st.Ⅹ The Dragon
「あの、ソフィア? アタシだって別に偏見があるとかじゃないよ? けど……」
テーブルの上のミセスグリーンは両手をふわふわと心もとなげに浮かせ、それは彼女の言葉にならない何かを表現しているようだった。
クローゼットから出てきた謎の小柄なおじいさんは、さっきから止まることなく朝ごはんを食べ続けている。ベーコンにかぶりつき、サラダを口に突っ込み、ジュースでそれを流し込む。
ミントさんがせわしなく片付ける傍らで、食べ散らかしたお皿がどんどん積みあがっていた。
「よーっぽどお腹が空いていたみたいね」
アリスが私の隣に座りながら、斜め向かいのエディーさんの食べっぷりに感心したように言った。
王が男性の出入りを完全に禁止したせいで、先生たちまで入ってこられなくなったらしい。つまり学校もお休みということ。
数日お城を空けるくらいでそこまでする? って思ったけれど、皆はレポートの提出が延びたって喜んでいるらしい。
暇になったからとアリスが来たんだけれど、彼女にならこの謎の人のことを隠し立てすることもないだろう。
「ぴひゃー! 食った食った、ゴェップ……失敬」
ナプキンではなく袖でゴシゴシと口元を拭った。ヒゲにまだサラダのドレッシングがついているけれど。
「ソフィアたんのおかげで助かった助かった!」
おじいさんは倍以上に膨れ上がったお腹をさすり、満足げに天井を仰いだ。
「いえ、私は何も」
私は単に朝食を一緒にとっただけですもの。
それより、もうそろそろ何か尋ねてもいいのかしら。
危険人物には見えないけれど、素性の知らない人が自分の部屋にいるのはどこか居心地が悪い。
「ところであなたお名前は?」
ミセスグリーンが先に口を開く。
「えーっとエディー……忘れちったぁ!」
自分の名前を忘れたというのに、彼……エディーさんはカラカラと笑っていた。
ミセスグリーンは小さな頭を抱える。
「あの、エディーさんはモンスター……なんですか?」と私も尋ねてみる。
「ワシ? ワシは守護的な妖精じゃ!」
得意げに鼻先を伸ばす。
妖精?
なんだろう、イメージとだいぶ違う。
妖精といえばこう可愛い小さな女の子で、金の粉を撒き散らしながら飛んでいると思っていたんだけど、おじいさんもいるんだ。
それともおじいさんが基本なのかな。
「それより妖精ジジ……ジイちゃんはどこから入ってきたの? ここはお城の後宮よ?」
アリスの問いかけに、エディーさんはなぜか瞳をきらめかせた。
「それが魔法陣でピュー! ドスン! バァン! というわけなんじゃよ!」
ものすごく大きな手振りでそう説明してくれたけれど、何が何だかさっぱり分からない。
場所から場所へ移ることのできる魔法陣があって、それで飛ばされてきた……って解釈で合ってるのかしら。
「ドンでもバタンでもいいけど、早く帰ったほうがいいんじゃない? 誰かに見つかって捕まったら大変よ。ここの王様はすごーく怖いんだから」とアリスが肩をすくめる。
「もうちっといいじゃん! ていうか、帰る方法も分かんないし」
大らか……っていうのかなこういうの。とりあえずすごく肝がすわってる。
「それよりあのパプリカの化け物の絵はなんじゃ? 魔よけかえ?」
エディーさんがキャビネットの上に掲げられている絵を指差した。
「ああ、あれは太陽です。陛下が私にと」
「へぇ?」
エディーさんは驚いたのか、素っ頓狂な声を上げた。
そうよね、闇に住まうヴァンパイアの王が“太陽の絵”だなんて。
アリスは物珍しそうに顔を横にしたり、下からのぞきこむようにして壁の絵を見つめていた。
どの角度から見ても同じだよ……。
「魔界ではああいうのが芸術なのかしら?」
私にはいい絵なのかどうかさっぱり分からないわ、とアリスが付け足す。
「ああ、どうかな。そうなのかも……」
「下手クショなだけじゃね、フヒャフヒャフヒャ!」
エディーさん、それは言ってあげないで!
