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96 目を覚ましたって、そこは深淵


「青い桜に魅入られた、悍ましい悪魔の子め」


 男はそう静かに告げて、幼いジルバを見下ろしていた。

 睨みつけたその瞳は、ジルバと同じ曇天の色。憎しみに満ちた、昏い灰色。

 妻が産み落とした子供が抗体持ちだった。

 ただそれだけで、男は自らの子をどこまでも憎んでいた。


 物心をつく頃にはすっかり見慣れていたステンドグラスの鮮やかさに、ジルバはひたすらに集中していたように思われる。

 青や赤、黄色や橙、教会に訪れる人々の揺れる心のありようを写し取ったような色彩は、自分を決して脅かす事はなかったから。

 教会へ多額の献金をしていた男は、妻が腹を痛めて産んだ子供が抗体持ちだと知るや否や、縋る思いで何度も教会を訪れていた。

 そうすれば、呪われた子の罪が消えるから、と信じていたからだ。

 神聖な祈りの場で、自らの欲望を吐き出す姿はいっそ醜悪でしかない。

 一体、どちらが悍ましいのだろう。冷えきった心の奥底でジルバは思っていた。

 教会の神父が言う事は、彼にとって神の言葉に等しく、敬虔な神の信徒でありながら、幼い子供が自分の思い通りに動かなければ、すぐに暴力を振るう。

 無力で愚鈍な母親は、泣き崩れるばかりで助ける素振りさえせず、父の言いなりだった。

 何をするにも父の許可を必要とし、自由に外出する事さえ許されない、という異常な状況だというのに。


 そうして、ジルバが十歳を迎えた頃、父親はとうとう気が触れてしまったのだろう。

 鈍く光る銀のナイフを向けられた時、ジルバは驚きや恐怖より、どこか納得してしまっていた。

 それどころか、何故今この時までそうしなかったのか、と疑問すら浮かぶ程だった。

 しかし、母親はその時になってやっと、我が子を守ろうとしたのだろう。

 男が半狂乱になって振り下ろしたナイフは、ジルバを庇う母の背を目掛けて振り下ろされようとしていた。

 母の身体に向けられた刃物。抉られた肉の妙に弾力のある感触と、手に零れてくる、錆びついたような酷い匂いの、生温かな、血。いのち、の、いろ。

 気がついた時には、ジルバは父が持っていたナイフを奪い取り、その腹に深く突き刺していた。

 そうでなければ殺されていた。母も、自分も。だから、仕方のない事だったのだ。

 言い聞かせるように何度も何度もその言葉を胸の内に繰り返し、振り返った時、何もかもが間違いだったのだ、とジルバは思い知らされた。


「お前は、やはり、悪魔の子だわ……!」


 お前さえいなければあの人は狂わずに済んだのに、と、恐怖と怒りをない混ぜにした歪んだ顔で、母親はジルバを凶弾した。

 彼女の手には、父が多額な献金と引き換えに教会が与えた十字架が握り込まれている。

 その時になって、母親は自分を守ろうとしたのではないのだ、とジルバは知った。

 彼女が守りたかったのは、哀れな母を演じる為の家庭であり、彼女自身だったのだ、と。


 そうして勾留場へと連行された後、実情を考慮し、ジルバの行為は事故とみなされ、軍の施設にて保護された。

 抗体持ちである、という事も重い刑罰を受けずに済んだ理由の一つなのだろう。

 母の元へ帰れる筈もなく、その後、伝言局で働くまでの間、ジルバは孤児院で過ごす事になる。

 自分に残されたものは、何もなかった。

 ただ、底のない沼地に沈められたように、全てが緩慢で、全てが煩わしかった。

 特殊配達員として働くようになってからも、ジルバの心には憎しみも悲しみも、それどころか、何の感情も浮かばずに虚ろなまま。

 これこそが、罰だったのかもしれない。

 ジルバは救いを求めて何度か教会へと足を運びかけたが、それはいっそ両親と同じ道を辿るような気がして止めてしまった。

 せめて言いようのない気持ちを誰にも悟られぬよう、近寄られないよう、ジルバはいつしか外側を穏やかさと優しさで貼り付けていた。

 そうして生活しているうちに、心はどんどんと擦り切れていく。

 生きている為に生きているのに、一刻も早く終わりが来て欲しい、とばかり願っている。

