st.Ⅵ The Kid
「Entschuldigen Sie, bitte! 申し訳ありませんン!」
恰幅のいい署長さんが、とてもおかしな格好で必死に頭を下げていた。私と陛下はソファーに座って床にひざまずく彼を見つめる。
ここの署長さんが普段どんな服を着ているのか知らないけれど、目の前の彼はタキシードに身を包んでいた。明らかにこの場にそぐわないその姿。テラテラと滑らかそうな黒の背広に、白いシャツ。黒い蝶ネクタイは少し曲がっていて、モーニングカットのパンツは彼の足の太さもあってかキチキチと今にもはち切れそうだった。
急いで用意したのか、何だかサイズが合ってなさそう。袖も短いし。
彼は両膝を立てて座り、大量の汗を額に滲ませていた。青いハンカチがしきりに顔を行き来する。その隙間から、ヴァラヴォルフ特有の色の瞳がやぼったい目蓋の下から垣間見えた。
少し古めかしくどこか騒然とした建物の、一番よい部屋と思われる一室に通されていた。けれど隅の観葉植物は少ししおれているし、ランプはクモの巣がたくさん張っている。そしてどこからか持ってきたらしい、汚れた短いカーペットをまるでお城のレッドカーペットのように敷きつめていた。
まさに急ごしらえの場。見栄えは決してよくはない。けれど彼らなりに歓迎しているんだろうと思うと何だかとても微笑ましかった。
「へ、陛下自らが隠密で町の視察にいらしているとは知らず、何たる無礼をっ!」
連行されてしまった伯爵さんを迎えに来たはいいけれど、王も全身黒づくめのかなり怪しげな格好をしていたこともあって、正体を隠したまま彼を連れ出せずこんな大事になってしまった。
王が顔を覆っていた布を取ったときの、周囲の驚きっぷりは尋常じゃなかった。怪しげな彼と私に対して、取調室でタバコをふかしながら高圧的に尋問していた刑事さんたちが一瞬で青ざめ、口をあんぐりと開けたまま随分長い間硬直していた。タバコの灰が毛むくじゃらの手の甲へ落っこちて焦げるまで。
――『い、い、急いで署長を呼んでまいります!』
と一人の刑事さんがすっ飛んで行って、上からギーギーガタガタという音が続いた後、ちぐはぐなタキシード姿の署長さんにこの部屋へ通されて今に至る。
王と普段から何ともなしに会話している、シュレイザーさんやレオ様のような貴族たちばかり見ていたからかしら。何だかすっかり忘れていた。
私の隣に座るこの人はこの国の頂点に君臨する人で、とても特別な人だってこと。
この国の人全てが彼を畏れ、子供から大人まで彼の名を知らないものはない。彼に関する本は何百冊とあって棚をいくつも占領し、学校では彼の成し遂げたことがテストに出る。他国の民すら彼の話題を酒場や食卓でもしきりに持ち出し、その功罪について熱く論議を繰り広げるという。
そんな人物がこんなところにいるんだから。
さっきまで読んでいた歴史書の人物が目の前に立っていたような衝撃だろう。
なら、この人の隣に座る私は一体どんな風に映っているのかしら。
今更だけど、もしかして私はとんでもない人に好かれてしまったんじゃ……。
「ああ、どうすれば」と署長さんがつぶやく。
署長さんたちに非があるわけではないけれど、“ヴァンパイア王国史上最も冷酷”と囁かれる王のお供を捕らえてしまったとあれば、解雇になるか首が落ちるかと真っ青になっていた。
当の王はさっきから目を閉じて腕と足を組み、ふんぞり返るように座ったまま何も喋らない。その沈黙がまた恐ろしさを生み出す。
彼がそんな態度なのはこの状況が面倒だからかしらとも思ったけれど、思い返せばこの人はいつもこうだったかもしれない。
