st.ⅩⅩⅣ The Same Mistake
心地よい霞の中、私の唇にグラスの端が当たった。きっと高級だろうそのグラスはやけに手に馴染む。
なぜかしら。“早くこの中身を飲み干さなきゃ”という思いと“飲んではダメ”という思いがぐるぐると交錯している。“飲んじゃいけない”という方が正しいような気がしているのに、手が勝手に動いて自分の意思ではどうしようもなかった。まるでマリオネットにでもなったよう。
ワインレッドの真っ赤な液体に唇が濡れる。
その直前、薄氷を踏むかのような音がしたかと思うと、持っていたグラスがバリンと割れた。それに呼応するかのように、突然目の前がクリアになる。
布団の中でまどろんでいた最中に、いきなり体を引き起こされたように。
「あれ……私」
何が何だか分からないままに何か持っているらしい自分の手を見ると、グラスの上半分が無くなっていた。足元に散らばる赤や透明のガラス玉から察するに、どうやら何かの術で変化したらしい。
あれ、何これ? 何でこんなもの持ってるんだっけ。
「水臭いなぁ、ロキ。結婚式に幼馴染を呼んでくれないわけ?」
入り口に佇む人の発した言葉に、記憶が戻った。そうだ私、結婚を――
「れ、れ、レオ君!」
不敵な笑み(というより怒りすぎて笑っているような表情)を浮かべるレオ様に、伯爵さんはガタガタと震え始めた。
「ごご、ご、ご、ごめん! ゴメンね! 支援してる子がどんな子か気になって見に行ったら、あんまりキュートだったから。お願い、謝るから大王様には言わないでぇ!」
「兄上も知ってるに決まってるだろうが! このアホロン毛!」
美しいまでに見事なとび蹴りを鼻に食らわされ、彼の体は壁にまで吹き飛んでめり込んだ。
レオ“君”? “大王様”? あれ、伯爵さんついさっきまで“ザルク”とか言って呼び捨てにしてなかったっけ。しかも王と同い年ならレオ様の方が年下のはずなのに、何だろうこの力の差。
「ぐほぉっ! ぐはあっ! れ、レオくん……」
「……」
馬乗りにされ、ボコボコにされる哀れなナイト様の姿があった。レ、レオ様、それ以上やると……。
伯爵さんは鼻から血を流しながら白目をむいていて目も当てられない。
一応止めないととグラスの下半分を台の上へ置こうとした瞬間、カシャンと何かを落としてしまった。
いけない、拾わなきゃ。
青白く光る謎の小さなピラミッドへ手を伸ばした瞬間、「ソフィア! それに触っちゃダメだ!」
「え?」
指先が触れた瞬間、まるで巨大な吸引機のような大きなつむじ風が巻き起こり、真っ青な光に包まれて何も見えなくなった。体が強力な磁石のようにピラミッドへ吸い寄せられ、踏ん張ろうにも風で足が浮く。
「きゃあああああっ!」
「ソフィア!」
目の前の世界が高速で回転し、竜巻の中へ放り込まれたかのように頭の中がかき混ぜられて気分が悪くなる。
レオ様の叫びを後ろに聞きながら、何もできないまま、体が激しい風と共に飲み込まれていった。
***
「いたたた。ここは……どこ」
土の香りを感じながら、気だるい体を起こした。パンパンとドレスについた汚れを払う。真っ白な霧に包まれた周囲は、夜ほどの暗さはなく、どちらかといえばどんよりと曇ったような明るさだった。でもいつもは真っ暗だから、明かりなしで周りが見えるなんて珍しい。
も、もしかして、人間界に戻ってこられたのかしら。
嬉しいながらも、少し肌寒さを感じて腕をさする。霧が深すぎて何も見えない。森の中のようだけど。
「あの、誰かいませんか。すみませーん」
あたりは鳥の声も水のせせらぎも聞こえないほどに静かだった。本当に不気味なくらい。
どうしよう。人間界に戻ったはいいけれど、もしかしてこれは遭難? 早く誰かに助けを求めなきゃ。
「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんか!」
ミストをかき分けながら呼びかけた。心配がぐるぐるとうずまき、不安が心をじわじわと冷やす。その時、後ろからぬっと人影が伸びた。
よかった、誰かいた!
「あの、すみま――」
血の気が、一瞬で引いた。影ははっきりと人の形をしていたのに、振り返ったそこにいたのは人ではなかった。
「何、これ」
鹿? それとも鳥?
