61 それならいっそ全てを見放して
その知らせは、雨が本降りになり始めて少し経った頃、リグレット達の元へと届いた。
「街中でノルが倒れていたって……、どういう事?」
状況が上手く飲み込めず、動揺して動けなくなってしまっているリグレットの隣で、グレイペコーは声を荒げないように注意しながら、イヴルージュを問い詰めている。
ノルは中央広場付近で倒れている所を発見され、伝言局の医務室にまで運び込まれたのだという。
事情を知る者は然程多くなかった筈だけれども、いつの間にか伝言局の中で少しずつ広がっているようで、局内の雰囲気はぴりぴりとした緊張感に包まれている。
真面目で規則正しく仕事をきちんとこなしているノルが、仕事を放り出し、伝言局を飛び出して外に出て行ったという事。そして、その彼が街中で倒れていたという奇妙な状況。
先日起きた不審者が暴れた際の騒ぎもあって、落ち着かずに仕事をしている局員も多いのだろう。
特殊配達員だけが入れる業務室の外、青い扉の向こうでは、いつもと変わらないように感じられるけれど、微かな物音までやけに神経に響いてしまい、リグレットは胸元のリボンがくしゃくしゃになるまで握り締めてしまっていた。
「少し落ち着け」
イヴルージュは言いながら、自分自身を落ち着かせるよう、組んでいる腕に爪を立てるようにして握り締めている。
「いつも側にいるお前達が動揺すれば、すぐに周囲にも伝わる。気持ちはわかるが、今は冷静になってくれ。皆が混乱している」
「それは、そうかもしれないけど……」
彼女の言葉に、グレイペコーは納得いかないと言うように地面を見つめて、唇を噛み締めていた。
窓の外は雨が勢いを増していて、室内を暗く重苦しい空気に沈めている。
どうして、と、リグレットは掠れた声で呟いて、自分の足元を見つめていた。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
あの時、彼にあの話をしなければ。イヤーカフを見せていなければ。そもそも、あの女性に話しかけようとしなければ。
どんどんと追い詰めてくる思考に堪えかねたリグレットがぎゅうと眼を瞑ると、そっと背中を撫でてくれる手のひらのあたたかさがあった。
のろのろと顔を上げれば、グレイペコーが不安そうな顔で見つめている。
こういう時、普段ならばすぐに大丈夫だと言ってくれる筈のグレイペコーは、優しく触れてくれても、何も言えずに俯いて唇を噛み締めてしまっていて。
いい加減な慰めをしないのは、その分、後で傷つくのだと知っているからだ。
「あたしもまだ情報が足りてなくて、状況を把握しきれていないんだ。それに、ノルが抱えていた仕事もある。局員達にも説明や指示を出さなきゃならんしな。落ち着いたらあたしも戻ってくるから、それまではいつも通りにしていてくれ」
言い聞かせるようにしているイヴルージュ自身も、いつもとは違って落ち着かない様子であるのは、リグレットも、隣にいるグレイペコーにも理解出来ていた。
それだけ、緊迫した状況である、という事も。
「少しでいいからノルの顔を見に行くのは、駄目?」
絶対に先生達の邪魔にならないようにするから、と懇願すると、イヴルージュは少しの間考え込んでから、ゆっくりと頷いた。
「医務室の周辺に人が近付かないようにしてくるから、その後になら」
「マザー、ありがとう」
リグレットがそっと息を吐き出すと、軽く頭を撫でたイヴルージュは、グレイペコーに申し訳なさげな顔を向けている。
「ペコー、悪いが後は頼むな」
「わかってる。イヴも、無理はしないで」
そうグレイペコーが言うと、イヴルージュは眼を和らげて小さく笑って、すぐに部屋を出ていってしまっていた。
ヒールの音が雨音に混ざって、廊下の向こうへと消えていく。
***
周囲が落ち着いたのを見計らい、リグレットとグレイペコーが医務室を訪れると、普段ならば常駐していない看護師達が数人、忙しなく行き交っていた。
緊迫した空気にたじろいで入り口付近で様子を見守っていると、中から憔悴しきった顔のグラウカがふらりと顔を出していた。
「ああ、二人とも……」
リグレット達に気がつくと、グラウカは視線を床に落としながらも、中へおいで、と室内へ入るよう促している。
看護師もリグレット達に気がつくと、軽く頭を下げて挨拶をしているが、皆疲れ果てた顔をしていて、今の状況がどれだけ緊迫したものなのかを言外に表しているように、リグレットには感じられていた。
「先生、ノルの様子は?」
グレイペコーが問いかけると、グラウカは苦々しい面持ちで重くなった口を開いている。
「……落ち着いてはいるよ」
そう言ってグラウカが案内してくれたのは、医務室の奥。
カーテンで仕切られたそこにはベッドが二台置かれていて、その内の一つに、ノルが寝かされているのだろう。
グラウカが促すままにそっと中を伺うと、カーテンで仕切られた其処は薄暗く、眼を凝らすと、ベッドに横たわったノルの姿が見えた。
手足には輸液の管が幾つも繋げられ、酸素を求めて無理に息を吸い込もうとしているような、喘鳴を伴う酷い呼吸音が、部屋の中で響いている。
痛みに耐えかねて傷付けてしまったのだろうか、苦痛で歪む顔や腕に貼り付けられたガーゼや包帯に血が滲んでいて、どれだけ彼が苦しんでいるのかが見て取れた。
どくどくと、心臓の音が煩くて、それなのに、彼の呼吸音が耳から離れなくて、指先が震え出してくる。
これで大分落ち着いた状態だとグラウカは言っていたが、どうみても、今まで見た事のないノルの姿に、リグレットは愕然としてしまう。
「どうして、ここまで悪化しているんですか?」
