表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第一章:潮鳴り、そして空白

ようこそ、私の物語へ。

これは、失われた記憶とジャズの音が織りなす、静かな物語です。

海辺の町で、主人公アオが自分自身を見つけ出す旅。

静かにページをめくり、潮の香りとジャズの調べに耳を傾けてみてください。

きっと、あなたの心にも届く音があるはずです。

アオは、どこから来たのか定かではない。正確には、定かではないことにしてある。夜行バスが吐き出した潮鳴町しおなりまちのバス停に降り立った時、彼の胸には漠然とした空虚感だけが残されていた。まるで、過去のページがごっそり抜け落ちた本のように、軽くて、そして頼りない。

夜明け前の町は、しんとしていた。遠くから微かに、打ち寄せる波の音が聞こえる。それが町の名前の由来なのだろうと、アオはぼんやりと思った。肌を撫でる海風は、都会のそれとは違う、生臭さと湿り気を帯びていた。荷物は小さなバックパック一つ。他には何もない。彼はただ、何かに引かれるように、あるいは何かから逃れるように、この見知らぬ海辺の町へと流れ着いたのだった。

狭い路地が入り組んだ町の中心部へと足を踏み入れると、古びた木造の家々が肩を寄せ合うように建ち並んでいた。錆びついたトタン屋根、色褪せた看板、ひっそりと佇む小さな商店。どれもが時間を忘れ去られたかのように、静かに息を潜めている。道行く人もまばらで、すれ違うたびに、その視線がわずかにアオを捉えるような気がした。よそ者への好奇か、あるいは警戒か。アオには区別がつかない。彼の心には、そうした他者の感情を読み解く余裕がなかった。

午前八時を過ぎた頃、アオは路地裏でひっそりと佇む一軒の店を見つけた。古びた木の扉に、「ハーモニー・ストローク」と書かれた小さな看板。ガラス窓の向こうは薄暗く、店の中の様子を窺い知ることはできない。しかし、そこから微かに漏れ聞こえてくる音に、アオの足は自然と止まった。

それは、ジャズだった。

控えめなドラムのブラシワーク、重厚なベースライン、そしてどこか物憂げなテナーサックスの調べ。まるで、深夜の港に霧が立ち込める情景を描いているかのようだ。アオは今まで、ジャズという音楽に特別な関心を持ったことはなかった。彼の記憶に、ジャズにまつわる思い出は一つも存在しない。それなのに、その音は彼の心臓の奥底に、遠い昔から存在していたかのように響いた。

吸い寄せられるように扉を開けると、古い木と埃と、そしてコーヒーの混じった独特の匂いが鼻腔をくすぐった。店内は、外観から想像するよりもずっと広く、天井からは年季の入ったシーリングファンがゆっくりと回っていた。カウンターには数脚のハイチェアが並び、壁際には使い込まれたソファとローテーブルがいくつか。そして何よりも、壁一面に並べられた夥しい数のレコードジャケットが、この店の歴史を物語っていた。

カウンターの中に、一人の女性が立っていた。二十代後半だろうか。肩まで伸びた黒髪は緩くウェーブがかかり、切れ長の瞳が静かにアオを見つめる。彼女の顔には余計な感情が一切なく、まるでジャズの音の一部になったかのように、その場に溶け込んでいる。

「いらっしゃい」

彼女の声は、レコードのノイズのように微かで、それでいて心地よく響いた。アオはカウンターに近づき、ぎこちなく言った。

「コーヒー、ありますか」

「ええ。お好きな席へどうぞ」

アオは窓際のテーブル席に腰を下ろした。座ると、先ほどのサックスの音が一層はっきりと聞こえてきた。それは、彼の名前すら忘れた空白の記憶のどこかに、確かに存在していたかのような、懐かしい音だった。

コーヒーが運ばれてきた。深い色のマグカップから立ち上る湯気が、薄暗い店内にぼんやりとした光を灯す。一口飲むと、苦味の後に微かな甘みが広がり、冷え切っていたアオの身体にじんわりと染み渡った。

「その曲、マイルス・デイヴィス?」

アオは、自分の口からそんな言葉が出たことに驚いた。ジャズに疎い自分が、なぜそんな名前を知っているのか。女性はカウンター越しに、静かに微笑んだ。

「ええ。クール・ジャズの初期の録音ね。まだ誰も、彼の真の才能に気づいていなかった頃の」

彼女はそう言うと、再びレコードの針に視線を戻した。アオはコーヒーを飲みながら、流れてくるジャズに耳を傾けた。それは、彼の心の空白を埋めるように、あるいは、その空白の輪郭をなぞるように、静かに、そして確実に、アオの内部に浸透していった。

その夜、アオは夢を見た。

暗闇の中、どこまでも続く真っ白な砂浜を一人で歩いている。足元に打ち寄せる波の音だけが、世界のすべてであるかのように響き渡る。その時、頭上をカモメが旋回した。白い羽が、月明かりにぼんやりと浮かび上がる。カモメはまるで、アオを嘲笑うかのように、奇妙な、しかしどこか聞き覚えのある声で鳴いた。

『おまえの音は、まだ、響いちゃいない。』

カモメの声は、アオの耳の奥で、奇妙な真夜中のコードとなってこだました。それは、複数の音が不協和に重なり合いながらも、何か決定的な「解決」を求めているかのような、胸騒ぎのする和音だった。アオは思わず耳を塞いだが、その音は彼の心臓に直接響き、全身を震わせた。

次の瞬間、砂浜が波にのまれ、アオは深い闇の中へと引きずり込まれた。

第一章を読んでくれて、ありがとう。

この章では、アオが潮鳴町という場所、そして「ハーモニー・ストローク」というジャズ喫茶に引き寄せられる様子を描きました。彼の中に眠る**「空白」、そして、これから彼を導く「真夜中のコード」**。物語はまだ始まったばかりです。

この続きが、あなたの心に静かな響きを残せたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