st.ⅩⅩⅢ Kidnap?
ぼんやりとする視界。何か心地よい揺れが体に伝わってくる。
ここは、どこ? 次第にはっきりしてくる光景に、体を起こしながら目をこすった。
「お目覚めかい、マイプリンセス」
「な、ナイト様……ッ」
目の前には、バラでポーズを決める伯爵さんの姿があった。周りを見渡せば、どうやら窓のある小さな箱の中のよう。移り行く景色とひづめの音にあわせた振動に、“馬車に乗っているらしい”と判断した。柔らかな腰掛けに、スカートの裾を直しながら座って改めて周りを見る。
まるでホテルの一室のように豪華絢爛だった。絵の描かれた天井からは小さなシャンデリアがぶら下がり、車内をオレンジ色に染めている。伯爵さんとの間には小さなコーヒーテーブルがあって、椅子はネコの体のように柔らかかった。それにしても随分と広い。
「あの、ここ……」
外の景色はどう見ても城内じゃない。まさか。
「ここはヘルグスティン・キャッスルの裾野に広がる町さ。このあたりはちょうどアーチタウンかな」
やっぱり! 何てことに。
「でもどうやって外へ? それにこれは許されていることなんですか」
伯爵さんは私の気持ちを落ち着けようと、まるで指揮者のように両手をたおやかに振る。でもそれが妙に癪に障ってしまったのは内緒にしておく。
「大~丈夫、何も心配しないで。ザルクは僕に頭が上がらないんだから」
「でも……」
勧められた紅茶を断って、おずおずと窓の外を眺める。別に怒られるのが怖いわけではないけれど、このすぐ外に広がっているだろう未知の世界に少し不安があった。この間、王と空から眺めていたときは単純に町の明かりに感動できたけど、いざそれが自分の傍に来ると少し怖気づいてしまう。
本当にそう?
もし目の前に座っているのが伯爵さんではなく、漆黒の瞳を持つあの人だったら? あの不敵な笑みを湛えた彼が座っているのだとしたら?
威風堂々としたその空気に安心して、きっとこんなに不安になるなんて――
いえ、何を考えいるのかしら私は。あの人はもう私の前に現れないと言ったんだから。
あの声の震えが耳に甦り、ダメ、と軽く頭を振って景色を見ることに集中した。
窓の向こうは、どこか私の生まれ育った町に似ていた。光るタイルでできた道、二階建てのレンガ造りの家が軒を連ね、見慣れぬ文字で書かれた小さなショップの看板がチラチラ見える。
可愛らしい花屋さんが目に留まり、奇妙に動く入り口のランプをじっとみつめた。グルリと振り返ったランプの炎には、驚くことに小さな目が二つついている。こちらをつぶらな瞳で見つめ、小さな手のようなものが出して一生懸命こちらに手を振ってくれた。
それに戸惑いながらも返すと炎は“キキキキ”と体を震わせて楽しそうに笑う。その可愛さに心がくすぐられた。
町を歩いているのは当然モンスターたち。大きな体のフランケンシュタインが野菜……の隣にならぶネジを選んでいたり、ガイコツの親子が仲良く手を繋いで歩いていたり、三頭犬の子犬がキャンキャン駆け回っていたり。
みなモンスターというだけで、あとは何も変わらないように見えた。ただ“腕を直します”、や“ウジ取り専門店”、“目玉ジュース屋”とか、なんだか変わったお店もあったけれど。
それより気になったのは人間らしい人たちの姿だった。皆、薄汚れた衣服を身に纏ったとてもみすぼらしい格好をしている。
「あの、この町には人間も住んでいるのですか」
「ああ、住んでいるとも。誰かに連れてこられたり、もしくは迷い込んだりした人間たちがね。ただ人間は体も弱いし魔力もほとんどない。だからまともな仕事ももらえず、大半が乞食のようなことをしているのさ。ここで人間がよい暮らしをするにはヴァンパイアと結婚やなんかして匿ってもらうか、もしくは平民の中で比較的裕福な暮らしをしているヴァラヴォルフ(狼男)と仲良くなるしかないよ」
「男性もですか?」
「鋭いね。まあ僕はメイルには興味ないけど、結婚という逃げ道がない分、女性より大変な思いをしてるだろうさ。人間界に帰ることができれば一番いいんだろうケド――」
それに全身から汗がじっとりと噴きだした。スカートをギュッと掴む。もしかしたら、帰れるルートが聞けるかも!
