崩壊の日
ダンジョンとは。
二百と余年ほど前、七つの大罪を司る悪魔たちが作り出した謎に満ちた迷宮である。
危険な魔物と金銀財宝で溢れかえるそこは未知の領域であり、命を懸けた宝の山であり……内部では独自の生態系を育む神秘的な場所である。
而してその存在は人々を惹きつけた。ダンジョンがもたらす財によって、やがて周辺には国が興った。
タム・アン。
大陸の西方に位置する広大な森林に覆われた国の名であり、この地に広がるダンジョンの名である。
ダンジョンが先か、国が先か。
国名の由来は曖昧だが、ダンジョンとひっくるめて称せばわかりやすいだろう。
この大陸には七つのダンジョンがあるが、タム・アンはそのうちの一つだ。
肥沃な大地、穏やかな気候、うららかな空。外部環境に引っ張られる性質でもあるのか、ダンジョン内部もまた常春のような環境である。
新米冒険者は誰しもが、このタム・アンで腕を磨き、技を身に着ける。やがて多くの冒険者たちが、此の国を旅立って行く。
ダンジョンの中でも、タム・アンが初心者向けとされている理由として――。
「あれ、今年の新米冒険者たちかな?」
「……例年に比べると、多くないかしら」
タム・アン、冒険者ギルドにて。
ダンジョン帰りの冒険者達が、受付カウンターの傍らで雑談を始めた。
隣の部屋で講義を行っているらしい。半開きの扉からは、十数人に説明を施すギルドマスターの姿を見つけられた。
熱心に聞き取る若い人間。興味なさそうに窓の外を眺めるドワーフ。眠りこける獣人もちらほらと確認できる。
「あれじゃ死んじゃうのも秒読みだよねぇ」
他人ごとに呟くのは、半開きの扉をそうっと閉めた小柄なドワーフの少女、アッシャだ。
後ろ背に背負いこんだ荷物をひょいと持ち上げると、受付のカウンターにどすん、と置く。
重たそうな音だ。カウンターに背を預けていたもう一人の体にずしん、と響く。
「アッシャ! びっくりするでしょ」
「はーぁい」
ぴょんと仰け反ったせいで、浅く被っていたフードが取れてしまった。
咄嗟に叱りつける言葉を飛ばしたのは、ハーフリングの少女、フィー。
身の丈を超える杖でこつんと床を叩き。不服をあらわにするフィーにも、アッシャはへらりと笑って誤魔化した。
「……まぁ、でも。よくギルドマスターが怒らないものね」
フィーの視線が、淡々と依頼の処理をしていたギルド職員に向けられて。
視線を感じ取った職員が、仕事に励む手を止めてフィーの言葉に苦笑いを浮かべる。
「ギルドマスターもね、特に気にしてないみたい。初心者ダンジョンって認識があるせいか、指導役を任されているから」
「最終的にどーなろうが、どーでもいいってことかしら」
「あ、えっと。はは……」
歯に衣着せぬフィーの言葉、ここのギルドマスターにとっては本音であるらしい。
鋭い発言に対し上手く取り繕えない職員の彼女は、困ったように眉を下げた。
「………」
雑談に耽るアッシャとフィー、職員を横目に、口を噤んだままでいたもう一人の冒険者が。
彼女たちの会話の切れ目を待っていたよう、懐から四つ折りにした紙を取り出して職員に提示する。
さらにアッシャが無造作に置いていた荷物から、幾つかの薬草を取り出して見せた。
「依頼書と、依頼品」
目深に被ったターコイズブルーのフードマントから、同じ色を持つ瞳が職員を覗き込む。
輪郭の左右から伸びる銀髪の三つ編みに繋がれた装飾品は、あまり見たことのない品物で。
依頼品と合わせて、やっぱり特徴的だよね。職員が胸中で独り言ちる。
「……あの。ラーサさんのパーティーが持ってくる薬草は、保存状態がすごく良いので……薬師さん達から大変重宝されているんですよ」
「……そう?」
「そうそう! あたし個人として扱うんだったら、もーっとたっかいお金で吹っ掛けて懐ウハウハにしてラーサに返すのにって思うくらいには、質がいいんだよ!」
「いや悪徳商法やめてよね」
「フィーだって贅沢三昧できるよー?! 本だって買い放題、古代の魔術書だって幾らでも買えたりして!」
「………まじ?」
「冒険者ギルドを通して売るのが決まりだから、それはだめ」
「ん"ぐっ! 夢断念っ!」
アッシャとフィー。彼女達よりも二回りほど背の高いラーサの手刀が、それぞれの頭にぽんと乗せられる。
くすくすと肩を揺すらせて笑う職員の顔を、フィーがじとりと睨んで見せた。アッシャに関しては、当然のように通らない戯言とわかっていたからか、明るくニヤついているばかり。
「冒険者ギルドを通して売れば、買い手は見つかる。買い手が気に入れば、また依頼をもらえる」
「そうですよ。堅実に冒険者としてお金を稼ぐのは、ラーサさんの方針が一番。地道でも、確実です」
「ラーサだけじゃないよ! あたしの荷物入れのおかげ!」
「はいはい」
「ちょっと。そもそも、あの薬草の群生地前にいた魔物を倒せたのは、わたしの魔法あってのことだから」
「はいはい」
あいた!
