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95 がらくたとカメレオン


 咽せ返るような緑の匂いに満ちた森の中を走り抜けながら、グレイペコーは口元を腕で押さえて、乾いた咳を零した。

 自身の裏切りが暴かれたと知ったなら、彼はきっと姿を消し逃亡を図るだろう、とは考えていた。

 ノルが話してくれたネムの話も含めるならば、先に中央へ行った方がいいだろう、とそちらへと進んでいるものの、このまま奥まで行けば、まともに動いていられないかもしれない。

 ポケットに手を当て、触れたものの感触を確かめながら、グレイペコーは唇を噛み締める。

 夕暮れから少しずつ夜の気配が近づいてきて、それに合わせて空気は冷え込んでいる。

 森の奥へ進めば進む程に、毒霧の濃度がいつもより僅かに上がっているように感じられて、少し息苦しさを覚えた。

 少し前に報告があったと、森が拡大している影響からなのか、それとも、今のこの焦燥感からなのだろうか。


 中央へと走り続けて暫くして開けた場所に出ると、グレイペコーはぴたりと足を止めた。

 青い桜の花が散る其処に、背を向けて立っていたのは、ジルバだ。

 武器を所持している様子をはないが、彼は体術での戦闘を一番得意にしている。

 それだけ本気、という事だろう。

 ゆっくりと近づいていくと、枯れ枝を足が踏みしめて、ぱき、と音が響く。

 それだけで、空気が張り詰めていくように感じられていた。


「やあ、グレイペコー。やはり君が来てしまったんだね」


 そうだろうと思っていたよ、と振り返ったジルバは、いつものように笑っている。

 まるで何事もないかのように優しげで穏やかな笑顔に、言いようのない嫌悪感を覚えて、グレイペコーは眉を寄せた。

 じりじりと焼け付くような胸底の騒めきを宥めるように、深く長く息を吸い込み吐き出すと、グレイペコーは掴んでいたハンマーの柄を握り直す。


「アルティに違法薬物を渡して、家族に手をかけさせたのは……、ジルバでしょう」


 彼へと真っ直ぐに視線を向けて、グレイペコーは言う。


「どうして? そのせいでアルティがどれだけ苦しんだか、考えなかったの?」


 問い詰めると、ジルバは浮かべていた笑顔を消し、ゆっくりと瞬きをしながら地面へと視線を落としている。

 フィスカスはアルティを非難したけれど、グレイペコーはジルバを許せない気持ちの方が大きかった。

 ジルバを心酔していると言っても過言ではない、アルティがそれを手にした時、一体どんな思いをしたか。想像するだけでも、胸が苦しくなる。

 けれど、彼は顔を上げ、グレイペコーへ逆に問いかけていて。


「君こそ、あの子の痛みや苦しみがどれ程か、理解しているのか」


 言いながら、ジルバは顔を上げ、曇天にも似た眼を細めた。


「あの子が過去に苛まれて泣き出した事が、何度あったと思う? 過去を思い出す度に過呼吸になり、一時的に記憶が無くなるまで泣き喚いていた事が、今まで何度あったと思う?」


 それらの記憶を一つ一つ辿るように一歩一歩踏み出すジルバに、グレイペコーは怯んだ気持ちになって、僅かに身体を引いてしまう。


「あんなふうに無邪気に笑っている子がそれ程に苦しんでいるなんて気付かないのに、何故君がそれを非難出来るというのだろうか」


 底抜けに明るいと思っていたアルティがそれ程に苦しんでいた事を、グレイペコーは確かに知らない。

 彼はそれを目の当たりにして、その苦しみや悲しみを知って、アルティの家族を殺害させようと考えたのだろうか。そうすれば、彼女を解放出来るとでも、思っていたのだろうか。