「無理だろうね。人間はこちらへ来ることはイージーいけど、向こうへ帰るのは超至難の業だから」
緊張した分、がっかり度も激しい。やっぱり王と結婚するしか道はないのかしら。あの時プロポーズを断るべきじゃなかった?
いいえ、後悔の念なんて全くない。心を弄ぼうとするあの人の元へなんか、絶対に嫁ぎたくない。
そう思って視線を上げた瞬間、お店の角に小さな男の子が立っているのが見えた。茶色いフードを被っていてよく分からないけれど、もしかして……人間?
「あ、あの止めてください!」
「なぜ?」
「えっと、す、少しこのあたりを見たいのです」
「ふぅむ、そうしてあげたいけれど、ちょっと急ぐから。フラーイ!」
私の願い事はあっさりスルー?
伯爵さんが口にバラをくわえ、手を二度叩きながらそう叫んだ瞬間、馬車はガクンッと急浮上して体が一瞬浮いた。私は慌てて椅子の端を掴んで耐えたけど、当の伯爵さんは見事に浮き上がって天井にガンと頭をぶつけていた。その反動で口から「ブッ」とバラが吐き出され、窓の外へとむなしく飛び去っていく。
「あたたた……」
こ、これは何か言ってさしあげるべき? “大丈夫ですか”ぐらい言おうかしら。“バラの件は残念でした”とか。でもそんなフォローすると、格好つけることに命を懸けていそうな彼の自尊心に関わるのかな。けど何も言わないのも恥ずかしいだろうし。ど、どうすれば……。
そんなことを考えている内に、伯爵さんの口には何も無かったかのように新たなバラがくわえられていた。
「ん? なんだい?」
「あ……いえ、全然何も」
どうやら心配するだけ無駄だったらしい。あの男の子のことは気になるけれど、まさか今更飛び降りられない。
「あの、これはどこへ向かっているのですか」
「決まっているだろう。僕たちの輝かしい未来さ!」
伯爵さんはそう言って、ビシッと窓の外を指差そうとしたけれど、その人差し指がガツンと壁に当たってグニッと指先が関節と逆方向に曲がって涙目になっていた。
「いっ!」
「……」
私、決めた。この人が何をしようと、決して何も言わない。
****
「さ、降りて」
伯爵さんの手に支えられ、ゆっくりと馬車を降りた。森の中に立つ立派な洋館が目に留まる。その前にはガラスのような、光るレンガでできた広場があり、大きくて美しい精霊の噴水が設置されていた。
「このあたりの山々は僕の所有地さ。ここは四つある別荘地でも一番小さいんだ」
そんなにあるんだ。それにこんなに大きな館が一番小さいだなんて。さすがに王たちと仲がいいだけある。中途半端なお金持ちじゃないんだわ。
「こっちだよ、マイプリンセス」
伯爵さんの手に引かれ、この噴水前の別荘ではなく森の中へと入って行った。
「さあさあ、ここさ」
森の中にそびえ立つ、大きな教会風の建物。天辺には十字架の代わりに五芒星のようなものが飾られている。外壁にはツタは巻きついているし、ダークブルーの光に包まれていて、とてもおどろおどろしい雰囲気が立ち込めていた。
ギイと扉が開かれ、中へ足を踏み入れた。やっぱり教会のように左右に長いすが設置され、ロウソクの明かりがゆらゆらと揺れていた。黒い長絨毯を踏みしめ、正面の説教台へ近づいていく。そこには淡い光を放つ細長いピラミッドと、その隣にワイン一本とグラスが二つ並んでいた。
こんなところで酒盛り?
「ここなら誰にも邪魔されずにできるだろう。運命にヴィクトリー!」
「あの、何のことですか?」
悪い人には見えないけれど、少し嫌な予感がする。彼は頬を染めてジッと私を見つめ、「ソフィアちゃあん!」といきなり肩をガッとものすごい力で掴み、タコのように尖らせた唇を「う~」っと近づけた。
嘘でしょう?
「いやああっ!」
思い切り顔を背けて彼の胸を押した。すると彼は以外にもあっさりと引き、
「ああそっか、そうだよねぇ。僕としたことが、つい先走って」
どういうこと?
