73 火を灯すから祈りを込めて
しんと静まり返る伝言局の廊下を歩く度に、華奢なヒールの音が辺りに反響して響いている。
日中あれだけ騒がしい局内も、業務時間を終え局員達が帰宅してしまえば、まるで別の場所のように感じられるものだ、とイヴルージュは静かに思う。
手元のランプは歩く度にゆらゆらと揺れ、辺りに淡い光を散らしていた。
本来夜行性である狼達が歩き回っているのを眺めながら中庭を越え、イヴルージュはゆっくりと廊下の先へと進んでいく。
そうして辿り着いた医務室の扉をぞんざいにノックして開くと、くたびれた様子のグラウカが診療机からふらりと顔を上げていた。
「グラウカ、やっぱりまだ帰ってなかったか」
もう何日も家に帰っていないだろう、と眉を下げてイヴルージュは言い、片手に抱えていた紙袋を差し出した。
受け取ったグラウカは、片手でも簡単に食べられるような軽食や菓子が袋の中いっぱいに入っているのを確認して、ふ、と表情を和らげている。
「ノルの様子がまだ心配だからね」
そう言って深く息を吐き出したグラウカは、眼鏡を外して目元を指で揉んでいる。
疲れが大分溜まっているのだろう。
ノルが目を覚ますまで、彼はずっとノルに付きっきりで治療を行なっていたのだ。
無理もないな、とイヴルージュは苦笑いを零して、机の側に置かれた椅子に腰掛けた。
目が覚めてからのノルは、驚く程に回復している。
長年ずっと悩まされてきた頭痛すら、ここ数日はすっかり落ち着いていると聞いたので、それだけリグレットの血を用いた薬の効果が高かったのだろう。
「ノルには例の薬の話をしたんだろう?」
グラウカの問いかけに、イヴルージュは緩やかに瞬きを繰り返してから頷いた。
リグレットと話をしたというノルは、大分落ち着いているように見えたので、グレイペコーに彼女を連れて帰らせた後、二人で話をしたのだ。
想像していたよりずっとノルは落ち着いていて、以前のように恐慌状態に陥る事もなく、静かに話を聞いて事実を受け止めていた。
「リグレットと話をしていたからだろうな。大分落ち着いて話を聞いていたし、自分を責めるような様子もなかった」
「そうか」
良かった、と心の底から安心しきった顔をして、グラウカは小さく頷いた。
幼い頃、自責の念に駆られて自らを傷付けていたノルを思い出せば、その気持ちは痛い程によく理解出来たものだ。
過去の話をした際、きっと悲しく辛い思いをさせてしまうばかりだと思っていたリグレットは、イヴルージュがどうする事も出来ずにずっと抱えたままの未練や後悔といった気持ちごと受け止めて、もう傷つかないように、と手を握り締めてくれていた。
そんな彼女だからこそ、ノルを此処に繋ぎ止めてくれたに違いない。
考えて、イヴルージュは柔らかに笑った。
その様子を見ていたグラウカは、大きく息を吐き出すと、隣の作業室からあたたかな飲み物が入ったカップを二つ用意してくれていた。
独特の臭いから、おそらくはハーブティーなのだろう、と理解し顔を顰めたイヴルージュに、グラウカは苦笑いを浮かべて、蜂蜜の入った瓶とスプーンを差し出してくる。
子供じゃないんだぞ、と呆れながらも、イヴルージュは瓶を開けて蜂蜜をたっぷりとカップに入れ、スプーンで丁寧に中身を掻き回した。
一口飲み込み、飲めなくはない味である事が確認出来ると、唇からは深く長く息を吐き出されていた。
「ノルが服用した薬物について、検査結果が出た」
イヴルージュの言葉に、グラウカは眉を寄せながら頷き、先を促している。
「あれにはやはり、ブルーブロッサムの毒素が使われているようだ」
国に提出されたサンプルは二区の研究機関に密やかに送られ、調べられていたのだが、厳密には濃縮した毒素に他の薬品を混ぜて薄めたものらしい。