アッシャとフィーの頭に、再度と落ちてくるのはラーサの手刀。
慣れた様子で二人の不毛なやり取りに幕を下ろすと、ラーサは職員から報酬の貨幣を受け取る。
依頼書の隅に書かれた名前は知っている名で、いつも贔屓にしてくれる依頼者だ。
「……ちょっと気になるんだけど」
「はい?」
「この人って、タム・アンの国の人じゃないんだ」
「えぇ、そうですよ。タム・アンが西方の端にあるなら、この依頼者さんは東方の端にあるユユイの国の人ですね」
「ユユイ? あの城塞都市の?」
横から口を突っ込んできたアッシャが尋ねる。
「はい。あそこはこの大陸の様々な冒険者ギルドから、ダンジョンの品が集まってくるのですが……薬草に限ると、届くまでにどうしても状態が悪くなってしまうものが多いので」
「ふぅん……」
「ユユイかぁ、いいなー! 商人の憧れの都市であり、錬金術師が望んで止まないたくさんの材料の流入地点……!」
憧憬の思いを膨らませるアッシャに、ラーサは肩を竦め。夢見るお嬢さんと化した彼女の両肩をぎゅっと掴む。
フィーも慣れた様子。ふんっと鼻を鳴らすと、杖を持ち直していた。
「次の依頼書を見ようか」
「そうね」
「ユユイ……ユユイ、いいなぁ……」
アッシャの肩をずんずんと押して、依頼書が貼り出されている掲示板前まで赴く。と。
鉱石採取。冒険者捜索。木の実探しに……何やら毛色の違う依頼が紛れ込んでいる。
よく見てみる……新米冒険者パーティーへの指南役。
……依頼者がギルドマスターなのに気付いて、フィーの視線が胡乱に染まる。
ほかにもっと景気が良くて簡単な依頼はないか……都合の良い依頼を探す瞳が、ふと掲示板に貼られた一枚の紙に気が付いた。
「ラーサ、あれは? アンシエントトリーの剪定依頼、ダンジョン外で場所は……うわ」
「……呪いの遺跡」
「呪いの遺跡!? 嘘ウソ、そこ行くの!? やだよあたし!」
自分の世界でうっとりしていたはずのアッシャが、呪いの遺跡と聞いて途端に声を荒げる。思わずといった風に、頭上にあるラーサの顔を見上げた。
そして両肩を掴んでいた腕を振り払い、ぶんぶんと首を振って拒絶を示す。
うわ。と、自然と斯様な言葉を吐いたフィーはというと。依頼者の名前を、何やら目を皿のようにして見ているではないか。
「さっきと同じ、依頼はギルドマスターからだね」
「お金はすごく良いけど、良いけど……!」
「……ねぇ、ここの依頼掲示板ってギルドマスターの貼り紙ばかりよね」
「え、へへ……どうしても手が回らないところは、冒険者さんの協力をいただいていて……!」
その代わり、お金は弾みますので! ぜひ……!