「じゃ、ちょっとゴメンよ」
伯爵さんはポケットからペアリングを取り出して台の上へ置き、さらに何やら術式の書かれた万年筆を取り出した。一部がガラスの筒のようになっている不思議なペン。
彼はそれで私の首筋をスッと撫でた。鈍い痛みと冷やりとした感覚が走る。
わけの分からないままそれを見守っていると、彼はペンを軽く振った。空だったはずのガラス筒には、何か少量の液体が入っている。グラスへ向かってその万年筆の尻を押し、まるで注射器のように中身を注いだ。
「血……?」
その赤い液体に目を見張った。
「そうさ、レッドロッドを知らないのかい? 血液採取のための器具だよ。検査用だからあんまり取れないんだけど、今はこれで十分」
彼は当然のようにそこへワインを継ぎ足し、もう一つ彼自身の血で同じものを作って私の方へ置いた。
何? 一体何の儀式なの、これは! 怖くなって腕があわ立つ。
「ヴァンパイアの婚姻は互いの血を飲んで永遠の愛を誓うのさ。それによって新婦はヴァンパイアと同じ不老長寿を得、新郎は新婦から定期的な血液提供の約束を得る」
何それ、そんなこと聞いてない!
「私、匿名のナイト、おっと失礼、ロキ・グット・スティラーはソフィア・クローズの夫として妻を護り、永遠に愛し続けると誓います」
ワイングラス片手に口角をニッと押し上げる。
冗談でしょう? 夢だってありえない!
「さ、早く」
「申し訳ありませんが、私はあなた様と結婚する気はございません。早くお城へ帰してください」
ちょっと強く言い過ぎたかもしれないけど、これだけはっきり言えば伝わるはず。
伯爵さんはやれやれとため息をつくと、
「全く、君ほどのシャイガール初めてだよ。ま、僕の魅力を前にすれば当然か。分かったよ、僕はとってもスマートな男だからね。そんな君のお手伝いをしてあげようぞ」
“あげようぞ”って。
彼は私の目の前で揃えた人差し指と中指を二度振った。その風を感じた瞬間、体が金縛りに遭ったように強張る。それがゆっくりと弛緩してゆくと同時に、伯爵さんが白いモヤがかかったようにはっきりしなくなっていった。
「さ、早く飲むといい、マイプリンセス」
「……はい。ナイト様」
ぼんやりとする心地よい世界の中で、ゆっくりと差し出されたグラスを受け取った。何が何だかよく分からない。まるで春の心地よい日差しの中、温かな布団にくるまっているような気持ちいい気分。
口が勝手に開いて何か言葉を発するけれど、なんだかよく分からなかった。
「私、ソフィア・クローズはロキ・グット・スティラー様の妻として夫を支え、永遠に愛し続けると誓います」
何? 私、何を言ってるの? 聞こえないよ。
「ジュテーム、マイワイフ、ソフィア」
「愛しております、ロキ様」
ガラスのぶつかり合う、小気味のよい音が響き渡った。
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ザルクは肩に上着を乗せ、ため息をつきながら執務室の扉を開けた。気が乗らないが提出期限がまだ先の書類も片付けてしまおう。午後から予定を空けていたものの、ずっともやもやとしていて何かしていないと落ち着かない気分だった。
巨大牛トリコンの本革でできた、高そうな椅子に上着をほうり投げ(実際この椅子一脚で血統書つきのスレイプニールが二頭買える)、机の上に腰掛けた。
手に持った空っぽの指輪ケースを見つめるが、もうため息すら出ない。
あの指輪はとても特別なものだった。この世のものとは思えないほどの美しい光を放つあの指輪は、いずれ自分が心から愛する女性へ送ろうと長い間大切に保管していたもの。
そう、自分にとって世界中の誰よりも尊かったあの人が世を去ってから、ずっと。
だが今はどこかへ行った指輪よりも、彼女のことが心に突き刺さる。
「ソフィア」
愛しい彼女の名を呼んだところで、広い執務室にむなしく響くだけだった。泣ければ楽なのだろうが、生憎そんな可愛らしさも体力も持ち合わせていなかった。
「おや、陛下」
突然扉を開けて入ってきたシュレイザーに、ザルクは息が止まりそうになるほど驚いた。急いで空のケースを引き出しへしまいこみ、何事も無かったかのように再び机に腰掛けて咳払いをする。
だが不自然極まりないその行為に、彼は不審なものを見るような目をしていた。
「どういう風の吹き回しなんです? 普段から隙あらばサボろうとなさる方が、お休みの日に執務室にいらっしゃるなんて」
シュレイザーは本棚から目的の資料ファイルを取り出しながら、横目でこの国の王を見た。上着も羽織っていないシャツのボタンもきちんと留まっていないところから察するに、後宮帰りと見受けられる。
だが女を抱いてきた後とは思えぬほど覇気がなく、何やら憔悴しきっていた。まさか男の尊厳に関わる下半身的なトラブルがベッド上で?
