動かないゾンビ
二階には私達の息子の部屋がある。籠りきりだったせいか、腐ってしまった私の息子。生きているのに腐ってしまうという事は、どんなに辛い事だろう。
或る日、食事を届けに部屋を開けると、そこにはうなだれたまま、手に乗せた丸い何かを見ている息子がいた。それが自身の顔から抜け落ちた目玉なのだと気付いた時、私は腰に力が入らなくなって、壁伝いに崩れた。息子は、自分から腐り落ちた自分の左目を、まだ腐り落ちていない右目で、ぼんやり眺めていた。
私は、自分の子供がここまで腐ってしまっていた事に、気付かないでいた。彼を気遣っているつもりで。いつもの、古びた精液めいた臭いとは違う別の悪臭が、その部屋には漂い始めていた。その臭いを斥候にする様に、腐り落ちるのとは裏腹な腐敗した肉体の肥大が、その日から緩やかに始まった。あの子は腐りながらも、部屋に留まりながらもやっぱり生きていたから。しかし生きてるって一体何なのか。愚かな判断だと世間様に言われるだろう事は承知だけれど、この段階に至った私達夫婦にとっては、あの子が腐敗的な肥大を続ける事だけが、あの子を生きてると呼べる唯一の印だった。
以前は、私達の寝室も二階にあった。腐っていたのはまだあの子の部屋だけだったから、私達も二階で寝られていた。将来を心配しながらではあったけれど、何とか共に暮らす事が出来た。でもその安定も、あの子の肉の腐った部分が迫り出してゆっくり家を侵食していくので、破綻した。私達は一階に避難せざるを得なかった。そうしなければ暮らせなかったからだ。でも本当の初めは、あの子の内側が腐ってしまった事だったのだろう。原因の私達はそれを見ない様にするだけだったけれど、それは事実として段々と表面に顕れ、遂に外側に染み出してきてしまった。私にはそういう理解しか出来ない。
あの子は外が嫌で内側に籠ったのに、腐敗は、段々と外へ外へと、ゆっくりとだが着実に拡がっていってしまう。あの子の内側は、今でも在るのだろうか?昔も今も変わらず、それは分からない。内側が在ったとしても、無かったとしても、どちらにしても酷すぎる。その過酷な現実には、幾ら悲しんでも足りやしない。
とは言え、幾ら悲しんでいるなどと言ってみたところで、私達が薄情である事には変わりはないのだけれど。私が親らしく振る舞っていると胸を張れるのは、腐っていく息子を、隠しているという事だけ。
そうだ、そもそもの始まりは、人を生きたまま内側から腐らせる病がこの社会に流行し出した事件にあった。初めの内、それは、大昔の悪趣味な映画みたいに、外を歩いている腐った人が、別の誰かを齧る事で、その人も腐ったまま歩き始める、というだけの奇病だった。それは間もなく、政府や医療者が適切な対応で抑え込む事に成功した。所詮、接触しなければ感染しない病など、現代の防疫体制から言えば、制御しきれないという事はない。しかし、ノロノロ歩く腐った連中に齧られさえしなければ絶対に発症しない感染症であれば、初めの一人というものも存在しない。低い偶然ではあるが、別の、稀な経路で発症する者も存在するのだ。多分、うちの子は、その一人目の一変種なのだと思う。ただ、息子は、幼い頃から内に籠る性格だった。だから、腐っても誰かに接触しだす様には変われなかった。只々、自分の腐敗を内側だけに留めようとしたのだろう。あの子は動かない。でも結果として、動かないあの子を押し広げる形で、病は外の世界に出ていこうとしている。その結果として、我が家の二階の占領があった。
その事実を外部に確認する事は出来ない。腐り始めた息子は、社会から駆除の対象にされる恐れがあったからだ。…ああ、人間社会も含め、自然現象というものはなんて残酷な務めを我々に課すんだろう。それに、こんなに理不尽な事はない。考えてもみて欲しい。今、あの子程社会的な義務に努めている存在が、この社会に他にいるとでも言うのか?あの子は危険な感染症に襲われ、ゆっくり腐っていく。そして自分の意に反して外に染み出して行こうとしている。だけれど、生来の内に籠る性格で、精一杯その腐敗の伝染を、既に腐り切っている内側に何とか押し止めようとしている。意思に反して拡がり続ける、己と外部の境界の内側にだけ、なんとか押し止めようと。彼に接触する人間は、自ら近付いて接触しようとする愚か者だけだろう。彼は、生きながら腐る病に冒されながら、その腐敗を他の誰にも拡げようとはしない。これほど社会的な存在が、この社会に他にあると言うのだろうか?この、目に見えない形で腐敗していく外部社会の何処に、あの子以上に社会的な存在が?
そして私達は二階を見つめ、私達以外には誰も知る事はないだろう、息子の努力を思い涙を溜める。腐敗の拡張のスピードからして、もうすぐあの子の頭のてっぺんが階段の端に覗くだろう。あるいは、それはつま先だろうか?情けない事に、親である私達は、我が子のつま先と頭を見分ける事が出来ない。
私達が黙っていさえすればいい。彼が、あの部屋ごとこの家を砕いて、外部社会にその姿を晒す、最期の瞬間まではそれでいい。その時、私達は自分達の罪を本当に自覚し、社会と真っ向から敵対して我が子を守る最期を迎えるだろう。家が無くなるその瞬間、私達は一番本当の親子らしく振る舞うのだろう…そんな風に夢想し、涙が流れる。その最期の時を待っている。
…それにしても、「本当に私達だけなんだろうか?」、と、ふと気付く。もしかしたら誰も言わないだけで、或いは私達が知らないだけで、本当は何処かに、あの子と似た症例が居るんじゃないかしら?いえ、もしかしたら既に、いたる所に居るんじゃないかしら?自分の大切な家族が内に籠ったまま腐って行くのを、家が壊れる日まで、じっと耐え忍んでいる、私たちみたいな家族が。