笑わない、感情を出さない、そして何もかもを突き放したかのようにすごく冷たい。
おかげでこのあたり全体が戦々恐々と震えているかのように感じられた。隅の観葉植物ももっと萎びて見える。
「す、全ての責任は、この私……の部下であるダニエル・ゾイゼが全て被ります!」と隣で同じく両膝をつくダンさんの背中を叩いた。
「え? いやいや、そこは署長だろ。何でオレオンリーなんすか?」とダンさんは顔をしかめる。彼だけは普段どおりのようで、焦った様子もそれを堪えている様子も見られなかった。
「だ、だぁらっしゃい……! 下の監督はおみゃあさんに頼むと言うたでしょうが!」と小声で叫ぶ。
「だからそれもひっくるめたトップがあんただって」
「いっつも問題起こすおみゃあさんはともかく、ワシに何かあったら可哀想でしょう?」
「おいこの人、めちゃくちゃ自己中なんですけど」
私の視線に気づいた署長さんがオホンと咳払いをした。
「ほれ何ぞ陛下と姫君を楽しませる話を振りゃあ」と肘で彼を小突いた。
それにダンさんは肺にたまった空気を全て出し切るかのようなため息をついた。キッと王を見据える。
わざとらしく、
「女性を連れてのお忍び視察はどうでしたか、ヘ・イ・カ」
「ドゥアン!」
それに署長さんは、“任せた自分がバカだった”とばかりに頭を抱えて苦しげに身悶える。
王は長いまつげをゆっくりと上げるように目を開いた。漆黒の瞳でまっすぐダンさんを捉えた。
「随分とトゲのある言い方だな」と余裕たっぷりに返す。本当にいつもと雰囲気が違う。
「あれ、そう聞こえましたか。そんな気はなかったんですけどねー」
「彼女はカムフラージュに連れてきただけのことだ。フシダラなことでも想像していたのかヴァラヴォルフ」
「オレにはちゃんと名前がありますが」
「生憎大して能のない者の顔と名が覚えられんのだ」
「へぇ、ヴァンパイアにはそれほど能がおありに。ヒョロヒョロの体をされてるわりにすごいんだ。おっと失礼」
何だろう、このイヤミ合戦は――
王は小さく鼻で笑う。何もかも見透かしたように「そうか」と声を漏らすと、まるで相手を焦らして楽しむかのようにゆっくりと膝の上で肘をついた。
「ヴァンパイアに支配されているのがそれほど不服か。プライド“だけ”は高いようだからな、ヴァラヴォルフは。ああ、今のは集合体のことだ。もちろん君も含まれているが」
ダンさんのコメカミにピキッと青筋が浮かんだ。
「それはどういう意味なんすか」
「“それ”とは?」と王はとぼけながら革張りのソファーへもたれかかり、私の肩に手を回した。馴れ馴れしいそれに私はそっと彼から距離を置く。
「あれ陛下嫌がられてますよ」
敏感にそれに気づいたダンさんに指摘され、今度は王の顔が引きつった。
「照れているだけだ。なあソフィア」と私を見つめる。
「“ソフィア”」
確認するかのように、そしてどこか噛み締めるように彼は私の名前を口にした。それに王は私の肩にまわした手に力を入れる。ちょっと痛い。
「あ、あのダンさん、先ほどは危ないところをありがとうございました」と何とかこの場を和らげようと話を変えた。署長さんのハンカチなんて絞れそうなほどに湿ってるから。
「いや、助けられたのはオレの方だ……ソフィア」熱を込めたようにそう言う。
「私が?」
私はただヘルハウンドに追いかけられていただけなのに。
「ああ。けどもうあんな無茶はしないでくれ。たまたまいい方に転んだだけだ。危ないことはオレに任せればいい」
ダンさんの言うことは尤もだわ。ああいう場はプロに任せるべきよね。私はどうも夢中になると前が見えなくなるみたいだから。
「ま、そういう女は嫌いじゃないけど」
「え?」それはどういう……?