リグレットの後ろから様子を見ていたグレイペコーが、グラウカに問いかける。
声が震えているように聞こえるのは気のせいではない、とリグレットはノルの姿を見つめながら、ぼんやりと思った。
「抗体値が急激に上がったせいだろう」
グラウカの言葉に、え、とリグレットは声を零して振り返り、グラウカを見た。
「抗体値が高いのって、良くない事なんですか?」
「ああ、そうだよ。抗体値は高い方がいいけれど、高過ぎてもいけないんだ。通常なら、体内の免疫が内臓や細胞を破壊してしまうからね」
リグレットのように高い抗体値で何の異常も現れないというのは、奇跡みたいなものなんだよ、とグラウカが言うので、リグレットは手をかけていたカーテンを思わず握り締めていた。
それならいっそ、自分が代わりになれたらいいのに。
そうリグレットは思いながら、ベッドに寝かされているノルを見た。
苦痛で歪む彼の顔を見ているだけで、目の奥が熱くなって、胸が押し潰される程に、苦しくなる。
痛いのは怖いし、嫌だ。
だけど、自分の側にいる人が苦しんでいる姿を見る方が、もっとずっと辛い。
痛くて、苦しくて、もうやめて、と、泣き崩れてしまいたく、なる。
「いつもは症状が悪化していても、薬で抑えられていますよね?」
どうして急激に悪化しているのか、とグレイペコーが眉を顰めると、グラウカは看護師達に何事かを話すと、彼らは医務室の外へと出ていってしまう。
不思議に思ったリグレットとグレイペコーが顔を見合わせていると、グラウカは白衣のポケットからある物を取り出して、目の前へと差し出した。
「……ノルが発見された場所のすぐ近くに、これが落ちていたそうだ」
それは、手のひらの上に乗る程の、なんの変哲も無い小さな瓶だった。
中には青色の液体がほんの少し残っているけれど、それが何なのかは、リグレットにはよくわからない。
だが、隣にいるグレイペコーはそれが何かを知っているのか、震える息を吐き出していて。
「これって、もしかして……、例の薬物ですか?」
グレイペコーの呟きに、リグレットはこくりと喉を鳴らした。
先日イヴルージュが話していた、違法薬物に関する事件を思い出したからだ。
「まさか、ノルがこれを飲んだって事?」
信じられないと言わんばかりのグレイペコーの問いかけに、グラウカは黙り込み、指先が白くなるまで瓶を握り締めている。
身体が弱く、様々な薬を服用している彼が、間違ってもそんな物を口にする筈がない、と、此処にいる誰もが知っている。
もしもそれをわかってやっているとしたなら、この状況は、彼自ら、命を投げ出した事の証明に他ならない。
「……もしくは、飲むように強要された、とか?」
グレイペコーは指先を口元に当てて、深く考え込むようにしてぽつりと呟いた。
瓶にうっすらと残った青い液体は、リグレットの脳裏に焼き付いた、燐光を纏うような金色の瞳を思い出させる。
ばくばくと忙しなく拍動する心臓。翻るシスターベール。桜を意味する名前を呼んだ、あの声。
「それって……ノルのお姉さんが飲ませた、とかじゃない、よね?」
考えるよりも先に零れ落ちてしまった言葉に、リグレットは慌てて口元を押さえてしまう。
彼女はノルの唯一の肉親で、行方知れずになっていた所をやっと発見された姉なのだ。
それなのに、そんな考えを口にしてしまうなんて、どうかしている。
けれど、グレイペコーは否定しようとはしなかった。
「そうとは言い切れないけど、その可能性は高いと思う。ノルの性格からして自主的にこんな事する筈ないし、タイミング的にも、それが一番辻褄が合う」
「そんな……、だってあの人、ノルの家族だって言ってたのに」
ずっと離れ離れになってて、もうすぐ会えるんだって、そう言っていたのに。嬉しそうに、笑っていたのに。
そう考えるリグレットにとって、家族はいつだって安心出来る場所であり、守られた居場所だ。
勿論、それが人によって違う事だというのも十分わかっているけれど、あの時、ネムが口にした時の表情は嘘ではない、とそう思えたのだ。
けれど、グレイペコーの言葉を肯定するように、グラウカも苦々しい面持ちで頷いている。
「もしもネムが強要したのなら、ノルは逆らえない筈だ。ノルは、ネムが行方不明になって、共に助け出される事が出来なかったのは、自分のせいだと思っていたようだから」
グラウカの言葉に、グレイペコーは「何それ」と呟いて、眉を顰めた。
「あの森の中で子供がたった一人でも助かる事自体、奇跡みたいなものでしょう。そんなの、誰かの責任なんて問える筈がない」
グレイペコーはそう言って、やるせない気持ちを示すかのように、大きく息を吐き出している。
もしそうであったとしたなら、ただの逆恨みでしかない。
幼い頃に森で母親と生き別れになったリグレットからしてみても、仕方がない事だったのだと理解している。
それでも、彼女にとっては、許し難く思えたのだろうか。
「ともかく、この薬物を摂取した影響で、今まで服用していた薬がほぼ効かない状態になっている」
グラウカの言葉に、深く思考に沈んでいたリグレットは、俯かせていた顔を上げた。
胸を食い破りそうになる程、心臓がばくばくと拍動している。
頭の天辺から足先まで、ざっと血の気が引いてくる。
何処に立っているのかわからなくなるような、現実感が消えていくようで、リグレットは力無く頭を振った。
「効かないって……、じゃあ、ノルは……、」
言いながら、少し前に自分が口にした言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返されている。
(ノルは、何処にも行かないよね?)