 その癖、自分一人で終わらせる事すら出来ないのだ。

 いっそ、父のように狂ってしまった方が楽だったのに。


 その日は、ジルバの瞳の色と同じような、重苦しい曇り空の日だった。

 配達の最中、ぼんやりと歩いているうちに、中央へと迷い込んでしまったのだろう。

 ジルバは息苦しさから咳を零し、そのうちに歩く事さえままならなくなり、膝から崩れ落ちてその場に倒れ込んでいた。

 とうとう、これで終わりが来るのだろうか。

 あまりの呆気なさに虚しさを覚えながら、ジルバは緩やかに瞬きを繰り返して、目の前にはらはらと落ちる青の花びらを眺めていた。

 頬に当たる地面の感触は、湿り気を帯びていて冷たく、触れている部分から少しずつ体温が奪われていく。

 そうして意識が朦朧としかけた、その瞬間。

 ちりん、と澄んだ音が森の中で響いていた。

 冬の早朝のような、少し冷えた、清らかで淀みのない空気が、周囲に満ちているように感じられる。

 驚いたジルバがどうにか目をこじ開けると、其処には、白く長いヴェールを頭から被り、ゆうるりと歩く少女が、ひとり。

 色鮮やかで緩やかに靡く青い髪に、透き通るのに何処までも底の見えない深い青の瞳。

 繊細な刺繍が全面に施された裾と袖が長い独特の衣装は、彼女が高貴な身分だと知らしめる為のもの。

 そんな少女が、鮮やかな青い桜の森を、静かに歩いている。

 何物をも近づけず、寄せ付けない、畏怖とも威圧とも感じられる空気を纏う少女に、ジルバはこくりと喉を動かした。

 何故、こんな所に、王族である少女がいるのか。

 それとも、これは青い桜が見せる幻覚、なのだろうか。

 動けないまま思考を巡らせた時、ジルバは息が止まりそうになっていた。

 いつの間にか近づいてきた少女が、そっと顔を覗き込んでいるのだ。

 覗き込まれた瞳は、深淵を覗き込むかのような、深く昏い青。

 長い青髪から垣間見える透き通る程の白い肌は、まるで生気が感じられない。

 驚きか、それとも恐怖からか。ばくばくと激しく拍動する心臓の音が煩く、息が止まりそうに、なる。

 そっと頬を冷たい指先でなぞられれば、其処から凍えてしまいそうな心地になっていた。


「…………違う。あの子じゃ、ない」


 ぽつり、呟いた少女は、突然ジルバの首を掴むと、ぎり、と力を込めた。

 触れた部分から急激に体温が奪われていくような感覚に、ジルバは驚き、目を見開く。

 檻のように覆い被さる、青の髪。

 暗い、昏い、深淵にも似た、深い青の瞳。

 ぎり、ぎり、と次第に力を込められていく手は折れてしまいそうな程に細いのに、確実にジルバの喉を圧迫し、酸素を奪っていく。

 これではまるで、父親に刃物を振り上げられた、あの時のよう、な──。

 思い出した記憶の一端に、ひゅ、と喉が鳴り、手を伸ばしかけたその瞬間、甲高い声が響いた。


「姫様っ!」


 抱きつくようにして青髪の少女をジルバから引き離したのは、幼い黒髪の少女だ。

 長い黒髪から覗く金眼は、狼のように鋭くジルバを睨みつけている。


「姫様、このような者に触れたら御手が汚れます。此処は、私が」


 黒髪の少女が言えば、姫と呼ばれた少女は途端に興味を無くしたようにゆっくりと顔を上げると、背を向けて歩き出してしまう。

 あれ程に重かった身体は、どうにか立ち上がれる程には軽くなっていた。

 一体、彼女は誰なのだろうか。

 青い髪を靡かせて、少女は静かに森の奥へと進んでいく。

 まるで夢の中に迷い込んだような風景に、信じられない思いでジルバはふらふらと引き寄せられるようにして、そちらへと近づいていた。

 自分ですら何を考えているのかも分からずに手を伸ばすと、目の前に黒髪の少女が飛び出してくる。


「これ以上、姫様に近づかないで!」

「あの方は……君達は、何故此処に?」


 ジルバの問いかけに、黒髪の少女は答える事なく、いつの間にか手にしていたナイフの刃先を彼へと向けた。


「あなた、何をしに来たの? 姫様に近づいたら、絶対に許さないから」

「姫様? 彼女は何故此処に? この森の中で、一体どうして……」


