st.ⅩⅩⅥ The Friend
「ああ、やだやだ! 何でまたこの子ばっかり嫌な目に遭うんだろうねぇ」
ミセスグリーンは小さな頭を抱えながら、うろうろとテーブルの上を歩き回った。あの件について話すと、彼女はあんぐりと口を開けた後、すぐに頭痛を覚えたかのように頭に手をやった。
「何が匿名のナイトだよ、寒いこと言ってんじゃないよ! 全く」
ビシッと指差された先にいたナイト様、いえ伯爵さんは、怯えたように体を震わせた。
「けれどミセス毛むくじゃら。僕はソフィーちゃんの為を思って――」
「誰が毛むくじゃらだい!」
私は紅茶に口をつけながら、向かい側に座る伯爵さんとミセスグリーンとの攻防に肩を震わせていた。言い争ってる割にすごく仲が良さそうでとても微笑ましい。ミセスグリーンにとっても、少しできの悪い息子を叱りつけている感覚なんだろう。
そんな彼らから視線を外し、ふとキャビネットの上を見た。ここへ来た当初はそこに布でカバーされた絵がかけられていたけれど、ある日突然それは無くなっていた。真っ白な壁がやけに際立っている。専属メイドのミントさんにも聞いてみたけれど、彼女も知らないって。
何だったんだろう。
どこか部屋全体が寂しくなってしまったみたい。あのカバーの下には一体、何があったのか。私はそれがとても気になっていた。
「それよりアンタ、また勝手に後宮内に入ってきたのかい?」
「うん。ソフィーちゃんにお詫びをしようと思って……」
伯爵さんは悲痛な面持ちで、唇を噛み締めた。そっか。記憶がないけれど、私はどうやらレオ様に助けられたらしい。それで無傷だったとはいえ、彼なりに気にしてくれていたんだ。
「で、こうして僕のポストカードを持参してきた次第さ」
さまざまなポーズ(バラをくわえたり、楽器を演奏していたり、半裸もある)のポストカードたちをテーブルにぎっしりと並べ始めた。
「さあ、どれでも好きなだけもらってくれたまえ」
得意げに両手を広げ、暗闇でもキラリと浮かびそうなほどに白い歯を見せつける。
い、いらない……。
ミセスグリーンもまるでそれが汚いものかのように、踏まないよう慎重にテーブルからおりて行った。
****
「結局一枚もらってしまった」
バラをくわえ、ウインクする伯爵さんのポストカードを見つめながら魔文学の授業を終えて教室を出た。いらないとは言いにくかったし、あの中ではこれが一番無難そうだった。ギリギリショットなんてもってのほか(やけに勧められたけれど)。あんなにたくさん自作のポストカードを作って需要はあるのかしら、なんて余計なことを考える。お金持ちのすることってイマイチ分からないわ。
突然ドンと肩に衝撃が走った。誰かにぶつかってしまったらしい。
「ったいわね!」
同じファーストクラスの女性が私を鋭くにらみつけた。でもぶつかった相手が私だと分かると、顔を凍りつかせて笑顔を取り繕う。
「あ、あら、ごめんあそばせ。ぼうっとしていたものですから、おほほほ!」
私が何か言おうとする前に、そそくさとその場を離れていった。周りの子たちは遠巻きに私を見ながら何か話している。いつものこと。何か悪いことをしたわけでもないのに、すごく居心地が悪かった。
ここへ移ってきた時から、私はまるでここのボスのように恐れられていた。理由は一つ、リザとのことがあったから。貴族とのつながりが強いからなのか、それともリザの性格をよく分かっているからか、どうやら何となく真実を察しているらしい。だからこそ自分たちのことも王に告げ口されて、ひどい目に遭うんじゃないかって怖がってる。皆そんな態度だから飽き飽きしていた。もっと普通に接してほしい。
ああ、友達ってこんなに作るのが難しかったっけ。口から出るのはため息ばかりだった。
「あら、ソフィー?」
はりのある声に振り返った。
そこには見覚えのある、ブルネットの髪にそばかすの女の子がいた。彼女は確か乗馬場で話しかけられた――
「アリス」
「よかった! あなたもファーストに移ってたのね?」
重そうな箱を持ちなおしてかけ寄ってくる。
「あの馬のこと、大丈夫だった? みんなすごく心配していたわ」