焦った様子のギルド職員が、精一杯のセールストークを始める。
依頼書の写し書きをさっと取り出すと、往復に掛かった日数分だけ上乗せあり、とか。アンシエントトリーの木の実の持ち帰りも出来たらそれも上乗せ、とか。駆除でなく剪定作業でどうのこうの、……何やら必死である。
この報酬の吊り上がり具合は、場所が場所柄故に、だろうか。
「でも呪いの遺跡だけど」
「うぅ!」
「呪いの遺跡に足を踏み入れると、呪いにかかるってホント?」
「それはでたらめよ。アッシャ、あそこは単純にアンデッドが多いってだけよ……」
「フィーも怖がってるじゃん!」
「……わかった。アッシャとフィーは留守番。私が行く」
貼り出されていた依頼書を手で千切り、ラーサは職員が待つカウンターまで赴いた。
堂々と目立つように貼られたそれは……まだまだ新しい紙きれである。
「ありがとうございます! では今回は……ラーサさんお一人での依頼遂行で」
「そう、だから……あぁ」
いつもの手癖だ。
パーティーの名前、リベ・エーテルと書こうとして、ラーサの手が止まる。
無理やり綴りを直し、一人分の名前だけを書き上げた。
「ねぇねぇ、呪いの遺跡って危険なんだよね? ラーサにイイモノあげるよ!」
いつの間にか傍まで来ていたアッシャが、ターコイズブルーの布裾を引っ張って意識を向けさせた。
言動の節々が子どもっぽいのは、いつものことだが。今日はやけに幼く見える。
ぱたぱたと依頼受諾と手続きを始める職員から、得意げな様子でいるアッシャに視線を向けてやる。
イイモノ、か……。ふとラーサの頭に過ぎたモノ、とは。
「借用書……?」
「なんで!?」
「っぷ、ふふ」
訝し気に首をかしげたラーサの表情は、よほどアッシャを信じるに値しないとでも言うかのようで。
喉の奥で笑いを噛み締めるフィーに気付かないわけもなく。アッシャは彼女にべェっと舌を出して見せた。
「なによ、なによ! 人の善意は笑うもんじゃないし、素直に受け止めるもんだよ!」
「アッシャがタダで物をくれるなんて、ないことよ? ラーサだって疑うでしょ」
「フィー、そこまでは言ってないよ」
「思ってはいるでしょ」
「あ、うん」
「うんじゃないって!」
やいのやいの。賑やかに騒ぐ声を、どうやらギルドマスターは聞きつけたようで。
バタンッ!
先ほど覗いていた隣の部屋へ通ずる扉が乱暴に開かれ、中から不愛想な面立ちをした青年が顔を出した。
アッシャとフィーはどちらも小柄だ。小柄故に、仁王立ちするギルドマスターの存在感は圧倒的で。
「ここで先輩冒険者からのタム・アンダンジョンにおける興味深い実体験を聞こうと思う」
口を挟ませない気迫、有無を言わさぬ物言い。
ひえ、と。漏れるのは、両者の唇から恐怖をあらわにする一声。
「あ、ちょ、まった! ラーサ、ラーサ! ほらこれ、あたしのポーチ貸しといてあげるから!」
首根っこをがしっと掴まれたアッシャが、咄嗟に自身の体に巻き付けていた小ぶりのポーチをひょいと投げる。
反射的に受け取ったポーチの中には、低品質だが回復薬が二つと、乾燥した毒消し草が一束、入っていた。
「! わ、わたしも、ええと……ラーサ! はい、これ、お守りっ。預ける!」
同じくして。ギルドマスターにフードの首根を掴まれ引きずられていくフィーが、自身の耳飾りを取っ払ってラーサに投げ寄こした。
……二人とも、土壇場の思い付きで渡してくれたようなもの、だろうか。
疑問を浮かべるラーサをよそに、彼女達は情けない声を上げながら隣の部屋へと吸い込まれていった。
アッシャに至っては背負い込んでいたはずの荷物も置いてけぼりだが、まぁ……大丈夫だろう。
咄嗟に手に取ったフィーの耳飾りをなんとはなしに見てみると……何やら文字が刻んである。
「……古語だ」
「あら? 古代文字が書いてあるんですか? 本当の意味でお守りですね」
それに、そのポーチも。
どういうことかと暗に首を傾げていると、職員はどこか楽しそうに微笑んだ。
