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31 夜更かしの理由は探さない


「おーい、邪魔するぞ」


 両手に抱えた荷物のせいで、ノックすらせずに行儀悪く足で開けた扉の向こう、診療机に向かって背を丸めながら書き物をしていたグラウカは、大仰に息を吐き出して顔を上げていた。

 この医務室を訪れるのは大抵が特殊配達員達であり、診療時間を終える今の時刻──夕方には人の気配は全くない。

 柔らかそうなレースのカーテンが揺れる窓辺には、うっすらと赤みが刺してきていて、暫くすれば部屋の中にも侵食してくるのだろう、とイヴルージュは静かに思った。


「やあ、イヴルージュ」


 にこやかな笑顔を浮かべながらも、彼の視線が向けられたのは、イヴルージュが腕に抱えている荷物だ。

 一つは鮮やかな赤が目を引く液体が閉じ込められた瓶、もう一つは華奢なワイングラス。


「仕事中じゃないのか」


 訝しげな問いかけに、「本始動は明日からだからいいんだよ」と予め拵えておいた言い訳をイヴルージュが投げつけると、呆れたような溜息が返されるだけだった。

 イヴルージュが診察机の側に置かれた椅子に腰掛けると、口にしたわけでもないのに苦いと思ってしまう消毒液の匂いが漂ってきたのを感じて、僅かに眉を顰めてしまう。

 スリットから覗く長い足を惜しげもなく晒して組めば、グラウカは何も言わずに薄手の膝掛けを渡してくるので、甲斐甲斐しい事で、と悪態を吐いて机にグラスを置き、瓶を開けて中に入っていた瑞々しい赤色をした液体を注ぎ入れた。

 芳醇な葡萄とアルコールの匂いが辺りに広がって、グラウカは何か言いたげにそれを横目に見つめていたが、やがて諦めたように背を丸めて書き物を再開している。


「なあ、リグレットは本当に身体に異常はないんだろうな?」


 グラスに口をつけ、子供達を思い浮かべながらのイヴルージュは問いかけた。

 リグレットが森の中で襲われた事。彼女がどれだけの怪我を負っているのか。加害者は一体誰なのか。

 ほぼ全ての情報は自らの元へと入ってきてはいるが、それでも、可愛い我が子が傷を負ってしまったのだ、イヴルージュは問いかけずにはいられなかった。


「問題があったら業務に戻すわけがないだろう」

「あの子はそういう時になると途端に我慢強くなるから心配なんだよ。本当、あの人達にそっくりだからな」


 その言葉に、グラウカは手を止めてイヴルージュを見た。

 本来持ち得た素質なのか、その血が継いだ性質なのか……、わからないけれど、リグレットは素直でおおらかな性格をしているが、周囲の空気に敏感な所があり、環境が悪くならないよう無理に努めてしまう傾向がある。

 場合によっては、他者の為に傷を負う事さえ厭わない。

 だが、幾らそれを咎めようと、彼女はあの人達と同じで何度言っても聞き入れないだろう、とイヴルージュは思う。

 優しくて、純粋過ぎて、眩しくて。

 辛い事や悲しい事とは無縁の場所で、いつまでも幸せに暮らして欲しかったのに、と、今になっては絶対に叶わない事を、それでも願ってしまう。


「あのお方は息災だったかい」


 聞きながら、グラウカは小さく苦笑いを浮かべていた。

 彼も今、きっと同じ事を考えていたに違いない。

 イヴルージュはグラスの中身を水平に回すようにして揺らしながら、頷いた。


「ああ。ただ、今回は大分慌てていたからね。少し疲れさせてしまった」

「彼らの情報は実に正確のようだ。君が受け入れをした時には驚いたが」

「言っただろう。あたしは使えるなら何でも使うんだよ」


 それが例え悪魔だろうと何だろうと、ね。

 イヴルージュは頬杖をつき、燃え盛る炎のような赤色の瞳をゆっくりと細めた。 

 いつの間にか、視界の隅で部屋の中へ深く入り込もうと、夕暮れの赤が広がっている。


「だから、例の少年も?」


 グラウカの言葉に、イヴルージュは口端を持ち上げて笑みを浮かべるが、何も返す事はなかった。

 それは、言葉を介さずに彼の意図を肯定する為のものであったからだ。

 グラウカはその様子に、やれやれと言わんばかりに溜息を吐き出している。


「グレイペコーが随分心配しているようだったが」

「ああ、あたしも困っているんだよ」

「……、困る?」


 何だか妙な返答だな、と言わんばかりにグラウカが顔を顰めるので、イヴルージュは大袈裟にも思える程の手振りで、化粧で丁寧に整えて尚、アルコールで赤く染まりつつある頬へ手を当ててみせた。


