66 どこにもいないって知ってる
「どうして。違法な研究をしていた研究員は、捕まえたんじゃないの?」
グレイペコーの問いかけに、イヴルージュは唇を噛み締めて首を振る。
「テッサが伝言局へ来る以前にいた犯罪組織の話を覚えているだろう。最悪な事にあいつらは其処と手を組んでいたんだよ」
その言葉を聞き、グレイペコーは眉を寄せ、リグレットも思わず胸元を強く握り締めてしまう。
テッサが伝言局へ入る前、劣悪な生活をして過ごしていた、という事は聞いていた。
まるで人を人と思わないような仕打ちを受けていた事も、リグレットを襲うよう指示を出されていた事も。
研究所にノルのような身寄りのない子供達を集めてきたのもその組織なのだ、とイヴルージュは苦々しい面持ちで言う。
そういった事情を知っていたからこそ、彼女はテッサを伝言局へと迎え入れたのかもしれない。
リグレットは考えて、視線を隣へと移した。
グレイペコーは口元に手を当てて考え込むと、小さく息を吐き出している。
「確かに、後天的に抗体持ちになれる薬なら、色々利用する方法はあるだろうね」
「ブルーブロッサムの毒素を国外まで持ち出す事が出来れば、更に用途は広がるだろうしな」
本来なら開発した時点で国内で大々的に発表すればいいのだろうが、薬の元にするものが王族の血液である以上、公に出来る筈がない。
組織はそれらの事情を知らないだろうから、その製法を何としても知りたいのだろうし、悪用する者にとってもその薬を量産し、使用出来たなら都合がいいと考えたのだろう。
「この薬の製法を知っているのはプレセアとグラウカの二人だけだが、表向きはプレセアだけが知っているという事になってる。それを知っているのはその二人とあたしと、そしてお前達だけだ」
情報を開示する人間をそこまで限定しているというのなら、それだけ危険を伴うのだという事なのだろうし、何処かに漏洩させない為でもあるのだろう。
「だから、リグレットの母親は居場所を隠して過ごしているのか……」
グレイペコーの呟きに、イヴルージュは小さく頷く。
以前、母親が一番に狙われやすい立場にいるのだ、と彼女が言っていた言葉を思い出して、リグレットは顔を俯かせた。
母はどうにかして自分を守る為に、森の奥深くへと隠したのだ、と。
そして、その最中に、父は不慮の事故で命を落としたのだ、と。
「じゃあ、お父さんは? お父さんは、事故で亡くなったって言ってたよね?」
胸底がじくじくと煮え滾るような不快な感覚に耐えながら、リグレットは問いかける。
イヴルージュは金色の睫毛を震わせ、躊躇うように口を開いて息を吐き出すと、少し掠れた声で話し出した。その手のひらは、白くなるまで握り締められている。
「プレセアが狙われているとわかってすぐに……お前達一家が隠れ住んでいた居場所が知られて、襲われたんだ」
話を聞いている内に身体が震えている事に気付いて、ぎゅうと手を握り締めるけれど、指の先からどんどん体温が抜け落ちていくようで、リグレットは思わず皮膚に爪を立ててしまう。
グレイペコーがそっと背中を支えてくれるのがわかっても、視線を向ける事すら出来ずにいた。
屋敷には当然衛兵もいたようだけれども、周囲に知られぬよう最低限の者だけが配置されていた事が災いして、突然の襲撃に対処しきれなかったのだろう。
追い詰められた一家は、森へと逃げる事を決めたらしい。
「プレセアも元々抗体持ちじゃなかった。けれど、リグレットを守る為にあの薬を服用して森に入り、お前を隠した後に一区へと逃げ延びて、あたしに助けを求めたんだ。森の中なら、誰も追いかけることは出来ないからな」
森の中央にまでリグレットを置いてきたのは、万が一を考えての事だったのだろう。
「けれど、アレクスヴニール様は襲撃犯から逃げる際、二人を庇って……、その際、刃物で刺されてしまったんだ」
イヴルージュは耐えきれないと言うかのように、震える両手で顔を覆い、絞り出すような声で告げる。
「通常ならば助かっていたかもしれない。だけれど、あの時は本当に……、本当に、悪い偶然が重なり過ぎていた」
ノルを治療する為の薬を作る為に、多くの血を提供していた事。
家族を連れて逃げている最中であり、適切な治療を迅速に行えなかった事。
「……それで、お父さんは亡くなったんだね」
リグレットの呟きが、床へとぽつりと落ちた。
しんと静まった部屋の中で、それは波紋のように広がって、空気中へと消えていく。
イヴルージュはゆっくりと顔を上げて姿勢を正すと、リグレットを真っ直ぐに見つめた。
「これは、あの二人を巻き込んだあたしの責任だ。あの時どうあっても、二人を頼るべきじゃなかった……」
掠れた声で、喉から搾り出すようにして彼女は言い、項垂れるようにして頭を下げている。