「あの陛下がねぇ」
ミセスグリーンは、彼女専用の小さなカップをソーサーに置いた。人間で言うならきっと、大きく目を見開いて信じられないと肩をすくめていると思うわ。
確かにあの人が女性に自分の絵をプレゼントだなんて、最初の頃からは想像できなかった。
後片付けをしながら、ミントさんがグフフフと笑った。
「噂で聞いたんですけど~、これ何百回も描きなおした渾身の作品らしぃです。絵は苦手で、も~二百年も筆を取ってなかったらしいですのに、ソフィア様に気に入ってもらうためにそりゃあ必死で。絵の講師も驚いていたとか、いなかったとかぁ」
何だかその様子が目に浮かぶよう。
完成したそれを見て、陛下はきっと無邪気に笑ったんだろうな。顔に絵の具をつけていたりして。
……あれ何だろうこの感じ。何をつられて私も笑ってるのかしら。
急いで緩んでいた顔を引き締める。
「ソフィー!」
アリスの大きな声に、思わず肩が跳ね上がった。
「え、な、何?」
「大丈夫? 何回も呼んでたんだけど」
意識をどこかへ飛ばしていたらしい。
どんな顔してあの絵を見てたんだろう。恥ずかしい……。
ミセスグリーンは少し尋ねづらそうに、モジモジと手を擦り合わせた。
「あの、ソフィーはあの方をお慕いしているのかい?」
その質問に、心臓の鼓動が急に速度を上げた。
「え? えっと……」
とりあえず口を開いたけれど、続く言葉が見つからない。
確かに彼には妙な力がある。
冷淡かと思えば情熱的で。
泰然としているかと思えば頼りなげで。
でもいつだって私を大切に護ってくれようとする。
あの件で激しく自分を責めている陛下を、放っておけないのは事実。
本当はすごく繊細な心を持ったあの人を愛おしいと思っているのも事実。
それを私にだけ向けてくれていることに、むず痒さのようなものを覚えているのも事実。
これは……この胸の奥がギュッと締め付けられるように苦しい気持ちは……。
やっぱり、慈しみの情じゃなくて――?
「あの……えっと、だから」
どうしてだろう。考えが上手く言葉にできない。
ミセスグリーンは私の心を察してくれたらしい。
「いや、いいんだよ? あんなことがあったとはいえ、あの方なりに反省をして謝罪して、ソフィー自身がそれを受け入れたんなら、それはそれで構わない。ま、あたしはあの人を心のどっかでまだ許せていないけどね? けど……決めるのはソフィー自身なんだから」
彼女はトトトと私の方へ近づくと、「ね?」とそっと手を撫でてくれた。
彼女の足先のうぶ毛を通して、温かみを感じる気がする。
「ごめんなさい、自分の気持ちなのにこんな曖昧な――」
大きすぎるこの気持ちに、頭がついていかない。
自分の心を分かっている気がするのに、正面から受け止める準備ができてない。
一体何を怖がってるんだろう、私は。
「いいのよ、ソフィー。愛っていうのは、ほら……何て言うのかしら、あれね、そう」
ミセスグリーンは言葉を探すように手の先を空で回す。
「複雑だから」とアリス。
「そ、複雑だから」
「ありがとう、二人とも」
アリスはティースプーンを上唇と鼻の間に挟みながら、感慨深げに息を吐いた。
「ソフィーが陛下と結婚したら王妃様ね。私はそのお友達になれるなんて、なんだがすごくわくわくするわぁ」
そういうものなのかしら。私は王妃なんてものすごく気が重いんだけれど。
「ああ、安心してソフィー」
にやりとアリスが笑う。
「陛下は私の部屋には一度も足を運んだことはないから。それに最近は全く音沙汰がないって、お隣さんが鼻の穴をコインみたいに広げて怒ってたわ」
「わ、私は別にそんなこと気にしてなんて……ってあれ。エディーさんは?」
アリスの視線に耐え切れずエディーさんの方を見れば、彼の姿が忽然と消えている。
急いでテーブルの下をのぞいてみたけれど、そこにもいなかった。
廊下へ続く扉が少しだけ開いている。
ま、まさか外へ? マズいわ!
ガタリと両手をついて立ち上がった。
すると彼が扉の隙間から顔と手を出した。
「この鍵もーらっぴぃ!」
チラチラと振ってみせるそれは、王の部屋へ通じる……!
「エディーさん? え、エディーさん!」
急いでその後を追いかけ、廊下に飛び出した。
幸い誰もいないけれど、いつ誰と出くわして衛兵に通報されるか!
「はっちゃけたジジ……おじいさんね」
途中で訂正しながらアリスが言った。
エディーさんは老人とは思えないほどのスピードと身のこなしで廊下を突き進んだり曲がったりを繰り返している。
何てすばしっこい。
「あの、エディーさん! そっちはダメです!」
振り回すうちに途中で落としたらしい鍵を拾いあげる。
早く捕まえないと!