「困るさ! 最近、何だか反抗期っぽくて最高に可愛いんだぞ!」


 リグレットはリグレットで今も昔も素直で健やかでおおらかでとびきり可愛いけれど、最近のグレイペコーみたいにちくちく反抗されるのも悪くないなあ、と嬉しさのあまり頬を緩めていると、グラウカが「グレイペコーに心底同情するよ」とげんなりとしたように呟いている。

 化粧をしたまま眠ってしまったり、二日酔いになるまで酒を呷ったり、食事に添えられた嫌いな野菜をリグレットに食べさせたり……、その度に小言や不満を言われるのは昔からよくあったのだけれど、今日のようにあからさまにこちらの事情に首を突っ込もうとした事はない。

 孤児院から引き取ってばかりの時から、いっそ義務のような従順さで何でも言う事を聞き、気を回してあれこれと動いてくれるグレイペコーは、まるで捨てられないように愛されるように必死になっているようで、見ていて酷く心配だったのだ。

 そんな子が、反発を覚えている、というのなら、それは確かな自我の芽生えであり、巣立ちへの一歩を踏み出そうとしていると言えるのだろう。

 そう思うと、親としては淋しい反面、嬉しくなってしまうものだし、ひたすらに可愛く映ってしまうものだ。


「あの子は視野が広くて周りがよく見える分、心配しいだからね。そろそろ色んなしがらみから解放させてやりたいんだけど」

「だが、今はまだリグレットの側に居させるべきだろう」


 ふわふわとした浮ついた心地で呟いた言葉に、グラウカはまるで冷水をかけるようにそれを掻き消そうとする。

 その事に、イヴルージュの形のいい眉をひゅうと持ち上げた。


「グレイペコーを幼い頃からジルバに鍛えさせたのも、その為じゃないのか」


 速達担当にするからなんて言い訳をしてまで……、と付け足された言葉はまるでその行いを責めるような言い方でどうにも気に食わなくて、イヴルージュはむっとした顔を隠しもせず、手にしていたグラスをわざと音を立てて診療机に置いた。


「あれは、あの子があの子の尊厳を守る為に必要だと思ったからだよ」


 以前グレイペコーがいた孤児院で子供達の面倒を見ていたスタッフによれば、性別が分からないからとかいう下らない理由で、他の子供達に無理矢理服へ手をかけられた事があったという。

 それ故に、グレイペコーは顔や腕以外の肌を晒す事を、極端に嫌がる。

 男性用の制服を改造して着用しているのもそういった事情があるからで、だからこそ、グレイペコーには周囲に脅かされる事のない力が必要だと思ったし、その為に必要なものは全て用意していた。

 建前上はいずれ速達担当として働く為と言ってはいたが、周囲の顔色を伺って育ってきたグレイペコーが、イヴルージュの思惑は気づかなくとも、それが叶うよう自然と動く事になってしまったのは、確かに、グラウカが非難するように都合はいいと思われても仕方がないのかもしれないが。


「あたしは、その為にあの子達を育てたわけじゃない」


 結果的に、利用していないといえば嘘にはなる。

 だから、言い訳をするつもりはないし、いずれ糾弾されるだろう事も覚悟はしている。

 ただ、救いを求めていただけ。願いを託されただけ。

 それだけで、たくさんの悲しい事や苦しい事があって、大切な人達を傷つけられて、二人を自分の元で育てる事になって、腕にはたくさんのものがあふれてしまいそうになってしまっていて……、そうして、こんな所まで来てしまった、とイヴルージュは思う。

