赤い海
私は赤い海の上にいた。
しかし、その海は浅く、靴底までしか浸さないほどの海だ。
人々はそんな所、海じゃないというが、私は違う。
こんなに浅くとも、誰が何と言おうがここは海だ。
海の上には、私以外誰もいない。
だが、『物』はある。
鉄と木でできた岩。
ほんのり暖かい、しかしピクリとも動かない魚たち。
この海には、私しかいない。
けれど、海の回りには人がいる。
私は、ここに入ってこないでと言おうとり振り向くと、一目散に逃げていく。
不思議に思ったが、私にとっては、ありがたい。
この静かな海に邪魔は入れたくない。
感傷に浸る私を横目にある男がやってくる。
「誰?」
私が聞くと、男は答える。
「私は、人です。あなたと違って」
「どういう意味?まるで私が人間じゃないみたいな言い方ね」
「いいえ、あなたは人間です。親がいて、兄弟がいて、営みによってこの世に生を受けた紛れのない人間です。しかし、人ではない」
男は、端的に話した。
「ますます意味がわからないわね。結局、あなたは、何が言いたいの?」
「あなたは、人間であって人でない。その証明に、あなたは、本来持って生まれるはずの物を持っていない」
「あなたはさっき言った。営みによってこの世に生を受けた人間だと。親のおかげで四肢があり、五感もある。この私に何が無いというの?」
「感情です」
私はその答えに、薄ら笑いを浮かべた。
「なら、その考えは間違えね、私には感情がある。その証拠に今、喜びと快感を感じているわ」
しかし、男は答えた。
「いいえ。間違っていません。あなたには、感情がない。なぜなら、あなたのその喜びと快感は、偽りの感情から発せられるものだから」
「偽りの感情?」
「人は、様々な感情を持っているが、あなたは違う。
あなたには、それしかない。喜びと快感。これしか感情がないから、あなたは、それを求める。自分を満たすものがそれしかないから」
それを聞いた私は、話した。
「なら、あなたも人でないわね」
「なぜ、そう考えるのですか?」
男は不思議そうに聞き返す。
「人は、様々な感情を持っている事自体が間違っているから」
「どういう意味ですか?」
「そもそも、ひと一人が同時に抱く感情は数が少ない。多くても3、4個ていど」
これを聞いた男は、すぐさま答える。
「それは違います」
「違くないわ。現に、あなたは今、どういう感情があるの?」
男は、少し考える。
「あなたへの畏怖、恐怖。そして、自身への肯定感···のみです」
男は、うつむく。
「ほら、あなたも人じゃないわ」
男は、うつむいたまま、一言も話さなかった。
私の中に、新たに優越感がわいた。
「ですが、あなたは人ではありません」
しかし、男は引き下がらなかった。
「まだ言うの。私は人よ」
「違います。確かにあなたの言うとおり、感情が乏しければ人でないことは、訂正しましょう。しかし、あなたが人でないことの証拠は、感情にあります」
「何を言っているの?今、あなたが言ったじゃない。感情が乏しくとも、人であると」
「はい。確かに言いました。けれど、あなたには感情が足りない」
「何が足りないと言うの」
「恐怖です」
男は、そう答える。
「恐怖」
私は繰り返した。
「あなたには、恐怖が無い。感情の全てではなく、恐怖だけが、あなたの中に存在しない」
私は、男に問う。
「なぜそう思うの?」
「あなたは、『それ』ができる。しかし、私には、『それ』が出来ない。なぜなら、私は『それ』が怖いから」
私は、自分の手を見たまま答える。
「私は『これ』が怖くない。しかし、あなたは、『これ』が怖い。『これ』に抱く感情の有無が、私とあなたにある人であることを分ける差なの?」
「はい」
私は天をあおいだ。
「···あなたのそれは否定もしないし肯定もしないわ。けど、間違いだとも思わない」
「そうですか」
少しの間、沈黙が二人を包んだ。
「私はこれからどうなるの?」
「あなたは人ではありません。しかし、人間です。
なので、他の人間と共に生活させ、人なるように強制されるでしょう」
「それは、誰が決めるの?」
「私でもあなたでもない、他の人が決めます」
「私は、たった一人で、この赤い海へと旅立った。しかし、それをあなたは、間違いだと言う。けれど、私はどんなに長い時間が過ぎようとも『これ』を間違いだとは、一生思わない。あなたにだけ言っておくわ」
「なぜ私にだけ、言うのですか?」
「わからないわ。けど、あなたに言っておかないと、なぜだか後悔するように感じた。下らない、第六感とか言うやつよ」
『外』を見ると、夕日だけでは到底表せないような赤が、『外』を埋め尽くしていた。
「どうやら、迎えが来たようね」
「そのようです」
「迎えの使者が此処まで来たら、私はこの海からでないといけない。それだけが唯一、不服だわ」
「でも、あなたはそこから出ないといけない。それが人の決めた、絶対のルール、守らなければいけない秩序なのだから」
「だから私には、迎えが来て、あなたが此処へやって来た。その秩序を脅かすから」
「気付いていたのですか」
「ええ」
「なら、なぜ私に付き合っていたのですか?」
「あなたは言った。喜びと快感。これしか感情がないから、これしかあなたを満たすものがないから求めると。『これ』をした時点で私は満たされた。だから、あなたが居なくとも、私はこれ以上『これ』を行う気は、なかった」
「だから私に付き合ってくれたと」
私は、なにも言わなかった。
「そろそろみたいね。足音が近づいてきたわ」
ぞろぞろと、こちらに向かってくる足音を聞き、男に伝える。
もう終わりだと思い、海から出ようとした時、男が聞いてくる。
「あなたは今、何を感じているのですか?」
私は少し考えてから、
「虚しさ、喪失感、絶望。そして、あなたへの興味。それに、喜び。···あら、これじゃ5つね。自分の考えでも、私は人じゃなくなったわね」
男は、目を見開いた。
そして、少し笑うと一言、「そうですか」と言った。
それを見届けると私は、赤い海から出、迎えの使者へと、歩み寄って行く。
「わたしが『これ』をやりました」
満面の笑みで使者へ言った。
勘違いしてると思いますが、舞台は教室です。