83 其処はいつも鳳仙花が揺れている
「やあ、イヴ。忙しそうだね」
局長室に入ってくる昔馴染みの男を見るなり、イヴルージュは深く長く息を吐き出した。
局長室の一番奥に置かれた机には息苦しくなる程の沢山の資料や書類が山々を形成していて、いっそ雪崩が起きてしまいそうだ。
赤い瞳でじろりと見上げた彼は、以前見た時より随分と老け込んでいるように思えた。
「分かっているなら、少しくらい気を使って手伝うとかしてくれていいんだぞ、ジルバ」
くすんだ緑の髪を揺らして笑うジルバは、困り眉を更に下げて、目尻に皺を作っている。
彼は二区の速達担当であり、配達の際に一区へと訪れようと顔を見せに来る事など数える程しかないのだけれど、それはきっとイヴルージュの忙しさを思っての事だろう。
優しさゆえに不器用な所がある彼らしいと言えば彼らしい、とイヴルージュは思わず苦笑いを浮かべていた。
「お菓子を持って来られたら良かったのだけどね」
「それならサヴァランにしておくれ」
甘いシロップとたっぷりの酒を染み込ませて作るケーキをイヴルージュが指定すると、「グレイペコーに叱られるよ」とジルバは苦笑いを浮かべて指摘する。
酒そのものを所望しているわけではないのだから、かわいいものではないのだろうか、と思いはするけれど、きっとそれを聞いた全員から非難されるのだろうな、と内心で舌を出しつつ、イヴルージュはひらひらと片手を振った。
「大体、手伝いなんてしたら副局長が怒るだろう?」
副局長を務めるノルは真面目で几帳面な性格であるから、少しの不正もあればすぐに口を出してくるだろう。
それを知っていて、ジルバは態とにこりと笑ってみせる。
「ノルも最近はしっかり言い返すようになってきたからなあ」
何もかもに絶望し、生きる気力を失っていたあの頃を知っているからこそ、今のノルがはっきりと物を口にする事は嬉しいものだとイヴルージュには思えた。
「ははは、いい事じゃないか」
子供はそれくらい元気でないと。そう言って、ジルバは窓際に足を向けると、中庭へと視線を向けている。
昼前の時間なので、狼達はきっと日向ぼっこでもしているだろう。
イヴルージュは手にしていた書類にサインをすると、承認済みの書類が積み重なった上に放り投げて、ペンを置いた。
窓から降り注ぐ陽の光で、彼の横顔は少し青白く見える。
「それで……、アルティの様子はどうだ?」
問いかけに、ジルバはただ窓の向こうに眼を向けたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
「表面上はいつもと変わらないよ。ただ、上手く自分の気持ちを言えない子だからね……少しずつ話をしてみるよ」
そう言うと、彼は淋しそうに笑いながら、視線を室内へと戻していた。
ジルバは暫く休養するよう提案したそうだけれど、アルティ自身がそれを拒んでいるようで、ずっと仕事に没頭していると聞いている。
何も考えない時間が欲しくて、敢えてそうしているのかもしれない。
ジルバも憔悴しきっているに違いないとイヴルージュは予想していたのだけれど、彼もまた、自分が落ち込む事で彼女が気に病まないよう気遣っているのだろう。
こればかりは、時間が解決してくれる他に方法はない。
イヴルージュは静かに溜息を吐き出して、うず高く積まれた紙の山からまた一枚書類を取り出した。
ジルバは窓枠に凭れると、灰色の瞳を柔らかに細めている。
「グレイペコーは今日も元気かい」
「勿論」
間髪言わずに返答すると、彼は満足そうに頷いた。
親のようだ、というよりは、祖父のような気持ちになっていやしないか、とイヴルージュは呆れずにいられない。
「というか、お前あの子をまだ幼い子供だと思っていないか?」
「子供はいつまでも子供だよ」
はっきりと言い返した彼は、それに、と付け足して、指を絡めて両手を握り締めている。
祈りを捧げるかのようなその仕草に、イヴルージュは微かに眉を寄せた。
「抗体持ちというだけで、あの子やアルティ……他の子達だって、此処で強制的に働かされているんだ。少しでも救われるべきだよ」
抗体持ちなんて、ただの差別でしかない。
彼にしては珍しく、強くはっきりとした口調で言うので、イヴルージュは思わず赤い瞳を瞬かせ、彼を見た。
視線に気付いたジルバは気まずそうに口元を手で押さえると、すまない、と掠れた声で呟いている。
彼は孤児院の出身で、抗体持ちである事が判明した後に、親から捨てられたそうだ。
そういった経緯から、彼自身が抗体持ちである事をあまりよく思っていない事は、若い頃からイヴルージュもわかってはいた。
ジルバの親がどうして抗体持ちである子供を手放したのか、それはわかりえないけれど、国内でも抗体持ちである事と、抗体持ちが特殊配達員として強制的に働かせる事にいい感情を持たない者は、それなりにいる。
それを強制している側の王族が抗体持ちである事を知っているイヴルージュには、尚更、その指摘は深く胸に突き刺さってくる。
「……三区ではな、身体の一部が欠損した女性達をピオデラと呼び、蔑まされているらしい」
ジルバの視線を感じるけれど、イヴルージュは顔を向ける事なく、言葉を続ける。
「そうやって、何処でだって、いつだって、差別は起こる。自分が優位に立ちたいから、惨めになりたくないから、ただ単に気に入らないから。そんなくだらん理由でな」