 互いに答える事はなく、ただ疑問だけが増える事に、黒髪の少女は苛立ちを感じているのだろう。金色の瞳を釣り上げて、ますますナイフの切先をジルバへと近づけた。

 けれど、ジルバは全くそれに引く気はなかった。

 向けられたナイフは刃こぼれでぼろぼろの状態であり、黒髪の少女自体、人を傷つける事に慣れているようには見えなかったからだ。

 ジルバが怯まない事に戸惑いを覚えたのか、それとも、面倒になったのか。

 黒髪の少女は、ナイフを下ろす事はしないまま、呆れたように溜息を零している。


「姫様が私を救って下さったからに決まっているでしょう」

「彼女が、君を救った……?」

「あなたがそうして息をしていられるのも、姫様が触れたからよ。加護ではないから、一時的なものでしょうけど」

「……彼女が、触れたから?」


 少女の言葉に、一歩ジルバが足を踏み出すと、威嚇する動物のように肩を跳ね上げた少女は、身体を深く沈めてナイフを強く握り締めている。

 流石にこれ以上踏み込めば、彼女とて刺しかねないか。ままならない状況に、ジルバは唇を噛む。

 その時、緊迫した空気を一瞬にして消し去るように、ちりん、と再び鈴の鳴る音が響いた。

 戸惑う二人の気持ちさえ鎮める、清廉な音色。

 水面に水滴が落ちるように、静けさが周囲へと広がっていく。


「姫様?」


 黒髪の少女が振り返ると、青い髪を揺らした少女が彼女に向かってゆるりと手を招いていた。

 傍に、青い毛並みの狼を伴いながら。


「ヴィヴアリア、おいで」


 呼びかける青の少女に、狼は鼻先を彼女に向け、それから、黒髪の少女へと移した。

 黒髪の少女は金色の瞳を揺らし、困惑した表情を浮かべて彼女を見るけれど、もう一度、おいで、と優しく呼びかけられて、観念したのだろう。


「……はい、姫様」


 自分へ向けられた白くたおやかな手に導かれるように、黒髪の少女はナイフをしまうと、彼女の側へと駆け寄った。

 姫と呼ばれた少女は、ジルバの事を一度だって認識しようとはしていなかった。

 視線を向けていても、ジルバ自身を見ようとはしなかった。

 存在すらしていなかったもののように、思っていたのかもしれない。

 立ち去る青髪の少女をジルバがぼんやりと見つめていると、黒髪の少女はキッと睨みつけ、厳しい声音で言う。


「あなた、二区の特殊配達員ね」

「何故、それを?」


 質問には答えずに、彼女は二区の方向を指で示した。

 そして、有無を言わさずこの場から離れるよう促している。


「此処にはもう二度と近づかないで」


 そもそも、加護のない貴方では到底耐え切れる事はないでしょうけど、と皮肉げに告げると、軽やかに姫様と呼ぶ少女の後を追って行ってしまった。


 鮮やかな青い花が咲き誇る桜の木々の中には、ただ、青い花びらがはらはらと舞い落ち、白い毒霧だけが静かに漂っている。

 一人きりその場に残されたジルバは、再び息苦しさを感じて、ごほ、と咳を零した。

 喉の奥に、何かが引っかかって取れないような、異物感。

 堰を切ったように、それは何度も何度も吐き出されて、やがて乾いた笑い声となって、森の中で響いている。

 狂ってしまったのか、それとも、元から狂っていたのか。

 胸底から這い上がってくる、高揚感を伴った黒い感情が、身体の中を巡り巡っていくのを、ジルバは確かに感じていた。

 この毒霧の中、彼女達は生きていける。

 姫と呼ばれた少女によって、黒髪の少女は救われたのだ、と言っていた。

 それならば、自分は、抗体持ちは、彼女によって救われた人間ではないのだろうか。

 救われるべき人間である、という事ではないか。

 両手を顔に当て、ジルバは大きく息を吐き出して、空を見上げる。

 全てを覆い尽くすかのように、青い桜の花びらが舞っている。

 自分がここまで生きていたのは、生かされていたのは、今日この時の為ではないのか。

 そうでなければ、自分がここまで生きてきた意味などないのだから。

 静謐な森の中で、青い桜に魅入られたように、男は嗤っていた。


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