いや、それはないかと表情に出さずに笑った。
落ち込んでいるのは分かっても、シュレイザーは慰めの言葉をかける気などなかった。どん底から這い上がってくるなり、ずっとそこに居座るなり好きにすればいい。どうなろうと自分はただ傍で彼を支えるのが務めだと思っていた。今までそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。
まああの指輪のことや昨日までずっとそわそわしていたところからも、大方落ち込んでいる理由は察することができる。あえてそれには触れないように話題を振った。
「そういえば先ほど“彼女ら”から連絡がありました」
具体的な名を言わずとも、それが誰か分かったのかザルクは腕を組んで顔をしかめた。
「またか。最近やたらと多くないか?」
「まあ確かにここ数年は」
「返事は言わずとも分かっているのだろう」
ため息混じりにそういうと、立ち上がって上着に袖を通した。
「もちろん。“ぜひ”とお答えしました」
「それでいい。“彼女ら”と会う気など――」
襟を直していた手をハタと止めた。目を見開いたまま自分の補佐官を振り返る。
「何だと?」
「ですから“ぜひおいでください”とお答えしました」
「ま、まさか私に“彼女ら”と結婚しろと言うのか」
「いいえ、それを決めるのは陛下ご自身。私が口出しできることではありません」
「ならなぜ」
「覚えておられませんか、陛下」
ザルクはポケットに両手を突っ込んだまま肩をすくめた。何も心当たりはないと見える。それにシュレイザーはため息をつき、さっき取った資料のファイルを脇に挟んで黒革の手帳をパラパラとめくった。
「あなた様は八十年前、まだ幼かった“彼女ら”の第一王女と約束されたではありませんか。こうです。“ヴェーナの二つの星が重なるとき、再びこの城でお会いしましょう。あなたがお美しい姫となられた暁には、私の妻と迎えるとお約束します”」
パタンと手帳を閉じて漆黒の双眸を見つめる。
目の前の彼は頬を引きつらせ、目は死んだ魚のように光を失わせていた。
「言ったか? 私が」
「言いました。あなたが」
「本当に言ったか」
「はい、本当におっしゃいました」
「本当に、本当に言っ――」
「あんまりしつこいとぶん殴りますよ」
ザルクは右手で髪をかきむしって、大きく息を吐き出した。どうやら彼には全く記憶にないことらしく、“やってしまった”とばかりに口元を押さえて目を泳がせていた。
「ご存知の通り“彼女ら”はプロメス(約束)を重んじる。それも男女のこととあればなおさら」
「だ、だが美しい姫なってなければよいのだろう?」
「最低な断り方ですよ、それ。それに“彼女ら”が美しく成長していないとでも?」
ザルクは右手を机につき、腰に手を当てていらだったように指で机を叩いて何やら考えていた。
やがてシュレイザーに向き直り、
「わ、私には別に想っている女性がいる。抱いてやるだけならいいが、やはり結婚は彼女以外無理だ」
「ですがソフィア様にはフラれたのでしょう?」
「心の傷をえぐるな! ふ、フラれたのではない。少しすれ違っているだけのことだ」
「そうですか。へー」
興味がないのか、あまりにポジティブな考えに呆れているのかシュレイザーは大根役者のようにそうつぶやいた。
「こちらとしても“彼女ら”を無碍にはできません」
「分かっている。我々の中にも“彼女ら”の血が幾分かは入っているのだから」
そう言うとザルクは突然「そうか」と指を鳴らした。
「王女はレオと結婚させよう! 私もアイツも似たようなもんだろう」
「ならレオナルド坊ちゃんとソフィア様が結婚しても問題ないでしょう」
「ダメに決まっているだろうが! 絶対許さんからな!」