彼が急に右に曲がり、その後を追いかけて走るうちに気づいた。
「あれ、アリスがいない……ちょっと待って、ここ」
高いアーチ型の天井。左右にずらりと並ぶ、男女の愛をモチーフにした絵画や像。
そう、王の部屋へ通じる秘密の廊下だった。
「どうしてエディーさんがここを通れるの?」
鍵を持つものしかこの廊下が見えないはずなのに。
もしかして妖精には効果がないのかもと思いつつ、小さな背中を追いかける。この先は鍵のかかった扉がある。そこでなら捕まえられるわ。
そう思ったのもつかの間、あろうことか彼は魔術で扉の鍵を開けて中へ入った。
嘘でしょう。
妖精ってそんな力があったんだ……!
「エディーさん!」
普段用の比較的ロータイプなものとはいえ、ヒールで走るのってすごく大変。靴ずれでかかとが痛い。つま先も。
やっとのことで扉を開けると、エディーさんが陛下のベッドの上でピョンピョン跳ねていた。
私はハアハアと肩で息をしているのに、エディーさんはものすごく元気みたい。
「わぁー広い部屋じゃのぉ。ソフィアたんもここに通っとるのか? ぐふふふ」
「エディーさん、ここにいてはダメです。不法侵入で捕まってしまったらどうなるか。お部屋に帰りましょう。しばらく使ってくださって結構ですから」
エディーさんは飛び跳ねるのを止めて、割れたメガネの先の目を大きくして、驚いたように私を見つめた。
「へぇ? 置いてくれるのかね」
「は、はい。帰る方法が分かるまででよければ。私はアリスの部屋で眠りますから、大丈夫です。それにあそこは基本的にミントさん以外出入りしませんし、彼女も告げ口なんてしませんから。ね?」
エディーさんはそれにウルウルと涙を浮かべる。
「こんなどこぞの者とも知らぬ浮浪妖精に……そこまで親切にっ。でも探検してからにしよーっと!」
「あの、ちょっとエディーさん、本当にダメですって!」
「ワワワホッホーイ!」
次々と扉を開けて、王の部屋を出て行く。
ここまで自由奔放な人、初めてだわ……! レオ様以上じゃないっ。
守護妖精じゃなくて、単なるイタズラ妖精なんじゃないかと思った。
*****
見失った。
どこ? どこにいるの? まさか衛兵さんに捕まったんじゃ?
ひっそりと静まり返る廊下を見渡す。廊下に並ぶ絵や美術品はとても美しいけれど、今はそれを鑑賞している場合じゃない。
どうしよう。陛下もいないし。
額に手を当てた。
あれ、今何か音がした?
近くで小さく”カタリ”、と何かがあたるような音がした。
そっと廊下を歩いて、角から覗く。
行き止まりのそこには、大きな黒い扉があった。一番上を見ていたら、後ろに転んでしまいそうなほどに背の高い扉。
材質は何か分からないけれど、キラキラと全体的に何かが光っていた。そっと触れると、色が薄桃色に変わって反射的に手を離す。
扉は何事もなかったかのように色を戻した。
不思議な扉……。
おそるおそる金色の取っ手に手を掛けた。ゆっくりとそれを押す。
鍵はかかってなかったみたい。
「エディーさん? エディーさん?」
やけにドキドキしながら顔だけ覗かせてみた。
まるでダンスホールのように大きな広間だった。薄いグリーンの床。何本もの太い柱が等間隔に天井を支えていて、ぼんやりとオレンジ色の明かりが柔らかく周囲を包み込んでいた。
「エディーさん?」
もう一度呼んだ。でもやっぱり返事はない。
けれどあの人が大人しく出てきそうにもない。どこかに隠れて私を驚かしてやろうと息を殺しているのかもしれない。
「エディーさん」
そっと中へ入って扉を閉めた。少しヒンヤリと冷たく肌寒い。
それにしても、すごい所……。
ヒールが床を叩き、まるで高級な打楽器のように美しい音色を奏でる。
どこかしらと柱の影をあちこちのぞいてみたけれど、エディーさんの姿はない。
ここじゃなかったのかな。
「大きな鏡……」
扉のちょうど真正面にあった巨大な鏡に目を奪われた。私の身長の三倍くらいありそう。
鏡の下に、私の上半身が映りこむ。溶けそうなほどに磨きこまれた表面。縁にはたくさんのガイコツや悪魔の彫刻がなされていたけれど、まがまがしさよりもその高い芸術性に心引かれた。
そっと手を伸ばしてみる。
『さわるな』
「ひゃっ!」
突然聞こえた野太い声に思わずしりもちをついた。床が硬くて腰が痛い。一瞬目の前に火花が見えたわ。
鏡の中を黒い煙が渦巻き、それが何かの形を成して行く。
何? 何が起こるの?