「その回復薬や毒消し草を使うことのないように、って。だから貸すといったんじゃないでしょうか」
「……いや、たぶん」
あげるなんて根っからの商人にはとてもじゃないが言える言葉ではない。
そんなことを口にしようとしたが、ラーサは緩慢に唇を閉じた。
「……使ってもいいけど、高品質の回復薬で埋めて返せってことかな」
「……まぁっ!」
そのほうが、アッシャらしい。
淡々と呟いたラーサの耳に、今しばらく職員の笑い声が響いていた。
――三日後。
東の空からゆっくりと陽が差し込もうとしていた明け方に、それは起こった。
タム・アンの森と呪いの遺跡の境界に座す、大きなアンシエントトリー。
その根元で休んでいたラーサを、突如として地響きが襲った。
「なに……!?」
この世全てを飲み込まん勢いで天地を揺るがす地響きは、鼓膜を突き破らんかのように囂々と鳴り響いていた。
森の木々から一斉に鳥が飛んで行く。地上からでは森林に視界が遮られ、何が起きているのか定かではない。
周囲を見渡すと、ラーサはなりふり構わず呪いの遺跡を駆け上がる。
古来、月や星に向けて祈りを捧げていたこの遺跡は、それなりの高さを誇る過去の遺物である。
……いったいどれほどの段数を駆け上がって行っただろうか。
その間にも地響きは続いていた。遥か階下にある遺跡の石段がいくらか崩れてしまっているようだが、遺跡全体の倒壊までは及ばないと信じ、彼女は足をひたすらに進める。
息も絶え絶えとなってきた頃に、遺跡の天辺、祭壇へ続く出口が見えてきた。
ラーサは歯を食いしばり、足のもつれを覚えながらも、勢いに任せて駆け込んだ。
そうして……彼女が目にしたものは、想像すらしたこともない光景であった。
タム・アンの森、ダンジョンに通ずるはずの大きな集落が、大きな冒険者ギルドの建物が、周辺の木々が。全て例外なく、諸共消えていた。
まるで天から降りてきた神の手によって抉られた様に、ぽっかりと巨大な穴だけしかそこにはなかった。
どういう、ことだろう。
理解の及ばない彼女の脳裏に、アッシャとフィーの顔が浮かぶ。
……彼女達は、果たして無事だろうか?
は、と。口を開いて息を吸った彼女だが、二人の名前を呼ばんとした唇は空気を食んで……呼気が引き絞られた。
「やぁ、剣士さん」
眼前、すぐそこ。目の前だ。
この地上から幾らも高い位置にある祭壇を前に、ひらひらと軽薄に手を振る存在が突如として現れたからだ。
それも、宙にふらりと漂っている。魔術を使用した様子もないとくれば、警戒心を抱くのに時間は要さなかった。
ぼやけた乳白色に、出鱈目な色のメッシュを入れた髪。円い紫の瞳は、さながら深淵でも覗いているかのように澱んでいる。
頭部からは髪色に馴染まない黒の獣の耳をピンと立てて生やしていた。猫、に良く似た形である。それは地鳴りを受けて飛び回り続ける鳥達に意識が逸れてしまうらしく、頻りに先端を動かしていた。
獣耳の根本や先についた耳飾りが、動く度にシャラシャラと音を奏でる。
斯様な見目からでだって、安直に判ろう。コイツはどこからどう見ても人間のソレではない。
背に携える剣の柄にラーサが利き腕を添える、丁度その時だ。再度と地鳴りが周囲一帯へと伝わってきた。先よりも激しい揺れだ。
足元の遺跡にも亀裂が生じた。祭壇の床へ丁寧に彫られた紋様が割れていく。次第に、ガラガラと真下から建物が崩れていく。
それでも人でない何かに向けて、ラーサは反射的に剣を抜き――ガラクタと化した遺跡の瓦礫と共に、足場を失った彼女は地上へと真っ逆さまにその身を投げ出されてしまった。
右の側頭から耳元、顎先へと掛けて生ぬるい何かが伝っている。
たらたらと流れる不快な感触に嫌気を覚えた。しかし拭おうと思うのに、右手も、左手も言うことを聞いてくれない。瞼を開けるのが精一杯か。
どうすることも出来ずにやきもきしていると、そっと右の側頭に誰かの手が宛がわれた。
華奢なその指は、流れ落ちる液体など気にも留めず、優しく頭部を撫でてくれていた。
