婚約破棄された私が調合していた薬は、貴方を救う唯一のものでした
「君との婚約は破棄する」
冷たい声が、広間に響いた。
私の心は、不思議なほど凪いでいた。
ヴェルナー・フォン・ヴァイスベルク公爵。王国随一の魔力を持ち、若くして公爵位を継いだ男。銀の髪と、凍るような青灰色の瞳が私を見下ろしている。
「理由を、お聞きしても?」
「エルシア。君は私を侮辱した」
傍らで義妹のリーネが口元を歪めるのが見えた。
「『あの病人に嫁ぐなど不幸の極み』。君はそう言ったそうだな」
言っていない。そんな言葉、考えたことすらない。
けれど私は反論しなかった。リーネの瞳に浮かぶ勝利の色を見れば、何が起きたかは明白だった。
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げた。
「三年間、お世話になりました」
顔を上げた瞬間、ヴェルナー様の眉がわずかに動いた。何かを言いかけたように見えた。けれど私は待たなかった。
踵を返す。背中に視線を感じる。凍るように冷たい、けれどどこか熱を孕んだ視線を。
振り返らなかった。
実家に戻った私は、母の薬草園に向かった。
屋敷の裏手、誰にも知られていない小さな庭。ここだけが、私の居場所だった。
母は私が十歳の時に亡くなった。病弱だった母は、最期まで薬草の研究を続けていた。
「いつか、誰かを救える薬を作りなさい」
それが母の遺言だった。
私は跪き、銀灰色の葉を持つ草に触れた。月光草。王国でも数株しか存在しない、幻の薬草。
この草から作る薬だけが、ヴェルナー様の病を抑えられる。魔力が強すぎる者に起こる「魔力灼け」。内側から体を焼く、治療法のない病。
三年間、私は密かにこの薬を調合し続けてきた。ヴェルナー様は知らない。毎朝届けられる茶に、私の薬が混ぜられていたことを。
誰にも言わなかった。婚約者として、当然のことだと思っていたから。
最後の一瓶を見つめる。これを届けて、終わりにしよう。
翌日、リーネが私の部屋に現れた。
「姉様、お加減はいかが?」
猫なで声。その瞳には、隠しきれない嘲笑があった。
「おかげさまで。公爵様との婚約、おめでとう」
「ふふ、ありがとう存じます。姉様には悪いことをしたわ。でも、仕方ないのよ」
リーネは扇で口元を隠した。
「だって姉様、公爵様にお似合いじゃないもの。地味で、取り柄もなくて」
「そうかもしれないわね」
私の淡々とした返答に、リーネの眉がぴくりと動いた。
「……姉様、悔しくないの?」
「何が?」
「だって、三年も婚約していたのに!」
「リーネ。私は公爵様を侮辱したことになっている。その汚名を着たまま、何を言っても無駄よ」
リーネの顔に動揺が走った。すぐに消えたけれど、私は見逃さなかった。
「私は静かに去るわ。でも——」
私は窓の外を見た。薬草園の方角。
「私は、証明するから。自分が何者かを」
その言葉に、リーネは黙った。
三日後、私は公爵邸を訪れた。最後の薬を届けるために。
門前で老執事のゼーリが現れた。
「お嬢様。お待ちしておりました」
「ゼーリ。私はもう『お嬢様』ではありませんよ」
「失礼ながら、私にとっては変わりません。どうか、公爵様をお救いください」
「……何のことでしょう」
「存じております。毎朝の茶に混ぜられていた薬。あれがなければ、公爵様は一年前に倒れていたでしょう」
知られていた。この老執事には、全て。
「婚約破棄の翌日から、公爵様の容態が悪化しております。昨夜は意識を失いかけました」
ゼーリは懐から一冊の手帳を取り出した。
「これは私が記録していた調合の経緯です。お嬢様が薬草園で作業される姿、届けられる薬、公爵様の容態の変化。全て記してあります」
「なぜ、そんなことを」
「いつか必要になると思っておりました。公爵様は、お嬢様の献身に気づいておられなかった。それが歯がゆくてなりませんでした」
私は手帳を受け取った。
「三日後、王妃様主催の夜会がございます。リーネ様が婚約者として紹介される場です。しかし、公爵様は出られないでしょう。薬がなければ」
私は薬瓶を握りしめた。
「……分かりました」
私は薬を届けた。そして屋敷に戻り、新しい薬の調合を始めた。
「姉様、何をしているの?」
リーネの声がした。義妹が庭師を二人連れて立っていた。
「この汚い庭、お父様に言って潰してもらおうかしら」
「……何ですって?」
「姉様から全部奪ってあげる。婚約者も、居場所も、何もかも」
庭師たちが鎌を手に薬草に近づく。
「やめて!」
「やめなさい」
低い声が響いた。全員が凍りついた。
庭の入り口に、銀髪の男が立っていた。
「こ、公爵様?!」
リーネの声が裏返る。