尻もちをついたまま後ずさる。
グググと鏡からせり出すようにドラゴンが巨大な顔を見せ、大きな鼻先を私の目の前に突きつけた。
『我が名はアラゾーク、人間ごときが余に触れるな』
薄緑色のドラゴンは、ゴーストさんのように透き通っていた。それでもびっしりと顔を覆うウロコはとても硬そうで、私の体の半分くらいありそうな目は生気を持ってランランと輝いていた。
洞穴のような鼻孔を二度ほど開閉させ、ドラゴンはググッと体を起こした。
見下ろされる威圧感に息が詰まりそう。
あれ、アラゾーク? アラゾークって言った?
――『私の妻になれば “アラゾークの魔鏡”が何でも願いを聞き入れてくれる』
陛下の言葉を思い出す。
まさか、これの……こと?
『お前の願いは何だ』
それに目をパチパチと瞬かせる。
ドラゴンは岩のような顔をグイッと傾げた。
『欲しいものを言うがいい、哀れな人間よ』
洞窟に響くかのような重低音の声。彼が何か話すたび、体の芯がビリビリした。
鋭い牙がびっしり生えた口を開ける。
「欲しいもの……」
『そうだ。金? 美貌? 宝石? 他者の心を支配できる力?』
ドラゴンが何か口にするたび、札束を握ったり、おめかししたり、宝石で着飾ったり、腕っ節を見せつけたり、せわしなく姿を変えて動いた。
動く絵本のようで楽しい。
『何でも与えてやろうぞ』と学校の長机もびっくりな爪を差し向けられる。
その大きさにおっかなびっくりしながらも、ゆっくりと立ち上がった。
ドラゴンの顔を見上げながら、
「あの、王妃にならなければ、願いは叶えてもらえないのでは?」
『まさか、そんなケチくさい。遠慮はいらん。さあ、言え!』
両手にお札、首にネックレス、それにヒドイお化粧姿でふんぞり返る。
願い……私の願い。
「私が欲しいものは……」
ドラゴンの目がそれに合わせて大きく見開かれる。
「特にありません」
がっくりとして身につけていたものが全て剥がれ落ち、ドラゴンは元の姿に戻った。
“人間界に帰りたい”と言わなかった自分にも、あまり驚かない。
『フン!』
突風のような鼻息が吹きかけられた。髪がブワッとなびく。
『お前が何ぞ欲しい物を言ったところで無駄だ。願いは王の口を通してのみ叶えられる。人間が何を言おうと知ったことではない!』
何それ。自分で聞いておいて。
「私を試したのですか?」
それにドラゴンは体全体を揺らして笑った。
盛りあがった目蓋に囲まれた鋭い目で、ギロリとこちらを見る。フウと強く息を吹きかけられ、ツルツルと後ろ向きに滑って柱に背中が当たった。
ドラゴンが顔をぐいと近づける。
『試す? 試す価値もないッ! お前たち人間のようなちっぽけな存在など、王の世継ぎを生むことしか取り柄がないのだからな!』
「そ、そんなことはありません!」
『そうかそうか、ではどこかに魅力があるということなのだな。どこ? どこどこどこにある?』
ドラゴンは巨大な虫眼鏡で私の頭のてっぺんやら肩やらあちこち見まわる。
初対面なのになんて失礼な!
「陛下は、人間をそんな風に思っていません!」
ドラゴンがポイと後ろへ虫眼鏡を放り投げると、ガシャンとレンズの割れる音がした。
『ハッ! 何を根拠にそのような。確かに先王とルイーゼは、ヴァンパイアと人間の垣根を越え、驚くほど深く愛し合っていた』
その言葉に合わせるかのように、鏡の向こうで一組の男女が仲睦まじく手を取り合っているのが見えてドキッとした。
一瞬陛下が映ったのかと思って。
でも違う。
女性は見たことがあるわ。ルイーゼさん、王のお母様。
だからあの陛下やレオ様によく似た男性は、きっとお父様だわ。
教科書に載っていたのはヒゲを蓄えていたけれど、あれは若い頃のお顔なのかしら。
お二人はとても幸せそうだった。
互いに額をつけて、至近距離で見つめ合って。お互いを思いやる柔らかな空気がにじみ出ていた。こちらまで思わず笑顔になるかのような。
口づけしようとするお二人の姿がスッと消えた。目の前にドラゴンが割り込んでくる。
反射的に顔を引いた。
『だがあれは例外中の例外だ。お前のような取り柄のない小娘に、王が本気になるわけがなかろう! お前は家畜の魔豚と同じだ! せいぜいお飾りの妃として血の提供者となるのが似合いであろう! ガーッハッハハハハ!』
それに唇を噛み締める。陛下はそんな人じゃない……!