「オッホン!」と王が咳払いする。
「君は次期王妃に敬意も払えんのか」
「次期“王妃”?」
ダンさんが驚いたように瞠目する。決して次期王妃なんてことはないけれど、もしかすると私を使用人Aくらいに思ってなかったのかもしれない。それに彼の反応から察するに、王が以前婚約していた云々はどうやらまだ町には広がっていなかったらしい。私の処分が終わってからしようと思ってたのかしら。
うん……最低。
けれど王は「証拠を見せてやる」と自信満々な顔でこちらを見ると、覆いかぶさるように唇を寄せてきた。「あの……」とギリギリのところで彼の胸を押さえて距離を取った。ダンさんたちから見れば、私たちがキスをしているように見えるかもしれないけれど。
「な、何のパフォーマンスですかこれは」と小声で抗議した。
「もちろん君が私のものだというアピールだ」
「なぜ突然そんなことを。それにそもそも私は陛下のものではありません」
「いや、すでに私のものだ。それに国を支配し、さらには君のような女性とこんなこともし放題だと見せかけたほうがヤツにより一層の屈辱感を与えられるだろう」
「何ですかそれ、性格悪いですよ。や……ちょっと」
「焦らさないでくれ、ソフィア。君の香りで、このままではどうにかなりそうだ」とうっとりしながら悩ましげに眉をひそめる。変態的な発言なのに、それに心臓が少し跳ねてしてしまった。
「し、知り、あの……んんっ」
全ての抵抗を力でねじ伏せられ、強引に唇を重ねられた。しかも彼らに見えるようにわざわざ体の角度を変え、わざとらしく音まで立てて何度もついばんでくる。どうしたというの? 私までこんな風に巻き込んで。
名残惜しそうにそっと離れると王はチラリとダンさんたちの方を一瞥し、唇を噛み締めて悦に浸った。
私も気まずいと思いつつ二人の方を見ると、署長さんは肩をすぼめて軽く顔を伏せ、ダンさんは怒りに拳を震わせていた。やっぱり警察署でこんなことはダメよね。ごめんなさい。
「……陛下」と諌めるように軽く服を引っ張ると、王は“分かった”とばかりにため息をついた。
「いいから早く奴を連れてこい。私は忙しいんだ」と追い払うように手を払った。
「は、ははあ! ただいま!」
それに立場が上であるはずの署長さんが真っ先に部屋を飛び出した。たぶん一刻も早くここから出たかったんだろう。これまたサイズが合っていないらしく、真新しい革靴のかかとを踏みながら歩きにくそうにしながらも最高速度で出て行った。
王はまた目を閉じて何も言わなくなったけれど、残ったダンさんはさっきのやりとりもあってか目で射殺さんばかりに王を見ていた。
気まずい。
「あ、あの、ダンさん。一つお聞きしたいことがあったのですが」
そういえばあの小さな男の子のことを聞かなきゃと思い出した。
けれどちょうど話を切り出したそのとき、誰かが扉に突撃するように飛び込んできた。
「ダーニー。お弁当持ってきた!」
バスケットが浮いている! と思うくらいまだ小さく幼い男の子。茶色く柔らかそうな髪をかき分け、可愛らしい耳が二つ生えていた。
「ルッツ」とダンさんが振り返る。
「ダーニー、よしよしして」と男の子はバスケットをダンさんに渡すと、その腕にギュッと抱きつく。
「はいはい。Danke、ありがとな」
ダンさんは優しい手つきで男の子の頭を撫で、彼はそれに嬉しそうに微笑む。その見覚えのある顔にハッとした。
「そ、その子!」と思わず立ち上がった。
「え? ルッツのこと知ってる……知っておられるのですか?」
彼は途中でとてもわざとらしくそう言い直した。