……とても心地が良い。
『魔物に単身で突撃するのはだめだよ。パーティーの意味がないじゃない』
それはわかる。でも前に立つ者が後ろの者を守らないと。役割分担に従ったまでで……。
『自分独りで戦っているわけではないんだから、もっと他のメンバーの動きを見て行動しないと』
それは……確かに、私が先走り過ぎてしまったと思っている……。
『わたしみたいな魔法使いや、アッシャのような錬金術師とパーティーを組んでいる以上、あなたは魔物と一番近くで戦うことになるけど』
…………。
『変に気負ったりして、魔物を食い止めることに躍起になって、結果無茶して倒れられるのが一番困るの。蘇生術はわたしが扱える魔法とは畑違いだから、……死んじゃったりしたらびっくりするよ』
……フィーの声が遠くに聞こえる。
『わたしにも戦闘の補助は出来るし、アッシャの道具で魔物の気をそらせば無駄な戦いも避けられる』
そうか、これは。
『信じるのって、すごく難しいことだけど……もっとわたし達のことを頼ったっていいんだよ、ラーサ』
いつかずっと前、あの二人とパーティーを組んで間もない頃。
単純な怒りや説教よりもよほど身にしみる言葉をくれた、フィーとの記憶だ。
彼女の言葉に何も言えずにいた私を見下ろすと、フィーはぱちぱちと目を丸めて、得意げに笑っていた。
――ごめん。守ろうとしたのに、逆に迷惑をかけてしまった。
そう零した私の言葉は、フィーにしっかりと拾われていた。そういうつもりじゃないから、って怒る顔は、すこし……少しだけ、怖かったけど。
心配そうに覗き込むアッシャにも謝罪をした。アッシャはお大事に、と手短に告げて、回復薬を飲めと瓶を押し付けてくる。
治療中のフィーが邪魔そうに顔を顰めているのと比べて、アッシャの顔にはニヤつきが滲んでいた。
……そんなふたりの顔は、初めて見た。何故だろうか、少し、嬉しく感じたことを覚えている。
合間にぼんやりと聞こえてくる詠唱の声は……ふしぎと覚えがなかったが、徐々に右の側頭から流れていた液体の感覚が薄れてゆく。
心地よさを覚えていた束の間に、その手はゆっくりと頭部を離れ、同時にフィーもアッシャの姿も、遠く霞むようにして掻き消えてしまった。
タム・アンの森を襲った地鳴りは、太陽が頭の上に差し掛かる刻になって漸く治まったらしい。
動物達のざわめきも随分と静まり返った気がするが……。
はッとして目を見開く。年中快晴で在るはずの空はどんよりとした灰色に染まり、浮かんでいる雲たちは物凄い速度で流されていた。遥か空の上では強風が吹いているようだ。
「……!」
空を眺めていたラーサは、遺跡もろとも地上へ叩き付けられるまでの一瞬の出来事を思い出した。
瞬発的に寝そべっていた姿勢から上半身を起こす。上肢がふらついてしまったが、……外傷らしいものは見当たらない。
近くには瓦礫が散乱しているものの、どれもラーサとの距離は遠い。
運良く下敷きにならなかったとも考えられたが、それにしては無傷であるというのも……。
夢か、現実か。定かではないが。
右の側頭に覚えていた違和感を確かめるように、右腕を擡げて頬や耳元を触ってみる。……怪我の痕跡はない。
外れていたフードをそっと被り直し、腰に携えていた剣の所在を確認して。
アッシャのくれたポーチもきちんとある。フィーから預かった耳飾りは、お守りとしてポーチ内へしまっていたのが良かったらしい。無くさずに済んだ。
片手を突いて立ち上がる。改めて森の様子を見るが、愚図ついた天気のせいもあるのだろう。
いつものような明るい森ではなく、薄暗く……肌寒さを覚えた。
呪いの遺跡からタム・アンの冒険者ギルドまでの道は徒歩で半日程。深い森に覆われたこの地では目印、または道標の魔法無くして帰途を辿るのは難しいが……。
「……とにかく、行かないと」
ラーサは眉宇を寄せて、鞘から剣を引き抜いた。柄を握りこむ手に、必然と力が篭もっていた。
陽が沈む前に、方向がわからなくなる前に。