「あなたはあの人の何をご存知なんです! ずっとここにいるくせに、あの人がどんな方かも知らないというのですか?」
『はっ! 口の減らんおしゃべりな小娘が。口ごたえとは、ますます王には相応しくない。王もお前のことなど大勢の女の一人としか思っておらんがなぁ!』
「なぜそう言えるのです」
ドラゴンは耳まで裂けた口を意地悪そうに曲げた。短い腕を組み、物知り顔でひげをなでる。
『なぜって、お前は王がここに誰も連れてきたことがないと思っているのか?』
それに胸がズキリと疼いた。
ドラゴンはどこからともなくスケッチブックを取り出し、ものすごい勢いで何枚もの絵を描き始める。それを流れるようにパラパラめくると、キレイな女性の絵が動き出した。
『この先月来た女は、この通りなかなかスタイルが良くてなぁ』
グラマーな女性がそれを強調するように胸を揺らし、投げキッスをする。すごい美人。
ファーストクラスにいるのかしら。見たことはないけれど、こういう人もきっと住んでいるだろう。
『そしてこれはついこの間来た女』
百合のように穏やかで清廉さを感じさせるブロンドの女性が、優しく微笑んだ。
とても頭が良さそうで、育ちのよさを感じさせる。私にはないものを持っているように見えた。
『王妃としての品格を備え、それはそれは王とも釣り合いが取れていた。王も心から慕っていたようだしな。ここで仲睦まじーく抱き合い、永遠を誓うキスをしていた』
パラパラと絵が動いて、陛下と知らない女性が愛おしそうに口づけをかわす。
まるでさっきの陛下のご両親のように。
もちろんこれはただの絵。
でも言い知れない感情が沸きあがってきた。
怒りなのか悲しみなのか悔しさなのか、それすらも判別できないような感情が。
後宮は、陛下が女性と愛をささやき合う場所。そこに私も住んでる。王に愛されたいと願う多くの女の子たちと一緒に。
アリスは陛下が最近他の女性のところへ通わなくなったって言ってたけど、彼女が知らないだけかもしれないし、今はそうでもいずれ私の元を離れていくかもしれない。
私は暗い部屋で、あの人が来てくれるのをじっと待つことになるんだろうか。陛下が他の女性に愛を囁いている間も、ずっと一人で。
下目蓋からじわじわと水がせりあがってきて、景色が滲んでいった。
涙を零してしまわないよう飲み込んだ。それでもどうしようもない悲しみが喉の奥からこみ上げてきて唇が震える。
ゲラゲラ笑っていたドラゴンは、私のおかしな様子に気づいたのか、ハタと笑うのをやめた。
『小娘、おい、どうした、おい……』
調子が狂ったのか、どこか動揺しているように感じられた。
『ほ、他の女を連れてきたというのは嘘だ。王とはここ百年近く顔を合わせていない。ほ、ほんのジョークではないか、ジョーク!』
そう言ってスケッチブックをビリビリに破いて捨てる。
今更そんなこと言われたって……。
『小娘……小娘ぇ~』
ドラゴンはガラガラを取り出して振りながら、右手にピーピー鳴くゴブリンの人形を持って揺らした。
私は赤ん坊じゃない!
そう思うと同時に頬を涙が伝った。それにつられるように、反対側からも零れる。
『な、泣くな! 面倒な!』
ドラゴンはガラガラと人形を後ろへ放り投げる。
だって、どうしろと言うの? 勝手に零れるんですから……。
「もしまたここに来ることがあっても、あなたにお願いなんてしません! さようなら!」
涙を拭いながら早足で扉へ向かった。ものすごく惨めで嫌な気分。
『上等だ! 王に告げ口をしたら許さんからな! 小娘! 小、ちょっと待て!』
背中に掛けられる声も全部無視。
『何もそんなに急いで出て行くこともないだろう? 戻って来い、戻っておいでー。ほら、楽しいゲームをしよう! な? 小娘? 小むす――』
バンと扉を閉めた。
扉にもたれて息を吐き出す。
悪い夢を見たとでも思うしかないわ。陛下が他の女性とあんな……。
まとわりつくものを振り払うかのように、軽く頭を振った。
いえ、それより今はエディーさんを探さなきゃ!