どうしようもない、と言いたいわけではない。
ただ、変えられるのは結局、他人ではなく自分だけだと知っているから、イヴルージュは自分の出来うる限りで伝言局での環境の改善を図ってきた。
そうする事で、少しでも周囲のそういった気持ちに変化が訪れるように、と願いながら。
「何かに理由をつけて自分の都合よく解釈したいだけだろう、結局は。だからこそ、それに飲み込まれないよういるべきだし、自分がそうなったら同類になるだけだ」
「……イヴルージュは、視野が広いな」
ジルバはそう言うと、窓から離れてゆっくりとイヴルージュの側へと歩み寄った。
かつ、かつ、と床を鳴らす靴音が、やけに室内に響いている。
「私は、そんなにたくさんの人が救われなくていい。せめて、自分の周りにいる人達が、あんな辛い思いをしているのを止めたいだけなんだ」
その言葉に、イヴルージュは手に持っていた書類を見つめて、小さく息を吐き出した。
「少なくとも、今のペコーは救われたいとは思っていないさ」
孤児院で周囲の子供達から不当な扱いをされていた時、グレイペコーは確かに、救いを求めてこちらへ手を伸ばしたのかもしれない、とイヴルージュは思う。
家に連れてきた当初だって、グレイペコーは捨てられる事を恐れてか、いつもこちらの望むような受け答えばかりして、縋るような眼をしていた。
けれど、と考えて、イヴルージュは視線を持ち上げる。
「あの子はもう、自分で選び取る力がある。その為に必要なものは与えたと思っているし、今はもう周りが手なんて貸そうものなら、ふざけるなと一蹴されるぞ」
「だが、誰しも迷う時はあるだろう」
ジルバの返しに、あのなあ、とイヴルージュは大きく息を吐き出して書類を机に放り投げると、腰に手を当てた。
「親ってのはな、黙って見守らなきゃならない時があるもんなんだよ、ジルバ」
リグレットがノルを助ける為に決心をした時にだって、自分には何も出来なかったのだ、とイヴルージュは考えて、手のひらを握り込む。
何よりも守らなければならないと思っていた筈なのに、子供達はいつの間にか、自分なんかに守られなくても自分の意思を持って生きていたし、だからこそ、その想いを尊重して、安心して歩き出せるように、背中を押してやるしか出来ないのだ。
どうしようもなく、歯痒くて、虚しくて、悲しくて。
それでも、それが子供達を信じると決めた自分に出来る全てなのだから。
「ふふ、あの跳ねっ返りでおてんばな君が、すっかり親の顔になってしまって」
「おい、笑うな」
微笑ましいと言わんばかりのジルバに、気恥ずかしくなってしまったイヴルージュは机をぱしぱしと叩いた。
破天荒だの女狐だのと影口を囁かれるのには慣れてはいるが、親として認められるような事を言われるというのは何ともむず痒い。
柄にもなく顔が熱くなってしまうのを感じて顔を歪めていると、くすくすと吐息混じりの笑い声が聞こえてくる。
「さて、そろそろ戻らないと、アルティに心配されてしまう」
こんこんと咳をしたジルバが扉の方へと足を向けると、イヴルージュは彼の名前を呼んだ。
「ジルバ」
「うん?」
呼びかけに、ジルバは不思議そうに首を傾げている。
イヴルージュは一瞬だけ息を止めて、それから、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸に入ってくる空気は、冷たい。
「馬鹿な真似はするなよ」
その言葉に、彼は子どものように目を丸くして、それから、苦笑いを浮かべてみせる。
真っ直ぐにかち合った視線を逸らされないよう、イヴルージュは祈るような気持ちで彼をじっと見つめた。
「どうしたんだい、急に」
はぐらかすな、と苦々しい面持ちでイヴルージュが言えば、彼は困ったように顔を俯かせてしまう。
「身体を悪くしているんだろう。無理が出来る状態じゃないのは、端から見てもわかる」
彼は暫し地面に視線を向けていた。
じっと辛抱強く待ってみても、彼はその言葉に決して頷こうとはしない。
それが緩やかな拒絶だと理解してしまい、イヴルージュは静かに唇を引き結んだ。
彼は優しい人だ。だからこそ、自らが傷付く事を厭わない。
けれど、その優しさは、きっと、リグレットと似ているようで、全く違う優しさだ、とイヴルージュは思う。
彼女は絶対に、彼のように犠牲の上に何かを築こうと思っていないから。
黙り込んでしまったイヴルージュに、ジルバは困り眉を更に下げて、小さく笑った。
「君だって、もう若くはないのだからお酒は程々にね」
ふふ、と吐息混じりに言うものだから、イヴルージュは赤眼で彼をじろりと睨む。
「年齢の話をするな、ばかたれが」
「ははは」
ジルバが声を出して朗らかに笑うので、イヴルージュは呆れたように肩を竦めて、それから、小さく息を吐き出しながら口元を緩めた。
静まり返っていた室内で、柔らかな笑い声が響けば、冷たく感じられていた空気も少しはあたたまっただろうか。
ただね、と言って、彼は憂いを帯びた瞳を、自身の手のひらに向けている。
「傷ついた者が救われない理不尽さは……、どうにも堪えるよ」
ぽつりと呟かれたジルバの言葉は、部屋の中に静かに落ちて、広がって、そして消えていく。
イヴルージュは返す言葉を見つけられずに、押し黙ったまま、彼の横顔を見つめていた。