ガラクタの廃墟と化した遺跡に背を向けて、タム・アンの冒険者ギルドを目指して彼女は小走りに駆けた。
ふと、出鱈目に抉った地上の景色が脳裏に過ぎる。
背の高い木々を避け、蔓延る樹木の根を飛び、枝葉を掻い潜り。
いつ魔物に出くわしても良いようにと握りこむ剣で、進路を塞ぐアンシエントトリーの蔦を切る。
脳裏を過ぎったあの景色が、いまは記憶にべったりとこびりついていた。
――陽が傾き、夕焼けの色に染まる眩い光が森の木の葉を照らす。
常に見掛けていた動物たちは姿を消し、ダンジョンや冒険者ギルドが存在する集落へ近づくにつれて、タム・アンの森は不気味なほど静まり返っていた。
胸騒ぎは、歩を進めるたび心を蝕んでいて……そして。
「……タム・アンが……」
視界が明るくなる。寄り集まる木々の切れ目に辿り着いた瞬間、ラーサは言葉を失った。
彼女の眼前に現れたのは、正しくあの遺跡から見た景色がただただ広がっているだけのもの。
天から伸ばされた神の両手に、建物はおろか地面ごと抉られたように削り取られた大地だけがある。
冒険者ギルドや集落の建物と思しき建材の破片や、風に攫われて地上へ落ちてきたらしい冒険者の装飾品。
人がいたことを示す何かはあちこちに散らばっているのに、周辺には……何も、文字通り。何もなかった。
ほんの少し前まで、確かにそこは、ラーサがラーサとして自分らしく在れた場所だった。
これからもそう在れたはずの、大切な居場所だった。
「……これは、違う、きっと」
道を間違えたのかもしれない。タム・アンの森は広いから……そう思いたくてたまらなかった。そうでないことは、誰よりもラーサが知っていた。考えれば考えるほどに、胸が締め付けられてしまう。
「タム・アンの国は無くなっちゃったよ。ダンジョンと共に消失した国、タム・アン。遥か先の未来では、悲劇の国としてそう語られているだろうね」
すぐ耳元で声がした。気を失う前に聞いた覚えのある、声だ。
息を飲んで振り返るが、誰もいない。幻聴か、魔性の類か。タム・アンの魔物にこんな流暢に言葉を発する存在がいただろうか?
周囲を見渡すが、自分以外の存在は見つけられない。……だが、嫌な気配はひしひしと感じ取れる。
誰だ、と。声を発そうとしたラーサの背筋を、寒気とも悪寒とも含みがたい感覚が走り抜けていった。緊張から湧き上がる唾液を、緩慢に飲み込む。
「君以外の者は残念ながら見つからない。あぁ残念だよ、タム・アンの未来を託すヒトがほかに存在しないんだから」
頭のすぐ上で声がする。軽薄で他人行儀で、微塵も感情のない声だ。
咄嗟に剣を頭上へ振り上げる。手応えは無く、まるで空気を切り付けたかの如く、剣は重力に従って地面へ向けて降下した。……途中、何者かに剣先を摘まみ上げられるまでは。
「君さぁ」
軽く引っ張られると、ラーサは反射的に剣を強く引いた。
幸い、剣先を摘まみ上げていた力はすぐに失せてくれたが。必然と視線を向けると、そこにはあの時軽薄に手を振っていた人物がその姿を晒していた。
「……魔物」
「失礼だね。悪魔だよ、悪魔。僕はこうして君とお話出来る存在だ、アレらより余程知性がある。そうだろう?」
それならば猶更、話をしてはいけない存在だ。
悪魔と声を交わした人間は、欲にのまれて破滅に追いやられると聞く。
半歩下がって、今一度悪魔と自称する存在を目に映しこむ。関わってはいけない類である、そう判じるのに時間は掛からない。
剣を片手に構え、口元を隠すようにフードマントの襟を引っ張る。姿を眩ませられぬようにと、その姿はしかと見据えて。
「……悪魔と言葉を交わすなって迷信を信じてるのかい? それなら賢明だよ、よく知ってるね」
要件はなにか。
ダンジョンの消失。集落どころか、もはや国そのものの消失といっても差し支えない現状。
人々はおらず、冒険者ギルドはおろか、家畜や動物の姿も見当たらない。ただ荒れた大地に木が植わっているだけの場所で。
悠然と宙を漂う悪魔を自称する存在に睨みを利かせる。ラーサは自身の唇が強く引き結ばれているのを感じていた。