そう、スレイプニールが暴走して危うく崖から落ちかけた。
「ええ、陛下が助けてくださったから」
闇のように深い瞳をこちらに向けて、彼はとても必死になって私を助けてくれた。
けれど、そんなあの人の手を私は……。そのことを思い出すと、胸がズキッとする。
「そ、それよりアリスもファーストに?」
彼女は肩をすくめてニッと笑った。
「そうなの。それもセカンドを飛び越えていきなりよ? びっくりでしょ」
彼女がそう言うのも無理はないこと。普通はファーストクラスへ移される前に、セカンドで様子を見られた。成績とか先生たちの評判、あとは王に気に入ってもらえるような趣味があるかどうかとか。私は王が裏で糸を引いていたからともかく、サードからいきなりこちらへなんて、すごく有望視されているんだわ。
「それが聞いて驚かないで。私を支援してくれる貴族なんだけど、ものすごく高齢のおじいちゃんなの。それで私が何百年か前に亡くなった奥さんに似ていて、可哀想だから支援してあげるですって。別に正室になれなくていいからのんびり暮らしなさいって、これってとってもラッキーじゃない?」
「本当?」
そんなことがあるんだ。けれどアリスはきっととても優しくてまっすぐな子なんだと思う。だからきっとそんな幸運にも恵まれたんだわ。
ん、あれ……じゃあ私はなぜ色々ひどい目に。
「はあ……」
「どうしたの、ソフィー?」
「あ、ううん。もしかして今から部屋へ?」
引越しを手伝う申し出をすると、彼女は目を輝かせて喜んでくれた。
****
「やっぱりファーストクラスともなると、出される食事も違うのね! 朝食なのにスープからデザートのコースになってるなんて」
「メニューの中にホールのケーキなんてのもあったわ」
「すごい、お腹がぶ~よぶよになって陛下が寄り付かなくなりそう!」
二人で笑い合いながら、天井の高い立派な廊下を歩く。ときどきゴーストさんがせわしなく洗濯物を運んだり、ほうきで丁寧に掃除をしている横を通り過ぎていった。
「えっと、三階のリリーの間だから……ここだわ!」
部屋にはそれぞれ花の名前がついていた。私のところはローズ。白い扉にはそれをモチーフにした絵が描かれていて、闇の生き物であるヴァンパイアにしてはとてもセンスがいい。悪魔の名前とかだったら嫌だものね。“サタンの間”とか。ノックするのが恐ろしいもの。
「……何、これ」
ファーストクラス名物の美しい扉の前で、私たちは立ち尽くした。
「ひどい」
扉の前には虫の死骸やゴミが散乱していて、とても中に入れる状況ではなかった。“手荒い歓迎”というやつらしいと確信した。
「アリス、気にしないでこんなの――」
「あらあら大変ねぇ」
ピンク色の扇を持った女性三人が、汚いものを見るかのようにアリスを見る。フリルの愛らしいドレスには似合わないほど、目を細めイジワルに笑っていた。
「早く片付けてくださらない? 目障りでしかたないわ」
リザだけじゃない。ここにはこういう嫌がらせを楽しむような輩がたくさんいた。王に近く、正室争いを近いところで行っているクラスだからこそ余計に。今から思えば、王がまるで有名舞台俳優のような憧れの存在と言う認識でしかないサードクラスは、比較的平和だった。
けれど彼女らは私に気づくなり、ギョッとして頬をひきつらせた。
「お、お可哀想に。誰がこんなひどいことしたのかしらね」
「全くよ。ひ、酷いわ。おほおほ」
白々しい。
「アリス、気にしないほうがいいわ」
励まそうと彼女を見ると、彼女は俯いて肩を震わせていた。
当然だわ、来て早々こんな仕打ちに遭うなんて。
「アリス、一緒に片付けよう?」
「っく……くくくくく」
ん? あれ、泣いてない? というか笑ってる?
彼女はガバッと顔を上げ、
「おーっほほほほほ! 望むところよ! 燃える、燃えたぎるわ! 私の中の熱き闘魂が!」
え、何……。闘、え?
「人生負けたら終わり! 負けたら終わりなのよ! 食事だって早い者勝ち! 最後に残ったものはたとえ野菜のかけらだろうと確実にアタイがいただく!」
あ、アタイ? 何、彼女の中で一体何が覚醒してしまったの!