そう、その子こそがずっと探していた男の子。ルッツ君っていうんだ。
けれど何と答えればよいのやら。“人間じゃないかと心配して探してた”なんてちょっと恥ずかしくて言いにくくて適当に笑って誤魔化した。
「ヴァラヴォルフだったんだ」と腰を落とすように座った。正直なんだか拍子抜け。結果的にはよかったんだけれど。
ルッツ君は私のつぶやきに反応するようにパッとこちらを振り仰ぐと、
「ううん、ぼく猫しゃんなの。にゃあ!」
小さな拳を突き出し、ルッツ君はキラキラした笑顔でそう言った。
か、可愛い……っ。
「バッカ! ルッツお前、仮にも誇り高きヴァラヴォルフの身で他族を語るんじゃねぇよ!」
「やだやだ、猫しゃんになるの。にゃあ」
「やめろっつってんだろが! ほら、耳も引っ込めろ!」
「にゃあにゃあ」
「うるさい!」
ダンさんの周りをそう言って走り回るルッツ君と、叱るダンさん。仲がよくてとても微笑ましい。
ルッツ君はこちらへ駆けてくると、ピョンと膝の上に飛び乗った。クリクリとした曇りの無い瞳で、
「僕ルッツ。お姉ちゃんNameは?」
ピコピコと耳を動かす。
ナーメ? 名前のことかな。
「ソフィア・クローズと言います。よろしくね」
「ソフィア、ソフィア!」
猫が甘えるように、ルッツ君はスリスリと胸に頬をよせてきた。
わぁ、ちっちゃくてかわいい!
思わずぎゅっと抱きしめた。それにルッツ君も嬉しそうに笑う。
「おい!」
王は突然ルッツ君の首根っこを掴むと、強引に私から奪い取って持ち上げた。少し不機嫌そうに眉をひそめる。何をそんなに怒ってるのかしら。
「僕ルッツ。Onkelは?」
プランとぶら下がりながら、ルッツ君は王にそう尋ねた。子供に怖いものなんてないらしい。
「この国に住みながら、私を知らんのか。それと私は“おじさん”ではなく“お兄さん”だ」
「お兄さん?」とルッツ君は王の顔をじっと見つめる。
「そうだ」
「んー……にゃあ!」
少し考えるようなそぶりを見せていたルッツ君は、勢いよく可愛いパンチを繰り出した。
「ぐ――っ」
それが運悪く王の鼻の辺りに直撃する。打ち所が悪かったんだろう、少し涙目になっていた。
「すいません、ソイツ意味が分からないこと言われると、そうやって誤魔化すんで」
「貴様はなぜ半笑いなんだ」
まださっきのいざこざを引きずっているみたい。
私より随分年上なのに、子供っぽいんだから。
「陛下ぁっ!」
それにビクリと肩が跳ね上がる。
帽子を脇に挟んだ若い警官が、極度なほどまっすぐ背筋を伸ばして佇んでいた。緊張からか、顔色もすごく悪くて帽子を持つ手もガタガタと震えていた。ノックも忘れていたみたいだし。
「ま、まっことに申し訳ござりませんがこちらへおいで願えませんでしょうでありましょうか! お連れ様がかなり情緒不安定になっておりまして、医務室に運ばれてからずずずずっと陛下をお呼びしているようですので」
「知ったことか。なぜ私が」
――「大王様ぁあ、大王様ぁああ」
どこからともなく聞こえてくる大きな声に、陛下は「ウッ」と声を詰まらせた。
「はあ、行ってくる」
そう言って私の頬にキスを落として立ち上がった。何だかんだで優しい。
「Onkelどこ行くの?」とルッツ君が王の足にまとわりつく。
「おじさんではないと言っているだろう」
「お菓子買いに行く?」
「行かんわ!」
陛下とお菓子……。なんだかちぐはぐな感じ。
「やった! お菓子、お菓子ぃ!」
「うるさい、行かんと言っているだろう!」
すっかり気に入られてる。それともお菓子に釣られただけ?