「リグレット。どれだけ罵っても、詰ってもいい。あたしがあの方を救えなかったのは事実だし、プレセアやお前まで危険な目に合わせてしまった。罪を贖うのなら、それはあたしがするべき事だ」
断罪を待つ囚人かのように頭を垂らし、首を晒すイヴルージュを、リグレットは静かに見つめていた。
いつも大きく見えるその身体は、罪悪感で押し潰されてしまうかのように弱々しく感じられ、この人はこんなにも小さかっただろうか、とリグレットには思えてしまう。
それは、彼女が今までそれだけのものを抱えていたから、なのかもしれない。
「マザー」
呼びかけると、彼女の肩は微かに揺れた。
「もしかして、お父さんに言って欲しい言葉を私に言わせようとしてる?」
ぽつりと呟いた言葉に、は、と息が漏れる音がする。
ゆっくりと頭を持ち上げたイヴルージュが呆然と見つめているのを、リグレットは静かに受け止めるようにして、見つめ返した。
「お父さんの気持ちは、お父さんにしかわからないよ。だって、もうお父さんはいないんでしょう……この世界の、どこにも」
以前、母親の最後へ言葉を届けたい、と願った青年を思い出す。
あの時、どうしても彼の願いを叶えたいと駆け出してしまったのは、さよならを言えないのは淋しいと思ってしまったのは、きっと、命が終わった時点で、その人は世界からいなくなってしまうからなのだろう、と、リグレットは思う。
空に還るとか、見えないだけで近くで見守っているとか、そうしたものは、きっと、いなくなった人を寂しがった、残された人達の慰めだ、と。
分かるのは、触れる事が出来るのは、いなくなった人が残してくれたものだけ。
「誰かが命を終えるのって、さよならをするって……、そういう事なんでしょう?」
だからこそ、それ以上の意味を見出そうとしても、きっと、誰も救われない。
リグレットは視線を一度床へと落として、それから、再び彼女へと向けた。
「だから、そうやって自分の事を傷つけようとするのは、もう、やめて」
まるでわざと傷付けて欲しいとでも言っているような、酷く自分を追い詰めようとしている彼女の姿は、見ていてどうしようもなく胸が痛くなる。
イヴルージュはリグレットの両親の話をする時、決まってそういう顔をしていた。
酷く後悔して、問い詰めて追い詰めて責め立てて苦しめて欲しいような、そんなふうに振る舞っているように思えるのだ。
そうする事で、自らの罪を償おうとしているみたいに。
彼女が悪いわけではないのに。
責めたい気持ちなど、ほんの僅かだって、ないのに。
「お父さんに会えないのも、お母さんと離れているのも、悲しいし、淋しい……けど、私が大好きな人達がそうやって苦しそうな顔をしてるのを見るのだって、辛いし、悲しいよ」
そう言ってイヴルージュの手を取ると、指先が冷たく強張っていて、それが淋しくて悲しくて、リグレットはぎゅうと握り締める。
少しでも自分の体温が伝わるように、もう彼女が自らを傷付ける事がないように。
「……お前には、本当に敵わないな」
こつ、と額を合わせて、イヴルージュは泣き出しそうな顔をして、そう呟いた。
金色の長い睫毛から透明な水玉が、ぽたり、流れて、膝の上に落ちている。
それがあたたかくて、生きている温度だと思えて、リグレットはイヴルージュにそっと抱き着いた。
ぽんぽんと背中を優しく撫でると、震える息が零れる音がする。
「マザー。私の血を使えば、ノルを助けられる薬を作れるんだよね?」
リグレットがそっと身体を離して問いかけると、イヴルージュは緩やかに瞬きを繰り返してから、小さく頷いた。
「血を多く採る事になるし、ノルが確実に助かるという保証はない。……お前が辛い思いをするだけかもしれない」
念を押すように彼女が言うのは、それが父親が亡くなった要因の一つでもある事だからこそ、なのだろう。
怖くないと言ったら嘘になる。
もしここでまた誰かに狙われたりしたら? もし薬を投与したとしても、ノルが助からなかったら?
リグレットは微かに震えている指先を誤魔化すように握り締めると、大きく息を吸い込んで、吐き出した。
「それでも、私はノルを助けたいの」
口端を引き上げてどうにか笑みの形を作ろうとしたリグレットを見かねてか、イヴルージュがぎゅうぎゅうと抱き締めていて、グレイペコーは心配そうに顔を覗き込んでいる。
大丈夫、と言うように頷けば、いつものように額を骨に沿って撫でてくれていて、その優しさに、リグレットは青眼をそっと細めた。
「あの時と同じ事は二度と起こさせない。お前だけは必ず守る。約束する」
「うん。ありがとう、マザー」
抱き締める力が少し強くて僅かに苦しさがあるものの、そこには彼女からの確かな愛情が伝わっているのが分かって、リグレットは柔らかに笑うと、彼女の肩に頰を押し付けていた。