「この薬草園に手を出すことは許さない。今後、この庭に近づく者は、公爵家への敵対と見なす」
「で、でも公爵様……」
「下がれ」
一言で、リーネは黙った。青ざめた顔で逃げていく。
私はヴェルナー様に向き直った。
「なぜ、ここに」
「ゼーリから聞いた。三年間、君が何をしていたか」
ヴェルナー様は私に近づいた。
「なぜ言わなかった」
「言う必要がないと思いました。婚約者として、当然のことでしたから」
「当然……?」
ヴェルナー様の瞳に、苦しみと後悔が浮かんだ。
「私は、君を侮辱した者を信じた。調べもせず、君を切り捨てた」
「仕方のないことです」
「君は、怒らないのか」
「怒っても、何も変わりませんから。私は証明します。自分が何者かを」
長い沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「夜会に来い。そこで、全てを明らかにする」
「私はもう、貴方の婚約者ではありません」
「今は、まだ。だが、夜会の後は違う」
ヴェルナー様は踵を返した。
「必ず来い。それが、私への罰だと思え」
夜会の日が来た。
私は母の形見のドレスを着た。淡い藤色の、控えめだけれど仕立ての良いドレス。
王宮の大広間は、煌びやかな光に満ちていた。
「あの方、婚約破棄された伯爵令嬢でしょう?」
囁き声が聞こえる。けれど私は気にしなかった。
広間の中央に、ヴェルナー様とリーネがいた。
「皆様、本日は公爵家の婚約発表のため……」
司会の声が響く。その時、ヴェルナー様が動いた。
「少々お待ちを。婚約発表の前に、明らかにすべきことがある」
広間が静まった。
「私は先日、ある女性を侮辱した罪で婚約破棄した。だが、それは虚偽だった」
ざわめきが広がる。
「執事のゼーリ。証拠を」
ゼーリが手帳を開いた。
「この記録は、私が三年間にわたり記してきたものでございます。フィオナ・ルーエンハイト嬢が、公爵様の病を癒す薬を調合し続けていた証拠です」
「う、嘘よ!」
リーネが叫んだ。
「姉様にそんな能力があるはずない!」
「では、なぜ公爵様の容態は婚約破棄の後に急激に悪化したのでしょう」
リーネは言葉に詰まった。
「さらに」
ヴェルナー様が続けた。
「お前が私に告げた『侮辱の言葉』について、複数の使用人が否定している。お前は、嘘をついたな」
リーネの顔から血の気が引いた。
「ち、違う! 姉様が悪いのよ!」
「黙りなさい」
凛とした声が響いた。王妃陛下が立ち上がっていた。
「リーネ・ルーエンハイト。そなたの行いは、公爵家と王家の両方を欺くものです。本日より、社交界への出入りを禁じます」
リーネは崩れ落ちた。
「フィオナ・ルーエンハイト嬢。前へ」
私は歩み出た。広間の中央、ヴェルナー様の前に。
「そなたの献身、見事でした」
「もったいないお言葉です。けれど、私はただ——」
言葉を続けようとした瞬間、視界が揺れた。
ヴェルナー様が、跪いていた。
どよめきが広がる。王国最高位の公爵が、伯爵令嬢の前に膝をついている。
「フィオナ」
初めて、名前を呼ばれた。
「私は愚かだった。君の献身を知らず、君を傷つけ、君を失いかけた」
「ヴェルナー様……」
「君なしでは生きられない。文字通りの意味で。そして、文字通りでない意味でも」
ヴェルナー様は私の手を取った。
「フィオナ・ルーエンハイト。私の妻になってくれ」
涙が頬を伝った。悔しさなのか、喜びなのか。きっと、両方だった。
「……もう、逃がしてくださらないのですね」
「当然だ」
ヴェルナー様は立ち上がり、私を抱き寄せた。
「お前は私のものだ。最初から、そうだった」
広間から拍手が湧き上がる。けれど私には、彼の声しか聞こえなかった。
夜会の後、私たちは月明かりの下を歩いた。
「本当に、よかったのですか。私のような者を」
「フィオナ。お前は、自分の価値を分かっていない」
ヴェルナー様は私の顎を持ち上げた。
「三年間、お前を見ていた。静かで、控えめで、誰にも気づかれずに誰かを救う。その姿が、どれほど美しいか」
「……」
「私はお前を逃がさない。お前の薬草園も、お前の全ても、私のものだ」
「傲慢な方」
「ああ、傲慢だ。お前のこととなると、特にな」
月光が二人を照らす。
「愛している」
単純な言葉。けれど、彼が言うと重かった。
「私も、愛しています。ずっと」
ヴェルナーは私を強く抱きしめた。
「三年間、気づかなかった分を取り戻す。覚悟しておけ」
月光草が風に揺れる。私の新しい人生が、今、始まろうとしていた。
隣にいるこの人の手を、私はもう離さない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
評価・ブックマークいただけると、とても励みになります。