「おい、あれじゃあオレがお菓子やってないみたいじゃないか」
二人きりになると、ダンさんはやれやれと立ち上がって私の隣に座った。王よりも肩幅や胸板がある分、何だかすごく大きく感じる。
「弟さんですか?」
「いや、違う」
少し空気が変わった。ダンさんは物憂げな表情で手の中の警帽を見つめていた。
「アイツの両親は事件に巻き込まれて亡くなった。他に身よりもいないし、孤児院に連れて行こうとしたんだけど、妙になつかれてそれ以来オレが……。オレ、ガキは大っ嫌いなのに。うるさいし、まとわりついてくるし」と警帽を目深に被って顔を隠した。
嘘だなと思った。あの態度を見ていれば分かる。彼が本当はどんな人か。どんな思いを持ってルッツ君と接し、暮らしているのか。
「何笑ってんだよ」帽子を少し上げて銀色の瞳をのぞかせる。イタズラっ子のような表情だった。
「いいえ。あのダンさん、ひとつお願いしていいですか……」
気になる人が、もう一人いた。
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「リザ」
薄暗い取調べ室に一人、彼女が肘をついてふて腐れたように座っていた。私の姿を一瞥すると、体を起こしてわざとらしくため息をつく。ダンさんには席を外してもらって、彼女の向かい側に座った。
「リザ、今は何をしてるの?」
彼女はそれに答えようとはしなかった。
「あ、そ、そういえばあのコウモリは? 確かいつも一緒に――」
「うるさいわね! 知らないわよ!」
話を変えようとしたのも逆効果だったらしい。面倒くさそうに髪を乱す。どう見てもいい暮らしをしているようには見えない。
「リザ、もしあのことを本当に心から反省してくれるのなら」
それに彼女は気色ばんだ。バンッと私たちの間の机を叩く。
「アンタの同情なんかいらないわよ! 何様のつもり? あの時私が謝ってあげたからって、改心したとでも思った? 冗談じゃないわよ!」
「リザ……」
彼女はどうしていつもこうなんだろう。強気な態度に出ることで、何かを必死に守ろうとしているように見える。本当はとても繊細なんじゃないかって思った。
「そうだ、一つ面白いことを教えてあげるわ」
私のそんな考えは、彼女のその一言に打ち切られた。
「あんた、お兄さんがいたわよね。事故で亡くなったっていう」と半ば笑うようにそう言った。
「ええ……」
急に何? 嫌な予感がして妙な汗が掌からにじみ出てくる。
リザは動揺する私の反応を楽しむかのように、大きな瞳を私の頭の上からつま先まで流し見るように動かす。
何だっていうの? その意味深な笑みは何?
「私……」と口を開く。
廊下は王の出現からずっと騒然としていたのに、この部屋はやけにシンとしていた。ランプの周りを飛ぶハエの羽音が聞こえそうなほどに。
「あんたのお兄さんを殺した犯人知ってるわよ」
それに世界が止まった気がした。
世界中の時計の針や振り子が刻みを止めたように、大きな無音の空間が私を包んだように、この世にただ一人取り残されたような感覚に襲われた。それを振り払うかのようにネックレスを握る。
「何を言ってるの? お兄ちゃんは誰かに殺されたんじゃないわ」
「あんただってずっと不思議に思ってたんじゃないの? 本当に事故なんだろうかって」
リザは机に両手をつくと、腰を浮かせて私の方へゆっくりと近づいてくる。オレンジ色の明かりに照らされた彼女の唇は、濡れたように艶やかで妖艶に見えた。耳元にその唇を近づけ、まるで空気を押し出すかのように囁く。
「首筋にあったんじゃないの? 何かに噛まれたような赤い斑点が二つ」
「――!」
――『ソフィー、行ってくる。今日は早く帰ってくるからね』
頭を撫でてくれるお兄ちゃんの姿。いつもと同じ仕事へ行く背中を笑顔で見送った。
――『遅いよ、お兄ちゃん』
すっかり冷めた夕食を前に、それでも帰りをひたすらに待った。あの日は、お兄ちゃんの大好きなシチューだったのに。帰ってきたら文句を言って、それから仲良く食べようと思っていたのに。
――『ソフィー! ジェイが……ジェイがッ!』
近所のおじさんが血相を変えて飛び込んできた。
「誰?」
自分でも思った以上に低い声が出た。リザはじっと押し黙っている。顔は見えなかったけれど、息を殺して笑っているように感じた。
「一体、誰だっていうの?」
湧き上がってくるのは汚い感情。それは分かってた。分かっていたけど、抑えきれない。
「リザ! 誰だっていうの、ねえ!」
彼女の胸倉を掴んで激しく揺らした。
私からお兄ちゃんを奪ったのは誰? あんなに優しくて温かいものを私から奪ったのは誰? それに……それに犯人がいるというの? それをあなたが知っているというの?