ナイフのように鋭利な角、真っ青な躯、巨大な羽、カッと見開かれた真っ赤な瞳。目が合った瞬間、瞳孔がギュッと萎縮した。
ゆっくりと開いた口から“ぐぁぁぁぁぁぁぁ”とうめき声を漏らし、気味の悪い唾液を滴らせていた。それがひどい腐敗臭を放って鼻が取れそうに匂う。狼が唸るように歯茎を見せ、同時に何百本もあるサメのような牙が見えた。
心臓がドッドッドッドと波打つ。全身から汗がにじみ、喉が干上がった。
草を踏む音が後ろにもたくさん聞こえ、周りを取り囲むように次々と同じ姿の怪物が集まってくる。 人間界じゃなかった。
怖い。逃げなきゃ……。
そう思うのに、足が震えて一歩も動かない。化け物たちは走り出す前の猛牛のようにひづめで土をかき始め、頭をゆっくりと下げた。首をポキポキと鳴らしながら羽を大きく上下させ、こまかい砂を舞い上げる。尖った角の先が、私の体をえぐろうと狙いを定めるように向けられていた。
逃げなきゃ……逃げなきゃ!
震える足を必死で動そうとしているのに、まるで自分の足じゃないみたいに動かない。怖さと情けなさで涙が溢れ出てきた。歯がカタカタと音を立てる。怯えて泣いてる場合なんかじゃないのに。
怪物は一瞬ドッと強く地を蹴ったかと思うと、翼を使い、風を切って頭から猛スピードで突っ込んできた。ギラリと光る角が突き立てられようと迫る。
「きゃああああああああ!」
足から力がぬけ、地面にしりもちをついた、そのわずか上をザァッと通り過ぎていく。バサバサと翼とはためかせ、方向転換して赤い目で私をギロリと見据えた。同じような目が霧の向こうにたくさん浮かび上がっている。
分かった。
危険生物の授業で習ったことがある、“ペリュトン”だわ。彼らには自分の影がなく、光が当たると人の影ができてしまう怪鳥だって教わった。自分の影を取り戻すには、人間を殺してその血に体を浸すことだって。だから影の持たない彼らは人を襲うのだと。
人間の武器で彼らを殺すことはできず、群れで行動するかなり危険な生物だったはず。
私に対処法なんてない。逃げなきゃ!
荒い呼吸のまま、もつれそうになる足を必死に動かして逃げた。動いて、お願いだから動いてッ!
後ろからするひづめの音に恐怖心を掻き立てられながら、ガクガクとする足で必死に走った。途中ドッと石に引っかかってバランスを崩し地面に滑り込む。擦れて掌に焼けるような痛みが走った。
逃げなきゃ!
急いで体を起こしたそのすぐ前には、赤い目の怪物が牙をむいていた。後ろからもゆっくりと足音が響いて止まる。
囲まれた。
何か脅せるようなものは? 逃げ道は? 周りにあるのは小さな石や木の枝だけ。逃げ道もない。 木々を揺らすかのように怪物たちがひときわ大きく鳴いたその時、
「こっちよ」
茂みの中から現れた手に急に腕を引っ張られ、痛いくらいの強さで引っぱられた。
な、何?
彼女に引かれたままよろよろとその場から離れ、霧の中へ姿をくらますように逃げ込んで大きな岩の陰へ身を潜めた。
「大丈夫?」
息が不自然に乱れ、心臓の鼓動が髪を揺らすよう。
「は……い」
何とかそう言って顔を上げた先の女性は、息を呑むほどにきれいな人だった。長く指どおりのよさそうな髪は黒い滝のようで、美しい双眸はまるで黒曜石のようだった。あれ、私どこかでこの人と会ったことのあるような――
「すぐに助けに来るわ、安心して」
彼女に力強く励まされ、何とか落ち着こうと何度も頷いた。
「私はルイーズ、あなたは」
「ソ、ソフィアです」
「そう、ソフィアちゃんね。大丈夫よ」
彼女はふと左手をお腹にあて、そこで初めて彼女のお腹が大きいことに気づいた。赤ちゃんがいるんだ。
“ウィァアアアアアアアアアア”と喉から出るような甲高い声がすぐそばで聞こえる。体がそれに凍りついた。
探してる、私たちを。
ガサガサと雑草をあさる音があちこちで聞こえ、それは徐々に近づいてくる。これじゃ見つかるのも時間の問題だわ――
「大丈夫、大丈夫よ。すぐに“陛下”が来てくれる」
そう抱きしめてくれるルイーズさんの手も震えていた。
しっかりしなきゃ。誰かに甘えて助けられてばかりじゃダメ!
