81 名無しのローグプラネット
色鮮やかな青い桜の花が咲き誇る森に続く金属門の前に、一人の少女が佇んでいた。
咽せ返る程の緑の香りが漂う場所で、柔らかな茶色の髪は風に揺れ、白い頬にかかるけれど、少女は少しも気にする様子はない。
感情らしいものはその横顔からは読み取れず、ただ時が過ぎ去るのをじっと待っているかのようだった。
彼女の白い手のひらには、一枚のメッセージカードがしっかりと握られている。
「……アルティ」
背後から、男性が呼びかける静かな声がする。
悲しげで、苦しげで、心の底から心配をしているだろう、誰よりも優しい人の声。
振り向かなくとも彼の表情がわかって、アルティは無理矢理に震える唇を抉じ開けた。
「大丈夫、ですよ」
アルティは確かさを持って、言葉を繰り返す。
「大丈夫です。アルティは、師匠さえいてくれれば大丈夫なんです」
そう、この人さえ、いてくれれば、他には何もいらない。
この世界に、他に必要なものなんて、ない。
手のひらの中にあるメッセージカードは、ぐしゃと握り締められて、歪んでしまっていた。
***
グレイペコーがその訃報を耳にしたのは、朝礼を終えた後、イヴルージュに呼ばれた局長室でのことだった。
三区の中央から少し離れた貴族の邸宅──アルティの実家にて、複数の死体が発見されたという。
亡くなったのはアルティの両親、それから、其処で働いていた使用人達。死因は、薬物による中毒死。
生き残ったのは、アルティより五つ下の妹と、勤務に出ていなかった僅かな使用人だけだったそうだ。
事件性が高いとすぐさま捜査が行われ、残された人々は事情聴取を受けていると聞いている。
イヴルージュが特殊配達員のみにその話をしたのは、アルティの複雑な家庭環境に依るものだろうし、事件として捜査が開始されていたからだろう。不容易に話を広げて、アルティが傷つくような事がないように、慎重になっているに違いない。
配達に訪れた二区の伝言局は、いつも明るく穏やかな空気が流れているように思えたものだけれど、今は重く沈んでいるように感じられている。
それは、先の訃報を聞いたからだろうか。
長い廊下を抜けて、辿り着いた青い扉の前で暫し逡巡したグレイペコーは、深呼吸をしてから、その扉を開く。
部屋の中には、一番奥にある机に座る人物だけがいる。
「ジルバ」
大丈夫、と聞こうとして、やめた。
片手で顔を覆うようにして机に向かっていたジルバは、疲れ果てた様子で顔を上げたからだ。
憔悴しきったその表情に、グレイペコーは小さく息を吐き出して、彼の側へ近付いた。
「アルティは、配達に行っているの?」
部屋の中に彼女がいない事と、いつもなら漂う甘いお菓子の匂いがしない事に、どうにも違和感を覚えてしまう。
グレイペコーが向かいの席に腰掛ければ、ジルバは小さく頷いていた。
「仕事をしていた方が気が紛れると言って聞かなくてね。一日だけでもトマネに来て貰うよう言っていたのだけれど……」
トマネは二区にいる特殊配達員だ。さっぱりとした性格の女性で、出産を機に予備の配達員として登録され、今は育児に専念していると聞く。
子どもがまだ幼い事もあり、アルティも気を遣ったのかもしれない。
抗体持ちは比較的遺伝する事が多く、子供を産むという事に戸惑ってしまう者も少なくないと聞いているし、と考えて、グレイペコーは緩やかに瞬きを繰り返すと、視線を地面に移してぽつりと問いかける。
「……葬儀には、参加しないの」
アルティの実家は三区にある。特殊配達員として働く以上好き勝手は出来ないけれど、二区の担当者は二区と三区を往復する為、休憩時間をそちらに当てようと思えば出来る筈だ。
だが、その問いかけにジルバは静かに首を振るきりで、何も答えようとはしなかった。
アルティは、元々実家との間に確執があると聞いている。
裕福な家庭だそうだけれども、父親は家庭に無関心で、母親は幼い妹に愛情を注ぐ一方、アルティに強く当たり散らしていたらしく、早々に伝言局が引き取ったのだ。
ジルバはその事に酷く心を痛めていて、三区とは全く違う環境である二区で、速達担当としても働けるよう面倒を見ていた。
だからこそ、今回の件でアルティが思い悩んでいる姿を見るのは辛いのだろう。
そっと覗き見た彼は、悲痛そうに顔を歪めている。
「あんなに明るくていい子が、辛い目にばかりあってしまうのは、どうしてなのだろうね……」