アリスはドンと持っていた荷物を下ろすと、ワシッと両手に虫の死骸を掴んで彼女らに投げつけ始めた。
「きゃああ! あんたバカじゃないの!」
「やめなさいよ!」
逃げ回る彼女らを笑いながら追い掛け回す。見ようによってはとっても恐ろしい光景だった。
「ほーらほらほら! どうした! かかってこいよ、メス豚ども! はははは!」
「きゃああああ!」
「いやああ!」
「……」
廊下中に響き渡る悲鳴。
こ、これは私も参戦すべき? でも虫をわし掴みというのは、結構勇気が。
落ちているグロテスクなそれらをそっと見下ろし、背筋がぞぞっとした。
「何だ、ナヨナヨしてやりがいのない奴らだぜ。もっとガッツのあるのはいないのか、全く」
まごまごしているうちに、三人とも泣きじゃくりながら一目散に逃げ帰ってしまったらしい。まあ、私が彼女たちでもそうするけれど。
「あの、アリス……」
おずおずと声をかける。まさかこちらにも投げつけてこないかしらとちょっぴり心配した。
「え? あ、ごめんねソフィーびっくりした? 私男ばっかりの孤児院で育ったから、逞しくなっちゃって。虫とか全然平気なの! 牛の糞の投げ合いもしたことあるのよ。これがもう、洗っても洗っても臭いがとれなくって!」
「へ、へぇ……左様でございますか」
カラカラと笑う彼女に、返す言葉が見つからない。というか、言葉遣いもかなり違う。“のよ”や“だわ”なんていうのは、ここへ連れて来られてから修正させられたんだろう。
「もう、あの子たちのせいで仕事が増えちゃったわ。今度見かけたらケツ……尻を思いっきり蹴り上げてやる!」
アリスは散らかしたものを一つ一つ、丁寧に拾い始めた。
「お掃除係の人を呼ぼうか?」
「いいえ、私が散らかしたんだもの、私が片付けなきゃ。平気、これくらいいつものことだから、フフ」
「アリス……」
はにかんだような笑みに、ホッとなごんだ。スイッチが入るとちょっと怖いけれど、心根がまっすぐなことには変わりないんだわ。自分のやることに自らきちんと責任を取れるなんて、なかなかできることじゃない。
「アリス、私も手伝うわ」
彼女を見ていると、自然とそんな言葉がこぼれ出た。
***
「ごめんね、ソフィー。片づけを手伝わせちゃって」
片づけの際、直接触りたくなくて伯爵さんのポストカードを使って掃除してしまったことは本人には絶対に言えない(しかもそのあとゴミ箱へ)。
「いいの、手が空いてたんだもん」
アレを片づけてすぐ紅茶を飲むのは気が引けたけれど、折角彼女が入れてくれたものだから。そう思って口にしたけど、とても美味しくてびっくりする。ミントさんと気が合うかもしれないと思った。
アリスは向かいの席で肘をつきながら、
「ああ、あなたっていい子ね。さすが陛下にお目をかけられただけあるわ」
「そんな……ことは」
もう会わないと約束したとは言えなかった。あの人とはもう半月も会っていない。謝ったら許してくれるのかしら。「今更何だ」って言われるかな。
「その指輪も陛下から?」
「う、うん」
あの時、払い落としてしまった指輪を必死に探した。キャビネットの下にまで転がっていたそれを見つけたときは、どれだけ安堵したか。もう無くさないようにネックレスのチェーンに指輪を通して、首から下げていた。
「見せて、見せて!」
「いいよ」
首から外して彼女に渡す。光の当たり具合によって色を変える、本当に美しい指輪だった。
「わぁ重い、さすがね。質に入れたらいくらになるかしら」
ムフフとアリスの目がギラリと輝く。一体人間界でどんな生活を送っていたのかと少し心配になった。
「あれ、ねぇソフィー、これはどういう意味?」
指輪の内側の文字に彼女は目を留めたらしい。じっと目をこらしていた。何か書いてあるの? 指輪を見つけたことが嬉しくて、そこまで見てなかった。
「そこにはなんて?」
「日付の後に“Thank you, L to S”って書いてあるわ」
“Thank you, L to S”?