強い幻覚作用に加えて、使用を続けていればブルーブロッサムの中毒症状と同じく次第に死に至るという。
一体どうやってそれを製造したのか、その原材料はどこから確保したのか。捜査を続けているものの、その手がかりはまだ掴めずにいるそうだ。
「何故、奴らはそんな馬鹿な真似を……それらが国内に広がれば、この国ごと潰れかねないというのに」
「さあな。悪い奴ってのは、普通の人間が考えもつかないような事を考えるもんさ。それに、例えこの国が滅ぼうが誰かが死のうが、あいつらにとってはどうでもいい事なんだろう」
そう言って、呆れと蔑みを混ぜ込んだような気持ちで、イヴルージュは肺の奥底まで溜め込んでいた空気を深く長く吐き出した。
グラウカはカップに口をつけて喉を湿らせると、部屋の奥にあるカーテンで仕切られている場所に視線を向けている。
先日までノルの治療で使っていたが、今はもう綺麗に元に戻されていた。
「ネムは、奴らと繋がっているのだろうか」
「ノルの話を聞く限りは、そうだろうな」
「そのせいでノルを狙ったのか?」
疑いたくない、と言わんばかりの言葉に、イヴルージュは口元に指を押し付けて、赤眼をすっと細めた。
「ノルに対する報復か……、或いは、ノルを危険に晒すことで、内側から壊すつもりだったのかもな」
ノルが危険になったら、あたしやお前は真っ先に陛下達に進言する。
その行動を見透かされていた、か。
呟いて、イヴルージュは視線を床へと落とした。
「だが、そんな事がわかるのは、ごく限られた人間だろう」
「──だから、身内に裏切り者がいるって事だ」
グラウカの言葉に、イヴルージュは赤く彩られた唇で、静かに告げる。
「その様子は……それが誰なのか、わかってるんじゃないのか?」
推し黙るイヴルージュに、グラウカは問いかけるが、彼女は何も答えなかった。
答えたくない、と言えなくもない様子に、グラウカは躊躇いながらも、イヴルージュを真っ直ぐに見つめている。
「イヴルージュ、」
「そっちはあたしが何とかする」
イヴルージュはそう言って、唇を引き結んだ。
その態度に、グラウカは何か言いたげに視線を向けたが、それを振り払うようにイヴルージュは言葉を続ける。
「これはあたしの責任だ。それに、慎重に行動しなければいけない。こっちはノルとリグレットを危険に晒されてるんだ。二度とそんな事はごめんだろう」
内側に敵がいる、という事は、今回以上に誰かが危険な目に遭う可能性がある、と言う事だ。
だからこそ、慎重に動かなければならない。
イヴルージュは指を絡めて手を握り、それを見つめて緩やかに瞬きを繰り返す。
「それに、あっちにはネムもいる。どうにか、あいつらから引き剥がしてやらんと」
俯いたイヴルージュをグラウカはじっと見つめていたが、やがて視線を逸らすと、静かに口を開いた。
「ネムは、ノルに手をかけようとしていたのに、か?」
その問いかけに、イヴルージュはすぐさま首を振って否定した。
以前、ノルはネムとの別れの際、ノルの行いは彼女にとって裏切りなのだと非難していたと言っていた事があった。
周囲の人間からしてみれば、それは些細なすれ違いだったのだと言えただろう。
けれど、たった二人きり、唯一の肉親と共に過酷な環境に置かれた幼い子供にとって、それは大きな傷になったに違いない。
そう考えると、今回ネムがあの薬をノルに手渡したのは、彼女なりの復讐だったのかもしれない。だけど。
「ネムが例の薬の事もリグレットの事も知っていて、今回の件を引き起こしたとしたなら……」
もしも、リグレットの血を用いた薬を服用すればノルが助かる、という結果をわかっていて、行動を起こしたのだとしたら。