ジルバの言葉に、グレイペコーは膝の上に置いた手を見つめて、暫し黙り込んだ。
グレイペコーが知るアルティは、底抜けに明るい性格の少女で、少し抜けた所があるけれど、そこがまた周囲を和ませていたものだ。
ジルバはとても優しいから、きっと時間をかけて彼女が今の彼女に至るまで、辛抱強く共にいて、優しく声をかけてやったのだろう。
アルティがジルバを慕っている様子を見ても、それはよく分かっていた。
「少なくとも、ジルバと一緒にいる時はそう見えないけれど」
顔を上げたグレイペコーはそう言ったが、彼は何も返す事はせず、困ったように笑って、身体を椅子に深く沈み込ませている。
落ち込んでいるジルバにかける言葉が他に見つからず、グレイペコーは再び顔を俯かせた。
優しい人だから、どうしようもない事だと分かっていても、気に病んでしまうのだろう。
「グレイペコーは、何か困っている事はないかい?」
ジルバの問いかけに、グレイペコーは返事をしないまま、首を振った。
幼い頃から繰り返されてきたもので、次に続く言葉さえ、グレイペコーには分かってしまう。
「何か、辛い思いはしていないかい」
「……、ジルバはいつもそれを聞くね」
そんなにも自分は不幸に見えるのだろうか、と、悲しさと寂しさとほんの少しの苛立ちがないまぜになったような、何とも言い難い気持ちになって、グレイペコーは緩く唇を噛んだ。
幼い頃から、彼は何度もそう聞いた。
彼が菓子作りを始めたきっかけが、幼い頃の自分をどうにか笑顔にしたかったからだという事も、グレイペコーはよく知っている。
あの頃は、差し伸べられた手が振り払われないか、とにかく恐ろしくて堪らなくて、ひたすらに与えられたものを吸収する事に集中していたように、思える。
幼いリグレットにさえ、彼女の機嫌を損なわせたら捨てられてしまうのでは、と怯えた事さえあった。
イヴルージュもリグレットも、そんなふうに考えた事すらないだろうに、と今なら笑い話に出来るけれど。
グレイペコーは、前にも言ったでしょう、と言いながら彼を見た。
「ボクは今のこの生活を、何も辛いとは思わない」
「自由に生きる選択肢もあるだろう」
「ボクは特殊配達員になれる選択肢があったのは有り難かった、と思っているよ」
子どもというのは残酷で、まるで猫が悪戯に狩りの真似事をしているかのように、自分と違う生きものを蔑んで痛ぶるのだ。
孤児院に居たあの時、イヴルージュの手を取らなければ、自尊心を根底まで傷つけられた自分がどう生きていたのかなど想像もしたくない、とグレイペコーは思う。
「ボクはボクの生きたいように生きればいい、ってイヴは言ってた。だから、イヴの手を取るっていう道を自分で選んだだけ」
それだけだよ、と自分と彼の両方に言い聞かせるようにして言えば、彼は少し淋しそうに笑っていた。
「……そうか」
焦燥感に駆られるような、居た堪れなくて心許なくて落ち着かない、そんな状況に、グレイペコーはただ視線を俯かせて、綺麗に磨かれた床を見る。
リグレットに初めて会った時、自分はきっと彼女を守る為に此処へ連れて来られたのだろう、と思っていた。
けれど、例えば、誰にも気にする事なく着替えが出来る内鍵のついた部屋だとか、誰かに脅かされないよう力をつける事だとか、グレイペコーが欲していたものを、イヴルージュは当たり前のように与えてくれていたし、不器用ながらも惜しみなく愛情を注いでくれたように、グレイペコーは思う。
それは、ただ単に自分を憐れんで手を差し伸べたわけではないからだろう、とも。
ジルバのように、無償の愛情だけを与えられるような真似は、だから、自分にはきっと耐えられなかったに違いない、と思い、グレイペコーは手のひらに僅かに力を込めた。
勿論、幼い頃に彼が作ってくれたお菓子は、その想いは、グレイペコーにとって、他人の優しさを信じられる気持ちを培ってくれたのだろうけれど。
ジルバは暫し緩やかに瞬きを繰り返していたが、やがてゆっくりと息を吸い込むと、静かにそれを吐き出した。
優しく笑う目尻には、柔らかな皺が刻まれている。
「それでも、時には辛い事もあるだろう。何かあれば言いなさい。私が必ず力になるから」
「うん、ありがとう」
上手く笑えていたのかはわからないけれど、それでも、少しでも彼が気落ちしないように、と、グレイペコーは祈るように手のひらに力を込めながら、返事をしていた。