「ソフィーがもらったものなんだから、Sはソフィーのことだろうけど、Lって誰かしら? 陛下は“Z”でしょう? ま、まさかレオナルド公爵様?」
「Louise」
ポロリと口からその名前が出た。あの美しい髪と瞳のあの女性。
「ルイーズ様って、ええっと確か、陛下のお母様の?」
アリスはワケがわからず驚きに目をまん丸にしていた。しまった、余計なことを。
「ま、また多分別の意味があるのよ、きっと。”Love”とか……」
「え、何? ”Lav”(トイレ)?」
それがおかしくて二人とも吹きだし、話題がそれてしまった。
「いいなぁ、ソフィー。こんなに高そうなもの貰って」
「でも返さなきゃ」
「え、どうして? せっかく貢いでいただいたのに」
不思議そうに首をかしげる。けれど私は結局彼女にその理由を話すことができなかった。私にはそれを貰う資格なんてないんだってこと。
大きな罪悪感に押し流されそうだったから。
***
「ええ、今日は本っ当に楽しかったわ、ソフィー。ありがとう!」
「私も。また授業で会いましょう」
彼女の部屋を出て、寂しい廊下を歩いて部屋に戻る。誰かと話していると気が紛れるけど、一人になるとあの人のことを思い出して少し憂鬱になった。
「どうしようこれ」
掌に乗った指輪を眺めながら、ふうとため息をついた。王はもう私の前に現れないって言ってるんだから、向こうからくることはない。私から会いに行くにも、どうすればいいのか。
いいえ、本当は私が「会いたい」と一言言えば、きっとあちらは何かしらのアクションを起こしてくれるはず。私は恐れているんだわ、あの人にはねつけられるのを。
傷つけた相手に謝るって、こんなにも怖いことだったのね。
――『すまない、ソフィア』
もっとあの人の言葉をきちんと聞けばよかった。
その瞬間、誰もいない広い廊下の明かりが前も後ろも全て落ちた。
何かしら? 辺りが一瞬にして真っ暗になる。
「どうしたの」
暗闇で突然声をかけられ、驚いた拍子に指輪を落とした。それはコロコロと転がって、声をかけた主の靴で止まる。
「レオ様」
窓から差し込む月明かりに照らし出されたのは彼だった。闇夜に青の瞳が、まるで夜空に輝く星のように妖しく輝いて浮かんでいる。
彼は緩慢な動作で足元の指輪を拾い上げると、
「これ、兄上からもらったの?」
「は、はい。でも返そうと思っ――」
「ならオレから返しておいてあげるよ」
私の言葉に被せるように、彼は指輪をポケットにしまいこんだ。
「あ、でも私が直接……あの」
壁際へ追いやられ、両手の間に閉じ込められた。にっこりと笑いながら見下ろされる。
「っ……」
手で首筋に触れられ、思わず顔を背けた。それでも彼はゆっくりと、手を肩よりも下へとなぞっていく。暗闇の中で、緊張ぎみに震える自分の息遣いがやけに大きく聞こえた。彼の手の感触も鮮明に感じ取れた。背中の冷たい壁とは対照的に、体が熱くなっていく。
「あ、あの――」
「オレも君に渡したいものがあるんだ。オレのは返さないでくれるよね」
なぜか、今日の彼はとても怖かった。多分、口元には天使のような微笑が浮かんでいるのに、目が少しも笑っていないからだと思う。小さな光が瞳の奥でぎらついていた。
今度はゆっくり首筋に唇を近づけられ、何度も音を立てて優しく口づけられた。それに自然と鳥肌が立つ。
「あ、の……っ」
「受け取ってくれるよね?」
受け取とるって、
「何を、ですか」
黒い雲がゆっくりと月を覆い隠していく。それなのに、首筋から顔を上げた彼の目は少しもかげりを見せなかった。
「決まってるじゃない」
そっと内ポケットへと手を入れた。その間も私から一切目を離さず、まるで反応を楽しんでいるかのように笑っていた。
何? 何を受け取れと言うの? 思わず唾液を飲み込んだ。
スッと黒いものが見えた。
「じゃーん! パーティーの招待状でした!」
目の前にそれを突き出され、目を丸くする。
そこには確かにInvitationと白い文字が躍っていた。
な、何だ……。
「びっくりした?」
招待状を少し横へやり、彼がその向こうから顔をのぞかせる。整った顔に、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。
それと同時に廊下もパッと明るくなって胸をなで下ろす。
よかった。
「わざわざ、ありがとうございます」
招待状を受け取りながら「来られるでしょう?」と聞かれ、「はい」と頷いた。
「何のパーティーなんですか?」
「うん。名目上は異国との懇親会だけど、事実上は――」
レオ様は笑顔をすっと引っ込め、どこか硬い表情で、
「兄上の婚前パーティーだよ」
「――え?」
それに耳を疑った。