「ねえ! リザ!」
ガタンと椅子が倒れ、大きな音が響く。異変に気づいたんだろう、ダンさんが駆け込んできた。
「おい、よせ!」と私の腕を掴む。
「リザ! 誰? リザ!」それでも諦めなかった。彼女へしつこく手を伸ばす。
「ソフィア!」
ダンさんは無理矢理彼女から私を引き離すと、その場に踏みとどまろうとする私の体を強引に引っ張って廊下へ連れ出した。すぐに別の警官が部屋に入って扉を閉める。
「ソフィア、どうした。何を言われたんだ」
分からない。
分からない!
分からない!
誰かがお兄ちゃんを? 違う、そんなことはありえない。少なくともヴァンパイアじゃないはず。ここにはブラッド法が、あの法律があるんだから!
違う! 絶対に違う!
「ダンさん、ブラッド法の違反者は厳しく取り締まられているんですよね。そうなんですよね?」
彼の制服を掴んで必死に問いかけた。教えて、本当のことを。違うと自分を説得するものが欲しい。お願い!
彼は申し訳無さそうに目を伏せた。
「あいにくそれに関しては、警察といえどヴァラヴォルフは一切関与できない。ヴァンパイア独自で決まりを作って、監視して、処罰している。今までどれだけの違反者がいるのか、適正に法が施行されているのかも知らない」
「“知らない”? どうしてですか! 警官なんでしょう!」
「悪い……」
ダンさんを責めたってダメ。こんなのただの八つ当たりだわ。
「いえ……すみません」と手を離した。何をやってるの? 額に手を当てた。こんなのきっとリザの思う壺だわ。彼女は私に仕返しをしたいだけよ。
「あんた人間だよな。純粋な」
そうポツリと言う彼を見上げた。
「向こうの生活から無理矢理引き離されて来たわけだ。本当は帰りたいんだろう?」
それに少し冷静になった。彼は一体何が言いたいの?
手をぎゅっと握られる。王のように傷一つ無い白く繊細な指ではなく、無骨で節くれだった大きな手だった。けれどまるで彼の中の情熱をあらわしているかのように熱い。
「悪いことは言わない。やめたほうがいい」
“やめたほうがいい”って何を?
彼のシルバーの瞳をじっと見つめる。まるで鏡のように、情けない私の顔が映っていた。
「人間はヴァンパイアの傍にいないほうがいい」
「――!」
はっきりとそう言い切るダンさんに、私は返す言葉を失った。
「見せてやるよ、来い」
混乱する私の手を引いて、彼は薄暗い廊下の奥へと歩を進めて行った。
あとがき
王の前でソフィアを口説く猛者ダンと、また事態を引っ掻き回すリザ。
【本文中の独語】
・Entschuldigen Sie, bitte[エントシュルディゲン シエ ビッテ]:申し訳ありません
・Danke[ダンケ]:ありがとう
・Name[ナーメ]:名前
・Onkel[オンケル]:おじさん
【本文中の名古屋弁】
・合ってるのか分かりません(笑)