廊下を壁に沿うように歩いて周囲を見渡す。透明マントもないし、見つかったら確実に怒られちゃうわ……。
ああ、どこ行ったんだろう、エディーさん。
「ソフィア!」
ドキリとする。ハッとして振り返った。
レオ様!
彼が驚いた様子でこちらに早足で近寄ってきた。
ど、どうしよう。また勝手にこっちに来てしまった。それにレオ様と話したら、今度こそ王との約束を破ったことになっちゃう!
急いで目をそらして踵を返した。無駄だとは分かってるんだけど、逃げなきゃと思って。
「待って! 逃げないで」
手首をつかまれる。
恐る恐る振り返って見上げた先のレオ様は、どこか顔色がすぐれないように見えた。
なぜか辛そうに眉をひそめ、息も切れている。この距離でそうなるはずもない。ずっとどこか走り回っていたんだろうか。
「よかったソフィア、無事だったんだね。後宮のどこにもいないからびっくりしたよ」
彼は一度ギュッと私を胸に抱くと、手を握りしめ、膝を床につけて見上げた。
その苦しげな表情と紡がれた言葉に、ただならぬものを感じる。
「あの、無事って……どうかしたんですか」
どうしてかしら。ゾワリと鳥肌が立った。
何なの、この悪寒……。
「落ち着いて聞いて」
誰もいない静かな廊下に、彼の荒い吐息がやけに響く。
レオ様は声のトーンを落とした。
「実はさっき入った情報なんだけど、ブラッド法反対派の奴らが、兄上を襲撃する計画を立ててるって話が出てるらしいんだ」
「……え」
どういう……こと。
レオ様は辛そうに瞳を閉じ、またまっすぐに私を見つめた。
「真偽はまだ不明だけど、兄上が好意を持ってる君も危険かもしれない。だから君は一度ここを離れて、騒動がおさまるまで別の場所に避難していてほしいんだ」
避難?
私も?
混乱しそうになる頭で、何とか冷静さを保とうと唾を飲み込んだ。
「わ、分かりました。だったらアリスたちも」
レオ様は首を振る。
「いや、危険なのは君だけだ。それにもしこれが本当じゃなかったら、城内の連中を無駄に刺激してしまう。だから君だけこっそりここを抜けるんだ。今すぐ。そこにいるグレイと二人で」
”そこにいる”?
「――っ!」
いつの間にか、レディエンス家のあの人が背後に立っていた。
ポケットに両手を突っ込み、あの金色の瞳で冷たく私を見下ろしている。
“二人で”って。
それに戸惑いを覚えた。じっとこちらを見る、獣のような双眸が恐ろしくてしかたない。
押し倒されて、無理矢理口づけされて。
そんな人と二人きりなんて。怖い。
「あの、レオ様の傍にいてはだめですか?」
助けを乞うように彼を見つめた。頬が引きつっているのを、自分でも感じる。
レオ様はとても申し訳無さそうに目を伏せた。
「ごめん、オレは……別に用があるから。けど大丈夫、グレイももうあんなことしないって約束してくれたから。ね?」
「はい。申し訳ありませんでした」
無機質な謝罪が右から左へ抜けていった。
こんな……。
謝られても、不安は拭えない。信用もできない。
なのにどうしてこの人なの?
本当はそう叫びたかった。
でも陛下の身に何かが降りかかろうとしている、こんな非常時にわがままなんて――
今朝見た、陛下の嬉しそうな微笑みを思い出して苦しくなった。
陛下……っ。
言い知れぬ不安が表情に出ていたんだろう。レオ様の両手が私の頬を包んだ。金色の髪の間から、美しいサファイアブルーの双眸が目の前に見える。
「大丈夫、兄上は必ずオレが護ってみせる。絶対に」
信じるしかない。この決意に満ちた瞳を。
レオ様がそう言ってるんだから、きっと……きっと大丈夫よね。
「レオ様も、どうかご無事で」
そう言ってレオ様の背中へ手を回すと、彼もしっかりと抱き返してくれた。
けれどなぜだろう。
彼が一瞬、鼻で小さく笑ったような気がした。
あとがき
遅くなってすみません……--;