「それならまだ、ネムはこちら側へ戻って来れるかもしれない」
イヴルージュはまるで祈るようにして、 指を組んだ手を強く握り締めていた。
***
大きな桜の木の下、曲がりくねった根元に腰掛けたネムは、まるで空を覆うかのように伸ばされた白い枝葉を、金色の瞳でじっと見上げていた。
咲き誇った青い桜の花は静かに鮮やかな青色の花弁を散らしていて、毒素を含む白い霧が周囲に満ちていても、ネムはほんの僅かも苦しさを感じる事はない。
寧ろ、この場にいると、自分は守られているのだとはっきりと分かるかのようだ、とネムには感じられている。
ぼんやりとしたままそれらを見つめていると、木の影からふわりと顔を出してきたのは青い毛並みの狼で、ヴィヴアリア、とネムが優しく呼びかけると、腕に頭を擦り寄せてくる。
ヴィヴアリアはとても賢く勇敢で、優しい心根の狼だ。
彼女の元から離れずにいながら、ネムが思考に深く沈み込んでいると、時折こうして様子を見にきてくれる。
その毛並みを優しく撫でながら、ネムは顔を上げて空を見た。
はらはらと雪のように落ちてくる青い花弁を見つめていると、さくさくと足音が聞こえてくる。
側にいた筈の狼は、いつの間にか姿を消していた。
「健気なものだな」
黒いフード付きの外套を身につけているというのに、嘲笑とも取れる笑みを浮かべているのだろうと分かるように呟いた男に、ネムは嫌悪を滲ませた視線を向けた。
「一体、何の話?」
「君がそうしておきたいのなら、それで構わないさ」
それならば黙っていればいいものを、と文句を言う代わりに息を吐き出すと、ネムは立ち上がって服についた汚れを手で払う。
「そんな事より、あなたこそ大変な事になるんじゃないの」
例の件、どうなっても知らないわよ、とネムはそっと取り出した小さな瓶を、目の前に持ち上げた。
白と青に満ちた世界の中でも、瓶の中に満たされた液体は青く輝いている。
「姫様の為ならば、どうとでもしてみせる」
それは君もだろう、と言われて、ネムは手を下ろして、男を見た。
「当然よ。あの日、この場所で死ぬ筈だった私を助けて下さったのは姫様だもの。姫様が望む事ならなんだってするわ」
その言葉に、奇妙な間を開けてから、男はくつくつと笑い声を立てている。
「弟は殺せないのに、か?」
その言葉に、ネムは感情を揺らす事なく、男に冷ややかな眼を向けた。
態と人の神経を逆撫でするような言動をして、試すような真似をしているのだろう。
だからこそ、ネムは至って平然とした態度で対応している。
「姫様の望みはこの国の人間を全て滅ぼす事よ。だからこそ、姫様は私をお側に置いて下さるのだもの」
あなたとは違うわ、と突き放すように言えば、男は口元を歪めて笑いながら肩を竦めている。
幾ら互いを貶し合おうと、得られるものなど何もないと分かっているのに止められない、と言うのなら、それはきっと、彼と自分とでは重んじるものが違っているせいだろう、とネムは思う。
彼女を守り、その願いを叶える為にと動くネムにとっては、彼の存在そのものが気に食わないのだけれど。
「あなたこそ、壊せるの?」
踵を返して消えようとする男に、ネムがそう呟くように声をかけると、男の肩が微かに震えているように見えた。
「あんなに大事にしているのに?」
重ねた問いかけに、振り返った男は薄く笑みを浮かべている。
「大事だからこそ、だよ」
男の返答は、とてもではないが、誠実そうには思えない。
ネムは吐き捨てるように溜息を零して、去っていく男の背中から視線を逸らした。
手のひらの中にある薬の中身は、白と青で満ちた世界の中でも、綺麗に青く輝いていて。
大事そうにそれを両手で包んだネムは、それに頬に押し付けて、そっと目を閉じていた。