「悪魔は人間の言葉尻を捕らえて、無茶苦茶な難題を押し付けるからね。現にそれで僕らは食ってるわけだ、言葉の通りに。で、……君はダンマリを決め込むのかい?」
「………」
「そろそろ喋ってほしいトコロだけど」
そうだ、良いことを教えてあげようか。たった今、名案を思いついたんだ。
そのように口角を上げて見せると、悪魔は軽く咳払いをして作ったような笑みを貼り付けた。
奴のその顔は酷くイラつきを覚えさせる。人を小馬鹿にしたような表情だ。
「端的に言え」
「耳がついてて何より。それでは、端的に」
宙に浮かんでいた悪魔は、漸くとその足を地につけた。
抉られた土地。巨大なクレーターを背景に、不規則に浮かんでいた体が直立する。
「その前に自己紹介をしよう。僕は悪魔、暴食の悪魔。元、暴食の悪魔さ。暴食とは? 底のないバケツとでも思ってくれよ。え? この喩えはつまらないかな? それならただの大食いクンとでも呼んでもらって」
無意味な言葉や訂正を重ねる悪魔に、剣の切っ先が距離を詰める。
悪魔は困ったように掌を此方に向けて、ラーサの動きに制止をかけた。
「失礼、自己紹介をやり直しましょう。僕はこのタム・アンのダンジョンを支配していた、暴食の悪魔です。
君はこの地のダンジョンに出入りしていた半……人前のヒト、で、すね。
話は簡単。単純明快。大丈夫、ひよっ子冒険者にもわかるよう懇切丁寧に説明を……わかった、端的にだろ。端的に言うとさ」
慇懃無礼にベラベラと喋り続ける舌を引っこ抜いてやりたくなる。口調を崩していくのにも苛立ちを覚えて仕方ない。
次第眉を顰め始めるラーサに、もう少し我慢してよ、とばかりに悪魔は自分の唇に指を立てて黙することをねだる。
「端的に――他のダンジョンを支配、あるいは陥落させれば、消えた国を取り戻せるかもしれないって話だよ。
……悪魔は対価を払えば願いを叶えてくれる存在、それは周知の事実だ。けど、敗北を喫し屈服した悪魔への願いの対価なんか無いんだよ。
巣穴に飛び込んで、ダンジョンの最深部を目指す。対峙した悪魔の首を君のソレでチョチョイと小突いて、さあ命が惜しくば願いを叶えよ――!
って揺すればさ。君の仲間やここにいた人間を、ダンジョンを、そっくりそのまま取り戻せるはずだよ。
僕はダンジョンを取り戻したい、君は国やら人やらを取り戻したい。僕は君が必要だ。そして恐らく、君も僕を必要なはず。悪魔の魔術は便利なんだ。理解が出来ているうちに、取引といこうじゃないか」
さぁ、どうする?
右から、左から。上下、構わず。間髪を入れず語りかけてくる悪魔の声に、眉間に皺が刻まれる。
嘘か本当かもわからない。だが、……だが。
眼前に在るのは、何もかもを無くしたタム・アンの森。人の声も、心地よい空も、春のような陽気も失われた場所。
「……悪魔の口車には乗らない。ほかの方法を探す」
「へぇ。いったいぜんたい、どんな方法があるんだい? 神父越しに姿も声も見たことも聞いたこともない神様に、なんとかしてくださいってお願いを伝えてもらいにでも行くのかい?」
「少なくとも、悪魔よりはマシ」
「へーえ。君をこの地で”独りぼっち”にさせた神様に、ねぇ」
知ったような口を利く悪魔は、逐一こちらの怒りを煽るような言葉を選ぶ。
怒りに我を忘れて剣を交えんとしてみろ。一瞬の隙を突かれて取り込まれてしまう。
あぁ、腹が立つ。現実に起こっている出来事のすべては、あの悪魔が言葉にした通りの物だから。
ぐるぐると胸の内を巡る苛立ちを抑えつけ、乱されつつあった感情を飲み込む。
何をすれば良いのかもわからない。夢であれと強く願ってばかりの心中でいる己に対する苛立ちも、一緒くたに飲み込んだ。
「……お前の言う方法はわかった」
「お利口さんだね、安心したよ」
ムカつく奴である。悪態をついた直後、……ぽつり、ぽつり、と。
悪魔との問答を切り上げたラーサの頭頂に、小さな雨の粒が落ちてきた。
