第1話 終電を逃したら、国ごと溺愛されることになりました
「お疲れ様でしたー……」
誰もいないオフィスに小さく呟いて、私、水瀬ひより二十六歳は、パソコンの電源を落とした。
午後十一時五十二分。終電は、あと八分。ぎりぎり間に合う。
(明日も朝イチで会議か。ああ、でも今日は金曜だから、あとは土日にがんばれば……あれ、土日も資料作るんだった)
エレベーターに乗り込み、ぼんやり天井を見上げた、そのとき。
ぱあっ、と足元が光った。
「え? 床、抜け――」
落ちるような浮遊感。目を閉じて、開けたとき。私は、大理石の床の上に膝をついていた。
天井は信じられないくらい高く、ステンドグラスから朝日が差している。足元には白銀の魔法陣。そして私を取り囲むように、見知らぬ人たちが膝をついていた。
全員、びっくりするくらい整った顔で。
「……聖女様」
中央の金髪の青年が、静かに顔を上げた。
「お待ちしておりました。ようこそ、アストレア王国へ」
(……夢? 残業しすぎて、夢?)
「驚かせて申し訳ありません。私はこの国の王太子、アルベルト・アストレア。あなたを召喚したのは、私です」
青年は、私の手を取って、そっと自分の額に当てた。
「あなたの幸せだけが、この国の結界を支えます。どうか、私たちに、あなたを守らせてください」
「……えっと、結界って」
「聖女の幸福が強いほど、国を覆う結界は強くなる。古くからの理です」
「幸福、が」
「はい。つまりこの国は、今日からあなたを全力で甘やかす国になります」
「……はい?」
頭が追いつかない。でも、あたたかい手の感触だけが、妙にリアルだった。
「まずお体を。お疲れなのでしょう、顔色が」
「あ、いえ、大丈夫です。慣れてますから」
反射的に、そう答えた。ざわり、と空気が揺れた。
「……慣れて、いる?」
低い声が、後ろから響く。黒髪の騎士が立ち上がっていた。背が高く、鎧の似合う、無口そうな人。
「騎士団長のレオンハルトだ。聖女殿。『疲れに慣れている』とは、どういう意味か」
「え、あの、普通に毎日働いて、忙しいというか」
「…………」
レオンハルトは無言で、自分のマントを外して、私の肩に掛けた。
「冷えている。今日から、あなたの護衛は俺だ。二度と、一人で無理はさせない」
(なんで、いきなり重いの!?)
「あーあ、団長、いきなり距離詰めすぎ」
ふわりと笑って割り込んできたのは、亜麻色の髪の青年。宮廷魔導師のセシルと名乗った。
「ねえ聖女様、お名前教えて? 呼びたいな」
「み、水瀬ひよりです」
「ひよりさん。かわいい名前。……ねえ、一番好きなものって何? 全部、国中から取り寄せるから」
「そんな、悪いです!」
「悪くないです」
静かに眼鏡を押し上げたのは、宰相補佐のクラウスだった。
「聖女の幸福は、国家の最重要事項です。あなたが望みを遠慮することが、この国にとって最大の損失です。今後、あなたの全スケジュールは私が管理します。睡眠は最低八時間。休憩は二時間ごと。残業は、一切認めません」
八時間、寝ていいの? 残業、しなくていいの?
涙腺が、じわっと緩んだ。
「失礼、脈を拝見しても?」
穏やかな声と一緒に、白衣の青年が私の手首にそっと指を添えた。医術師のリュカだ。
「……少し速いですね。緊張ですか? 大丈夫、僕がついています」
微笑まれて、さらに脈が速くなった。
「ひより様?」
アルベルトが心配そうに覗き込む。
「あ、すみません。優しい言葉に慣れてなくて、なんだか泣きそうで……」
その瞬間、広間の天井が、ぱあっと金色に輝いた。
「結界が、強くなったぞ!」
神官たちが歓声を上げる。空中に浮かんだ光の数字が、四十二パーセントから五十八パーセントに跳ね上がっていた。
「幸福度です」と、クラウスが冷静に説明する。「ひより様の気持ちが、可視化される仕組みです」
(見える化されてるの、恥ずかしすぎる!!)
真っ赤になった顔を覆うと、周囲から、ほう、とため息が漏れた。
「……かわいい」
「今、六十パーセントを超えた」
「記録しなくていいです!!」
その夜、王宮の食堂で、テーブルいっぱいの料理が並んだ。
「ひよりさん、はい、あーん」
「じ、自分で食べます!」
セシルのスプーンを断った途端、天井の光が、ふっと曇った。
「ひより様。遠慮されると、結界が揺れます」
「ええっ!?」
観念して、ぱくり。口の中に広がる甘さに、思わず頬がゆるむ。数字が一気に九十に跳ねた。五人が、そろって満足そうに頷く。
夜、天蓋付きのベッドに入った私のもとに、ノックの音がした。
「眠れますか?」
アルベルトだった。ベッドの脇の椅子に、静かに腰を下ろす。
「今日、一番うれしかったことは?」
少し考えて、私は正直に答えた。
「……残業しなくていいって、言ってもらえたことです」
彼の瞳が、かすかに揺れた。
「なら、毎日言おう。頑張らなくていい。君は、ここにいるだけでいい」
胸の奥が、ぽかぽかした。
会社では、誰も私の疲れなんて見てくれなかった。ここでは、全員が見てくれる。
扉の外の廊下で、五人が静かに、聖女の筆頭守護者の座を巡って火花を散らしていたことを、私はまだ知らない。




