第一章:潮鳴り、そして空白
ようこそ、私の物語へ。
これは、失われた記憶とジャズの音が織りなす、静かな物語です。
海辺の町で、主人公アオが自分自身を見つけ出す旅。
静かにページをめくり、潮の香りとジャズの調べに耳を傾けてみてください。
きっと、あなたの心にも届く音があるはずです。
アオは、どこから来たのか定かではない。正確には、定かではないことにしてある。夜行バスが吐き出した潮鳴町のバス停に降り立った時、彼の胸には漠然とした空虚感だけが残されていた。まるで、過去のページがごっそり抜け落ちた本のように、軽くて、そして頼りない。
夜明け前の町は、しんとしていた。遠くから微かに、打ち寄せる波の音が聞こえる。それが町の名前の由来なのだろうと、アオはぼんやりと思った。肌を撫でる海風は、都会のそれとは違う、生臭さと湿り気を帯びていた。荷物は小さなバックパック一つ。他には何もない。彼はただ、何かに引かれるように、あるいは何かから逃れるように、この見知らぬ海辺の町へと流れ着いたのだった。
狭い路地が入り組んだ町の中心部へと足を踏み入れると、古びた木造の家々が肩を寄せ合うように建ち並んでいた。錆びついたトタン屋根、色褪せた看板、ひっそりと佇む小さな商店。どれもが時間を忘れ去られたかのように、静かに息を潜めている。道行く人もまばらで、すれ違うたびに、その視線がわずかにアオを捉えるような気がした。よそ者への好奇か、あるいは警戒か。アオには区別がつかない。彼の心には、そうした他者の感情を読み解く余裕がなかった。
午前八時を過ぎた頃、アオは路地裏でひっそりと佇む一軒の店を見つけた。古びた木の扉に、「ハーモニー・ストローク」と書かれた小さな看板。ガラス窓の向こうは薄暗く、店の中の様子を窺い知ることはできない。しかし、そこから微かに漏れ聞こえてくる音に、アオの足は自然と止まった。
それは、ジャズだった。
控えめなドラムのブラシワーク、重厚なベースライン、そしてどこか物憂げなテナーサックスの調べ。まるで、深夜の港に霧が立ち込める情景を描いているかのようだ。アオは今まで、ジャズという音楽に特別な関心を持ったことはなかった。彼の記憶に、ジャズにまつわる思い出は一つも存在しない。それなのに、その音は彼の心臓の奥底に、遠い昔から存在していたかのように響いた。
吸い寄せられるように扉を開けると、古い木と埃と、そしてコーヒーの混じった独特の匂いが鼻腔をくすぐった。店内は、外観から想像するよりもずっと広く、天井からは年季の入ったシーリングファンがゆっくりと回っていた。カウンターには数脚のハイチェアが並び、壁際には使い込まれたソファとローテーブルがいくつか。そして何よりも、壁一面に並べられた夥しい数のレコードジャケットが、この店の歴史を物語っていた。
カウンターの中に、一人の女性が立っていた。二十代後半だろうか。肩まで伸びた黒髪は緩くウェーブがかかり、切れ長の瞳が静かにアオを見つめる。彼女の顔には余計な感情が一切なく、まるでジャズの音の一部になったかのように、その場に溶け込んでいる。
「いらっしゃい」
彼女の声は、レコードのノイズのように微かで、それでいて心地よく響いた。アオはカウンターに近づき、ぎこちなく言った。
「コーヒー、ありますか」
「ええ。お好きな席へどうぞ」
アオは窓際のテーブル席に腰を下ろした。座ると、先ほどのサックスの音が一層はっきりと聞こえてきた。それは、彼の名前すら忘れた空白の記憶のどこかに、確かに存在していたかのような、懐かしい音だった。
コーヒーが運ばれてきた。深い色のマグカップから立ち上る湯気が、薄暗い店内にぼんやりとした光を灯す。一口飲むと、苦味の後に微かな甘みが広がり、冷え切っていたアオの身体にじんわりと染み渡った。
「その曲、マイルス・デイヴィス?」
アオは、自分の口からそんな言葉が出たことに驚いた。ジャズに疎い自分が、なぜそんな名前を知っているのか。女性はカウンター越しに、静かに微笑んだ。
「ええ。クール・ジャズの初期の録音ね。まだ誰も、彼の真の才能に気づいていなかった頃の」
彼女はそう言うと、再びレコードの針に視線を戻した。アオはコーヒーを飲みながら、流れてくるジャズに耳を傾けた。それは、彼の心の空白を埋めるように、あるいは、その空白の輪郭をなぞるように、静かに、そして確実に、アオの内部に浸透していった。
その夜、アオは夢を見た。
暗闇の中、どこまでも続く真っ白な砂浜を一人で歩いている。足元に打ち寄せる波の音だけが、世界のすべてであるかのように響き渡る。その時、頭上をカモメが旋回した。白い羽が、月明かりにぼんやりと浮かび上がる。カモメはまるで、アオを嘲笑うかのように、奇妙な、しかしどこか聞き覚えのある声で鳴いた。
『おまえの音は、まだ、響いちゃいない。』
カモメの声は、アオの耳の奥で、奇妙な真夜中のコードとなってこだました。それは、複数の音が不協和に重なり合いながらも、何か決定的な「解決」を求めているかのような、胸騒ぎのする和音だった。アオは思わず耳を塞いだが、その音は彼の心臓に直接響き、全身を震わせた。
次の瞬間、砂浜が波にのまれ、アオは深い闇の中へと引きずり込まれた。
第一章を読んでくれて、ありがとう。
この章では、アオが潮鳴町という場所、そして「ハーモニー・ストローク」というジャズ喫茶に引き寄せられる様子を描きました。彼の中に眠る**「空白」、そして、これから彼を導く「真夜中のコード」**。物語はまだ始まったばかりです。
この続きが、あなたの心に静かな響きを残せたら嬉しいです。