答えは返ってくる筈もない。
この状況で、言って欲しい言葉を返してくれるなんて到底思えない。
あの時の不安が胸の中に押し寄せてきて、この場に蹲ってしまいそうに、なる。
重苦しい沈黙が室内を埋めていて、叩きつけるような雨音と、ノルの呼吸の音だけが、部屋の中に響いている。
ぐらぐらと視界が揺れて、リグレットは強く手のひらを握り締めた。
これが、夢ならいいのに。
そんなどうしようもない事を、ひたすらに願ってしまう。
「グラウカ先生は、この薬の名前を知ってますか」
沈黙を破るように、掠れた声で問いかけたのは、グレイペコーだ。
リグレットがのろのろと顔を上げて青眼に映したグレイペコーは、緩やかに瞬きを繰り返してから、真っ直ぐにグラウカを見つめている。
「ブルーブロッサム。そういう名前だって、聞きました」
部屋の中で、グラウカが息を呑む音がした。
「さっき、薬の影響で抗体値が急激に上がったって言いましたよね。……これって、何か関係があるんじゃないですか?」
グレイペコーの追求に、グラウカはわなわなと手を震わせ、耐えきれないといった様子で両手で顔を覆ってしまう。
何故、突然グレイペコーがそんな事を聞いたのか。
何故、グラウカはここまで動揺しているのか。
わからなくて、リグレットは呆然と二人を見つめたけれど、どちらもリグレットの方を見る事はない。
ジリジリと胸底が焼けつきそうな程の緊張感の中で、ぽつりと声を零したのは、グラウカだった。
「グレイペコー。私は、君に以前ある事を聞かれた時、嘘を言ってしまった」
「嘘って……、どういう事、ですか?」
グレイペコーの問いかけに、顔を覆っていた両手を離し、グラウカが口を開こうとした瞬間、医務室の扉が勢いよく開いていて。
「そこからはあたしが話す」
グラウカはノルを診ていろ、と言って、医務室の中に入ってきたのはイヴルージュだ。
太ももが露わになる程のスリットが入った赤いワンピースの裾を翻し、高いヒールの音を鳴らして入ってきたイヴルージュは、カーテンで仕切られた先を見ると、顔を歪めている。
「しかし、」
「例の薬を使ってもこの有様なんだろう? もう躊躇っている場合じゃない」
動揺しているグラウカにイヴルージュはそう返すけれど、グラウカは納得出来ないと言わんばかりに頭を振った。
「しかし……、どうにか、あの方々に協力は得られないのか?」
問いかけに、イヴルージュが苦々しい面持ちを浮かべて首を横に振ると、グラウカは愕然とした表情を浮かべて項垂れている。
今にも地面に崩れ落ちてしまいそうなグラウカに、イヴルージュは大きく息を吐き出すと、その丸まった背中を勢いよく叩いた。
ばしん、と大きな音がして、リグレットは思わず肩を縮こませてしまう。
「お前はノルが少しでも苦しまないよう力を尽くせ。ノルはあたしにとって、もう子供のようなものだ。お前もそれは同じだろう。ノルの症状を一番に理解しているのはお前なんだ、頼む」
イヴルージュの懇願とも取れる言葉に、グラウカは手のひらを強く握り締めて、カーテンの向こう側、ノルが眠っているベッドの方へと駆け寄っていた。
その様子を見つめていたイヴルージュは大きく息を吐き出すと、じっと見つめていたグレイペコーの視線に気がついたのだろう、視線をそちらに向けて、小さく苦笑いを浮かべている。
「イヴ、どういう事なの?」
答えて、と問い詰めるグレイペコーの側で、リグレットも両手をぎゅうと握り締めて、イヴルージュを見上げる。
イヴルージュは真っ赤な口紅を引いた唇を引き結び黙り込んでいたが、暫くすると腰に手を当てて、大きく息を吐き出した。
「……包み隠さず、全てを話すさ」
呟いて、イヴルージュは緩やかに瞬かせた赤眼を静かに閉じていた。