勝手な言い分にシュレイザーは本日何回目かのため息をついた。
その時突然、乱暴に扉が開き、息を切らしたレオナルドがわき目も振らずザルクに詰め寄った。
「レオ、ちょうど良かったお前――」
「ソフィアをどこへやったんだよ!」
間髪いれずにそう凄んで胸倉を掴みあげる。
「何の話だ」
「とぼけるな。まさか監禁したんじゃないだろうな!」
必死な形相の彼にザルクは眉をひそめた。“監禁”の言葉に、思わず先ほど後宮でした妄想が甦ってしまったが、あくまであれは妄想で押さえてある。現実には移していない、少なくとも今は。
「だから何の話だと言っている」
レオナルドの方もさすがにそれはないかと冷静になったのか、手を離して美しい金色の髪をかき上げた。
「いないんだよ、どこにも」
「彼女がか?」
相当必死に探したのか、額には汗まで滲んでいる。あのだだっ広い後宮を隅から隅まで探したに違いない。だが――
「そんなはずないだろう、後宮内のどこかにいるはずだ。逃げるにしてもあの周りは断崖絶壁。出入り口へ行けば衛兵が止める。やつらを倒すか惑わせるかして突破すれば分からんが、人間の彼女にそんなマネが――」
そこで二人は同時にとある男に思い当たった。幼馴染でいつもとんでもないことをやらかすあの男。いつも振り回されてはとんでもない目に遭ってきた。それが当の本人は全く反省せずに、というより無自覚にまた新たな問題を起こすのだから付き合ってられない。
「そういえばあのバカ、幻術系魔術だけはやたら得意だったよね」
「ま、待て。あいつがいくらバカでも、王の所有物たる後宮の女を連れ出すなどするはずないだろう。国家反逆罪並みの暴挙だぞ」
「兄上覚えてないの? アイツ前にも一度、格好つけたいがために王の代理だとほざいて、勝手に遠征先で同盟結びまくってたじゃないか」
それにザルクの顔色が変わった。それがよほど腹立たしい記憶なのか、奥歯をギリギリと噛み締めて拳を震わせる。瞳孔は完全に萎縮しているのに、口元には薄い笑みを浮かべおぞましい顔をしていた。
「忘れるわけがないだろう。あの尻拭いで久々の休暇が丸つぶれになったどころか、一ヶ月まともに寝られなかったんだぞ……っ」
「だったらやっぱり――」
顔を合わせて互いに頷く。間違いない、アイツだ。
二人は同時に部屋を飛び出した。早く彼女を助け出さねば、何をされるか分かったものではない。
だがザルクは途中で何か思い出したように歩を緩めた。今からどんな面を下げて会おうと言うのか。もう彼女の前には現れないと言ったばかりではないか。
完全に足を止め、後ろも見ずに駆けていくレオナルドの背中に向かってつぶやいた。
「お前なら、彼女を幸せにできるのか。私が傷つけた分、癒してやってくれるのか」
わざわざ問うまでもない。ヤツは王である自分に盾ついてまで彼女を信じ続けた男。彼女も心の底から信頼しているに違いない。
しょせん自分は、彼ら二人が織り成すラブストーリの恋敵でしかなのだろう。いや、それとも二人の間を引き裂こうと画策する悪役だろうか。
彼女のことは心から愛している。彼女のためなら命とてなげうつ覚悟はある。
だが、自分が幸せにできないのなら。それができる男が他にいるというのなら。
それなら自分は――
「あれ、陛下は行かれなかったんですか」
廊下に出てきたシュレイザーは、部屋を飛び出したはずのザルクの立ち尽くす姿に首をかしげた。
「シュレイザー、“彼女ら”の出迎えは豪華にしてやれ」
「ええ、承知しました」
ザルクはポケットに手を入れ、廊下を逆方向へ歩き出す。
「この国の王妃となる女性なのだから」
「――っ」
その言葉に絡みつかれたがごとく、シュレイザーはしばらくそこから動くことができなかった。
あとがき
何回プロポーズしてんねん。