97 夜が明ける夢を見ていたの
ハンマーを手に、軽く息を吐いたグレイペコーは駆け出した。
真正面から立ち向かい、重量に任せて振り下ろしたハンマーを、目の前のジルバはただ静かに笑んで、最小限の動きを以てそれを避けた。
グレイペコーはそのまま後ろへと身体を捻り、振り向きざまに足を回して攻撃に転じるが、それすら彼には分かっていたのだろう。ハンマーの柄を掴む腕を掴まれ、顎へ向けて足が振り上げられていた。
紙一重でそれを避ければ、体制を整える暇もなく、すぐさま腹部へと蹴りが飛んでくる。
少しでも威力を抑えようと身体を捻り、どうにか攻撃をいなすと、グレイペコーは彼との距離を取った。
じりじりと胸底が焼け付くような緊張感を振り払うように、息を吸い、吐き出す。
そして再びハンマーを横薙ぎに振り抜くと、ジルバは身体を引いてそれを避け、左手を大きく振り被って、拳を落とす。
ハンマーの柄で防御すれば、今度は反対の手で柄を下から上へと弾かれる。
咄嗟の動きに反応が鈍り、視界の隅に何かを捉えかけた瞬間、脇腹に強い痛みが走った。
「──っ!」
あまりの痛みに息が詰まり、悲鳴を上げる事すら出来ずに、グレイペコーは地面へと転がってしまう。
横から蹴り飛ばされたのだ、と理解したのは、脇腹を押さえて蹲ってからだ。
歯を食い縛り、視線だけで周囲の状況を確認すれば、溜息が零れる音がしていた。
近づいてくるジルバは息が上る事もなく、グレイペコーを見下ろして静かに言う。
「立ちなさい、グレイペコー。その為に来たのだろう?」
相変わらず容赦がない。
グレイペコーは痛みを堪えながら、口内でそう呟く。
訓練の時でさえ、彼は淡々としていて、決して甘やかす事はなかった。
それは彼の優しさから敢えて厳しく指導していたのだろう、とグレイペコーは考えていたけれど、今この時になって改めて考えてみると、生来のものだったのかもしれない。
乾いた咳を二、三度零したグレイペコーは、近くに落ちていたハンマーをどうにか引き寄せて、柄を握り締める。
押さえた脇腹は、火がついたように熱く、痛い。
呼吸が乱れたせいか、息苦しさが増してきて、頭がぐらぐらする。
中央に近いこの場所は毒霧の濃度が高く、彼に至っては身体がボロボロの状態だ。なのに、どうして普通の状態と変わらずに動けるのか、とグレイペコーは唇を噛み締めた。
同じような症状で苦しんでいたノルは、痛みに弱い人というわけではない。
寧ろ我慢強い性格が災いして、体調を悪化させる事が多々あった程だ。
だというのに、彼がこうして動けているのは、並外れた意思の強さ故か、それとも、もう何も失うものがないからこそか。
じわと背中に滲む嫌な汗が、煩わしくて仕方がない。
はらはらと青い桜の花びらが落ちていく中、ジルバはゆっくりと歩いて距離を詰めている。
地面についた手に力を入れて、グレイペコーがどうにかふらつく身体を持ち上げようとした時、ジルバに向かって銀色に光る小さなナイフが二つ、投げつけられていた。
「おいおい、速達の指導役が弱い者いじめは流石にヤバいんじゃないか?」
呆れたようにそう言いながらも、いつもと変わらぬ軽薄な笑みを浮かべて歩いてくるのはフィスカスだ。
アルティは、と問い掛ければ、テッサに後は任せてある、と言われて、グレイペコーは小さく息を吐き出した。
森に入って少しした後、すれ違ったテッサにフィスカスがいる事を話をしていたから、きっとそうするだろう事は分かっていた。
敵だと思っていたテッサが味方で、味方だと思っていたジルバが敵だなんて、本当に、何て皮肉なのだろう。
グレイペコーは唇を噛み締めて、ジルバを見た。
彼はいつもと変わらない、穏やかな笑顔を浮かべてみせる。
「君が来たのは意外だね」
「俺はあんたに会いたくなかったけど、これも仕事なんで」
ひらひらと片手を振って軽口を叩くフィスカスは、ナイフを手にしてのんびりとした様子で歩いてくる。
ジルバが灰色の瞳を眇めて彼へと向き直ると、フィスカスは走り出し、左足で蹴りを繰り出した。
防御するジルバは、僅かに首を傾けると、防御した腕の力で彼の足を押し返す。
フィスカスが突き出してきたナイフをジルバは手で払い、その隙に左頬、腹部、と立て続けに拳を当てた。
フィスカスはよろけたように見えたが、振り向きざまに彼は再びジルバへ向かって切りつけようとしている。
だが、それもまた手首を払われて外し、フィスカスは顔を歪めて後ろへ飛び退くと、体勢を整えすぐにまた攻撃へ向かう。
左右に連続して突き出されたナイフをジルバは同じように払い、フィスカスが右で蹴り付ければ、ジルバはそれをするりと避け、振り向きざまにフィスカスを軽い力で地面へと転がしていた。
「フィスカス!」
あまりに自然に起きた事に呆然としているだろう彼の名前をグレイペコーが咄嗟に叫べば、すぐにフィスカスは跳ねるようにして身体を起こし、すぐさまその場から離れた。
彼が転がっていた場所を見れば、ジルバが足を地面に叩きつけていて、その威力に、フィスカスは顔を引き攣らせている。
その横顔が青ざめて見えるのは、見間違いではないのだろう。
「俺ばっかり容赦なくボコボコにされてんの、どうしてなんだかなあ」
「日頃の行いじゃない?」