「ルイーズさんはここにいてください」
「え?」
彼女は目を丸くし、怪訝な顔で私をじっと見つめた。
「助けてくれてありがとうございました。もう私は大丈夫ですから、あなたはここに隠れていてください」
「ダメよ、何をする気? すぐに助けがくるから落ちついて!」
土を踏む足音が、すぐそこまで迫っていた。
「ありがとうございます。でも、赤ちゃんまで巻き添いにはできない」
「あなた……待って!」
彼女が止めるのも聞かず、私は岩の陰からガクガクと頼りない足でダッと飛び出し、力の限り地面を蹴って走った。
背中に冷たい視線が一斉に突き刺さり、急いだような足音が迫ってくる。
どこか! どこか隠れられるところ!
後ろから迫る羽音やひづめの音が、まるで死神の足音のように聞こえた。
もう、だめ……。
そばの木の根元に空洞を見つけ、慌ててお腹から滑り込むように中へ入った。そのすぐ後ろで歯の当たるガキンという音が聞こえる。
膝をすりむいてもそんなことに構ってられない。迫りくる鋭い牙に急いで足を中へ引き入れた。
追いかけてきた怪物も中へ入ろうとしたけれど、角が引っかかって入ってこられない。真っ赤な目がこちらを見つめ、それは“まだ諦めてはいない”と言っていた。
口元を穴の中へ押し込み、鋭い牙を見せて私の足を捉えようと噛み付いてきた。大きくはないその穴の奥に張り付きながら、「だめぇ!」と死に物狂いで足を引っ込める。すぐ傍まで迫るその醜い巨大な顔が、勢いをつけて何度も出入りを繰り返した。
「やめて……お願いだからっ」
体に飛び散る緑色の唾液をぬぐうこともなく、私はただ身を縮めるしかなかった。
助けて。
お願い、誰か助けて!
――『ソフィア、私を信じてくれ。ひどく傷つけてしまった分、今度こそは君を護ると誓うから』
え?
あの人の言葉が脳裏をよぎった。温かな手の感触を思い出す。
どうして? 約束も償いもいらないと言ったのは私なのに、なぜ今更あの人の誓いを思い出すの。
彼らの草木を揺さぶるような咆哮が森に轟く。久しぶりに浴びる血に歓喜しているのかもしれない。 顔を突っ込んできた怪物の歯が、スカートの端に引っかかってガクンとバランスが崩れた。布の裂ける音と引きずられる音が不気味に混ざり合う。
「いやあああああああ!」
一息に穴の中から引きずり出されそうになり、懸命に暴れた。その拍子に足が怪物の顔に当たってひるんだ隙に、急いで穴の中へ戻る。怪物は忌々しそうに空気を裂くような声で鳴くと、今度は木に向かって体当たりを始めた。
ドォンドォンという不気味な音と一緒に、木屑が頭の上から降ってきて息ができなくなる。メキメキメキメキと幹が軋みだし、根が徐々に土から飛び出してきた。土の香りがムッと広がる。
お願い、もうやめて!
恐ろしさのあまり、耳を塞いで目を閉じた。
――『大丈夫よ、すぐに陛下が来てくれる』
“陛下”? 陛下ってあの陛下?
あのルイーズさんという女性は一体……。
名前に聞き覚えがある。それに濡羽のように黒い髪、黒曜石のような瞳、美しい面立ち。
まさか――!
あの時、王に差し出された指輪を思い出した。あのこの世のものとは思えないほどに美しい輝きを放っていたあの指輪。
お腹を撫でる彼女の薬指にも。
「あ、あの人は……まさか王の」
何が何だか分からない。私は過去へ飛ばされたとでもいうの?
教科書で彼の両親はすでに亡くなったと習った覚えがある。もしそうならあの指輪は、お母様の遺した……?
そんな大事なものを私にくれようとしたの? 結婚を約束していたリザにはあげなかったのに、どうして。
――『そ、それに元々私は……』
――『お、お望みもなにも男女のことなのだから、どうなるか分からんだろう』
――『ソ、ソフィア、あの時は勢いで言ってしまったが、やはりきちんと言う。じ、実は、その、は、初めて会ったあのときから私は、ずっと君を』
彼の、はにかんだような表情が浮かんでは消える。
嘘よ。ならなぜリザと婚約したの? 彼女を愛していたんでしょう? だから彼女の手を傷つけた私をあそこまで憎悪した。
けれど。
彼はあのことをずっと償いたいと言っていた。罰を与えて欲しいと言っていた。過ちを胸に刻みつけていてくれると言っていた。眉をひそめ瞳を閉じ、いつだって素直に謝ってくれていた。
でもそんなの、初めから私を信じてくれていれば。声を聞いてくれていれば。
あれ。
どうして彼は牢に描いた壁画を見て、私が犯人ではないと分かったの。
コンテストに出した絵とあれが同じ雰囲気だったから?