空を見上げると、厚い黒雲が夕刻の空に広くなだれ込んでいる。頬を撫でる風の冷たさが、タム・アンに雨の訪れを報せていた。
「ほかのダンジョンって」
「冒険者なら知ってるだろ? ほかにいくつか存在する、悪魔が弄ぶダンジョンの話」
そう。この大陸にしかない、悪魔が支配するとされるダンジョン。
タム・アンで経験を積んで過ごしていたラーサにとって、伝聞や本でしか知り得ていないダンジョンを、奴は指しているのだ。
無知であることに今更自覚を持ったところで、どうにならないことをラーサは思い知った。
「大丈夫さ、悪魔の魔術は強力なんだ。君が死なないよう、手助けもするよ」
「それはどうも」
「それこそ、死んでも生き返らせる術は慣れたもんさ。アンデッドになるおまけつきだけど」
「要らない」
視界に落ちる雨粒は、いつの間にか大きく強くなって、ラーサの体を濡らしている。
常春のタム・アンはもう無い。水はとても冷たく感じられた。
「なぜ私なんだ。支配や屈服させるなら、お前でも出来るはず」
「悪魔は同族を殺せない。同族を従えることは出来ない。同族の命令は叶わない。君ら人間種同士がやってるみたいには、出来ないんだよ。強い者の特権であり枷なのさ」
「……………」
即ち。他の悪魔の力を利用するには、人間種の存在が必要らしい。
わかるかな? ……悪魔の小馬鹿にしたような態度は未だ鳴りを潜めないが、言い分は過剰なほどに理解できよう。
頭痛を覚えそうになるが、ラーサは深く深く、息を吐いて……こちらを値踏みするような眼を寄越す悪魔に一睨を向けた。
「良いだろう、ただし条件がある」
「なにかな?」
「名前を吐け」
「……いやぁ君本当に、よく知ってるね。手綱を握られるのは好きじゃないんだけど」
「それと、タム・アンが消えた理由を知っているだろ。教えろ」
「まだ喋ってたよね、僕。……まぁいいよ、教えてあげるよ、さしあげますよ」
悪魔が片手を擡げて、宙でパチンと指を鳴らす。
小気味よい音が鳴ったのと同時に、周囲に植わっている樹木が枝葉をドーム状に伸ばして、二つの影に覆い被さった。
……雨の気配が遠のき、代わりに悪魔の声がよく聞こえるようになってしまった。
「ダンジョンの崩壊は世界が決めた。タム・アンは必要無いと世界が決めた。"僕らは要らない"と放り出されたんだ」
ホントだよ。
唇を引き結んだラーサの喉が、得も言われぬ不快感からぐっと絞まる。
僕らは要らない。大切な仲間を誹られ否定されたような心地に、不愉快を覚える。
「……わかった」
「いやぁ結構結構! 物分かりが良くて何よりで」
「名前は」
「覚えてたんだね。…………フェレライさ」
大いに間を置いて、悪魔はしぶしぶと言った態度で名を明かした。
自ら人に名を明かした悪魔は、その者への裏切りが禁じられる。取引の見返りとしては、十分だろう。
「ま、さておき。つまんない景色と共に一夜を明かしたら、さっそくダンジョンを目指そうよ。仲間の顔が早く見たいよね?」
だが、尊大な態度は今なおラーサの神経を逆撫で続けていた。
やはり剣の柄を握る腕には、必然と力が篭もるもので……けれど悪魔の言い分は最もである。
腹の底から沸き立つ怒りは悪魔に対してか、何もかもが無くなったタム・アンの現状に対してか、……のうのうと悪魔の魔術によって雨宿りをしている自分に対してか。
悪魔から距離をとって、枝葉を好き放題に伸ばされた樹木の根本に腰を据える。
木に背を預け、警戒心から抜き身のままでいた剣を背とマントで隠している鞘に納めた。
「……………」
アッシャから借り受けたポーチを、確りと体に固定し直す。
フィーから預かった耳飾りも……どの道フードで隠してしまうが、忘れないよう両耳に付けて。
つい数日前まで共にしていた二人の名前をラーサが雨音に紛れて呼んでみるが……答える声は、当たり前のようにない。
静寂が包む森に、雨音だけが響き渡る。
この日を境にタム・アンに降り出した雨は、来る日も来る日も弱まることなく、地上へと降り注いでいた。