げんなりした様子のフィスカスに、グレイペコーが皮肉げに返せば、血が滲んだ口元を拭った彼は肩を竦めていた。
元より真面目に訓練を行わず、最低限の事だけを覚えられればいい、という姿勢でいた為か、ジルバも苦言を呈していた事もあったのだ。多少は恨まれていてもおかしくはないだろう。
「というか、憎まれ口叩いてる余裕があるなら、そろそろ休憩は終わりにしてくれないか?」
「地面に額を擦り付けてお願いしますくらい言ったら手を貸してあげてもいいけれど」
「そっちこそ助けを待つような殊勝な性格だったか?」
「冗談でしょう、吐き気がする」
軽口の応酬を繰り返していると、どちらともなく重苦しい溜息が零れてくる。
ひりついた痛みがする脇腹から手を離したグレイペコーは、ゆっくりと立ち上がった。
手にしたハンマーを一度だけくるりと回して、しっかりと柄を握り直す。
日が落ちて冷え込んできた空気が、肺いっぱいに入ってくる。
対峙する二人を、ジルバは目を細めて薄く笑いながら見つめていた。
「フィスカス、君だって自分を偽って伝言局にいるだろう。君はピオデラを利用し、イヴルージュの元で諜報活動を行っているのだから」
ジルバの言葉に、フィスカスはぴくりと反応し、その顔から一切の表情を消した。
思わずグレイペコーはフィスカスに顔を向けるが、彼は否定も肯定もせず、ただ深い緑色の瞳を鋭く細めてジルバを見つめている。
その横顔は、いつもの彼とは全く違う、冷え切ったものだった。
「此処へ来たのもその一環だろう? イヴルージュの私兵のようなものじゃないか。君も同じだ。私と何が違うと言うんだい?」
「っ、イヴの事までそんなふうに言うの……!」
旧知の仲であろうイヴルージュを侮辱するかのように言い放つジルバに、グレイペコーは胸底からぐわりと怒りが湧き上がるのを感じて、きつく睨みつける。
その視線を受け止めても尚、彼は言葉を止める事はない。
「グレイペコー、彼女はフィスカスと同じように、君を自分の駒にしようとしているだけだよ。あのお姫様を守る為の駒にね。君を迎えに来たのがイヴルージュでなく私であったら、同じように思った筈だ」
リグレットを守る為。その為の、自分。かつてそうではないかと疑っていた自分を見透かすように、ジルバは優しく諭すように、そう言ってみせる。
奥歯をぎりと噛み締めて、グレイペコーはすぐに反発した。
「違う!」
「いいや、違わない。君は何もわかっていないだけだ」
間髪なく否定するジルバに、グレイペコーは真っ直ぐに彼を見据える。
「……ジルバこそ、ボクの何を知ってるっていうの」
グレイペコーは震える喉で深呼吸をして、ハンマーの柄を強く握り締めた。
彼が度々口にする言葉に、悲しみとも苛立ちともつかない気持ちになったのは、きっと、こうして何処か自分を憐れんでいるかのような所が嫌だったからに違いない。
幼い頃の自分は確かに、差し伸べてくれた手が振り払われないか、いつも怯えていた。
けれど、彼女はずっと、そんなふうに考えた事もないに違いない。
「イヴは、初めからずっと、ボクに選ばせてくれてた」
孤児院から引き取られた際、イヴルージュは言ったのだ。
「いいか、グレイペコー。お前はこの先何かを選択する時、誰かに屈する事なく、何にも脅かされてもいけない。足りないものは、私が全て与えてやる」
身体の小さな子供に合わせてしゃがみ込んだイヴルージュは、そう言って、グレイペコーの瞳をしっかりと見つめていた。
「だから、その時は必ず自分で選び取るんだ。絶対に、誰かに委ねちゃいけない。誰かのものを自分のものと勘違いしちゃいけない」
誰かが望んだ事を望んだままに応えていれば、そうすれば、半端者だと捨てられた自分にも価値があるんじゃないか。認められるんじゃないか。誰かに愛して貰えるんじゃないか。
そう思っていたのに、彼女はそれでは駄目だという。
「どうして?」
自分がどんなものなのかも、どうしたらいいのかもわからないのに、と不安になって縋るように同じ色をした眼を見つめ返しながら、グレイペコーは問いかけた。
そんな子供に、彼女は優しく笑いかけながら、真っ直ぐに伝えてくれる。
「それがいつか、お前が本当に辛い事が来た時に、進むべき道を示してくれるからだよ。お前が選んだものは全て、いつかお前である証になるんだ」
今はまだ不安でも苦しくても、お前が手にしたものはいつか必ずお前自身を救ってくれる。
「だから、それだけは忘れないでおくれ」
そう言って彼女は優しく抱き締めてくれた。
誰かの体温が自分と同じ体温になる事が、これ程に嬉しくて、心地よい事。
それが、安心と呼べるものだと知った事。
自分を信じて、手を差し伸べてくれる人がいる事。
その時初めて、グレイペコーは自分から他人の手を握り締めたのだ。
「だから、ボクはあの時イヴを信じるって決めたんだよ」
どんなに辛くて悲しい事があっても、自分が自分らしく生きていけるように。
そう心から願って、信じてくれる人がいる。
それが、どれだけ嬉しかったか。
「あの人はただ与えただけじゃない。選ばせてくれたんだ、最初から。ジルバとは、違う!」
ハンマーをしっかりと握り直して、グレイペコーはジルバと向き合った。