その絵のサインがリザのものだったから?
それで彼女が嘘をついていると?
それだけのことで?
それじゃあなんだか、彼にとってあの月の絵がすごく重要みたい。それとも絵の書き手かしら。その絵を描いたと思っていたリザと婚約までしていたし。
“月の絵”?
――『ほう、上手いものだな』
さっきまで聞こえていた木の割れる音も、むせるような土の匂いも感じなくなった。
あの日の記憶が鮮明に甦る。
あの人を最初に見たときの衝撃を思い出す。キレイだった。月明かりの下の彼はとても。
もしかしてあの人は、私を探していたの? あの時シーツを被っていて顔も見えず、名前を言う前に逃げ出してしまった私を。
私、うぬぼれてる?
――『“初めて会ったあのとき”から私は』
けれどそう考えれば、全てつじつまが合う気がした。あの後に続くだろう言葉も察しがつく。
だったら彼は、彼は本気で。
――『帰ってください。今すぐ』
私の冷たい物言いが甦る。彼の言葉を遮り、拒絶し、指輪を叩き落とした。あの人がどんな思いであれを差し出したのか。私に渡す決意をしたのか。プロポーズの言葉だって一生懸命考えていたかもしれない。あの花束だって自分で選んだものかもしれない。
いいえ、あれだけじゃない。彼は私が床に伏せているときも、ずっと。
あの指輪だって花束だって言葉だって、彼にとって大事なものだったのに、私は自分の感情を優先させて冷たく払いのけた。
あの時、王は目を見開き、私の顔を見つめたまま硬直していた。唇だって震えていた。
ひどく傷つけてしまったに違いない、その心を。
――『ザルクはとても気の毒だと思うよ。小さい頃から大国の王というスーパービッグな責任を負わされ、過ちを犯すことも、弱音を吐くことも、欲しいものを欲しいと言うことも、したいことをすることも許されなかったから』
――『分からないんだ。どうすれば君に償えるのか。その傷を癒せるのか。レ、レオとのことを認めれば……君は幸せか?』
――『すまない、ソフィア。……すまない』
私は一体、あの人の何を見ていたんだろう。少なくとも私の前では、彼は“王”じゃなかった。
償い方が分からないと膝を折って苦しみ、すまないと何度も自分の過ちを認めて謝っていた。
――『もし君にまた何かあったら、私はこのさき生きては行けん』
――『愛のない結婚などしない』
心が締めつけられるように痛い。
熱い雫がいく筋も落ちた。
涙が止まらなかった。自分が恥ずかしくて。
自分を信じてくれなかった彼を当然のように罰したくせに、私だって彼の言葉を信じようとしなかった。話を聞こうとさえしなかった。精一杯、たくさんの思いが詰まったものを全てはねつけた。
あの指輪だって。
――『だが安心しろ、私は……もう決して君の前には現れない』
ちょうつがいの悲しげ音の向こうに、彼が消える光景がフラッシュバックした。
行かないで!
なんてことを。あんなことを繰り返さないでと言った私が、あの人と同じ過ちを犯してしまった。信じてくれない苦しみを、誰よりも知っていたはずなのに。分かっていたはずなのに!
鼓膜を破るような木の倒れる音と共に、現実が降りかかって来た。砂埃を払う清涼な空気が流れ込んでくる。
とても静かで、穏やかな風が髪を撫でた。
そっと耳を塞いでいた手をおろし、目を開けた。
“ぐぎああああああああああぁぁぁ!”
「――!」
目の前に、鋭い牙の生えそろった真っ赤な口があった。それが頭部めがけて勢いよく落ちてくる。
もうダメ、私――
助けて……助けてっ!
「陛下ぁあああああ!」
尖った歯が突き立てられる。恐怖に目の前が真っ白になった。
これはきっと私に与えられた罰なんだわ。
あの人を最後まで信じようとしなかった私への。誠意を尽くす彼を突き放した私への。
同じ轍を踏んでしまった、私への。
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「陛下、いかがなさったのです」
王妃になるべくやってくる“彼女ら”を盛大に出迎えろと言ったばかりの彼が、廊下の途中でピタリと足を止め、そのまま微動だにしない。シュレイザーはそんなザルクの後ろ姿に首をかしげた。
「少し出かけてくる」
それだけ言うと、弾かれたように反対方向へ駆け出した。