 ただ、助けになりたかっただけ。失われそうだった命を救いたかっただけ。

 ──本当に、それだけだったのに。

 言い訳だな、と吐き捨てるように呼気を吐き出して、イヴルージュは机に置いていたグラスを掴むと、残っていた中身を一気に飲み干した。

 だけれど、それで二人の子供達が、大切なものが守れるのなら、どれだけ傷ついたって傷つけられたって、構わない。

 グラスを置き、見回した部屋の中にはたっぷりと、足元から赤色が染められている。

 あの日、最後に見た、あの赤い色のように。


「なあ、グラウカ」


 呼びかけに、グラウカは眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。


「ノルが例の薬を使ったって?」

「……ああ」


 喉の奥から絞り出すような声で肯定する、グラウカは視線を俯かせていた。


「残りは?」

「あと一つきりだ」

「もうそこまできたか」

「ここ最近は大分体調も安定していたんだ。今回はリグレットの為とはいえ、もしまた反動が出たら……」


 悲痛そうな面持ちを隠すように額に手を当てたグラウカは、悔しそうに唇を噛み締めていて、それを見たイヴルージュはいたたまれないような気持ちになって、思わず視線を逸らした。

 ノルは元々、生きる事に酷く消極的だ。

 今だって、いっそ全てを手放していいのだ、と告げたなら、呆気なく簡単に消えてしまうに違いない。

 だからこそ、周囲からは重いと思われても仕方ない程の役目を負わせてしまっている。

 それが、自分が知り得る、彼を留めておける唯一の方法だからだ。


「どうして、あの子がここまで苦しめられないといけないんだ」

「グラウカ、この世の終わりみたいな顔をするな。ここ最近は調子が良かったろ。あの人からも陛下からも、協力は得ているんだから」


 あまり考えたくもないが、もしも最悪の場合が訪れた時は、例の方法を取るしかない。

 そう告げると、グラウカはわなわなと手を震わせて、イヴルージュを睨みつけた。

 その非難めいた視線は、自分自身に対してなのか、イヴルージュに対してなのか、それとも別の何かになのか……否、関わる全てに対して、なのかもしれない。

 やがて堪えきれなくなったように視線を逸らしたグラウカは、震わせた両手を強く握り締めている。


「だが、それを知ったなら、ノルはどうなる? それこそ、良心の呵責に苛まれて、自ら命を絶ってしまいかねない」


 自分の存在が、リグレットから母親を引き離し、父親の命まで奪ってしまった元凶なのだ、と、思い詰めてしまうだろう。

 ──また、あの時のように。


「今だって、どうにか生きる事にしがみついているような状況だというのに……」


 グラウカは自責の念に苛まれて、今にも潰れてしまいそうな程に身体を丸めて顔を覆っていた。

 それはあの時によく似た光景だ、とイヴルージュは思う。

 薄暗い部屋の中、蹲っていた子供が自らの罪を告げたあの時。

 あの時、ノルに酷い選択をさせたのは他でもない自分だ。

 何処までも追い詰められ、目も当てられない程に傷つけられて、深い絶望の中で彼に選ばせた事が、今になってこんなにも重いのだと改めて思い知らされる。


「ノルは何も悪くはない。あの子が彼女(・・)を失ったのも、リグレットの家族が被害にあってしまったのも……」


 一呼吸おいて、イヴルージュは低い声で、呟く。


「悪いのは全て、あのクズ共だ。わかってるだろう、グラウカ」


 どこまでだって追い詰めて、残虐なまでに苦しめて、徹底的に潰して二度と姿を表せなくなるまでやらなければいけない。

 その為なら自分はどこまでも非道になるし、どんなものであっても、悪魔でさえ利用してやると決めたのだ。


「っていうか、お前まで引き摺られてどうするんだ。何かあったら、お前しかノルを診てやれないんだぞ。しっかりしろ!」

「……そうだな」


 丸まった背中をバシバシと叩くと、悪かった、とグラウカは申し訳なさそうに俯き、眼鏡を外して眉間を節くれだった指で揉んでいる。


「というか……、まず、医務室にアルコールを持ち込まないで欲しいんだがね」


 診療机の上に置かれたワインの瓶とグラスから、ふわりと芳醇な葡萄とアルコールの匂いがしていて、グラウカは溜息を吐き出しながら肩を竦めていた。

 少しはいつもの調子に戻ったようだ、とわかったイヴルージュは、態とらしく子供のように頬を膨らませてみせる。


「はあー? 体内からアルコールで消毒してんだから、これも医療行為だろ。医務室で医療行為して文句を言われる筋合いはないだろうが」

「そんなわけあるかい」


 グラウカは顔を顰めるが、気にもしないイヴルージュはグラスにワインを注ぎ入れて、ぐびぐびとそれを飲み干してしまう。

 部屋の中はいつの間にか夕暮れは消え、夜の気配を表していて、グラウカは「まったく」と呟き溜息を吐き出しながら、夜風を入れる為に窓を開けていた。


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