 けれど、それを知っていたとしても、彼と同じ選択をしようとは、グレイペコーには到底思えなかった。


「だから、あの家にいた人間を全員殺すよう、アルティを唆したの? アルティが苦しんでいたからって、犯罪行為にまで手を出させるのはおかしいでしょう」


 その言葉に、ジルバは淡く微笑むきりで、返事をしようとはしなかった。

 寧ろ、返答を拒むかのようなその反応に、グレイペコーは違和感を覚えて一瞬躊躇ったが、すぐに首を振って、彼を真っ直ぐに見据えた。


「それに、伝言局を裏切って、犯罪組織とまで手を組むなんて……、どうして、そんな事をしたの」


 武器を彼に向けると、微かに狙いが外れるように、白い小花を散らしたような透明のハンマーの頭部が揺れている。

 自分の気持ちも同じように揺らいでしまいそうで、グレイペコーはしっかりと柄を握り直した。


「アルティが言ったように、この国を、此処で生きている人達を消し去りたい、なんて、本気で考えているの?」


 嘘であって欲しいという気持ちが、ほんの僅かでも残っている事は、甘えなのだろうか。

 唇を噛み締めて彼の返答を待つその間、木々が揺れて起きた葉擦れの音さえ聞こえない程に緊張感で張り詰めた空気に、今にも押し潰されてしまいそうだった。

 そうして、彼は灰色の瞳を眇めて、それから、ゆっくりと息を吐き出している。


「おかしいと思った事はないかい? 抗体持ちは、大抵が不幸の元に生まれてきた、恵まれない者達ばかりだ」


 自分が恵まれていない、という事を、そう見られていたのだという事を、こうもあからさまに目の前に突き付けられて、グレイペコーは愕然としてしまった。

 優しい言葉をかけておきながら、ずっとそうして思っていたのかと、勝手に決め付けられていたのかと、そう考えると、嫌悪の感情が身体の中から溢れてくる。

 思わず彼を睨みつけるが、彼はそれを気にも留めず、言葉を続ける。


「姫様は、この国を蝕む森の毒素を無効化する加護の力をお持ちだ。

それなら、それは姫様の導きだった──抗体持ちは姫様に選ばれた者、と思うのが自然だろう?」


 彼は唄うようにそう言って、ゆっくりといつものように微笑んで見せた。


「姫様は、我々を助けて下さる唯一の御方なんだよ。だからこそ、この国とこの国に住まう人間を全て滅ぼそうとする姫様の望みを、叶えて差し上げなければ」


 抗体持ちは、この国を滅ぼす為の、姫様の戦士になるべき者なのだから。

 そう、誰もが穏やかで優しいと言うだろうその笑顔で、それまでの関係を粉々に打ち砕くような言葉を吐くのだ。

 彼の言葉も、その内容も、頭が理解を拒んでいるのか、目の前がぐらりと揺れた。

 此処にいるジルバという人が、本当に自分の知る彼なのか。彼という皮を被った何者かが中身だけ入れ替わっただけではないのか。

 分からなくて、分かりたくなくて、グレイペコーは頭を振った。


「そんなわけない。だったらどうして、ジルバはそんな身体で苦しんでいるの」


 その言葉に、ジルバの瞳は僅かに細められたが、彼は否定も肯定もしなかった。


「ノルの面倒をずっと見てきたのだもの。今のジルバがノルと同じ症状で苦しんでいる事は見ればわかるよ」


 彼がノルと同じように、長い期間ブルーブロッサムの毒素によって身体を壊し続けていたとしたなら、それは、ジルバがそれだけ何度も中央へと近づいていたという事なのだろう。

 森の中心部へ行って無事でいられるなんて、リグレットのように抗体値が異常に高い者か、テッサのように加護の力を与えられた者だけの筈だ。


「その人が抗体持ちを救ってくれるっていうのなら、どうしてジルバはそんな状態でいるの」


 加護の力を与えられていないというなら、それは、姫と呼ばれる人物が彼をそれ程までに信頼していないという証拠ではないか。

 その事実を突きつけても彼は穏やかに笑うばかりで、何の変化も齎す事はない。


「……私は老い先短い身だ。それを姫様もわかっていらっしゃるだけだよ」

「そんなの、全部自分の都合のいいように解釈して思い込んでいるだけでしょう」


 感情の昂りからだろう、大きく息を吐き出せば喉が震えていて、気がつけば、グレイペコーは爪が食い込む程に手を握り込んでいた。


「いい加減にして」


 ハンマーを握り直して、グレイペコーはそれをジルバへと向ける。

 自らの正当性を主張するばかりで、こちらの言葉には耳を貸す事はない。

 彼を信頼していた人達がどれだけ苦しんでいるのかも、どれだけ悲しい事が起こしてしまったのかも、自分の事ではないかのように見て見ぬふりをして。

 どうして、そこまで出来るの、と、思う。

 それとも、元からそういう人間だったのだ、と思っていた方がいいのだろうか。


「それが、何年も築いてきたボク達との信頼を壊してでも、必要な事なの?

 今までの、ボク達と積み重ねてきたものは、一体何だったの!」


 鮮やかに咲く青い桜の森の中で響いた声は、目の前の男に届く事はなく、ただ虚しく空気へと溶けていた。


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