てくれると思ったんじゃないのか」
「そ……んな」
「心から愛するお前の心と血を得るため。ヴァンパイアならば共感できる感情だ。その行く末が」
「陛下の暗殺でもですか!?」
血……血……血。
そればっかり!
「そんなに血が欲しいんですか? だったら私の血を全部あなた方にさしあげますッ! いくらでも飲めばいい! 私を空っぽの怪物にでも何でもすればいい!」
彼の胸倉をつかんで精一杯揺らした。けれど彼はびくともせず、ただあの冷たい金色の瞳で私を見下ろすだけ。
どうして……どうしてあの人が恨まれなくてはならないの。他ならぬ、味方であるはずのヴァンパイアたちに!
「私の血を差し出すかわりに……あの人のところへ連れて行ってください。……会いたい……会わせてッ」
ぼたぼたと大粒の涙が床に落ちた。それを拭う気力もない。ただ立っているだけで精いっぱいだった。
胸が痛い。肺が締め付けられているように苦しい。
陛下……。
「なぜそこまでヴァンパイアを愛せる」
ゆっくり床にうずくまる私の頭上に、そんな疑問が落ちてきた。
私は、ヴァンパイアを愛したわけじゃない。私は――
「陛下は私を愛してくれているからこそ、何より私の気持ちを優先してくれる。それがどれだけ辛いことだろうと、我慢してくれるのです。思い込みが激しくて、どこか子供っぽいところがあって、暴走することもありますけど、私を護ろうとしてくれているときはいつも必死でした。そんな彼だからこそ、私も……彼の愛に応えたいと」
ヴァンパイアじゃない。あの人自身を好きになった。いつからか、あの人から目が離せなくなった。あの人の笑みに胸をくすぐられるようになった。
私を処刑しようとした人だけど、同時に、命を懸けてまで愛してくれた人。
「彼が私の血を求めるなら、捧げてもいい。……本当はとても、怖いけれど。でも、あの人になら」
全てを差し出しても構わないと――
「……お願いです、あの人を殺さないでください……お願いです。殺さないでくださいッ」
こんな風に敵にお願いするしかできないなんて……。大切な人が危ない目に遭おうとしているというのに。こんなことしかできないなんて!
「ずっと心の中に妙なわだかまりがあった。女の血と体」
ポツリ、ポツリと言の葉が落ちてくる。それはなぜか彼の心の奥底からのものに思えた。
「伯父上に欲しいものを欲しいだけ与えられて、欲望を好きなだけ満たすことができた。だが……したいことをしていても、オレにはそれがどこかむなしく感じられた。結婚をしても、女には金を求められ、オレは女に血を求めるだけ。それだけだった」
グレイドーさんは、悲痛な面持ちで指輪を握りしめた。
「やっと気づいた。欲に忠実に生きるとは、自分の中に何も残さないことだと。誇りも愛も信念も、耐えて忍んだ先に生まれるものなんだと。アンタを見てると、それがよく分かる気がする。ブラッド法を護る意義も」
あんなに怖かった金色の目が、まるで磨き終えた宝石のように見えた。
そう、これはきっと自分の心を見つけた目。
「オレは中身の無い伯父上よりも、苦しみに耐えながらあの法とアンタを護ろうとする陛下を支持する」
「グレイドーさん……」
その瞳を心強く思った。とても。
「お前を人質にとったと陛下をおびき寄せ、魔力を抑える術式をかけて息の根を止める計画だ。場所はあの赤い星の下だ」
彼に励まされるかのように、私も立ち上がる。ずっと座り込んでなんていられない。
「きっとレオ様も危険です! 早く止めないと!」
外へ出ようと足を踏み出したけれど、グレイドーさんは動こうとはしなかった。
「あの!」
どうして? 早くあの赤い星の下へいかなきゃいけないのに!
「グレイドーさん!」
「あそこへいく手段がない」
「え……ここへ来たとき乗ってきた馬車があるんじゃ」
「あれはすでにここにはない。お前を完全にここに閉じ込めておくために帰した」
帰した? そんな。
「ならどうすれば……っ!」
足元から期待がガラガラと音を立てて崩れ去っていくような気がした。
計画が分かっていても、ここから出られないんじゃどうしようもない。
どうして? せっかくどうにかできるかもしれないと思ったのに。
どうして……!
――ヒヒヒィン
外から地を叩くヒヅメの音と、馬の鳴き声が聞こえる。
これって、まさか――
「よーし、よしよしよしよ~」
バンと勢いよく窓を開けると、そこには一頭のスレイプニールがいた。空を駆ける馬。これさえあれば陛下たちの下へ行ける。
でもどうしてここに?
よく見ると、手綱を引いてその顔を撫でる小さな影があった。
「誰だ?」
「エディーさん!」
嬉しくなって、無謀にも窓から外へ駆け出す。
「五つ葉のクローバーを探しておったら飛んできたんじゃ! ぶわわーっとな!」
「エディーさん」
ありがとう。のどでつっかえてしまった言葉の代わりに、強くギュッと抱きしめる。
「どういたんじゃ?」
エディーさんはそう首をかしげていたけれど、不思議な人。守護妖精だと言っていたけれど、何だか私を護ってくれているよう。
「これで……」
「ぼやぼやするな」
彼を振り返ろうとした瞬間、お腹に手を回されて馬の背に放り投げられた。
痛い……。陛下ならもっと丁寧に扱ってくれるのになんて考えている暇もない。
陛下、レオ様。今すぐに行きますから、どうかご無事で。
そんな思いがどうか届くようにと願いながら、私の後ろにまたがったグレイドーさんと共に夜空へ舞い上がった。
どうか間に合いますように――